礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

藤田反対意見の射程――桃井論文の紹介・その9

2018-07-26 00:02:02 | コラムと名言

◎藤田反対意見の射程――桃井論文の紹介・その9

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その九回目(最後)。
 なお、今回、九回にわたって紹介した「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」は、厳密には、そのうちの「1,<ピアノ裁判>における思想・良心」にあたる部分であり、このあとに、「2,西原学説と教師の抗命義務」が続くという。原稿の送付があり次第、こちらも、当ブログで紹介させていただく予定である。

③ 藤田宙靖反対意見
 藤田宙靖裁判官が、反対意見において原告の思想・良心について独自の見解を述べた部分は以下である(以下すべて下線は引用者)。
「私は,上告人に対し,その意に反して入学式における「君が代」斉唱のピアノ伴奏を命ずる校長の本件職務命令が,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないとする多数意見に対しては,なお疑問を抱くものであって,にわかに賛成することはできない。その理由は,以下のとおりである。
 1 多数意見は,本件で問題とされる上告人の「思想及び良心」の内容を,上告人の有する「歴史観ないし世界観」(すなわち,「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価)及びこれに由来する社会生活上の信念等であるととらえ,このような理解を前提とした上で,本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,この歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできないとして,上告人に対して同伴奏を命じる本件職務命令が,直ちに,上告人のこの歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないとし,また,このようなピアノ伴奏を命じることが,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,特定の思想の有無について告白することを強要するものであるということはできないとする。これはすなわち,憲法19条によって保障される上告人の「思想及び良心」として,その中核に,「君が代」に対する否定的評価という「歴史観ないし世界観」自体を据えるとともに,入学式における「君が代」のピアノ伴奏の拒否は,その派生的ないし付随的行為であるものとしてとらえ,しかも,両者の間には(例えば,キリスト教の信仰と踏み絵とのように)後者を強いることが直ちに前者を否定することとなるような密接な関係は認められない,という考え方に立つものということができよう。しかし,私には,まず,本件における真の問題は,校長の職務命令によってピアノの伴奏を命じることが,上告人に「『君が代』に対する否定的評価」それ自体を禁じたり,あるいは一定の「歴史観ないし世界観」の有無についての告白を強要することになるかどうかというところにあるのではなく(上告人が,多数意見のいうような意味での「歴史観ないし世界観」を持っていること自体は,既に本人自身が明らかにしていることである。そして,「踏み絵」の場合のように,このような告白をしたからといって,そのこと自体によって,処罰されたり懲戒されたりする恐れがあるわけではない。),むしろ,入学式においてピアノ伴奏をすることは,自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なことであり,それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にこそあるように思われる。
 藤田は原告が「入学式においてピアノ伴奏をすることは,自らの信条に照らし上告人にとって極めて苦痛なこと」(この場合「入学式において」という部分に傍点をつけると藤田の論旨は一層明瞭となる)に着目し、それは君が代に関する歴史観や世界観を否定されることによってではなく、原告にとってこれもまた大事な相対的には別個の思想・良心を否定されることによってより直接に生じるものだと捉える。また、「「君が代」が過去において果たして来た役割に対する否定的評価」と「入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否すること」との不可分性を否定した法廷意見には明確には反対していないことにも注意が必要である。これは、ピアノ伴奏行為一般または授業における楽曲としての「君が代」指導はそれ自体としてのイデオロギー性は薄いとみなす一方で、<儀式>という場での子どもに対する働きかけについては、拒否もあり得るような強いイデオロギー性を認めている、と推測できるのである。このピアノ伴奏一般のイデオロギー性に対する評価は、佐々木弘通が、学校儀式において職務命令の内容とされる<起立斉唱>と<ピアノ伴奏>とを前者を<自発的行為の強制>、後者を<外面的行為の強制>と区分したこと〔40〕と共通する認識が見られるのである〔41〕〔42〕。この点は、藤田反対意見の射程に大きく関わることである〔43〕。
「そうであるとすると,本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては,このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら,それに加えて更に,「『君が代』の斉唱をめぐり,学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり,また,後者の側面こそが,本件では重要なのではないかと考える。
 藤田は原告Fの思想・良心に関して、「君が代」が果たしてきた歴史的役割に対する否定的評価に「加えて」「学校の入学式のような公的儀式の場で,公的機関が,参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」」をより重視している。ここで注意しなければならないのは、藤田が行動を直接規制する良心を「従って,また,このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条」と言い表している点である。原告は、可能な限り儀式の進行そのものについては攪乱的影響がないように努めている〔44〕。人格化されたある思想(職務命令にもかかわらず度重ねて訴えたところなどからその存在は推定される)にもとづき公的な職務のあり方に関する確固とした見解を持ちつつも、最早、それ自体を実現することは断念し、自己の人格的一貫性(私が私であり続けること)という最後の一線をまもるところまで追い詰められた原告の窮迫した状況を、淡々とした筆致で藤田は確実に捉えている。引用を続けよう。
「そして,これが肯定されるとすれば,このような信念ないし信条がそれ自体として憲法による保護を受けるものとはいえないのか,すなわち,そのような信念・信条に反する行為(本件におけるピアノ伴奏は,まさにそのような行為であることになる。)を強制することが憲法違反とならないかどうかは,仮に多数意見の上記の考えを前提とするとしても,改めて検討する必要があるものといわなければならない。」
 法廷意見がまとめたような「君が代」に対する歴史観・世界観とは必ずしも直接に結びつくものではないこのような信条を、思想・良心の問題として正面から検討すべきだといっている。しかし、だからといってここで藤田がまとめたものがそのままのかたちで、適法に発出された職務命令との相関において優先的に評価されるというのでは必ずしもない。藤田が記述した限りでの原告の「信念ないし信条」のさらに奥にあるはずの人格化した思想を明らかにした上で、それを起点に、「自分は参加してはならない」という行動に対する判断までつなげると、原告のピアノ伴奏拒否という外部的行為は了解可能なものとなる。原告Fは、この「信念ないし信条」と結びつく歴史観・世界観といえるような主張をしているのであるが、ここでの藤田はそこまでも含めた構造的把握をしているのではない。いずれにせよ、藤田意見によってピアノ伴奏を拒否する思想・良心を再構築するための出発点は与えられたといえよう。
 藤田反対意見の前半の結び部分を引用しよう。
「このことは,例えば,「君が代」を国歌として位置付けることには異論が無く,従って,例えばオリンピックにおいて優勝者が国歌演奏によって讃えられること自体については抵抗感が無くとも,一方で「君が代」に対する評価に関し国民の中に大きな分かれが現に存在する以上,公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得るし,また現にこのような考え方を採る者も少なからず存在するということからも,いえるところである。この考え方は,それ自体,上記の歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信念・信条そのものに対する直接的抑圧となることは,明白であるといわなければならない。そしてまた,こういった信念・信条が,例えば「およそ法秩序に従った行動をすべきではない」というような,国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく,自由主義・個人主義の見地から,それなりに評価し得るものであることも,にわかに否定することはできない。本件における,上告人に対してピアノ伴奏を命じる職務命令と上告人の思想・良心の自由との関係については,こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきものと考える。」
 この下線部は、思想・良心の構造上次元が異なる「歴史観ないし世界観」と「信念・信条」を同一次元ものと取り扱っているように見える。私は、最高裁裁判官の多くが前提としていると思われる思想・良心構造=<人格の核心と結びついた思想―社会生活上の外部的行為についての信念(西原博史のいう「良心」)〔45〕>に相応した原告の思想・良心の再構成=明確化が必要であると思う。その際、先に筆者が原告Fの陳述から拾い上げた音楽特に学校教育における「君が代」の国家主義的利用に対する批判的な歴史観、人はどう育つべきかについての原告固有の思想(世界観といっても良い)への着目が必要である。後者については、残念ながら残された陳述では多くは語られていない。

