礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

内村鑑三の「日本道徳の欠陥」(1897)を読む

2013-09-30 05:16:23 | 日記

◎内村鑑三の「日本道徳の欠陥」(1897)を読む

 最近、理由があって、内村鑑三のことを調べている。その過程で、「日本道徳の欠陥」(一八九七)というエッセイを見つけたので、本日はこれを紹介したい。
 もともとこれは、英文で書かれたものである。亀井俊介訳『内村鑑三英文論説翻訳編 上』(岩波書店、一九八四)所収(九九~一〇〇ページ)。文中、数か所に傍点が施されているが、そこはゴシックにすることで代用した。

 日本道徳の欠陥 Lack of Japanese Morality
 日本道徳の最も顕著な欠陥のひとつは、目上の人に対する目下の者の義務を教えることがあまりに多く、目下の者に対する目上の人の義務は、かりに教えることがあったとしてもあまりに少ないことである。日本道徳の二大原則である忠と孝とは、臣下の主君に対し、子の親に対する、すなおな服従以外のなにものでもない。貞〈テイ〉とは妻の夫に対する節操、もう一つの悌〈テイ〉とは年下の者の年上の人に対する服従である。子が親にそむくのは死を以て罰せられる罪であるが、親が子を顧みないのはその子の扶養の負担がかかる社会に対する罪にすぎず、その子自身に対する罪ではない。夫の側の姦通はなんら姦通ではなく、姦通という言葉はただ妻の場合にのみ意味をもつ。主人の命令を軽んずる者は謀反人、裏切者であるが、主人の方は天からの最も重大な命令を軽んじても罰せられない。われわれは上にむかっては束縛され、下にむかっては自由である。頭はがんじがらめで、足は勝手しだい。このような原則の上に建てられた社会は、どうしてもたいそう不安定にならざるをえない。
 こういう社会の在り方から、ひとつ重大な疑問が生じてくる。人民が自分の個人的価値を重んずるところに成り立つ現代の代議政体は、日本のような構造の国で、多少とも長期にわたって効力をもつことが期待できるだろうか。内閣は君主に対してのみ責任を有するといった考えは、立憲政体では変則的だが、それが日本道徳の中枢の教義とは完全に一致しているのだ。われわれはわが社会の構造そのものを現在と違うものにしたいと願い、声を大にしてそれへの反対を叫んでいる。正しく解すれば、日本の議会は顧問団以上のものではありえない。したがってそれはほとんど議会と呼びえない――議会とは、必要とあらば君主の意志に反して人民の意志を表現するものなのだ。人民の内なる伝統的な道徳と、彼らが自身のために採用した立憲政治という外的な衣裳とをいかにして適合させるか――これは日本が解決を求められている最も困難な問題のひとつに違いない。内が外を抑えるか、外が内を変えるか。世界はかたずをのんで見守っている。(『万朝報』〔明治〕30・3・23 無署名)

 明治憲法下における問題提起であるが、今日読んでも、十分、説得力のある問題提起になっている。
 特に、「人民の内なる伝統的な道徳と、彼らが自身のために採用した立憲政治という外的な衣裳とをいかにして適合させるか」という問題の立て方に敬服した。今日でも私たちは、日本国憲法という「外的な衣裳」と、草の根ファシズムに代表される「人民の内なる伝統的な道徳」とを、いかにして適合させるかという問題に悩んでいるからである。
 昨年発表された自由民主党の憲法改正草案は、「人民の内なる伝統的な道徳」を根拠に、現行憲法を全面的に改正することを意図している。戦後かろうじて維持されてきた日本の立憲政体だが、もし、この「改正」がなされるなら、再び「変則的」なものとなろう。

今日の名言 2013・9・30

◎内が外を抑えるか、外が内を変えるか。

 内村鑑三の言葉。英文論文「日本道徳の欠陥」(1897)に出てくる。内とは「人民の内なる伝統的な道徳」、外とは「彼らが自身のために採用した立憲政治」のことであろう。上記コラム参照。

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