礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『善の研究』を執筆していた当時の西田幾多郎

2013-09-25 04:41:26 | 日記

◎『善の研究』を執筆していた当時の西田幾多郎

 昨日に続き、本日もアテネ文庫『わが父西田幾多郎』から。
 同書に収められている上田弥生の「あの頃の父」に、次のような一節がある(五三~五四ページ)。

 私は最後に「善の研究」の事を一寸〈チョット〉書かせて戴く。私の家では昔は客間に、私の娘の頃は母の室〈ヘヤ〉の床〈トコ〉にいつも「一日不作一日不食」〈イチジツナサザレバイチジツクラワズ〉と言ふ軸が懸かつて居た。本当に私達の父は一日考へざれば喰はざる様な人であつた。親類の交際や出入りの事は皆母や祖母がする。子供は幾人あつても父は一日読み一日考へて居た。よく大きな声で独逸語の本を読むのが聞えて来た。二歳違ひの姉と弟とは、遠く離れた大座敷の縁側〈エンガワ〉で、現具を並べながら、口真似をして頸〈クビ〉をちぢめて笑つた。父の書斎には少し大型の机があつて、四高の独逸人教師が帰国後に贈つて呉れた、父が朝晩眺めて大切にしてゐる宰相時代のゲーテの石膏像があり、それに並んで筆立が載つて居た。私達は時々、石版〈セキバン〉の石筆が折れて了ひ、一本づつ貰つて蔵つて〈シマッテ〉ゐる筈の鉛筆も見えなくなると、そつと父の室へ鉛筆を借りに行つた。父の鉛筆は生地〈キジ〉のままをした鷲じるしの百四十と定つてゐた。二三本位立つて居たが、皆先が円かつた〈マルカッタ〉。――其後も父の錯筆に先が尖つて〈トガッテ〉いたためしが無い。――折角〈セッカク〉借り出して来ても先をなめなめ書かなければ用をなさなかかつた。父の室〈ヘヤ〉に這入る〈ハイル〉と直ぐ〈スグ〉左手に床と並んで硝子〈ガラス〉のはまつた木紺があつた。硝子の嵌つた〈ハマッタ〉書棚など全く其の頃は珍しい物で、父はそれをわざわざ注文してこしらへて、大切にして居た。父の室を覗いて見ると、縁側に向つて机の上に、生漉〈キズキ〉の上等の半紙が二つ折りになつて居て、某上に何か毛筆で書きかけてある事が多かつた。下に格子の下敷〈シタジキ〉を敷いてあるから字は活版の様に整然としてゐた。不思議に思つて母に聞いて見ると、「あれはお父さんが毎日書き貯めて、いまにすばらしいよい本が出来るんですよ。」と言ふ。父は兼々〈カネガネ〉祖母や母に、「著書は四十歳を過ぎてからにする。三十代では本は出さぬ。年取つてから本を一冊遺せ〈ノコセ〉ばよい。人間は六十一まで生きたら結構だ。」などと言つて居るのを幼い耳に聞いた事があるから、あれがお父さんの四十を過ぎてから出すと言ふ本になるのかなと思つて、時々拾ひ読みをする事がある。読める仮名は口で書いてあつたので不思議であつた。小学校の読本でも初め少しを除いては文語であり各種の著書は勿論、新聞も、雑誌も、皆文語と言ふ時代に、父は口語で本を書いて居た。書きためて大分厚くなると表紙を付けて大切に硝子の本箱に蔵ふ〈シマウ〉。父は本を読むか、結跏趺坐〈ケッカフザ〉の姿勢で目をつぶつて、足の先を貧乏振ひさせながら考へて居る時の外は、この半紙を前に置いて、書いたり、読んだり、消したりしで居た。そして書き損ねると、サッと破いてくるくる捻じて〈ネジテ〉机の下の紙屑箱へ捨てる。楽しさうでもあり、苦しさうでもあり、とにかく父は此仕事をたゆまずうまず長土塀〈ナガドヘ〉時代ずつと続けて居た。

