礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

斯鬼宮(シキミヤ)の鬼は、城(キ)の意味(村山七郎)

2018-07-29 06:38:50 | コラムと名言

◎斯鬼宮(シキミヤ)の鬼は、城(キ)の意味(村山七郎)

 昨日は、福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)から、「新羅の国号に就て」というところを紹介してみた。
 ここで、福田は、「韓語」の「キ」と日本語の「キ」を比較していた。これは要するに、この時代の「韓語」と日本語との間には何らかの共通性があったという認識を、福田が持っていたことを示している。
 さて、福田はここで、「キ」を「城」の意味に解する説を退けていた。しかしこれは、今から一〇〇年以上も前に示された見解である。今日の学問的到達点から見て、この福田の見解が、なお妥当と言えるのかどうかは微妙であろう。
 とはいえ私が、その「今日の学問的到達点」というものを把握しているわけではない。たまたま、言語学者の村山七郎(一九〇八~一九九五)が、「城〈キ〉」について述べている文章を見つけたので、本日は、これを紹介してみたい。この文章は、村山七郎の論文「稲荷山金石文について」(村山七郎+国分直一『原始日本語と民族文化』、三一書房、一九七九、所収)の一節である。

 九、城【キ】について
 今回の金石文〔稲荷山金石文〕は、雄略天皇の役所(寺)が斯鬼宮【シキミヤ】にあったことを述べる。シキというのは石城【シキ】(=磯城【シキ】)のことである。シキも初期においては、普通名詞の性質を帯びていたのではないかと思われる。鬼はその音価から見て後世の乙類キを表わしたことは明らかであり、「城【キ】」(乙類キ)の意味であることも明らかである。
 ところで、朝鮮の史書『三国史記』(一一四五年に高麗の金富軾らの書いたもの)巻第三十六によると、悦城県はもと百済で悦己県と言ったのを、新羅の景徳王(七四二-七六四)が改めたのであり、また潔城郡はもと百済で結己郡と言ったのを景徳王が改名した、とある。ここから、「城」を百済語で己(古音kieg)で表わし(己は『日本書紀』で一個所、キ乙類を表わすのに用いられている)、これは古代日本語のki「城」に対応することは疑いない。
 それでは、日本語ki「城」は百済語からの借用語であろうか。四世紀に多沙鬼【タサキ】 (多沙城)があり、百済に近い任那の地にあったのであるから、その可能性は否定できない。しかし日本が任那の経営に着手する四世紀より前に、私の言う「倭の言語Ⅰ」の中に城【キ】ということばがあって、それが朝鮮半島から日本に到来したときに日本にはこばれた可能性もあろう。
 三七〇年ころ(タサキワケの活動したのは、そのころ)の日本語の片鱗がわかってきたので、「倭の言語I」の現実性も増してきたように思われる。

 引用文中、kiegのeは、eをひっくり返した字である。また、二か所、出てくるkiのiは、頭の点が左右二つある字である。
 ここで、村山七郎は、「倭の言語Ⅰ」という言葉を使っているが、これは、村山独自の用語で、かつて朝鮮半島で使われていた日本語の祖先に当たる言葉のことである。
 またここで、村山は、斯鬼宮【シキミヤ】の鬼は、城【キ】の意味だろうという見解を示している。この説は、かつて福田芳之助によって退けられたものである。おそらく村山は、福田説のあることを知らず、その上で、このように述べたのではあるまいか。

*このブログの人気記事 2018・7・29

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新羅(シラキ)における「キ... | トップ | 杉田水脈議員の「生産性」発... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事