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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

話し手はなぜfootingをシフトさせるか?

2009-10-24 07:13:19 | today's seminar
昨日の大学院ゼミ発表で学生さんがfootingの産出フォーマット(production format)をインタビュー場面に適用しようとした分析の一部を話してくれた。産出フォーマットとは、ゴフマンが分類した話し手が自分の役割を位置づけることを意味し、その位置づけが話し手の4つの役割に基礎を置くというのがゴフマンの「構造主義」だ。たとえばこんな感じ。

animator:言葉を(誰かの代わりに)発する役割(e.g.アナウンサー)
author:言葉を(誰かの主旨に沿って)つくり出す役割(e.g.演出家)
principal:産出された言葉の責任者(e.g.脚本家)
figure:話の中の登場人物の役割(e.g.直接引用、間接引用されるその場にいない人の言葉)

こうした4つの役割には、それぞれパフォーマンス上、期待される事柄がある。たとえば、animatorには誰にも聞こえるようにはっきりと言葉を産出することだけでなく、その言葉が誰かの代わりであることが期待されている。authorには、効果的であることと同時に、つくり出される言葉が本人のものではないが、誰かの主旨に自分自身も共感を持っていることが期待される気がする。principalであれば、その言葉が本人のものであり、かつ本人の真意であることが期待されるだろう。また、figureには逆にその言葉が自分のものではなく登場人物のものであることが、そして自分には責任がないこともまた示されているはずだ。おそらくこの4つの役割には、さらに背景にはグライスの会話協力原則の4つのマキシムが動いているようにも思う。

1人の話し手がこうした4つの役割を使い分けるとすれば、話し手はこうした役割に結びついた期待から役割を選択し、自分の立ち位置footingを示すことで、メタメッセージを伝えるのだと言えるかもしれない。

たとえば、学生さんの例で言うと、留学生が日本人のチューターに連絡を取るのはどんなときかと聞かれて「支援(ジオン)が必要なとき(笑い)」と答えたと言うが、「支援が必要なとき」とはチューター制度の公式見解であるとすれば、同時に「笑い」を伴わせることで、この言葉が自分のものではないことを示すanimatorの役割を選択したと解釈できる。つまり、相手がチューターであっても「支援が必要なとき」に連絡を取っているわけではないことをここでは示しているわけだ。しかも、韓国にも住み、韓国語がわかるインタビュアーに韓国語で「ジオン」とコードスイッチすることで、インタビュアーとの距離を縮めている。もしこの言葉が韓国人留学生たちの間で使われているものだったとすれば、彼らの言葉が埋め込まれて引用されるfigureの立ち位置も示している可能性もあるだろう。つまり、彼らの間で「揶揄」されるチューター制度の「支援(ジオン)」というわけだ。(でも、たぶん深読み)

もう1つ大切なことは、こうした4つの役割に結びつく期待は場面やそこで起こるイベントによって変わるということだ。学生さんの発表でも「インタビュー場面」であることが強調されていたが、質問され、質問に答えるという場面の中では、まずは質問に責任を持って答えていることを示すことが期待されるし、さらに答えた言葉に誰が責任を持つもかが重要になる。だから上の例のように、最初のほうではかなり微妙な答え方をしても、最後は中立性や客観性を示す立ち位置を選ぶことで、答えを保証することも行われる。<大丈夫です。私はまともな人間で、このように話しています>というわけだ。

今日のところはとりあえずここまで。
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言語管理研究文献の更新

2009-10-20 23:56:09 | today's seminar
お知らせ1つ。
7月に大学院生たちにお願いしていたホームページの文献の更新が今週ようやく完了。2003年以降の論文を集めて加えた。また今回は言語管理理論を使用していない接触場面研究の論文についても同じ期間についてまとめてみた。ただ、そうするとこちらはやはりもっと前の文献から入れたくなって、とりあえずスクータリデスさんのフォリナートークや尾崎先生の聞き返しなどの論文から始めている。

まだ大学の研究室HPにはアップロードしていないが、言語管理研究会HP(http://www2.atword.jp/languagemanagement/)のほうには掲載したので、ぜひご覧下さい。もしご自身やご存じの論文で掲載されていないものがありましたら、ぜひ言語管理研究会事務局:muraoka@shd.chiba-u.ac.jpまでご連絡下さい。すぐに対応します!