 これは、西田幾多郎が、金沢で第四高等学校教授を務めていたころの話である(一八九九~一九〇九)。それにしても、なかなかの名文だと思う。
 最後に出てくる「長土塀」というのは、金沢市内の地名で、これは、かつては武家屋敷が並んでいたところだという。
 文中、「鷲じるしの百四十」という鉛筆のことが出てくるが、これは、アメリカのイーグル社製の「140番ペニー鉛筆」のことだと思われる。この鉛筆は、業者によって「白軸鷲印ノ鉛筆」と呼ばれており、当時の輸入鉛筆の中では、最も廉価なものだったらしい。こうしたことも、今では、インターネットで、すぐ調べられるのはありがたいことだ(これらについては、主として「鉛筆の収集と研究」というブログの二〇一〇年四月八日記事を参照させていただいた)。

今日の名言 2013・9・25

◎人間は六十一まで生きたら結構だ

 西田幾多郎の言葉。彼はかねがね、家族にこう言っていたという。上記コラム参照。「六十」と言わず、「六十一」と言ったところが興味深い。なお、1870年6月17日生まれの西田幾多郎は、1945年6月7日に世を去った。満75歳の誕生日を迎える直前だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西田幾多郎と夜間動物園

2013-09-24 08:51:50 | 日記

◎西田幾多郎と夜間動物園

 日本を代表する哲学者の西田幾多郎〈ニシダ・キタロウ〉は、動物が好きで、動物園にゆくことも好きだったらしい。
 アテネ文庫の『わが父西田幾多郎』(弘文堂書房、一九四八)は、西田静子、上田弥生の共著であるが、上田弥生は西田幾多郎の長女、西田静子は三女にあたる。そこには、西田静子の「父」、上田弥生の「あの頃の父」というふたつの文章が収録されている。
 ちなみに、西田幾多郎の長女・弥生は、裁判官の上田操に嫁した。上田操については、本年六月一四日の当コラムで紹介したことがある。
 本日は、西田静子の「父」から、西田幾多郎と動物園にまつわるエピソードを引用紹介してみよう(二二~二三ページ)。

 父は動物園が好きで、よく私を連れて動物園へ出かけることがありました。小さい妹達は足手まとひになるとみえ、外で遊んでいると女中がよく私の好きな緑に藤の花の模様のあるメリンスの着物と赤いチリメンの兵児帯〈ヘコオビ〉を持つてきて御所のかげで着変へさせ、玉突き屋の石橋のところで父を待たせました。こういうときの父はとても上機嫌で、駱駝〈ラクダ〉にお芋をやつたり鶴に鰌〈ドジョウ〉をやつたり、猿やライオンの檻〈オリ〉の前に楽しい半日を過すのでした。帰りは出口の所十銭二十銭の小犬、ライオン、ニハトリ、アヒル等の形をした瀬戸物の玩具をねだりますが父はニコニコと機嫌よく買つて呉れたものでした。
 私達の幼い頃は夜間動物園というものがあって、その時は父はよく必ず私達を連れて行つて呉れました。大勢の人混みで小さくて見えない私を、いつまでも抱いて終りまでみせて呉れました。父はカメレオンの姿が大きく写つて虫を取つて食べるところをみて大変面白がつて
「カメレオンが虫を取つて食べるよ」
と注意して呉れたものです。
 母が亡くなつて十年ばかり父は動物園へ出かけることもありませんでしたが、孫の幾久彦〈キクヒコ〉がヨチヨチと歩いて動物園を喜ぶ様になりました頃から、また幾久彦や私達を伴つて出かける様になりました。七十を越してからのことです。こんなこともありました。新聞に、駱駝と縞馬〈シマウマ〉に赤ちやんが生れたと出てゐましたので、
「父様〈トウサマ〉も見にゆかない」
と申しますと、無言で皆と一緒になつてついて来ます。けれど実はちやんと私達よりも先に動物園に来てみていたのです。動物園に入ると父はさつさと皆より先に歩いて此処に駱駝がいる、彼処〈アソコ〉に縞馬がいると、案内して呉れるのです。
「父様もうみにいらしたの」
というとニコニコして笑つてばかりなのです。

