◎赤報隊事件で『文藝春秋』がスクープ記事
今月一〇日発売の『文藝春秋』六月号における目玉記事は、〝朝日襲撃「赤報隊」の正体〟であった。同記事について、若干、コメントしておく。
同記事でいう「赤報隊」事件とは、「朝日新聞阪神支局銃撃事件」(1987・5・3)ほか、「赤報隊」を名乗るメンバーによる一連の事件を指す。警察庁による公的な事件名は、「警察庁広域重要指定一一六号事件」である。
同記事がスクープである所以は、「大悲会後見人 野村秋介思想研究会最高顧問」の肩書を持つMさん(79歳)の証言を紹介しているところである。
野村秋介(一九三五~一九九三)の名前が出てきたのを見て、「やはり」と思った。そう思ったのは、原雄一さんの『宿命』(講談社、二〇一八)を読んでいたからである。その106~107ページには、次のような文章が紹介されていた。
昭和五二年、「経団連事件」が発生しました。この事件を指揮した野村秋介は、千葉刑務所に服役中、よくお互いの考えを話し合った仲でした。秋介が、人が動くのは「理論」ではなく「情念」と言っていたことに共感していました。経団連事件を見て、私は、千葉刑務所で語っていたとおり、秋介には行動力と統率力があることを実感させられました。
私は、革命には程遠いにしても、武装組織を結成して行動するならば、日本国内が最適と思っていました。【中略】
昭和五八年、経団連事件で服役していた秋介が出所し、翌年、千葉刑務所で同じ印刷工場にいた鈴木三郎(実際は実名)も出所して来ました。当時、私には、陰の武装部隊を結成して活動する具体的構想ができていました。私は、服役中、鈴木に対して、「当面は、誘拐された邦人の解放に取り組みたい。政府が動かないとき、事態を打破するために動ける組織を作りたい」と訴えていました。鈴木は、私の考えに賛同はしてくれませんでしたが、秋介との連絡を取り持ってくれました。
私は秋介に賛同を求め、要員集めのための協力を依頼しました。秋介は、表の武装部隊を率いて経団連を襲撃した名の売れた人物でしたので、人を見る目も人を集める力もあると思っていました。この計画の途上、赤報隊による「朝日新聞社阪神支局襲撃事件」が起き、私は秋介に赤報隊の行動は否定するものの、赤報隊のように姿を現わさない部隊を作りたいと説きました。【後略】
これは、警察庁長官狙撃事件の「真犯人」を自称する中村泰(ひろし)受刑者による「供述」である。ここで「私」とは、中村受刑者のことである。鈴木三郎のあとに、カッコして(実際は実名)とあるのは、著者の原雄一さんによる注釈である。
この「供述」が全くのウソでないとすると、野村秋介は、やはり、一連の赤報隊事件に関わっていたことになる。少なくとも、「赤報隊」なる組織の内情は把握していたのではないだろうか。
私見によれば、朝日新聞襲撃事件と警察庁長官狙撃事件とは同根である。一方の事件の真相が明らかになれば、他方の事件の真相も明らかになる。一方の事件が迷宮入りになる場合は、他方の事件も迷宮入りになるだろう。【この話、続く】
礫川さんの本を読んだのがきっかけで、
独学を始めました。
これからも楽しみにしています。