今日は大学院ゼミでSchiffrin(1993)の本からGoffmanについての紹介の3頁あまりを読む。この本は10年近く前に一度、全体を院生といっしょに読んだことがあったけど、書き方がなかなか難しいのと抽象的なのとで、充実感なく終わった記憶がある。今回読んで、やはり難しいと再確認した。それでも、Goffmanがつねに個人間の相互作用のレベルの現象と、社会的出遭いのレベルの現象とを両睨みしながら、なんとかディスコースの中に社会を見いだそうとしていることはよくわかった。たとえば、footingとframeはまさに相互作用レベルの参加のポジションと社会的規範という2つのレベルを結びつけるものとして考えることができる。ぼくらは自分の立ち位置を頻繁に変えると同時に、その場面の期待される意味の場を聞き手に参照するように促すことで、自分の本意を暗示したり隠したりすることが可能になるわけだ。立ち位置だけを変えても、それだけではたんに気まぐれと言われるに過ぎない。
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来日ほやほや

2009-10-18 23:50:24 | today's seminar
1日中、科研申請書作成。今年は久しぶりに科研切れで清貧な生活(?)も悪くないと思っているが、いつまでもそう言ってばかりではいられない。

木曜日は多文化接触論3回目の授業。先週の言語接触論に引き続いて、接触場面のパラダイムをNeustupny (1985)をもとに紹介する。ここからあと3週間はM先生にバトンタッチなのでしばし休憩。

金曜日の学部ゼミは来日ほやほやの留学生3人に教室に来てもらって、学生たちと異文化体験をしてもらうビジターアクティビティをする。普段、周囲にいる中国や韓国からの学部留学生と違って、ポーランド、インドネシア、ロシア出身ということで、学生たちも新鮮な出遭いとなったようだ。ただし、ゼミの学生の中にも留学生や外見が外国人という人もいるので、互いの国の印象など聞きあったりして、それもまた面白かった。ほやほやの留学生にとってまず面白いと思うのは日本のどこにでもある自動販売機。なぜこのようなものが街のいたるところに設置されているのかわからないわけだ。ぼくにだってわからない。
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今年も神田外語大との合同ゼミ

2009-09-24 23:50:42 | today's seminar
22日、23日は福島県白河市から山をのぼったところにあるBritish Hillsで神田外語大との合同ゼミに参加。天気もまずまずで快適な合宿となった。去年は肉離れで松葉杖だったが、とりあえず歩ける状態で参加。

今年は学部4年生がどちらも少ないので、卒論中間発表もわりと早めに終わって、大学院生の接触場面の経験談など、リラックスした時間が持ててよかったと思う。異文化に関心のある若い人たちでもりあがるのはやっぱり国際結婚の話だ。2年前は30人以上の参加でけっこう大変だったが、今年は全員で20名、これくらいが丁度いい気がする。

神田外語の学生さんたちはみな素直で若々しくていいです。ちょっと素直すぎるかもしれないけど、きっと家の教育がいいのでしょうね。また来年もできることを念じつつ、山を下りてきた。
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授業覚え書き

2009-07-07 22:12:05 | today's seminar
授業の覚え書きを2つ。

大学院授業もあと数回残すだけ。博士の授業のほうは、Goffmanのface workからFootingへと移行。有名な聞き手の分類と話し手の分類が出てくる。

Goffmanは、相互作用の相手やそこで扱われる話題に対するスタンスのシフトに焦点を当てながら、そのシフトがどのような構造的な基盤の上で可能になっているかを考察するために、あるいは彼の好みの言葉を使えば、シフトに課された制約を考察するために、まずは聞き手にはどのような種類があるかを述べていく。盗み聞き、立ち聞き、第三者、承認された受け手と承認されない受け手、そしてそれらの間の付随的なコミュニケーションなどが語られていく。加えて、話し手の足場についても分類をしていく。双方の分類がfootingのシフトの範囲を決めることになるわけだ。この点はぼくのfootingの論文では扱ってこなかった部分なのでよく考えなければならない。