注〔40〕「「人権」論・思想良心の自由・国歌斉唱」(『成城法学66号』2001年)で直接言及しているのは「生徒に「君が代」という歌(歌詞とメロデイー)を教えるという目的で、音楽教師に対して、「君が代」を歌い演奏し、生徒にその指導を行うことが要請される場合」を対象にして「自発的行為」の強制ではない「外面的行為」の強制だと判断している(p67)が、4年後の論文では儀式での伴奏の強制も含めて「外面的行為」の強制だと判断してる(「思想良心の自由と国歌斉唱」(『憲法の現在』信山社2005))。
注〔41〕最高裁の法廷意見においても、2011年6月21日判決では、起立斉唱行為には敬意表明の要素を認めるが、ピアノ伴奏行為にはそれが希薄だと判断している。また、2012年1月16日判決では、起立斉唱命令には<間接的制約>を認めた先行判決を援用する一方、ピアノ伴奏命令には本ピアノ判決を援用している。この点の詳しい分析は森口千弘「平成24年1月16日判決における「思想・良心の自由」の意義」(『Law & Practice No.7』2013)
注〔42〕なお、私自身は、佐々木の言うように藤田反対意見が焦点化した思想・良心を<別個の類型>とすることには同意できない。藤田自身は、原告の行為をあくまでも<個人>の内心を守るための行為だと認識している。
注〔43〕私自身は、藤田には、「日の丸」に正対して「君が代」斉唱を求める職務命令と「君が代」伴奏を求める職務命令とは命じられる外部的行為の持つ意味合いが中核部分において相違するという認識があるのではないか、と思っている。
 藤田は、最高裁退官後の2014年に対談の中で、自らの反対意見に関して、以下のように語っている。( )内は引用者の補足。「(儀式において)音楽教師がピアノの伴奏をするのは当たり前ではないか,つまり,職務上当然のことではないかという意識,感覚が(他の裁判官では)圧倒的に強かったのだと思います。しかし,私はあの事件に関して,少なくともあの事件の具体的事実に照らして見る限り,そんなに簡単に言っていいのだろうかという疑問があったということてす。これは次に類似の事件が出てみないと分からないし,先ほども言ったように,あのときにこれは音楽教師のピアノ伴奏についてだけの判断なのであって,君が代を歌えなどといった話になった場合には話はまた別だという了解はあったと思うのです。」(『法学教室No.401』p46-47) 藤田は、儀式におけるピアノ伴奏は必ずしも音楽教師の当然の職務とは言い切れないこと、ピアノ伴奏と起立斉唱とは性格が異なること、を述べている。ここでの焦点はこの後者であって、ピアノ伴奏を思想・良心の制約と主張するためには、起立斉唱についてのものとは別の組み立ての主張が必要だということになる。藤田自身は、その重要なきっかけを作った、というのが私の見方である。
注〔44〕藤田もそのことは明瞭に認識している。反対意見の「2」の中程で以下のように記していることに注目したい。
「本件の場合,上告人は,当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく,また実力をもって式進行を阻止しようとしていたものでもなく,ただ,以前から繰り返し述べていた希望のとおりの不作為を行おうとしていたものにすぎなかった。従って,校長は,このような不作為を充分に予測できたのであり,現にそのような事態に備えて用意しておいたテープによる伴奏が行われることによって,基本的には問題無く式は進行している。」
注〔45〕たとえば、2011年5月30日判決における千葉勝美の補足意見。

