礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

倒潰した建物の間を人々が逃げまどっていた

2023-05-09 02:59:48 | コラムと名言

◎倒潰した建物の間を人々が逃げまどっていた

 今月にはいってから、水道橋の某古書店で、『復録 日本大雑誌 大正篇』(流動出版)を入手した。一九七九年(昭和五四)一二月に出た「改装初版」である。
 その中に、小川未明(一八八二~一九六一)の「九月一日、二日の記」が「復録」されていた。本日以降、これを紹介してみたい。初出は、『中央公論』一九二三年(大正一二)一〇月号だという。

 九月一日、二日の記
   ――天は焼け、地揺らぐ――    小 川 未 明

   
 九月一日は、美術院と二科会の各作品展覧会の第一日であつて、期待するところがあつた。朝から非常な風雨なので、雨漏りと日本画の連想が頭から取れないために、私は、たとへ行つてもといふやうな危ぶみを抱いてゐた。
「なに、今日でなくてもいゝぢやないか」
 私は、いつしよに見に行く約束のあつたゝめに、来てゐたN君に、かう言つた。
 外の烈しい、雨風の音に、耳を傾けながら二人は、将棋をさしてゐた。
 この時、やはり同行を約したT君が来たが、今日の天気具合では、途中雨に遇ふかも知れぬから、延ばされるものならと言つたので、私も、いよいよ延ばすことにきめた。Tはすぐに帰つた。そして、私は、Nと二階で将棋をつゞけたのであつた。
「天気になりさうですよ」
 将棋に飽きた時分に、Nが言つた。
 日の光りが、散乱した雲の厚い、破目からかすかに、雨で洗はれた、下界を射してゐる黄色な彩りを見た。
「さうだね、展覧会に行く、行かないは、出てからの気分にして、とにかく家を出て見ようか」
 私は、さう言つた。そして、二人は、早稲田の電車終点の方へ足を向けて歩るいてゐた。豊坂〈トヨサカ〉を降りてから、低地に雑然として、軒を並べたいろいろな店頭を通り過ぎた時は、魚屋の店には魚かあり、下駄屋の店には下駄があつた。若い女は、青物屋の前に立ち、露店では靴下や、ブラシの類などを並べてゐる。
「もう、降りさうもないね」
 二人は、電車の停留場まで来ると、そこには御徒町〈オカチマチ〉行きの電車や、洲崎〈スザキ〉行きの電車が来て止まつてゐた。
 私は、不思議に、どういうものか、すぐに電車に乗るには、何となく気がすゝまなかつた。
「君、まあビールでも、飲まふぢやありませんか」
 私達は傍〈ソバ〉にあつた三階建の小料理屋の二階に上つた。その家は、粗末な建築で、しかも大分古くなつてゐた。二人は、ビールを飲んで、私は、Nから山陰道の風景や、その土地の俗謡などについて話をきいてゐた。
 窓際には、盆栽の鉢が三つ四つ置いてあつた。目穏しの上から、広やかな空が望まれた。その空には、雨雲が頻りに往来してゐる。そして、たまたま顔を出した、太陽を吞まふとしてゐた。
 私は、その空模様に心が惹かれて、ぢつと見てゐたが、眼を転じて、Nに何か話しかける刹那〈セツナ〉であつた。家が、揺らいだのだつた。
「地震だ!」
 二人は、期せずして叫んだ。家は、波濤〈ハトウ〉に跨つた如く、私達の体が転げさうになつた。
 帽子を被つて、N君は、早くも梯子段〈ハシゴダン〉を駈け降りようとした。私は、曽て〈カツテ〉、地震の時 は、二階にゐたらぢつとしてゐた方が、却つて安全だと聞いてゐたのを思ひ出したので、Nを制して、
「君、二階にぢつとしてゐたまへ。その方が、大丈夫なんだ」と、言つた。
 友は、躊躇しながら、腰を二たび畳の上に落付けようとして、
「こゝは、三階なんですよ」と、注意した。
「あゝ、三階なのか?」
 私は、驚いて起ち上らうとした。この時、いまゝで、雲の下に聳えてゐた、前側の洋風造りのカフエーが、ドロドロと音を立て崩れた。つゞいて、その隣も、そのまた隣の家も、見る間に、のめつて、家根瓦の落ちる煙の中に倒れたのであつた。
 この時、つゞいて、二度目の大きな、震動がやつて来た。こんどばかりは、私のゐる家も、横さまに倒れるものとばかり思つた。室〈ヘヤ〉の四隅〈ヨスミ〉の壁は、無惨に離れて、畳の上に落ちると砕けた。私達は、「どうせ、みんなが死ぬのだ。君と僕といつしよに死なう」と、言つたものゝ、二人は、やはり、死から脱れようと三階に駆け上つた。
 三階には、うす暗い、がらんとした室が二つばかりあつた。この時、外の方では、悲鳴のあがるのが聞えた。
 地震は、少しく、小さくなつた。この間に外へ出ようとすると、梯子段が、はづれかゝつてゐた。階下には、罎〈ビン〉や、皿の壌れ〔ママ〕が、床の上にいつぱいであつた。
 何たる変り様だらう。通つた時の町の姿は、もうなかつた。そこには、倒潰した建物が、たゞ重なり合つてゐるばかりで、人々が、その間を逃げ惑つてゐた。
 血!血!路の上に、血が流れてゐた。一人の負傷した男を、二人の男が何処かへはこんでゐるのに出遇つた。地は、まだ揺れてゐた。
 軽装して、靴を穿いてゐるNは、足駄〈アシダ〉を脱いで、それを手にぶら下げて、よろめく私を扶けながら、二人は、坂を登らうとしたのであつた。
 警鐘が乱打された。振向くと、はやあちらにも、こちらにも黒い煙が濛々として空に上つてゐた。【以下、次回】

 文中、「壌れ」は、『復録 日本大雑誌 大正篇』のまま。あるいは「壊れ」の誤植か。『中央公論』の原文は、確認していない。

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