礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ひもで印をしてるのが関東味や(松下幸之助)

2018-11-12 02:25:12 | コラムと名言

◎ひもで印をしてるのが関東味や(松下幸之助)

 PHP総合研究所編『エピソードで読む松下幸之助』(PHP新書、二〇〇九)を紹介している。本日は、その三回目。
 同書の「Ⅵ 一人も解雇したらあかん――情を添える」に、「心のこもったお弁当」という項がある(二二〇ページ)。本日は、これを紹介してみよう。

❖心のこもったお弁当
 昭和三十三年五月、幸之助が工場建設候補地の検分のため、神奈川県湘南地区を訪れた。辻堂工場と蓄電池工場の責任者が案内役を務めて、何カ所かを丹念に調べ、終わった時刻は十二時を少し過ぎていた。
 幸之助は昼食をとろうと、車を稲村ヶ崎へと向けさせた。
「わしなあ、ゆうべ新橋の鮨屋へ、握り五人分を朝つくっておいてくれと頼んでおいたんや。けさ出しなに持ってきた。磯でお弁当開くのもええやろ」
 波打ち際にござを広げて、秘書が弁当を配ろうとしたとき、幸之助は、
「きみ、そのうち二個に小さなひもで印をしてるやろ、それが関東味できみとA君の分や。三個は関西味で、B君とC君とわしの分や」
 この気くばりに四人の社員は恐縮し、そして感動しつつ弁当を味わった。

 全体に、この本には、この種の「エピソード」が多い。それらを、ひとことで言うと、「気くばり」ということになる。こうした細かい「気くばり」ができるところが、松下幸之助という人物の特異な資質であり、この資質があってこそ、彼は経営者として成功することができたのである。
 この松下幸之助のエピソードを読んで、私は、文化人類学の「神秘的融即」participation mystiqueという言葉を思い出した。ただし、レヴィ-ブリュルのいう神秘的融即ではなく、ユングのいう神秘的融即である。すなわち、「主体と客体が無意識に同一化された同一性」である。
 一般的には、「気くばり」とは、主体が客体のことを思いやることである。しかし、松下幸之助の「気くばり」は、そうした一般的な気くばりの域を超えている。それは、主体と客体とが無意識に同一化される中で生じる心意、あるいは、自他の境界が超えられた中でおこなわれる行為だったのではないのか。
 なお、これは思いつきで言うのだが、日本の政治家の中にも、その資質において、松下幸之助に酷似した人物を見出すことができる。それは、田中角栄である。

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