修士の授業は滝浦氏のポライトネスによる敬語論から、彼が注でBrown and Levinsonが出る前からポライトネスによる敬語を考えていたことを賞賛していたネウストプニー先生のCommunication of politenessに移り、今日でそれも終了。

この論文ではポライトネスの類型論とともにそのバリエーションの要因をさぐる試みがあり、興味深い。ネウストプニーによれば、言語地域や言語接触による借用などとともに、社会構造の変化の要因が重要ということになる。だから近代以前と近代以後とで、身分的距離から連帯的距離へとポライトネスが移行していくだけでなく、もっともポスト近代に近づいたと言われたアメリカにおいては非連帯を示す名字の使用すら制限されるようになり、言語的なポライトネスはますます減少していくことになると言う。

上下関係を示す身分的距離の敬語と、水平的な距離を示す連帯的距離の敬語とが、それぞれモダンからポストモダンへと移る過程で消えていくとすれば、それはつまり社会に基礎をおくポライトネスがもはや成立しない世界になっていることを示していると言ってもよいのかもしれない。だとすれば、B&Lが個人の欲求をfaceの基礎に置いたことの意味もわかりやすくなる(Goffmanはfaceを個人の内部にある神聖性とした。神聖性にはその地上と天上の上下階層によってある種の社会性が残っている)。つまり、個人の欲求にしかすでにポライトネスの基礎は見いだせないというわけだ。そういうことなのだろうか?
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梅雨の晴れ間に

2009-06-12 23:45:16 | today's seminar
梅雨の晴れ間に自転車で通勤。しかしさすがに湿度が高く、汗をかく。

今日の学部授業では会話教育のための学習項目にどのようなものがあるかを紹介するために、まずは会話の枠組や文化差の話をして、会話授業の多くはじつは会話教育をしていないといった話をしていた。会話について理解を深めるためにどうしようかと考えた末に、久しぶりにGoffman (1975;Forms of Talkに所収)のsystem constraintsをとりあげた。つまり会話が成立するための条件として以下のようなシステム抑制要素があるというもの。

開始・終結のシグナル
バックチャンネル・フィードバック
話順交替のシグナル
理解可能なメッセージ
脇道のシグナル
非参加者のシグナル
中断のシグナル
規範

このシステム抑制要素は、もう1つの対として儀礼抑制要因ritual constraintsがあって、その意味がこれまでピンとこなかったものだ。しかし、大学院授業で読んでいるGoffmanのface workや滝浦氏の「日本の敬語論」などから、儀礼の意味が少しわかったように思う。儀礼とは社会的なfaceという個人の中に見いだされる神聖性をまもるための社会的慣習のことであり、容易に個人の内面にも行動にも還元できないきわめて社会的な営みなのだ。Goffmanは上のようなシステム上の条件すらも、その契機に儀礼をみているのだと思う。

大学院ゼミでは会話のターンの分析、手話におけるターンの分析。こちらも何がターンかということで、少し懐かしい議論が起こる。ターン・テーキングについては、2年前に論文かきかけのときにUSBメモリーが壊れて以来、途切れてしまったけれど、まだ心の一部はそこにある。
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Goffman, Brown and Levinson そしてJ.V.Neustupny

2009-05-19 23:36:35 | today's seminar
先週の週末は娘の中学の体育祭があった。中学生は素晴らしい。男の子たちはサラブレットのように駆け抜け、女の子たちは鹿のように飛び跳ねる。その身のこなしのなんと軽いこと!それは高校生になるときっと消えてしまう軽さなのだと思う。

大学院授業のメモ。

Brown and Levinson(1987)には周知のようにポライトネス研究再考といった趣の序があって、Goffmanへの関心の喚起や、Leechのポライトネス原理に対する批判がある。