 ここでいう「動物園」とは、一九〇三年(明治三六)に、日本で二番目の動物園として開業した京都市動物園のことであろう。
 また、「孫の幾久彦」とは、西田幾多郎の次男で物理学者の西田外彦〈ソトヒコ〉の長男、西田幾久彦氏(日本ゴルフ協会理事)のことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「成果主義」が消滅した(?)2005年

2013-09-23 03:47:05 | 日記

◎「成果主義」が消滅した(?)2005年

 数日前、高橋伸夫氏の『虚妄の成果主義』が、二〇一〇年に、ちくま文庫に収められていたことに気づいた。その巻末には、同氏による「文庫版への補論」という文章が載っている。
 本日は、その一部を紹介してみたい。高橋氏は、この本を書くに到った経緯について触れたあと、次のように書いている。

 その意味では、二〇〇四年という年は画期的な年だったといえるのではないだろうか。『虚妄の成果主義』が出版された二〇〇四年一月は、成果主義ブームのピークだった。しかし、夏頃までにはマスコミの論調は成果主義に対してネガティブ一色になる。これは本書のおかげ……ではなく、その頃までには、さすがに現場でも、成果主義の間違いに気がついていたということなのである。
 笑い話のような語だが、最初「成果主義特集」を組もうと取材を始めた某雑誌が、取材を進めていくうちに、結局、成果主義は失敗した特集になってしまったというのもこの頃の話である。成果主義を売り込んで業績を伸ばしてきた外資系コンサルタント会社も、当時はさすがに仕事が減り、こともあろうに社歴の浅い順に(これって年功序列?!)、コンサルタントの減給やリストラを進めているとのタレコミ情報を何度も耳にしたが、まるでブラック・ジョークである。
 そして十二月には、これまで成果主義の旗振り役を果たしてきたはずの日本経団連の『経営労働政策委員会報告』二〇〇五年版が出版されると、その本文中から「成果主義」という文字が消えていた(ただし、参考文献の書名の一部には残っている)。
 少なくとも二〇〇五年以降、成果主義のマスコミ取材は会社側から拒否され続け、マスコミ関係者は愚痴をこぼしていた。もはや、成果主義だと胸を張れるような会社は残っていないのである。

 若干、コメントする。成果主義の成果をめぐって、「二〇〇四年という年は画期的な年だった」というのは、その通りである。
 ただし、そのことを指摘するのであれば、同年七月に、城繁幸氏の『内側から見た富士通 「成果主義」の崩壊』が刊行されたこと、同年一二月に、アベグレンの『新・日本の経営』が刊行されたことについても、言及すべきであった。特に、成果主義に対するマスコミの論調が「ネガティブ一色」になったことについては、城氏の本の影響が大きかったのではないだろうか。ちなみに、城氏の本は、富士通の成果主義が破綻した経緯について報告した本であるが、城氏自身は必ずしも成果主義否定論者ではない。
 もう一点。二〇〇五年以降、「もはや、成果主義だと胸を張れるような会社は残っていない」というのはその通りなのだろうが、東京都などの地方自治体については、このことは言えない。東京都を例にとれば、二〇〇二年度から、管下の職員に対して「業績評価」と呼ぶ人事考課システムを導入し、今にいたっている。東京都は、そのシステムに胸を張っているし、それを改めるような気配はない。このことを一体、どのように理解したらよいのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三たび「日本の経営」を論じたアベグレン

2013-09-22 04:38:05 | 日記

◎三たび「日本の経営」を論じたアベグレン

 高橋伸夫氏は、その著書『虚妄の成果主義』のなかで、アベグレンの『日本の経営』を高く評価している。昨日は、『虚妄の成果主義』の第2章にある文章を引いて、そのことを確認した。
 本日は、同書の第1章にある文章を引いて、再度そのことを確認したい。高橋氏は、アベグレンが『日本の経営』(一九五八)の一節を引いた上で、次のように述べている(三八~三九ページ)。

 この文章は、バブル崩壊後の日本で声高に主張されている終身雇用や年功賃金に対する否定的な評価を要約しているように見えるかもしれない。しかし実は、この主張は、今から半世紀近くも前に書かれていたものだ、と聞いたら驚くに違いない。しかも、これは予言でも何でもない。これはアベグレンの書いた有名な『日本の経営』(Abegglen,1958)に書かれていた内容だったのである。その第7章「日本の工場における生産性」では、このように生産性に関連した終身雇用や年功賃金に対する否定的な見解が述べられていたのだ。
 ところがこの評価は、1950~60年代の日本の高度成長期を挟んで劇的に転換する。日本経済の高度成長を目の当たりにすると、生産性に関するこの否定的な見解は、アベグレンがその新版として著した『日本の経営から何を学ぶか』(Abegglen,1973)では、章ごと完全に削除されることになる。この新版は、旧版を第二部とした三部構成で出版されたが、その際、旧版第7章は章ごと完全に削除されたのだった。
 そして、こともあろうに、新たに付加した第一部「70年代における日本の終身雇用制」では、「日本の終身雇用制が非常に大きな強みをもっているにもかかわらず、それは非能率的であり、実際にはうまく働かないと西欧では一般的にみられている」ために西欧中心主義に陥りやすいのだと見解を180度転換してしまう。そして、まず年功賃金であるために、学卒者を多数採用する成長企業は人件費を引き下げると同時に最新の技術教育を受けた人材を確保でき、しかも終身雇用のため、学卒者は慎重に成長企業を選択するというように、成長企業には有利なシステムになっているとする。さらに終身雇用と企業別組合のおかげで、日本企業は労使関係に破滅的なダメージを与えることなく、企業内の配置転換によって、急速に技術革新を導入できたというのである。こうした評価の逆転の歴史はまた繰り返されるのであろう。
 さらに驚くべきは、評価自体が二転三転する中でも、アベグレンをはじめとする研究者達の描いてきた日本企業、特に大企業の姿が、現在に至るまでの半世紀の間、ほとんど変わっていないという事実なのである。そして、もう一つ強調しておかなくてはならない事実は、実は『日本の経営』の中では、アベグレンは「終身雇用」(lifetime employment)という用語ではなくて、「終身コミットメント」(lifetime commitment)を用いていたということである。アベグレンの観察力は鋭い。実態から考えても、終身雇用というよりもこちらの方が正確だと思われる。『日本の経営』については第2章でより詳しく触れることにしよう。

 ここで高橋氏は、「終身雇用」に対するアベグレンの評価が「二転三転」していることを指摘している。すなわち、氏のアベグレンに対する論評には、かなり「辛辣」な部分がある。にもかかわらず氏は、最後のところで、「アベグレンの観察力は鋭い」としていると認めざるを得なかったのである。
 さて、高橋氏の指摘によれば、アベグレンが一九七三年に出した『日本の経営から何を学ぶか』(Management and Worker:The Japanese Solution)は、一九五八年の『日本の経営』の「新版」にあたるという。ということは、二〇〇四年の『新・日本の経営』(日本経済新聞社)以前にも、アベグレンは「新版」を出していたのであり、『新・日本の経営』は、三度目の新版ということになるわけである。
 ところが、『新・日本の経営』を翻訳した山岡洋一は、同書の「訳者あとがき」において、一九五八年における新版にはまったく触れず、『新・日本の経営』が、いかにも五〇年ぶりの新版であるかのように解説している。今さら言っても仕方がないことだが、やはりこれは、褒められたことではないと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋伸夫氏はアルグレン『日本の経営』をどう見たか

