礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

眼下に開けた都会は火の海であった(小川未明)

2023-05-11 01:49:17 | コラムと名言

◎眼下に開けた都会は火の海であった(小川未明)

 小川未明の「九月一日、二日の記」(一九二三)を紹介している。本日は、その三回目。

 日が暮れると、空は、一面に真赤だつた。 黒い、眼を遮ぎる〈サエギル〉障碍物の間から、蛇の這ひ上るやうに、焔の舌が縒れて〈ヨレテ〉見られた。
「檀那、電報は、まゐりませんでせうか」と、その労働者風の男は、私に、たづねた。
「勿論、不通でせうね」
「私は、加賀の者ですが、こちらに来て、車夫をしてゐやす。故郷で案じてゐるだらうと思ひまして、電信を打ちたいんですが……」
「まだ、郵便なら、どうかも知れませんよ」と、私は、答へた。
 私は、こゝを去つた。
 芋畑に向つて、帰へる途筋で、ある人が話をしてゐるのを聞いた。
「お向ひのおかみさん、あの人は、余程、運がいゝんですよ。二百四十人も下敷になつて死んで、たつた六人助かつた、その中の一人なんださうですよ」
 私は、いつたい、その二百四十人からの生命を失つたところは、何処だらうかと思つた。
 唐突ではあったが、私は、立止つて、
「二百四十人死んだといふのは、どこですか?」と、問うた。
 四十前後の女は、家の外に、雨戸を敷いて、その上で、夕飯の仕度をしてゐたが、声をかけられると、ぢつと私の顔を見て、
「ほんたうか、うそか、よく知らないんですよ。なんでも博文館の印刷所が潰れて、二百四十人下敷になつて、たつた、助かつたものは、六人だけしかないとかいふ話です」
「博文館の印刷所?」
 私の心は、遽か〈ニワカ〉に暗くなつた。そこに働いてゐる筈であつた、幾人かの顔を思ひ出した。
 芋畑に、粗末な小舎〈コヤ〉か建てられた。その下に、蚊帳〈カヤ〉を釣つて、蝋燭を点して〈トモシテ〉、女や、小供等は夜を過した。
 独り、私は、どうしても眠ることができなかつた。幾たび、護国寺の前まで行つて、また婦つて来たか知れない。
「吉原が燃えてゐる」と、いふ噂も、聞いた。
 三越、丸善、帝劇、其他の建物が、焼け落ちたといふことも聞いた。その中でも、丸の内にいくつかあった、ビルヂングが悉く潰れたり、焼けたりしたが、ある一つには、死者三百人もあつたといふことを耳にした時は、私は、酸鼻の極〈キワミ〉であるとさへ考へた。
 真夜中頃、家の前を通つた、二人連の男が、南の空を見ながら、
「こゝらでは、こんなだが、目白坂へ行つて見ると、一面に東京は、火の海だ!」と、言つた。私は、その言葉に、甚く〈ハナハダシク〉感激された。
 護国寺の前で見たのは、僅かに、其の一部分にしか過ぎなからう。目白坂へ行つて見たいものだ。かう思つたけれど、私といつしよに行かうといふ人はなかつた。
「どれ、行つて見ませうか」と、下駄屋の主人が同意してくれた。
 二人は、老松町〈オイマツチョウ〉の通りに出て、目白坂の方へと歩るいて行つた。いつも、煩はしさを感ずるのは自動車である。殊に、こんな異常な日に、ブルジヨアの自動車を見ることは、堪えられない程、腹立たしかった。――彼等の手から、すぺてそれを奪つて、一般の交通と運輸のために使用すべきだ――と、いふやうなことが頭に考へられる。
 半潰の家や、石垣の崩れたところや、全く屋根瓦の落ちた家などが、物凄い月の下に照らし出された。そして、目白坂の上に立つて遥かに、眼下に開けた都会を見た時は、さつき、途上の人の言つた如く、火の海であつた。すでに、火勢のうすれたところ、いま新しく燃え移らんとしてゐる熾〈サカン〉な処、すべてが、火焔の濃淡、強弱によつてそれを判ずることができた。
「あの高い櫓〈ヤグラ〉のやうなものが見えるのは、どこでせう」と、私は、最も、火焔の高く空に冲〈チュウ〉したところに、黒いものが、いまにも吞み込まれさうにして立つてゐるのを指して言つた。
「こちらの塔は、牛込の教会堂ですね。その先は、ちやうど番町〈バンチョウ〉辺にはなつてゐませんか」と、下駄屋の主人は答へた。
「あちらの火は、本郷ですか。こゝから、浅草、本所辺の火は、見えますまいね」と、私はたづねた。
 すると思ひがけなく、二人が立つて、あちらを眺めてゐる背後から、知らねぬ男が、
「この神社の境内に上つて見ますと、吉原の火が見えましたが、もう、焼けてしまつて、うすれたかも知れません」と、言つた。
 私達は、倒れた、石の鳥居の傍を通り、危げな石段を手探るやうにして登つて、大きな木立〈コダチ〉の繁つた境内にはいつた。其処には、この町の焼け出された人々が、野宿をしてゐるらしかつた。
 吉原の火は、黄昏後の西空を染めた夕焼のやうに、いまは、うすれてゐた。
「あれが、さうですかね」
「さつきは、あのあたりが真紅でした」と、知らぬ男が言つた。其の男は、白い布で、頭部を繃帯してゐることに、はじめて気付いた。
 石段を降りて、町へ出ようとすると、独り若い女が、往来の上で、枕に頭を就けて眠てゐるのであつた。

 文中、「博文館の印刷所」とあるのは、博文館印刷工場のことであろう。博文館印刷工場は、現在の共同印刷株式会社の前身。

*このブログの人気記事 2023・5・11(8・10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 町は夜色の裡に、恐怖に震え... | トップ | なつかしい東京の都は、もう... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事