少し読み始めると、彼らのポライトネス理論の前提にあるグライスとの関係を自己解説した部分に、ポライトネスをグライスの公理(格率)からの逸脱deviationとしてとらえていたことが述べられている。逸脱という言葉はGoffmanにも見られるが、B&Lにもまさにネウストプニーが言う意味での逸脱、つまり不適切であったり一貫していなかったりすることについて使っている。逸脱という言葉に眉をひそめる向きがあるとしたら、それはB&Lのポライトネスのプロセスについての考察にもおそらく理解が至らないということになるかもしれない。

GoffmanのFace-workの論文には、主なface-workとして回避avoidanceと訂正correctiveがあげられており、faceの侵害を事前に回避する場合から、それを維持したり、事後に回復するような行為について考察が行われている。これもまたぼくには極めてわかりやすい論述の流れであって、ネウストプニーの言語管理理論が明らかに彼らと同時代的な土壌から生まれていることがわかる。

Goffmanには社会に対する考察の面が強い(何しろfaceはデュルケームの神聖性が個人に内在化されて、社会の統合のくさびになっていると主張しているほどだ)。B&Lもまたデュルケームの言葉を巻頭言として載せているが、どうしても社会の考察が背景化してしまう(おそらくはfaceをひとのwantとしたことに遠因がありそう)。同じようにネウストプニーでもディスコース上の管理を語りながらマクロな社会の管理(言語政策)については背景化が起こっている。おそらくディスコースといいながら、個人の意識や内面を強調してしまう契機が混じってしまったことが原因の1つとなっている可能性がある。Goffmanには身振りや仕草といった相互作用の演技的な面を社会と個人の境界線としてとらえる目があり、心理を扱っているようでいてそうではない。

それにしもて滝浦氏の文章(「日本の敬語論」)は冴えている。かなりの論考はB&Lを下敷きにしているとしても、言いたいことをずばりとわかりやすく言えるのはなかなかのもので、どても勉強になる。
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ポライトネスの受動的面と能動的面

2009-05-12 23:52:58 | today's seminar
今学期は修士課程で滝浦氏の『日本の敬語論』の第2部、博士課程でGoffmanのface-workから読み始めている。

今日の『日本の敬語論』ではBrown & Levinsonのポライトネス理論について、それが受動性と能動性をもっており、社会言語学的コードが強くて選ばされるポライトネスと、相互作用の中で自ら選ぶポライトネスの両方が含意されているという指摘があった。

これはBrown & Levinsonには必ずしも明瞭に説明されていない点だが、とても興味深い。なぜなら、それは言語の規則によって生成される側面と、意図によって意識的に選択される側面とを見ているからだ。この意識的な選択という側面がすぐに言語管理的な側面に直結するというわけにはいかないが、滝浦氏は注釈でネウストプニーの業績を評価しているように、我々と似た言語使用の諸相を見ているのだと思う。

Brown & Levinsonの場合には、むしろストラテジーの使用が諸条件(関係、権力、負荷)による自動的な生成のように感じられてしまうのはぼくだけだろうか?
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2名の修論審査が終了

2009-02-02 23:41:10 | today's seminar
先週金曜日と今日で修論審査が終わった。

一人は中国語母語場面と、日本語母語場面での、不満談話の特徴を明らかにした論文。片方に落ち度があることを双方ともに理解している場合の不満表明から人間関係の修復までの談話をロールプレイで収集したデータについて分析している。映画を見ようと、映画館の前で待っていたが友達が遅れてきた、その友達が遅れたのはこれで3回目だ、という設定。面白いのは、中国人同士の場合には、不満を持っている側はとにかく相手が何を言おうと自分の不満な状態を相手にわかってもらいたいと思っていることがはっきりと出ているところだろう。相手が謝罪をしようがしまいが、不満表明は何度繰り返すわけだ。しかし、後半になると、同じ不満表明を使いながら今度は近しい間柄であることを確認していく。あんた今度遅れたら絶交だよ!うんわかった、ほんとごめんね....。他方、日本人同士では、落ち度のある側が謝罪をすると、それに対応して理由を聞く応答が続くことになる。そして最後まで不満と謝罪の関係が解けずに終了を迎えてしまうのだそうだ。関西人では、中国人と同様の相互作用があるかもしれないけれど、関東圏では不満よりも謝罪中心の談話が続くのだと思う。

もう一人はベトナム人居住者のコミュニケーション問題を分析したもの。生々しい事例がたくさん出てきて、ベトナム人が長く住んでも日本人の行動に逸脱を留意していることが報告されていた。しかも日本人もまた差別観をそのまま表明するような例もあって、なかなか大変な場面だった。日本人はベトナム人とわかると、ベトコンや難民のことを思い浮かべてしまうし、大笑いをしたり、ベトナム人ってもっと色が黒いんじゃないの?などと言ったりするのだ。論文では分析されていなかったけれど、日本人の逸脱を留意し続けたり、日本人の逸脱を日本人一般のものと考えてしまうことから見ると、どうやらベトナム人自身が日本のコミュニティに入ろうとしない態度が予想される(これは論文を書いた本人も言っていた)。同時に、日本人がベトナム人をコミュニティに入れようとしない社会構造もほの見える。

ともあれ、二人とも2年で意義のある論文を書き終えたのは立派。母国での活躍を期待したい。
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クルム伊達公子、あるいは接触場面の対し方

2009-01-20 23:30:51 | today's seminar
今日でちょっと早めに大学院講義を終了。

ぎりぎりまで講義内容を考えていたのに、最後の瞬間に、講義より学生達の感想を聞こうと思い直して、1時間、感想をみんなに話してもらった。今学期は11人いて、日本人が1人、中国人留学生が10人という恐ろしいことになっていたけれど、各人各様、それなりに受けとってくれるものはあったようだ。残りの時間、しばし接触場面の分類と接触性の話をファン(2006)を使って話そうとしたけれど、なにせ時間がなく、ただ叫んだだけに終わったのは少し心残り。思い切って講義をやめたほうがよかった。

ファン(2006)では、相手言語接触場面の言語ホストと言語ゲストによる管理という、かならず誤解される言語管理の類型が紹介されたあと、第3者言語接触場面、共通言語接触場面の言語管理の類型もあるはずだと予言している。実際の研究のほうは、そのような接触場面の類型ごとの管理を明らかにするのではなく、多言語使用者が対面する相手によってその場面を異なる接触場面としてとらえようとする管理が働いていることを見ているところだ。つまり、中国朝鮮族のコードスイッチングでは、韓国人とは共通言語接触場面になる可能性を避けて第3者言語接触場面を作り出したり(つまり、韓国語・朝鮮語を使わず、日本語を使う)、第3者言語接触場面が可能になるのに相手言語接触場面しか作り出そうとしない中国漢民族に対して否定的な評価をしたりする(つまり中国語しか使わない)、といったように。こうした研究の方向が正しいかどうかはこれからよく考えなければならない気がする。

ところで昨日はクルム伊達公子がオーストラリア・オープンの本戦で3時間の熱戦の末敗れた。伊達公子はぼくがメルボルンにいた頃、コートをうつむいて悔しそうな顔で歩く姿をテレビで見て、こんな日本人選手がいるんだなあと思った頃からのファンだ。昨日、ちらとテレビに映った試合の様子に歯を食いしばって闘っている姿があって、ああ伊達公子だと思った。昔、フレンチ・オープンでアランチャ・サンチェスとセミファイナルをたたかったときも、同じように歯を食いしばっていた。パリの友人に「キミコは子供のように疲れたね」と言われた、そんな戦いかただ。彼女の戦い方には素の接触場面があるし、彼女は正面から接触場面で相手と対している...。なんて、まあ、おふざけに聞こえてしまうかな。

接触場面研究もそんな場所から出発すると、ずっと遠くまで、そしてずっと深くまで進めると思うのだが、どうだろう。
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