*このブログの人気記事 2018・7・26

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那須補足意見、原告固有の思想・良心のあり様に言及――桃井論文の紹介・その8

2018-07-25 05:22:31 | コラムと名言

◎那須補足意見、原告固有の思想・良心のあり様に言及――桃井論文の紹介・その8

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その八回目。なお、桃井論文の紹介は、次回が最終となります。

② 那須弘平補足意見     
 那須弘平裁判官は、「本件職務命令が憲法19条に違反しないとする多数意見にくみする」立場から、その理由について補足している。
「しかし,本件の核心問題は,「一般的」あるいは「客観的」には上記のとおりであるとしても,上告人の場合はこれが当てはまらないと上告人自身が考える点にある。上告人の立場からすると,職務命令により入学式における「君が代」のピアノ伴奏を強制されることは,上告人の前記歴史観や世界観を否定されることであり,さらに特定の思想を有することを外部に表明する行為と評価され得ることにもなるものではないかと思われる。」
「本件職務命令は,上告人に対し(中略)心理的な矛盾・葛藤を生じさせる点で,同人が有する思想及び良心の自由との間に一定の緊張関係を惹起させ,ひいては思想及び良心の自由に対する制約の問題を生じさせる可能性がある。したがって,本件職務命令と「思想及び良心」との関係を論じるについては,上告人が上記のような心理的矛盾・葛藤や精神的苦痛にさいなまれる事態が生じる可能性があることを前提として,これをなぜ甘受しなければならないのかということについて敷えんして述べる必要があると考える。」
 というように、多数意見が十分には触れなかった原告固有の思想・良心のあり様を検討の対象とする。しかし、原告の受け止め方の主観的深刻さを評価するだけで<歴史観や世界観>と不伴奏との結び付きを緊密なものと評価するわけではない。一方で、「行事の目的を達成するために必要な範囲内では,学校単位での統一性を重視し,校長の裁量による統一的な意思決定に服させることも「思想及び良心の自由」との関係で許されると解する。」そして、校長によって発せられた音楽専科教師を指定した伴奏命令を具体的検討なしに「合理的な選択」と評価している。
 また、「人権侵害に荷担することができない」という信条を含む思想・良心については、法廷意見とは異なり焦点を当てて検討を加えている。しかし、この原告の主張については敢えて「思想・良心」と括弧書きをしており、職務上の問題として、他の内容に比べて19条による保護の必要性を低く見た上で、学校単位の統一性・秩序を一層重視する立場から、学校の意思決定の前では受忍すべきものとされた。以下に引用する部分である。
「4 上告人は,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま,「君が代」を歌わせることは,教師としての職業的「思想・良心」に反するとも主張する。上告人の主張にかかる上記職業的な思想・良心も,それが内面における信念にとどまる限りは十二分に尊重されるべきであるが,学校教育の実践の場における問題としては,各教師には教育の専門家として一定の裁量権が認められるにしても,すべてが各教師の選択にゆだねられるものではなく,それぞれの学校という教育組織の中で法令に基づき採択された意思決定に従い,総合的統一的に整然と実施されなければ,教育効果の面で深刻な弊害が生じることも見やすい理である。殊に,入学式や卒業式等の行事は,通常教員が単独で担当する各クラス単位での授業と異なり,学校全体で実施するもので,その実施方法についても全校的に統一性をもって整然と実施される必要があり,本件職務命令もこの観点から事前にしかも複数回にわたって校長から上告人に発出されたものであった。〔39〕」

