礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

藤田反対意見の射程――桃井論文の紹介・その9

2018-07-26 00:02:02 | コラムと名言

◎藤田反対意見の射程――桃井論文の紹介・その9

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その九回目(最後)。
 なお、今回、九回にわたって紹介した「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」は、厳密には、そのうちの「1,<ピアノ裁判>における思想・良心」にあたる部分であり、このあとに、「2,西原学説と教師の抗命義務」が続くという。原稿の送付があり次第、こちらも、当ブログで紹介させていただく予定である。

③ 藤田宙靖反対意見
 藤田宙靖裁判官が、反対意見において原告の思想・良心について独自の見解を述べた部分は以下である(以下すべて下線は引用者)。
「私は,上告人に対し,その意に反して入学式における「君が代」斉唱のピアノ伴奏を命ずる校長の本件職務命令が,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないとする多数意見に対しては,なお疑問を抱くものであって,にわかに賛成することはできない。その理由は,以下のとおりである。
 1 多数意見は,本件で問題とされる上告人の「思想及び良心」の内容を,上告人の有する「歴史観ないし世界観」(すなわち,「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価)及びこれに由来する社会生活上の信念等であるととらえ,このような理解を前提とした上で,本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,この歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできないとして,上告人に対して同伴奏を命じる本件職務命令が,直ちに,上告人のこの歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないとし,また,このようなピアノ伴奏を命じることが,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,特定の思想の有無について告白することを強要するものであるということはできないとする。これはすなわち,憲法19条によって保障される上告人の「思想及び良心」として,その中核に,「君が代」に対する否定的評価という「歴史観ないし世界観」自体を据えるとともに,入学式における「君が代」のピアノ伴奏の拒否は,その派生的ないし付随的行為であるものとしてとらえ,しかも,両者の間には(例えば,キリスト教の信仰と踏み絵とのように)後者を強いることが直ちに前者を否定することとなるような密接な関係は認められない,という考え方に立つものということができよう。しかし,私には,まず,本件における真の問題は,校長の職務命令によってピアノの伴奏を命じることが,上告人に「『君が代』に対する否定的評価」それ自体を禁じたり,あるいは一定の「歴史観ないし世界観」の有無についての告白を強要することになるかどうかというところにあるのではなく(上告人が,多数意見のいうような意味での「歴史観ないし世界観」を持っていること自体は,既に本人自身が明らかにしていることである。そして,「踏み絵」の場合のように,このような告白をしたからといって,そのこと自体によって,処罰されたり懲戒されたりする恐れがあるわけではない。),むしろ,入学式においてピアノ伴奏をすることは,自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり,それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。
 藤田は原告が「入学式においてピアノ伴奏をすることは,自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なこと」(この場合「入学式において」という部分に傍点をつけると藤田の論旨は一層明瞭となる)に着目し、それは君が代に関する歴史観や世界観を否定されることによってではなく、原告にとってこれもまた大事な相対的には別個の思想・良心を否定されることによってより直接に生じるものだと捉える。また、「「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価」と「入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否すること」との不可分性を否定した法廷意見には明確には反対していないことにも注意が必要である。これは、ピアノ伴奏行為一般または授業における楽曲としての「君が代」指導はそれ自体としてのイデオロギー性は薄いとみなす一方で、<儀式>という場での子どもに対する働きかけについては、拒否もあり得るような強いイデオロギー性を認めている、と推測できるのである。このピアノ伴奏一般のイデオロギー性に対する評価は、佐々木弘通が、学校儀式において職務命令の内容とされる<起立斉唱>と<ピアノ伴奏>とを前者を<自発的行為の強制>、後者を<外面的行為の強制>と区分したこと〔40〕と共通する認識が見られるのである〔41〕〔42〕。この点は、藤田反対意見の射程に大きく関わることである〔43〕。
「そうであるとすると,本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。
 藤田は原告Fの思想・良心に関して、「君が代」が果たしてきた歴史的役割に対する否定的評価に「加えて」「学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」」をより重視している。ここで注意しなければならないのは、藤田が行動を直接規制する良心を「従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条」と言い表している点である。原告は、可能な限り儀式の進行そのものについては攪乱的影響がないように努めている〔44〕。人格化されたある思想(職務命令にもかかわらず度重ねて訴えたところなどからその存在は推定される)にもとづき公的な職務のあり方に関する確固とした見解を持ちつつも、最早、それ自体を実現することは断念し、自己の人格的一貫性(私が私であり続けること)という最後の一線をまもるところまで追い詰められた原告の窮迫した状況を、淡々とした筆致で藤田は確実に捉えている。引用を続けよう。
「そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,すなわち,そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは,仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても,改めて検討する必要があるものといわなければならない。」
 法廷意見がまとめたような「君が代」に対する歴史観・世界観とは必ずしも直接に結びつくものではないこのような信条を、思想・良心の問題として正面から検討すべきだといっている。しかし、だからといってここで藤田がまとめたものがそのままのかたちで、適法に発出された職務命令との相関において優先的に評価されるというのでは必ずしもない。藤田が記述した限りでの原告の「信念ないし信条」のさらに奥にあるはずの人格化した思想を明らかにした上で、それを起点に、「自分は参加してはならない」という行動に対する判断までつなげると、原告のピアノ伴奏拒否という外部的行為は了解可能なものとなる。原告Fは、この「信念ないし信条」と結びつく歴史観・世界観といえるような主張をしているのであるが、ここでの藤田はそこまでも含めた構造的把握をしているのではない。いずれにせよ、藤田意見によってピアノ伴奏を拒否する思想・良心を再構築するための出発点は与えられたといえよう。
 藤田反対意見の前半の結び部分を引用しよう。
「このことは,例えば,「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く,従って,例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも,一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上,公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし,また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも,いえるところである。この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。そしてまた,こういった信念・信条が,例えば「およそ法秩序に従った行動をすべきではない」というような,国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく,自由主義・個人主義の見地から,それなりに評価し得るものであることも,にわかに否定することはできない。本件における,上告人に対してピアノ伴奏を命じる職務命令と上告人の思想・良心の自由との関係については,こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきものと考える。」
 この下線部は、思想・良心の構造上次元が異なる「歴史観ないし世界観」と「信念・信条」を同一次元ものと取り扱っているように見える。私は、最高裁裁判官の多くが前提としていると思われる思想・良心構造=<人格の核心と結びついた思想―社会生活上の外部的行為についての信念(西原博史のいう「良心」)〔45〕>に相応した原告の思想・良心の再構成=明確化が必要であると思う。その際、先に筆者が原告Fの陳述から拾い上げた音楽特に学校教育における「君が代」の国家主義的利用に対する批判的な歴史観、人はどう育つべきかについての原告固有の思想(世界観といっても良い)への着目が必要である。後者については、残念ながら残された陳述では多くは語られていない。

注〔40〕「「人権」論・思想良心の自由・国歌斉唱」(『成城法学66号』2001年)で直接言及しているのは「生徒に「君が代」という歌(歌詞とメロデイー)を教えるという目的で、音楽教師に対して、「君が代」を歌い演奏し、生徒にその指導を行うことが要請される場合」を対象にして「自発的行為」の強制ではない「外面的行為」の強制だと判断している(p67)が、4年後の論文では儀式での伴奏の強制も含めて「外面的行為」の強制だと判断してる(「思想良心の自由と国歌斉唱」(『憲法の現在』信山社2005))。
注〔41〕最高裁の法廷意見においても、2011年6月21日判決では、起立斉唱行為には敬意表明の要素を認めるが、ピアノ伴奏行為にはそれが希薄だと判断している。また、2012年1月16日判決では、起立斉唱命令には<間接的制約>を認めた先行判決を援用する一方、ピアノ伴奏命令には本ピアノ判決を援用している。この点の詳しい分析は森口千弘「平成24年1月16日判決における「思想・良心の自由」の意義」(『Law & Practice No.7』2013)
注〔42〕なお、私自身は、佐々木の言うように藤田反対意見が焦点化した思想・良心を<別個の類型>とすることには同意できない。藤田自身は、原告の行為をあくまでも<個人>の内心を守るための行為だと認識している。
注〔43〕私自身は、藤田には、「日の丸」に正対して「君が代」斉唱を求める職務命令と「君が代」伴奏を求める職務命令とは命じられる外部的行為の持つ意味合いが中核部分において相違するという認識があるのではないか、と思っている。
 藤田は、最高裁退官後の2014年に対談の中で、自らの反対意見に関して、以下のように語っている。( )内は引用者の補足。「(儀式において)音楽教師がピアノの伴奏をするのは当たり前ではないか,つまり,職務上当然のことではないかという意識,感覚が(他の裁判官では)圧倒的に強かったのだと思います。しかし,私はあの事件に関して,少なくともあの事件の具体的事実に照らして見る限り,そんなに簡単に言っていいのだろうかという疑問があったということてす。これは次に類似の事件が出てみないと分からないし,先ほども言ったように,あのときにこれは音楽教師のピアノ伴奏についてだけの判断なのであって,君が代を歌えなどといった話になった場合には話はまた別だという了解はあったと思うのです。」(『法学教室No.401』p46-47) 藤田は、儀式におけるピアノ伴奏は必ずしも音楽教師の当然の職務とは言い切れないこと、ピアノ伴奏と起立斉唱とは性格が異なること、を述べている。ここでの焦点はこの後者であって、ピアノ伴奏を思想・良心の制約と主張するためには、起立斉唱についてのものとは別の組み立ての主張が必要だということになる。藤田自身は、その重要なきっかけを作った、というのが私の見方である。
注〔44〕藤田もそのことは明瞭に認識している。反対意見の「2」の中程で以下のように記していることに注目したい。
「本件の場合,上告人は,当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく,また実力をもって式進行を阻止しようとしていたものでもなく,ただ,以前から繰り返し述べていた希望のとおりの不作為を行おうとしていたものにすぎなかった。従って,校長は,このような不作為を充分に予測できたのであり,現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって,基本的には問題無く式は進行している。」
注〔45〕たとえば、2011年5月30日判決における千葉勝美の補足意見。

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