礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

町は夜色の裡に、恐怖に震えていた

2023-05-10 01:05:31 | コラムと名言

◎町は夜色の裡に、恐怖に震えていた

 小川未明の「九月一日、二日の記」(一九二三)を紹介している。本日は、その二回目。

   
 家の前に、少しばかりの空地があつて、そこへ家主が芋を作つてゐた。春頃蒔いた芋の葉は、今は大きくなつて青々としてゐた。そこへ近所四五軒の人々は、避難をして、いつしよになつてゐた。
 程近くに建つてゐる、女子大学校の赤煉瓦の壁には、大きい亀裂を生じて、門前の塀が地震と同時に崩れて小僧が下敷になつたといふ噂が立つた。つゞいて、大久保で、幾人死んだとか巣鴨の監獄署の塀が倒れて、幾人下敷になつたとか、いろいろな噂が、芋畑にぢつとしてゐても、通り鎚る〈スガル〉人々や、たづねて来た入々の口から、伝はつて耳にはいつたのである。
「だんだん火事が大きくなるやうですね」
 女も、男も、空を仰いで、先刻より、次第次第に幅の拡がつて行つた、赤黒い煙の上る方を見ながら言つた。
ぐらぐらと地が揺れる。
「ホラ、来た!」
 いまゝで立って話をしてゐた者が、慌て、芋畑の中に飛び込んで、敷いてある板や、莚〈ムシロ〉の上に坐つた。
「今日の空は、何といふ空でせうね。あの、白い、石灰のやうな雲をご覧なさい」と、女の一人が言つた。
 みんなは、はじめて、気付いたやうに、空を仰いで、南、北に渦巻いてゐる白い雲の峯に注意をした。日は、すでに、暮れるに間近かゝつたからであらう。凄惨にも、赤い光りを落付きのない空に投じて、その白い雲の一端が火のやうに彩つてゐた。
 護国寺前は、高地になつてゐた。そこへ行けば、街の一端は覗はれる筈であつた。私は、そこまで行かうとしたが、その途中で、またも大地震に際会しないかと思つて、まごまご躊躇してゐると、下町に、勤めてゐた男達が、家族を案じて戻つて来たのであつた。
「どうでした?」と、みんなは、その人を取り巻いた。
「やあ。大変な騒ぎですよ。銀座でも、日本橋でも、大きな建物がいくつも潰れました。随分死んだでせう」と、其の男は、言つた。
「よく、まあ、逃げ出して来てくれたね」 と、家族の者は、慰めるのであつた。
「今夜は、とても、家の内にはいって眠られない。この芋畑でみんなが眠ることにしよう」と、一人が、言つた。
 みんなは、早くから、その用意に取りかゝつたので、私は、小供等に分けてやるお菓子や、蝋燭や、その他の食料を求めるために、出かけて行つた。
 護国寺前まで行くと、そこには、黒く人が群がつてゐた。近傍の避難者等であつた。東南の空には、一面に、黒く煙が上つてゐて少しそこから距離を隔て、西にも、また、北の方にも、幾どころとなく、街が燃えつゝあつた。
 たまたま担架に載せられて、負傷者が、病院の方へ運ばれて行つた。
「手、足が、硬ばつてゐるぢやないか。もう死んでゐるのだらう」
 担架を見送つた、群集の中の一人が言つた。
「丸山町でも、早稲田でも、死人があつた。その上、この火事ぢや、どれ程、やられてゐるか知れない」
 音羽〈オトワ〉の町は、低く、ちやうど谷の間に、走つてゐるやうに見られた。その町の中を、往来する人の波は、黒い流れを造つてゐた。自動車の笛が起り、自転車が、幾つとなく走つたのであつた。
「浅草も焼けてゐるといふぢやないか」
「本所も、深川も、焼けてゐるといふ話だ」
「怖ろしく、一時に、方々で燃え出したもんだな」
「俺、家は、浅草だが、とても帰れまいと思つて、こゝにかうしてゐるんだ」
「電車は、あるまいな」
「電車どころか、水道も、瓦斯〈ガス〉も、電気も、みんな滅茶、滅茶になつたんだ」
「下町は、どの辺が、いま焼けてゐるだらうな」
「そこに、巡査【おまわり】さんがゐても、電話が不通だから、分らないと言つてゐる」
 浅草の者だといふ、年の若い、草鞋穿き〈ワラジバキ〉の男は、寺の門前の石に腰をかけて、ぼんやりとした様子で、あちらに燃え上る、黒い煙を眺めてゐた。
 その時、若い、男女の二人連〈フタリヅレ〉が、少しばかりの荷を互にぶら下げて、疲れた様子で寺の境内深く入つて行つた。女は、裾を捲つてゐた。どこか、カフエーの女給でゞもあるらしい様子であつた。
「今日は、朝から、たち雲が出てゐた。こんな日は、悪日だ。きつと、高い山へ上つて見たら、東京の街は、四方から、たち雲に包まれてゐるにちがひない」と、浅草の若い男は、言つた。
「あの真白い雲かい?」と、他の労働者風の男がたづねた。
「あの、ぐるぐると渦を巻いてゐるんだ」
「下町には、薬屋が沢山あるから、あの下の方のどす黒い、重さうな煙は、薬品の燃える煙だらう。さつきから、たびたび爆発する音が聞えたぜ」と、労働者風の男は、言つた。
 かうして、立つてゐると、無限に雑音が、どこからともなく湧き起つて、はては、海嘯〈ツナミ〉のやうに、気味悪いうめきとなつて、襲来する如く感じられたのであつた。
「あの音は、何でせうね」と、つひに、私は、言つた。
 その時は、もう日が暮れかけてゐた。しかし、町の中は、電燈も瓦斯の光りもなく暗黒であつた。僅かに、自動車や、自転車の燈が、縦横に飛ぶばかりで、町は、夜色〈ヤショク〉の裡〈ウチ〉に、恐怖に震へてゐた。
「何の音でせうかね」と、労働者風の男は、言つた。【以下、次回】

 最初のほうに「芋」とあるのは、サトイモのことであろう。関東地方の農村では、イモといった場合には、サトイモを指す。サツマイモのことは、サツマイモ、またはサツマという。
「女子大学校」とあるのは、日本女子大学校のこと。今日の日本女子大学の前身。「大学校」を名乗っていたが、制度上は、旧制の女子専門学校だったという。

*このブログの人気記事 2023・5・10(8位になぜか鈴木貫太郎、9位になぜか山本有三)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 倒潰した建物の間を人々が逃... | トップ | 眼下に開けた都会は火の海で... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事