注〔39〕この点は、2011年6月14日の最高裁判決(「戒告処分取消等、裁決取消請求事件」)における同じ那須裁判官の補足意見では一層明瞭に語られることになる。そこでは「思想良心の自由についての間接的な誓約となるとなる面」を認定した起立斉唱行為についてさえ以下のように言明している。
「入学式ないし卒業式等における国歌斉唱に際し、生徒らに対し模範を示し指導することに関する点は、個人としての思想及び良心の自由というよりも,教師ないし教育者の在り方に関わる,いわば教師という専門的職業における思想・良心の問題とも考えられる。自らは国歌斉唱の際に起立して斉唱することに特に抵抗感はないが,多様な考え方を現に持ち,あるいはこれから持つに至るであろう生徒らに対し,一律に起立させ斉唱させることについては教師という専門的職業に携わる者として賛同できないという思想ないし教育上の意見がその典型例である。しかし,この職業上の思想・良心は,教育の在り方や教育の方法に関するものである点で,教員という職業と密接な関係を有し,これに随伴するものであることから,公共の利益等により外部的な制約を受けざるを得ない点においては,個人としての思想及び良心の自由よりも一層その度合いが強いと考えられる。したがって,生徒らに対して模範を示して指導するという点からも,制約の必要性と合理性は是認できるというべきである。」

*このブログの人気記事 2018・7・25

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原告側の弁論構成は19条論の焦点を曖昧にする――桃井論文の紹介・その7

2018-07-24 04:37:23 | コラムと名言

◎原告側の弁論構成は19条論の焦点を曖昧にする――桃井論文の紹介・その7

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その七回目。前回は、「(3) 最高裁判決-法廷意見・補足意見・反対意見」のうち、「① 法廷意見」の前半部分、今回は、その後半部分である。前半に引き続き、重要な指摘がなされている。各注にも注意されたい。

