礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

砒素ミルク事件発生当時の森永の乳製品

2013-09-17 09:14:11 | 日記

◎砒素ミルク事件発生当時の森永の乳製品

 森永製菓株式会社を発行元とする『森永五十五年史』は、一九五四年一二月に刊行された。
 森永製菓株式会社の直系会社である森永乳業株式会社製の粉ミルク「森永ドライミルク」による重大な中毒事件、いわゆる「森永砒素ミルク事件」が浮上したのは、一九五五年六月のことであった。
 したがって、『森永五十五年史』には、「森永砒素ミルク事件」のことは、一切出てこない。
 ウィキペディアによれば、「森永砒素ミルク事件」とは、次のような事件であった。

 森永乳業は、1953年(昭和28年)頃から全国の工場で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として、第二燐酸ソーダ(Na2HPO4)を粉ミルクに添加していた。試験段階では純度の高い試薬1級のものを使用していたが、本格導入時には安価であるという理由から純度の低い工業用に切り替えられていた。1955年(昭和30年)に徳島工場(徳島県名西郡石井町)が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた第二燐酸ソーダに、多量のヒ素が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者も出た。この時使用された第二燐酸ソーダと称する物質は、元々は日本軽金属がボーキサイトからアルミナを製造する過程で輸送管に付着した産出物で、低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が混入していた。この産出物が複数の企業を経て松野製薬に渡り脱色精製され、第二燐酸ソーダとして販売、森永乳業へ納入された。
 1955年(昭和30年)当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ、事件として発覚することとなる。

『森永五十五年史』の四〇二~四〇三ページに、「森永の乳製品」というコーナーがある。それによれば、一九五四年当時、森永乳業が製造販売していた乳製品は、次の一二種類だったようだ。
① ビタミン入り森永βドライミルク(β乳糖入り・缶入り・一九五四年発売)
② ビタミン入り森永ドライミルク(缶入り・一九五〇年発売)
③ 森永ミルク(全脂加糖練乳・缶入り)
④ ③の小型缶
⑤ 森永スキムミルク(家庭用脱脂粉乳・箱入り)
⑥ 森永スキムミルク(小型缶)
⑦ 森永コスモスミルク(無糖練乳・缶入り)
⑧ ⑦の小型缶
⑨ 森永チーズ(箱入り)
⑩ 森永ヨーグルト(瓶入り)
⑪ 森永ホモ牛乳(一合瓶)
⑫ 森永ホモ牛乳(二合瓶)

 これらのうち、徳島工場が製造し、中毒事件を起こした「森永ドライミルク」というのは、たぶん、②の「ビタミン入り森永ドライミルク」のことだろう。これはうろ覚えだが、高級品であった「金線入りドライミルク」を使用していた家では、中毒は起きなかったという話を聞いたことがある。この「金線入り」というのが①の「ビタミン入り森永βドライミルク」のことであろう。ちなみに、『森永五十五年史』の四〇二ページにある写真(白黒)をみると、「βドライミルク」のほうは、缶の中央に帯がはいっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする