礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西田幾多郎、弟子の岡野留次郎に電報を打つ

2013-09-26 03:37:55 | 日記

◎西田幾多郎、弟子の岡野留次郎に電報を打つ

 昨日に続き、本日もアテネ文庫『わが父西田幾多郎』所収、上田弥生の「あの頃の父」から。そこに、次のような一節がある(四三~四四ページ)。

 これは秋の頃、二百十日か二十日の頃であつたらうか、とても雨風が烈しくて朝からひどく曇つて、室内は電灯をつけてゐた。お昼頃父の見てゐる濡れた郵便物の中に、岡野留次郎さんの手紙が出た。病気療養の為郷里に帰つていらした岡野さんが、工科学院の先生になる御約束が出来て、近日出発すると言ふ知らせであつた。父の驚きは大変であつた。「あの弱い岡野が気候の悪い満洲へ行つたら死んで了ふ。」と居ても立つても居られず心配するのであつた。今から電報なら間に合つて思ひ止まらせる事が出来ようと云ふ事になつたが、さあこの風雨の中を誰が電報を打ちに行くだらう。弟達も困るなあと言ふ。母はちらと女中室〈ジョチュウベヤ〉の方を見たが遠慮して言ひ兼ねて居る。「お父さん私が行きませう。」父思ひの私は勇しく此の使者を申し出た。私は父の書いた頼信紙を左手に握りしめ、気の毒さうにいたはる母の声をあとにして家を出た。途中何度も傘をくるくる廻され、遠慮の無い雨は裾から下着を通して肌までぬれて来る。あたりは黒い雲が降りて、犬ころ一つ通つて居ない異様な町を、私は一本の傘を頼りに、弟子を思う父の真情に感激して目頭〈メガシラ〉を熱くしながら出町〈デマチ〉の郵便局にたどり着いた。帯のあたりまでびつしより濡れて気持が悪かつたが、岡野さんに無事電報が打てた時は嬉しかつた。忘れられない思ひ出である。そんなに父が心配したのではあつたが、岡野さんはやつぱりその時の都合で満洲へいらした。御体〈オカラダ〉にもさして障〈サワリ〉が無かつたと見えて、其後大阪高校の教授になり、今は台湾大学の教授をなさつていらつしやる。御本人は夢にもあの電報の事情を御存じないと思ふ。

 この出来事は、西田幾多郎が京都にいたときのことである。おそらく、一九一九年(大正八)の九月上旬のことであろう。というのは、京都帝国大学における西田の教え子・岡野留次郎が、旅順工科学堂(旅順工科大学の前身)に赴いたのは、一九一九年のことだったという情報があるからである。ちなみに、旅順は関東州の港湾都市で、気候は冬の厳寒と夏の酷暑がなく、人に適しているとされている。しかし西田はそこを「気候の悪い満洲」と思いこんでしまった。弟子を思う忠告も、実は誤解に基くものだったと言えそうである。
 岡野留次郎の経歴を、関西大学関係のインターネット記事から引用しておく。

 明治24年(1891)4月10日和歌山県橋本に生れる。大正2年、広島高等師範学校を卒業し、京都帝国大学文科大学哲学科に入学、大正5年に卒業。直ちに大学院に進む。 
 大正8年、旅順工科学堂を振出しに松山高等学校・大阪高等学校の教授を歴任。昭和3年、文部省の在外研究員として哲学研究のため約1年間欧米に留学。帰国後、昭和10年、台北帝国大学の教授となり、昭和17年、同大学の文政学部長を務めた。
 昭和21年、関西大学講師となり、昭和23年、教授に就任。昭和25年、福島四郎学長(事務代行)の後を受けて、学長に就任。更に昭和33年、岩崎卯一学長の後を受けて、再び学長に就任した。昭和37年、定年で退職したあと、名誉教授の称号をうけた。退職後、甲南大学の教授となる。昭和54年(1979)11月25日没した。88歳。自叙伝「わが信仰と模索の生涯」がある。

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