2013-09-21 04:40:26 | 日記

◎高橋伸夫氏はアルグレン『日本の経営』をどう見たか

『虚妄の成果主義』(日経BP社、二〇〇四)の著者である高橋伸夫氏は、アベグレンの『日本の経営』(ダイヤモンド社、一九五八)をかなり高く評価している。『虚妄の成果主義』の第二章から引用してみよう(七七~七九ページ)。

 アベグレンは、非欧米国でしかも一貫してアジア的なものを残していながら、当時既に工業国といえるようになっていた日本に注目した。1995年から1956年にかけて日本の19の大工場と34の小工場を訪問調査し、その結果を基にして著したのが『日本の経営』であった。1958年のことである。原題はThe Japanese Factoryつまり『日本の工場』だった。この『日本の経営』は、原著でわずか150ぺージほどしかないコンパクトな本であったが、日本的経営に関する海外の文献でこの本を引用しないものはほとんどないというほどの記念碑的業績になったのである。
 まずアベグレンは「米国式の組織および管理の制度は、工業化に対する数個の可能な方式の一つをなすにすぎない」(「日本語版への序」)と考えた。実際、当時から、日本の工場では、組織等が欧米とは著しく異なっていたらしい。しかし、その事実にほとんど何の注意も払われないままに、欧米の生産方式や機械がそのまま導入されているのは、おかしいというわけである(Abegglen,1985,ch.1)。
 そしてアベグレンは、米国の工場との決定的な違いとして、日本でみられる「終身コミットメント」に着目する。これは、日本の工場では、雇い主は従業員の解雇や一時解雇をしようとしないし、また従業員も辞めようとしないということを指している。それに対して、米国の会社では、逆に高い移動率は望ましいものと考えられていた。
 ただし、終身コミットメントがあるために、そのままでは、日本の工場は景気変動や需要変動に適応できなくなってしまう。そこで、環境の経済的・技術的変化に対するバッファーとして、日本の工場では、現在でも広く観察される次の二つの方法が既にとられていたという。
 ①終身的な正規の従業員の他に臨時工員を利用する。
 ②大工場に結合した形で、かなりの子会社、関係会社をもち、下請けが行われている。下請けは時には親会社の工場内で行われている。
 これはどちらも現在もみられる方法である。今でも日本の工場では、終身コミットメントがあることの証拠であろう。工場をちょっと見ただけではわからないが、②の後半部分、すなわち親会社の工場内での下請けもよく用いられる方法である。実際、ある企業の一つの工場の建物の中で、一つの生産ラインに何社もの下請企業の従業員が張り付いて仕事をすることは、ごく普通に行われている。これを「内注」と呼んでいる会社もあって、雰囲気がよく出ている。バブル期に日本国内の工場が極端な労働者不足になって、外国人労働者を雇い入れた際も、多くの日本企業ではこの方式がとられていた。つまり、正確には外国人労働者は下請け企業の従業員として雇われており、下請け企業が丸ごと工場に働きに来ていたのである。
 いずれにせよ、アベグレンによれば、こうして、この終身的なコミットメントは、求人や採用の制度、動機づけと報酬の制度との間に相互に密接な関係をもっており、まさに日本の工場組織全体の基本的な部分をなしていると指摘するのである(Abegglen,1985,ch.2)。【以下略】

 昨日も述べたように、高橋氏の『虚妄の成果主義』は、鋭い問題提起をおこなって、話題になった本である。その本のなかで、アベグレンの『日本の経営』は、このように高く評価された。そのことが、アベグレンに、『新・日本の経営』の執筆を促した可能性も、完全には否定できないと思う。【この話、もう少し続く】

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする