礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

慶応4年の赤報隊事件について

2023-05-21 01:34:29 | コラムと名言

◎慶応4年の赤報隊事件について

『文藝春秋』六月号のスクープ記事〝朝日襲撃「赤報隊」の正体〟を読んでいるうちに、以前、「赤報隊」について勉強したことを思い出した。そのときは、『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇)という本を執筆するために、ほとんど予備知識のないところから、まったくの独学で調べていったのであった。
 その独学の「成果」は、『攘夷と憂国』の第六章「赤報隊の悲劇」にまとめられている。本日以降、同章の初めの二節と最後の二節を紹介してゆく。これを読んで、慶応四年の赤報隊事件に関心を持たれた方は、ぜひ、『攘夷と憂国』をお求めになり、第六章の全文、ないし同書の全章をお読みいただければ、と思う。

第六章 赤 報 隊 の 悲 劇   

◎赤報隊事件と魁塚
 インターネットで、「赤報隊」を検索すると、一九八七年の「赤報隊事件」、すなわち朝日新聞阪神支局襲撃事件が数多くヒットする。しかし、ここで取り上げるのは、明治維新の過程で組織された草莽諸隊のひとつとしての「赤報隊」である。赤報隊とは、慶応四年(一八六八)一月八日、公家の綾小路俊実、滋野井公寿を盟主として結成され、東海道鎮撫総督指揮下に置かれた草莽隊である。第一隊から第三隊までの三隊からなり、第一隊の隊長は相楽総三(一八三九~六八)であった⑴。
 相楽総三は、下総の郷士・小島兵馬の四男で、本名は小島四郎将満、相楽総三はその変名で、号は武振。赤報隊の結成直前、すなわち慶応三年(一八六七)の一〇月から一二月にかけて、相楽が、「薩邸浪士隊」(薩摩の御用泥棒)を率い、江戸市中を混乱に陥れたことは、よく知られている。
 赤報隊は、早くも慶応四年(一八六八)の三月に新政府の処分を受け、相楽総三ら幹部は「断頭之上梟首」された。小さな日本史年表には載らないような小さな事件であるが、明治維新の本質について考えようとするとき、この事件の持つ意味は限りなく大きい。
 高校日本史の教科書『詳説日本史』(山川出版社、二〇〇二年検定済)を開いてみると、赤報隊についてごく短く触れている。ただし、本文の中ではなく、その注での記述である。

 徳川慶喜を擁する旧幕府側は、一八六八(明治元)年一月、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北、慶喜は江戸に逃れた。新政府はただちに、慶喜を朝敵として追討する東征軍を発したが、慶喜の命を受けた勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の交渉により、同年四月に江戸城が無血開城された。    

 これが本文で、そのうちの「東征軍を発した」という部分について、次のような脚注が施されている。

 官軍ともよばれた東征軍には、豪農・豪商がみずから組織した義勇軍をひきいて参加した。とくに相楽総三らの赤報隊は幕府領での年貢半減をかかげて東山道を東進し、農民の支持を得たが、新政府はのちに相楽らを偽官軍として処刑した。

 ここで、山川教科書は、「幕府領での年貢半減をかかげて」としている。切り詰めた記述の中で、ゆきとどいた配慮といえる。同教科書が「受験向け」として高い評価を得ている所以であろう。
 赤報隊事件、すなわち赤報隊が「偽官軍」として処分された事件は、諏訪という土地と深く結びついている。相楽総三を初めとする赤報隊幹部八名が斬首されたのは、下諏訪の「張付田」(磔田)であった。相楽は、諏訪在住の国学者・飯田武郷⑵の門人にあたり、何度も諏訪を訪れていた。赤報隊が中山道を東進したのは、相楽が諏訪の地理に明るかったからだともいう。
 いずれにせよ、相楽総三らは処刑された。慶応四年(一八六八)三月三日夜のことであった。相楽総三の「処刑文」は以下の通り。

     相楽総三
 右之者、御一新之時節ニ乗ジ、勅命ト偽リ官軍先鋒嚮導隊ト唱へ、総督府ヲ欺キ奉リ、勝手ニ進退致シ、剰へ諸藩へ応接ニ及、或ハ良民ヲ動シ莫大之金ヲ貪リ、種々悪業相働キ、其罪数フルニ遑アラズ、此儘打棄置候テハ、弥以テ大変ヲ醸シ、其勢制スベカラザルニ至ル、之ニ依リ誅戮梟首、道路遍諸民ニシラシムルモノ也。
  三月⑶
〔相楽総三 右の者は、維新という時節に便乗し、勅命であると偽って「官軍先鋒嚮導隊」を名乗り⑷、総督府を欺いて勝手に行動し、それだけでなく諸藩と折衝をおこない、あるいは良民を動員し、あるいは莫大な金を要求するなど、さまざまな悪行を働き、その罪は数えることができないほどで、このまま放っておいては、いよいよ重大な事態を招き、その勢いは制しがたいところとなる。これによって罰して死刑とし、その首を道にさらして諸民に示すこととする。 三月〕

 明治三年(一八七〇)、地元の有志は、相楽らの碑を建て、それを「魁塚」と名づけた。この塚は、今日なお大切にまつられている。今井広亀執筆『諏訪の歴史』(諏訪教育会発行、一九五五)によれば、同地には「弱い子や夜泣きの子には魁塚の土を枕元においてやるとなおる」という伝承があり、また、悪性のかぜのことを「相楽かぜ」(相楽の怨念による風邪)と呼んでいるという。

⑴ 慶応四年(一八六八)に諏訪で処分された赤報隊は、厳密に言えば、赤報隊第一隊としての相楽隊であるが、この相楽隊を赤報隊と呼ぶことが多い。
⑵ 飯田武郷(一八二七~一九〇〇)は、幕末・明治の国学者。大著『日本書紀通釈』の著者として知られる。
⑶ 「三月」のあとには、相楽以外の七名に対する処刑文が続く。相楽に対する処刑文は、『赤報記』に載っているものを使用した。『赤報記』は、『相楽総三関係資料集』(信濃教育会、一九三九:青史社、一九七五)に所収。
⑷ 相楽隊は、慶応四年(一八六八)二月以降、「官軍先鋒嚮導隊」を自称していた。 

 以上が、第六章の第一節の本文と注である。ルビは、すべて割愛した。
 山川教科書の「注」に、「幕府領での年貢半減をかかげて」とあることについて、若干、補足する。『復古記』巻十九、明治元年正月二十二日の項を見ると、「滋野井公寿、綾小路俊実の使者、相良武振〔相楽総三〕書を上り、官軍の徽章を賜ひ、かつ東征先鋒の命を奉ぜんことを請ひ、また旧幕府領地の租税を減ぜんことを建議す、乃ち公寿、俊実に命じて、東海道鎮撫使の約束〔とりしまり〕を受け、また旧幕府領地今年租税の半を免ぜしむ」とある。新政府は、「旧幕府領地」について、年貢半減を認めていた。山川教科書の「注」は、この史実を踏まえているのである。

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