礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

自分は重力にさからう無理をしている(青木茂雄)

2023-05-05 04:25:35 | コラムと名言

◎自分は重力にさからう無理をしている(青木茂雄)

 先月の二〇日および二一日、青木茂雄さんによる小浜逸郎さんへの追悼文「彼は昔の彼ならず」のうち、「1」と「2」を紹介した。この追悼文には、「3」以降があるというが、今のところ未着。その代りに、追悼文「2」で言及されていた青木さんの紀行文「山行雑記」を、ここで紹介しておくことにしよう。
 出典は、小浜逸郎さん編集の雑誌『ておりあ』の第4号(一九八五年一月一五日発行)。なお、二一日のブログでも述べたように、雑誌『ておりあ』は、その前身である『座標』も含めて、国立国会図書館には架蔵されていない。

山 行 雑 記          青 木 茂 雄

 七月三十一日。列車は静かに飯田線伊那大島駅についた。午前六時、夏の日ざしはすでに高い。ホームのはずれから改札口まで歩く。背負うザックはもう汗ばんでいる。
また山に来た。
 ことしの山行は南アルプスときめていた。七月にはいったばかりの或る日、七月にはいると都会のなかと言えども草木はいっそう色めきたつ。樹々の枝はぐんぐん伸びて、先端に若葉を宿す。夏の風は空から吹いてくるかのようだ。空はひとまわり大きくなった。そんなふうに感じられた或る日、私は確かに山に行きたいと思った。冷房の効いた喫茶店のフロアを踏みしめながら、私の脳裏に黒々とした山の頂きの姿が確かに浮かんだ。
 伊那大島駅からバスで二時間半ばかり、登山口の塩川小屋に到着。今回は同行者なしの単独行。以前の登山仲間は仕事と子育てに忙しく、夏山登山さえも思うままにならない。だから言って私は毎年恒例の夏山登山を中止するわけには行かない。登らずにはなぜか気がすまぬ。
 慣れてしまえば単独行も別段どうということもないが、出発前のワクワクするような気持ちの高揚がなく、心理的負担だけが重くのしかかる。とくに第一日目の出発の瞬間がそうだ。心理的負担、つまり自分ひとりでこののち数日間つづく労役に服さねばならぬという、いささかうんざりする思いである。きのう、いそいそと準備にとりかかっていたころ心の中に浮かべられていた山の像、それは山行がしだいに現実性を帯びてゆくにしたがってしだいに薄れてゆくのだったが、それでも列車の中ではまだかすかに保持されていた。その山の像は、山行の現実の瞬間に、完膚なきまで消失してしまうのである。
 水筒に水を詰めると荷物は優に二十五キロを越す。やっとの思いで背負い、それからおもむろに直立する。平坦な道でも一歩踏みだすごとに、息づかいが荒くなる。これから先私を待ちうけているのは一方的な昇り道である。標高差にして約一五〇〇メートル。うんざりするというよりは、むしろ絶望的ですらある。これまで私が全部こなしてきたというひそかな自信めいたもの、それだけが頼りである。とにかく進まなければならない。
 一時間半ほど歩くと、道は沢沿いを離れ、いよいよ尾根の登りにさしかかる。これからが本番だ。身体は慣れてきたし、はじめのころは思ったよりも快調に進んだ。だがそれも最初の二時間ほどまでで、やはり登り道はつらい。息を荒ませている私をあざ笑うかのように、次から次へと傾斜面が眼前にたちあらわれる。一歩足を踏み上げるごとに、背中の荷の重みが身体にのしかかる。たしかに、自分は重力にさからう無理をしている。樹木も下草も目に入らぬ。ただ耳から離れないのが鳥の声だ。鳥どもは自由に樹間をとびまわっているだろう。ばかデカい荷を背負って、あえぎあえぎよじ登っているのは人間様だけだ。あたりは静まりかえっている。全ては自然だ。ただひとり人間様だけが、何ものかわけのわからぬものと勝手に格闘している。神様の目にはひどくこっけいに映っているかもしれない。【以下、次回】

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