◎なぜ森永太一郎は、落とした手帳にこだわったのか
昨日の続きである。森永製菓の創業者・森永太一郎の回顧録「今昔の感」から。森永太一郎は、一八八五年(明治一八)九月に、箱根路で財布と手帳を落としたが、三二年後の一九二七年(大正六)六月になって、そのことが気になり、落とした場所である錦田村(にしきだむら)の村長宛に、探索を依頼する手紙を書いた。本日は、その手紙の後半。
其後愚生数年を米国に送り、明治三十二年帰朝の後も、往時を懐ひ〈オモイ〉て坐ろ〈ソゾロ〉旧恩を偲ぶ毎〈ゴト〉に、函嶺の遺失を悔まぬことゝて無之〈これなく〉候ひしが、業務は愚生を寸暇に置かず、歳月怱忙として終に〈ツイニ〉今日に至り申候
愚生先般来微恙〈ビヨウ〉を葦ノ湯に養ひ、一日、駒ケ岳に登りて西方を望めば、塚原、三ツ谷、笹原あたり往昔〈オウゼキ〉鶏犬の声さへ稀なりし寒村の、今は人煙饒か〈ニギヤカ〉の打靡き〈ウチナビキ〉て、聖代の余沢、洵に〈マコトニ〉隔世の感に堪へざるもの有之〈コレアリ〉候
愚生の業務も今漸く人に知られて、世間の高庇〈コウヒ〉を深く心に刻むと共に、また溯りて明治十八年の秋、旅愁に受けたる駅路の旧恩忘れんとして忘れ得ぬものに有之候
あはれ彼の〈カノ〉手帳だに候はば、書を通はし手を握りて愚生晩年の情を遣る〈ヤル〉べきを、当年一時の遺失は畢竟〈ヒッキョウ〉愚生百年の遺失と相成〈アイナリ〉候こと、返す返すも遺憾千万に候
地図を案じて当時を偲ぶに、塚原より笹原かけて右手〈メテ〉の沿道かの出茶屋かの玉蜀黍畑、今ありやなしやは存ぜねど、畑の主にして手帳と財布を拾ひたる古老候まじくや、財布は色既に褪せたる頚かけ紐つきの麻の財布にして、愚生の姓名を記したるやに記憶いたし候、手帳は道中の事どもを書き、人の名あまた留めて候
右は洵に愚生晩年の念願、茲に貴台に訴へて探索の御援助を請はんと致し候へど、省れば愚生不幸にして未だ披雲の栄を得ず、然かも斯く非礼を敢てするものは思ひ内に余ればに御座候
幸にして今尚ほ〈ナオ〉之れを蔵むる〈オサムル〉家の候はゞ、寸謝を致して報ひ申したく、冀く〈コイネガワク〉ば貴台、愚生の衷情を沿道に伝へて一臂〈イッピ〉の力を惜まれざらんことを 頓首
大正六年六月十一日 森永太一郎
伊豆国田方郡錦田村々長殿
この手紙を出したとき、森永太一郎は、すでに五三歳。文中に「晩年」とあるように、当時の観念としては、すでに「老境」にあったと言える。
たまたま、箱根葦ノ湯に逗留し、かつて、このあたりで財布と手帳を落としたことを思い出すとともに、これまでの苦難の人生を振り返り、感傷的な気分に浸ったのであろう。
それにしても、なぜ森永太一郎は、失くした財布と手帳にこだわったのだろうか。この理由を考えることは難しくない。
三二年前、財布と手帳を落とした森永太一郎は、本当はそれを探すために、道を引き返すべきだったのである。しかし彼は、そうしなかった。戻ってトウモロコシ畑を探しまわっていれば、畑の持ち主に不審の眼で見られ、トウモロコシを盗んだこともバレてしまう。そう考えて、戻るのを断念したのであろう。
戻らなかったのではなく、戻れなかったのである。彼は、その後悔を引きづったまま、三二年間生きてきて、結局、その後悔が、こういう手紙になってあらわれたのであろう。
今日の名言 2013・9・14
◎非礼を敢てするものは思ひ内に余ればに御座候
森永太一郎の手紙に出てくる言葉。非礼を詫びるとともに、みずからの「思ひ」の強さを強調する巧みな言い回しである。上記コラム参照。