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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大化の改新は新羅で起きていた(鹿島曻)

2018-07-16 03:40:25 | コラムと名言

◎大化の改新は新羅で起きていた(鹿島曻)

 先日、地元の図書館から、中村修也著『白村江の真実 新羅王・金春秋の策略』(吉川弘文館、二〇一〇)を借りてきて一読した。その冒頭「白村江への道―プロローグ」で、著者は、『三国遺事』に出てくる金庾信【キムユシン】のエピソードを紹介し、これが『日本書紀』にある中臣鎌足【なかとみのかまたり】のエピソードと酷似していることを指摘している。これを読んで、「ハテ」と思った。同じことを指摘している本を、むかし読んだような気がしたのである。
 気になって調べてみたところ、むかし読んだ本とは、『日本列島史抹殺の謎』(新國民社、一九八二)であった。これは、佐治芳彦〈サジ・ヨシヒコ〉・吾郷清彦〈アゴウ・キヨヒコ〉・鹿島曻〈カシマ・ノボル〉の三氏の鼎談記録という形をとった歴史書である。
 同書の二〇七~二〇九ページに、次のようにあった。

 「毗曇の乱」と入鹿殺し

佐治 鹿島先生の説は『日本書紀』が朝鮮史の飜訳だということですが、どこまでが朝鮮史でどこからがいわゆる日本史になるかという問題について――。
鹿島 壬申の乱までは朝鮮史であります。新羅の善徳王(六三二~六四七)というのは女帝ですが、和白(新羅の部落会議に源をもつ全員一致の政体)の筆頭であった伊飡毗曇が唐にそそのかされて、女王ではダメだといって、廉宗と共謀して王位を狙い、六四七年に叛乱をおこした。このとき、王子の金春秋(のち、新羅三〇代文武王)と重臣の金庾信【きんゆしん】が毗曇【ひどん】を誅殺した。これを「毗曇の乱」というのですが、『日本書紀』では、女帝の皇極(六四一~六四五)のとき、大臣の蘇我入鹿〈ソガノイルカ〉が王位を狙った。六四五年六月に中大兄皇子〈ナカノオオエノオウジ〉と中臣鎌足が入鹿を誅したことになっていて、実はこれは「毗曇の乱」の翻訳なのであります。
佐治 大化改新とか入鹿殺しの宮廷クーデターなんかはもともと朝鮮のことで、日本列島でおきた事件ではなかったということですね。
鹿島 そうです。新羅ではこののち唐制を模倣して法治主義を採用した。大化改新というのは新羅でおきたことであります。
 新羅史では善徳王のあと、真徳王(六四七~六五四)という女帝が立ったのですが、『日本書紀』では皇極のあと孝徳が立って、そのあと皇極が重祚【ちようそ】して斉明(六五五~六六一)になっている。孝徳のモデルは百済の末王義慈の長男孝ですから、これは藤原仲麻呂が『日本紀』を改竄したときに追加したもので、舎人〔親王〕版『日本紀』にはなかったのではないか。そうすると、原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります。
吾郷 鹿島先生の『倭と王朝』の比定表では、舒明が百済の末王義慈、皇極が新羅女王善徳、孝徳が百済の義慈王の王子孝、斉明が新羅女王真徳、天智が孝の弟豊璋になっていますね。
鹿島 はい。ところで今の入鹿殺しのモデルが毗曇の乱だというのは、福田芳之助という人の『新羅史』にあります。大正二年〔一九一三〕の出版です。
 新羅史では、金庾信が王孫の金春秋と接近するために、庾信の家の前で蹴鞠の戯をして、わざと春秋の裙【もすそ】を踏んで襟ひもを裂き、自分の家に招じ入れて妹にそれを縫わせた。それが縁で春秋と庾信の妹が結婚するのです。福田氏はこれが中大兄皇子が法興寺で蹴鞠【けまり】をしたとき、鎌足が皇子の履物が飛んだのを拾ってコンタクトしたという『書紀』の説話のモデルだと主張した。また善徳の死後、実力者の金春秋が自ら即位せず、真徳女王を擁立したことは、皇極のあと、中大兄が斉明をたてたことのモデルだとしています。また、金庾信が死んだとき、文武王が下した詔が、鎌足の死後、天智が下した詔のモデルになっているともいうわけです。
 この蹴鞠の説話には、庾信の二人の妹たちが夢を売り買いするなど、のちの北条政子の説話のルーツらしい物語もあって、『三国遺事』の大宗春秋公の条にあります。「毗曇の乱」は『三国史記』の善徳女王の条にあります。これらを総合すると『日本書紀』の説話通りになるのです。

 いわゆる「鹿島史観」であって、学問の世界からは、完全に無視されてきた歴史観である。もちろん、中村修也氏の『白村江の真実』の巻末にある「参考文献」に、鹿島氏らの『日本列島史抹殺の謎』は、挙げられていない。しかし、鹿島氏が、この本で『三国遺事』におけるエピソードと『日本書紀』におけるエピソードとを対比していること、それが、中村氏の本より二十八年も先行していたことは、まぎれもない事実である。
 なお、鹿島氏によれば、その対比を最初におこなったのは、『新羅史』の著者・福田芳之助であったという。『新羅史』が出たのは一九一三年(大正二)であるから、これは、『日本列島史抹殺の謎』よりも、さらに六十九年も前のことであった。
 次に、その『新羅史』の記述を確認してみよう。

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コメント (1)
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