 法廷意見の引用を続けよう(下線と記号は引用者)
「(2) 他方において,本件職務命令当時,公立小学校における入学式や卒業式において,国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実でありa,客観的に見て,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものbであって,上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものでありc,特に,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合にはd,上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。」
 a-ここは、「広く行われ」るに至った「君が代」が行政側の執拗な圧迫のもと、多くの教員の抵抗を押しのけて実現したことが無視されている。全国の状況についてはは原告自身が言及している〔34〕し、南平小の状況は第1審第4準備書面や同僚の陳述書で明らかであるが、「広く行われ」るに至った経緯については弁護士の書面では十分な位置づけを与えられているようには見えない。全国的には、抵抗の主体となったのは日教組の学校単位の組織である。抵抗は<職員会議=最高議決機関論>や<現場教員の教育内容決定権説>を主要要素とする<国民の教育権>説が理論的よりどころとなっていた。弁護団が採用した、原告の伴奏拒否が儀式における<子供への強制>を成立させない決定的要素であるかのごとき弁論構成は、裁判所側の<すでに強制構造は基本的に成立していた>という事実認識の前では説得力を欠いている。
 b-長い軋轢の歴史を捨象して「広く行われていた」ことを所与とすれば、ピアノ伴奏が音楽専科の教諭等にとって通常期待されるもの」という判断はそう無理なものではない。しかし、そこには音楽専科をはじめとする多くの教師の抵抗と沈黙があったはずである。それは、人によっては最早語ることすら苦痛な記憶になっていたであろう。学校教育法上の<教育をつかさどる>教諭の職務権限及びその集団的表現である職員会議の総意と<校務をつかさどり、所属職員を監督する>校長の職権との対抗・複合関係を十分には焦点化しない弁論構成〔35〕の下では、採り上げにくい歴史である〔36〕。
 c-儀式の強制構造の完成とは、その強制性が外見的には消失してしまうことでもある。強制される当事者が<被強制>意識を意識下に押し込め、やがては<押し込めた>という記憶さえ忘却するのである。これは、すでにそれぞれの思想・良心を確立した成人である教師に特に言えることである。「君が代」の事実上の強制は、多くの子どもにとっては、学校ではありふれた<刷り込み><押しつけ>の一コマに過ぎない。したがって、人権侵害を意識するのは、子どもより教師である場合が多い。このようにして、現象的には「伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり」、逆に伴奏拒否することが「特定の思想を有するということを外部に表明する行為」となる。非イデオロギー的であることがすでに通念と化した行為については、「職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない」ということになる〔37〕。
 以上の2段をうけて、法廷意見は以下のように言明する(下線は引用者)。
「本件職務命令は,上記のように,公立小学校における儀式的行事において広く行われ,A小学校でも従前から入学式等において行われていた国歌斉唱に際し,音楽専科の教諭にそのピアノ伴奏を命ずるものであって,上告人に対して,特定の思想を持つことを強制したり,あるいはこれを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものでもなく,児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。
 最後の下線部は論証らしい論証はない〔38〕。学校の儀式的行事についての歴史的・構造的分析は原告弁護団の書面においては不十分な部分である。「日の丸」が焦点化されていないのはそれを象徴的に表している。ゆえに、最高裁としては特に反論的立証を必要としなかったのであろう。
 最後に、法廷意見によるまとめ(c)に関する部分を検討する。
「(4) 以上の諸点にかんがみると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえないと解するのが相当である。なお,上告人は,雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできないという思想及び良心を有するとも主張するが,以上に説示したところによれば,上告人がこのような考えを有することから本件職務命令が憲法19条に反することとなるといえないことも明らかである。」
 弁護団作成の準備書面は一貫して、「なお」以下下線部の原告の主張も憲法19条の保護範囲に入ると主張している。一方、前述した渡辺康行も佐々木弘通も19条論で扱うことには否定的である。儀式における伴奏が、個人の芸術的パフォーマンスとは言えないことから考えれば、法廷意見の処理は、論証はないものの、大きな不合理はない。この点での原告の主張ははむしろ、佐々木の言うように、専科教諭の専門的見識を無視してまで本人に伴奏させることに合理性がないという主張の中に組み込むべきことであるように思える。原告側の弁論構成は、かえって、19条論の焦点を曖昧にしてしまう。<下手に、非芸術的に>伴奏しても、原告本人にとっては<引き金を引いて加担する>ことには変わりない。

