礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山行は労働の間断なき継続である(青木茂雄)

2023-05-06 01:44:59 | コラムと名言

◎山行は労働の間断なき継続である(青木茂雄)

 青木茂雄さんの紀行文「山行雑記」(一九八五)を紹介している。本日は、その二回目。

 登山は労働だ。私がこれまでに経験したどの賃労働よりも激しい労働だ。このきつさ、ただひとつの目的を目ざしてそれを耐えしのばねばならぬこの姿勢、これが労働でなくて何であろう。世の人は登山を労働とは見ない。また登山家もプライドがあってのことか、決して労働とは考えない。たしかに社会的に見れば、私は仕事場から休暇をとってここへ来ているのであって、自分で好きでやっているのだ。自分の恣意に基いて行動しているのであり、言ってみれば、道楽でありレジャーだ。だがしかし、考えてみるに、私の選択の余地の働いているのは登山口にたどりつくまでだけであって、いったん山行が始まるや否や、私に残された選沢肢はほぼゼロに近いものとなる。とにかく行くしかないのである。与えられた自然条件の下で目的地までひとつひとつ行動を積み重ねてゆく以外にないのである。私の行勉はことごとくが自然条件によって強いられている。その意味では、まさしく労働にちがいないのである。出発前にあれほどまで魅力的であった山々のイメージは、今はすっかり消え失せてしまって、頭の中は、「目的地にたどりつくこと」というただひとつの抽象的な観念によって占められることになる。
 だが、本当のところ、私はこれまで山登りを心底からつらいと思ったことは一度もない。山か好きだから、と言ってしまえばそれまでだが、いや実のところ単にそれだけではなく、この単純明快な登山労働が人をしてそれにのめり込ませる魔力を持っているからだと言ったほうが的を得ているだろう。苦行を快楽と意識させてしまう何かをこの登山労働は持っていると私には思えるのである。
 山行は労働の間断なき継続である。いったん入山したら、下山するまでの全ての時間が労働である。目的地へ着いたら着いたで次の行動が待ち受けている。テント場を確保し、水を手に入れ、夕食の仕度、それが済んだらザックの底から寝袋を取り出し、酒を少しあおつたら、たとえまだ明かるかろうともう眠るべく努めなければならない。狭いテント内の物品の配置にも気を使う。要するに、次から次へと行動の目標が設定され、それが給えず自分の念頭から離れることがない。山を登っているときには、たどりつくべき山の頂きが、いや次の休憩地点が想い浮かべられ、午後になるときょうの宿泊地が、そしてテント場につけば次の行動が目的となる。次から次に設定される目的の連関、それが実に単純明快なのだ。登山という労働の魔力はこういうところにあるように私には思える。
 登山は自然の中で行われ、自然条件にもっとも強く条件づけられて行われておりながら、現実の行動は次から次に設定される目的の連関の中で行われる。そういう意味で、それは、自然の中で行われながら、行動の場面では自然に対して外側の位置に立っていると言いかえても良い。労働とはもともとそういうものだ。だから登山者は観念的にどれほど自然を頭の中に浮かべていようと、その実行行為の場面では自然に対してもっとも外側に立っている。それは人間の労働に備わっている矛盾をもっとも象徴的にあらわしていると言って良いかもしれない。
 快い汗を流し、木々の緑に目をうるおし、頂をめぐる涼風を浴び、大自然と一体化…………これは嘘だ。人は自然と一体化などできるはずがない。自然の中に入れば入るほど、それとは異質な自分を見い出すばかりだ。それはもしかしたら、人間の「業」なのかもしれない。
きょうの宿泊地三伏峠〈サンプクトウゲ〉ももう近い。きつい登りだった。あたり一帯はシラビソの樹林。何という名の鳥だろうか、さっきからずっと同じ調子でさえずり続けている。【以下、次回】

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