礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

君臣水魚、元と偶然に非ざるを知るべし(福田芳之助)

2018-07-17 05:06:45 | コラムと名言

◎君臣水魚、元と偶然に非ざるを知るべし(福田芳之助)

 昨日の続きである。本日は、福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)から、「金庾信」と「中臣鎌足」とを対比している箇所(二五五~二五八ページ)を紹介してみたい。
 引用したところの最初にある「史論子」とは、著者・福田芳之助の自称である。

 史論子曰く、三国鼎峙の季〈スエ〉、各一人の英雄を出す、高勾驪〔高句麗〕の蓋蘇文〔淵蓋蘇文〕、百済の福信〔鬼室福信〕、新羅の金庾信〈キン・ユシン〉是なり。蓋蘇文国政を執るの時、唐の太宗の英武を以て、自ら師〔軍隊〕を将ゐて〈ヒキイテ〉之に臨む、長孫無忌〈チョウソン・ムキ〉、王道宗、李世勣〈リ・セイセキ〉、皆一世の才にして、なほ安市の蹉躓〈サチ〉あり、爾後頻年〈ヒンネン〉兵を出すも、高勾驪動かざること磐石〈バンジャク〉の如し。福信已に〈スデニ〉滅ぶるの百済を糾合し、唐軍を熊津〈クマナリ〉の一城に窘迫〈キンパク〉す、新羅の援軍、匹馬〈ヒツバ〉回らず、河南河北皆響応して、略ぼ〈ホボ〉旧図を復さんとす。而も福信殺されて、百済秋草を焼くが如く、蓋蘇文死して、高勾驪朽木の如し、庾信之と時を同うして、其胆略は蘇文に及ばず、其怪力は福信に及ばず、而して其克く一統の業を成す所以のもの何ぞや。庾信年十七、中嶽の石崛〈セックツ〉に入り、天に祈て曰く、敵国無道にして、我〈ワガ〉疆域〈キョウイキ〉を擾し〈ミダシ〉、略ぼ寧歳あること無し、天よ、願くは神を下して、手を我に仮せ〈カセ〉と。彼は恒に此至誠を以て心と為し、君臣水魚、肝胆相照しぬ、去れば庾信ありと雖も、春秋無くんば不可なり、二人相俟て〈アイマッテ〉始めて功を攻すものと謂ふべく、猶我天智鎌足の如きか。初め鎌足、蘇我氏の跳梁を患へて〈ウレエテ〉、窃に〈ヒソカニ〉匡済〈キョウサイ〉の志を懐くや、中大兄皇子〈ナカノオオエノオウジ〉に心を嘱し〈ショクシ〉、法興寺槻樹下〔つきのきのもと〕に蹴鞠〈ケマリ〉の時、会〈タマタマ〉皇子の鞋〈クツ〉の、鞠と共に脱したるを見、趨りて〈ハシリテ〉之を捧げ、以て慇懃〈インギン〉を通じぬ。庾信亦春秋王孫と、宅前に蹴鞠の戯を為し、故らに〈コトサラニ〉其衣を裂て、家に引入し、以て姻戚を結ぶの端を啓く〈ヒラク〉と、事〈コト〉甚だ相似て、君臣水魚、元と偶然に非ざる〈アラザル〉を知るべし。中大兄、鎌足と謀て大臣蘇我入鹿〈ソガノイルカ〉を誅するや、皇極位を孝徳に譲り、中大兄を以て皇太子と為す、五年にして孝徳崩じ、中大兄当然立つべかりしを、再び皇極女帝を擁して重祚〈チョウソ〉せしめ、己れは万機の衝に当りて、政事を行へり。庾信等、大臣毗曇〈ヒドン〉の乱を平げ、次で善徳女王殂し〈ソシ〉、王系の近親と、其重望より云へば、春秋は、最も後継に擬せられるべき位置に在りながら、自ら避けて真徳女王を立て、其身は専ら内外の枢機に参しぬ。両者隠忍自重〈インニンジチョウ〉すること如斯〈カクノゴトク〉にして、遂に位に即くや、一は空前の國體改革を遂行し、一は三国一統の大事業を成就したり。而して鎌足と庾信とが、此間に於ける参画の功は之を竹帛〈チクハク〉に垂れて遜色あることなし。鎌足薨する〈コウスル〉や、天智其第に臨みて、優詔を下し、庾信卒する時、文武亦其第に臨みて、優詔を下す、俱に〈トモニ〉元勲を待つの体を得たもと謂ふべし。鎌足薨後、其子不比等〔藤原不比等〕、右大臣を拝して、朝恩浅からず、太政大臣正一位を贈らる、是より其子孫、世々台閣に列し、其家より后妃〈コウヒ〉を出し、遂には朝権を侮蔑し、天子は我家の立つる所なりと云ふものすら無きに非ざりき。庾信五男四女あり、殊に武烈の妃は其妹にして、文武は其姪なり、若し一家の栄達を計らんと欲せば、何事をも為し得べしと雖も、其身を持すること極めて方正、曽て〈カツテ〉第二子、元述の戦に敗れて還るや、之を斬らんことを請ひ、其母亦、之を門に入るゝを拒みたるが如き、最も家門の厳粛を知るべし。是を以て、子孫亦克く其遺訓を守り、後世藤原氏の如き閥族を生ずるに至らず、武烈より景徳に至る、五世百十余年、綱紀愈〈イヨイヨ〉張りて、一統の業を堕さゞりしは、抑〈ソモソモ〉亦故ありと謂ふべし。

 漢文調の文体で、読むのに、漢和辞典が手ばなせない。しかし、説くところは明白であって、春秋・庾信の故事と、中大兄・鎌足の故事とが、「甚だ相似て」おり、これは「偶然に非ざる」を知るべきだと指摘している。
 しかし、福田芳之助の指摘は、そこまでであって、それ以上のことは言っていない。
 ところが、昨日も見たように、鹿島史観においては、この福田の指摘が、「入鹿殺しのモデルが毗曇の乱だ」とか、『日本書紀』は「朝鮮史の飜訳だ」とか、いう話になってしまうのである。

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コメント (1)
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