注〔34〕 2002.2.25本人意見書(『全資料』p74)
「「君が代」は明治時代、天皇をたたえるために作られた歌です。日本がアジアへの侵略戦争を押し進めるため、学校教育の中に持ち込まれ、儀式や修身をはじめとする教科により、皇民化教育をする道具として戦争を讃美する軍歌と共に使われた歴史的役割があります。
 本来、音楽は人の心を動かす大きな力を持っています。戦中は、このメロディーに言葉を乗せることで体にしみついていく音楽の力、また声を合わせて歌うことで昂揚する音楽の力を悪用したのです。
 戦後、反省に基づき憲法が制定され、教育基本法(10条1項)には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全休に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と定められました。
 しかし、1950年を境に「君が代」は政治的な力で学校教育の中に持ち込まれます。1987年沖縄、1996年北九州市、1999年広島(県立高校の校長の自殺)、2001年東京国立市。たくさんの処分者を出し、そしてついには人の命までも奪い、学校教育での実施率を上げてきました。
 国歌というだけで一人ひとりの心の有り様は問題にされることなく、こんなにも人を追いつめ、人が処分されてしまう。「君が代」は本来の音楽の姿から遠くかけ離れてしまっています。
 一方、東京都教育委員会は、1998年、管理運営規則を校長先生の権限を強めるために改正しました。これ以降、本来、教育行政が、憲法、教育基本法、世界人権宣言、国際人権規約、子どもの権利条約に基づき、自由な雰囲気の下で皆で創意工夫し、良い知恵を出し合って、民主的に行われるべきであるにもかかわらず、まるでそうはならず、かえって校長という職が、教育行政の上意下達のための単なる伝達機関になっています。職員会議においても、実際に子供にかかわる職員の意見をよく聞き、合意を図ろうとはせず、「聞くのは聞くが決めるのは私です」という校長先生をたくさん作り出しました。校長先生自身の教育理念であるなら、まだ話し合いになるのですが。
 そして、この「君が代」は、今また戦前・戦中のように人の心を束ね、また上からの方針に意見を言う者をあぶり出し、その良心を踏みつける道具として現れ、悪用されようとしています。」
注〔35〕上告理由書「第4 本件職務命令及びこれに基づく本件戒告処分は、教育公務員たる「教師」である上告人ら南平小学校教員の独立した職務権限(憲法23条)を侵害するものであるから、違憲無効である(甲195)」(『全資料』p501以下)では、個々の教師及び職員会議に集約される教師集団の職務権限を論じているが、「多様な個性や価値観を持つ子どもたち」との直接的関係に基づく面に偏した主張であって、憲法第23条を十分踏まえた主張にはなっていない。ここからは、前述したように、伴奏手段選択に関する音楽専科教諭の専門性が視野に入りにくい。
注〔36〕上告理由書では「君が代」と国家主義教育の歴史が戦前にさかのぼって言及されているが、戦後に学習指導要領によって学校儀式に導入される際の抵抗とその圧伏については触れられていない(『全資料』p468以下)。なお付言すれば、御真影や日の丸という他の重要要素をも考察の対象とした構造的把握は欠けている。
注〔37〕最高裁は、儀式での国歌斉唱を校長の命令で行う校庭清掃と同列に考えていると思える。
注〔38〕判決文の前段落で述べられている「本件職務命令当時、公立小学校における入学式や卒業式において、国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることは広く行われていたことは周知の事実であり」は単に事実を述べているだけである。

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弁護団は、原告個人に対する人権侵害を構造的に提示できなかった――桃井論文の紹介・その6

2018-07-23 01:05:04 | コラムと名言

◎弁護団は、原告個人に対する人権侵害を構造的に提示できなかった――桃井論文の紹介・その6

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その六回目。「① 法廷意見」の途中で区切ったが、それは、この区切りまでのところで、桃井さんがきわめて重要な指摘をおこなっているからである。

(3) 最高裁判決-法廷意見・補足意見・反対意見

① 法廷意見
 原告の思想・良心をどう捉えているか。立ち入って検討してみる。(2)-①で既に引用したが、再掲する(下線は引用者)。
「(1) 上告人は,「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており,これを公然と歌ったり,伴奏することはできない,また,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできないなどの思想及び良心を有すると主張するところ,このような考えは,「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができる。」
 ここでのポイントは「歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等」という部分である。<弾けない>という行為面での判断を「歴史観ないし世界観」「に由来」する」と構造づけているが、「歴史観ないし世界観」の内容が「「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており」という部分であろうことは容易に理解できる。しかし、それと「公然と歌ったり,伴奏することはできない」という信条との結びつきが果たして原告の思想・良心の理解としては正確か、少なくとも中心をとらえたものであるかは、検討の余地がある。原告自身の<弾けない>という信条は、むしろ「子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできない」という思想・良心(敢えて区別すれば「良心」)との結びつきが強い。<加担することができない>というのは<弾けない>と必ずしも同じではない。<弾くこと>が不正な行為に<加担する>ことになるがゆえに<弾けない>のである。それは、家庭でもない、楽曲紹介の授業の場面でもないまさしく<儀式>の場面においてのことなのである。下手くそであれ、心がこもってないものであれ、<儀式>の場面で原告が<弾く>ことは、不正義を<成立させる>ことではなく、不正義に<加担する>ことなのである。このように捉えると原告の思想・良心において思想(「君が代」についての歴史観・世果観)から<弾けない>という行為の判断への流れは極めて自然でわかりやすくなる。
 判決の展開をさらに検討しよう(下線は引用者)。
「しかしながら,学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否することは,上告人にとっては,上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできず,上告人に対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が,直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべきである。」
 「学校の儀式的行事において「君が代」のピアノ伴奏をすべきでないとして本件入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴奏を拒否すること」というように<歴史観ないし世界観>に由来する行動判断をまとめているが、「学校の儀式的行事において」という部分にこそ、単なる行動判断の内容にとどまらない思想・良心の中核部分が含まれていると思えるのであるが、法廷意見はそこには気づいていないようだ。「君が代」の歴史についての<歴史観や世界観>はそれが<侵略戦争・国家主義に利用された否定的歴史を持つ>という内容であるならば、それは<弾けない>一般には強固には結びつかない。その意味では、「歴史観ないし世界観・・・・と不可分に結び付くものということはできず」という判断はそれなりに説得的でさえある。
 また、原告の思想・良心をそのような構造において、「上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろう」と事実判断をしても、原告自身における必然性・不可分性は最高裁にとっては了解不能である、というのが法廷意見の立場である様にも読み取りうる。その意味では、多数意見に対する<思想・良心の個別的検討が必要である>という決まり文句の批判はあたらないという見方も可能である〔32〕。
 ひるがえって、原告の認識にもとづけば、「学校の儀式的行事において」という場面限定に対して、<国家主義刷り込みの場になってしまった>という一節がこの前部の位置にに補足できよう。さらに、「「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており」についても、<学校を通じて子どもたちに軍国主義・国家主義をすり込むための道具となった>という一節をこの後部の位置に補足すれば、原告の歴史観をより正確に表現することができるのではないか。また、<音楽は「人の心を幸せにし、心を解放するものであって」、国家主義のために利用されてはならない>という<世界観>も原告自身の文章から読み取れる。これらの原告自身の思想と、以下のような職務の場における固い信条との結びつきは十分に了解可能なものである。すなわち、それは<自己の生きる証としてきた職業において、自己の歴史観・世界観からは否定されるような不正な業務には、少なくとも自己自身は、従事したくない>という個人としての譲れない一線についての信条である。原告の思想・良心を以上のように把握すれば、法廷意見が採り上げる<歴史観ないしは世界観>とは―それが問題発見にあたって大きな役割を果たしたとしても―区別できる別個の<歴史観・世界観>と行動判断との、不可分な、自然な、他者にも了解可能な結びつきが見えてくるのである〔33〕。その意味では、「本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めること」すなわち不正な公的行為に加担することを求めること「を内容とする本件職務命令が,直ちに上告人の有する上記の」<歴史観・世界観>「それ自体を否定」し(または維持しがたくして)人格的同一性の維持を困難ならしめる「ものと認めること」ができるのである。
 最高裁は、事前に義務免除を2回申し出て、さらに職務命令違反の告発をも引き受けた原告の<加担できない>という判断に人格と一体化した深い思想的根拠を想定することはできたはずである。それができなかったのは、原告弁護側の弁論展開の性格にもその一因がある。弁護団は、蓋然性にとどまる<子供の人権侵害>に過度の重点を置き、原告個人に対する人権侵害を十分に構造的に提示できなかった。個人としての自己同一性しか守るものがなくなったという原告の瀬戸際の状況を的確に捉えきれなかったのである。【以下、次回】

注〔31〕『全資料』p501
「第4 本件職務命令及びこれに基づく本件戒告処分は、教育公務員たる「教師」である上告人ら南平小学校教員の独立した職務権限(憲法23条)を侵害するものであるから、違憲無効である(甲195)」
各項目は
「1 単なる個人でない教育公務員たる「教師」としての独立した職務権限の保障
2 本件入学式における「君が代」斉唱の伴奏に関し、上告人ら南平小教員の(個人でない)「教師」としての職務権限が保障されていること
3 本件職務命令が上告人らの「教師」としての職務権限を侵害すること
4 まとめ 」
注〔32〕したがって、最高裁にとっては、職務命令の合憲性・合法性の判断はそれだけハードルが低いものでよいということになる。
注〔33〕既に引用したものと重複する部分もあるが、以下の第1審最終意見書の文章から、以上の点は読み取れる。
「 私は、これまで子どもたち一人ひとりの可能性を信じ、一人ひとり違う、その存在を認め合える音楽室や学校にしたいと教育にかかわってきました。憲法、教育基本法、子どもの権利条約などに則り、個人の尊厳、基本的人権を認め、そして何よりも平和を大切にする教育をしたいと考えてきました。また、音楽とは、一人ひとりにとって良いものであって欲しい、人の心を幸せにし、心を解放するものであって欲しいと思ってきました。
 私にとって、音楽を聴き、演奏することば、日々の生活の中で、なくてはならないものです。そして、子どもたちが、楽しそうに歌ったり演奏したりする時間を共にすることは、私が音楽の教師を続けていることの大きな理由であり、喜びでもあります。この裁判の中でも述べてきましたが、「君が代」の歴史的な役割、使われ方は、私にとっての音楽そのものの意味を冒涜するものです。そして今また、人の心を束ねるために、教育の中で使われようとしています。音楽や教育が、国家主義をすすめるために利用されることば、私の音楽への、教育への想いに反することです。その上、「君が代」は、音楽的にも全く認めることのできないもので、ピアノ伴奏をいくら強制されても、教師として、音楽に関わるものとして、この曲を弾こうという気持ちになれません。むしろ、弾けないのです。」(『全資料』p130)

*このブログの人気記事 2018・7・23

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「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その5

2018-07-22 03:42:54 | コラムと名言

◎「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その5

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その五回目。

C、 最高裁法廷意見の論点(c)に関して
 この点も本人尋問陳述書 (2003.5.22)に詳しい。原告Fによれば、「君が代」は、音楽的側面からは、雅楽の旋律にドイツ和声の伴奏をつけたという極めておかしなものであって、さらにそれを平均律のピアノで演奏することが非常に不適切であることは音楽を勉強してない人であっても極めて容易に感じられるという〔28〕。この原告Fの判断は、校長が尊重しなければならない専科教諭の専門性に基づくものであって、少なくとも原告F自身に伴奏させることは避けなければならない。これは、法令上は、憲法23条及び学校教育法第28条⑥「教諭は児童の教育をつかさどる」(現行は第37条⑪)を、また、判例上は、学テ判決を根拠に主張できることである〔29〕。長くなるが、この点についての原告Fの主張を引用すると以下である。
「 4 「君が代」について
(1)音楽的な側面から
 詳細については、すでに提出済みの川島氏の評論「『神の国』が制定した、自国の 文化を蔑む『国歌』」と、第1準備書面をご覧いただければと思います。それ以外にも参考資料として、「『君が代』指導、避けられぬ」(2000.1.31朝日新聞)と丘山万里子氏の「国歌『君が代』を考える」(上)(下)、「君が代の季節に」その1、その2、をご覧いただければと思います。
 「君が代」は、明治時代、「天皇陛下ヲ祝ス楽譜改訂ノ儀上申」により、宮内省雅楽課の林広守らにより作曲され、ドイツ人エッケルトが和音を付けたもので、雅楽の旋律にドイツ和声の伴奏を付けたという、音楽的には、極めておかしなものです。さらに、それを平均律のピアノで演奏するということは、繰り返しになりますが、音楽的には、非常に不適切で、大変に気持ちの悪いものです。これは音楽を勉強された方であれば当然、そうでない方でも極めて容易に感じられることだと思います。
 また、メロディーと歌詞の不一致についても、申し上げている私としても大変残念 なことなのですが、故・中田喜直氏も率直に言及されているように、歌としては出来の悪いもので、子どもたちの音楽的感性を育てるために歌う教材としてふさわしいと言えるものではありません。元々雅楽には、唱法はありません。「君が代」を、日本という国とその伝統文化を象徴とする国歌とするのであれば、雅楽の伝統に則って、歌詞をなくし雅楽の演奏のみ(奏楽)にする必要があるということになります。」〔30〕
 ところが、原告側書面では意外なことに、学校教育法を援用するところが少ない。上告理由書では原告の独立した職務権限を憲法23条と学テ判決に加えて学校教育法第28条も援用して主張している部分がある〔31〕。しかし、それと専科教諭の専門性を最も尊重しやすいはずの楽曲と伴奏方法の適否の問題との結びつきが不明確である。【以下、次回】

注〔28〕同趣旨の見解は「川島素晴(作曲家)意見書」により詳しく展開されている(『全資料』p293以下)。
注〔29〕「専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。」
 法廷意見はこれとは異なって、憲法19条に関わる主張として把握している。
注〔30〕『全資料』p80

*このブログの人気記事 2018・7・22(ズビスコは久しぶりの登場)

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