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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

井上日召、刑事部屋で樽酒を振る舞われる

2024-02-17 00:11:48 | コラムと名言

◎井上日召、刑事部屋で樽酒を振る舞われる

 血盟団事件の盟主・井上日召(いのうえ・にっしょう、1886~1967)に、『一人一殺』という自伝がある。井上は、当然そこで、宮城長五郎のところへ「出頭」したときのことも回想している。
 本日は、同書から、その「出頭」の前後の箇所を引用してみたい。出典は、日本週報社版の『一人一殺』(1953年11月)。ページでいうと、282~237ページである。なお、同箇所は、河出書房新社版『一人一殺』(2023年9月)では、234~287ページに当たる。

 これより先、私の処置については、杉山茂丸〈シゲマル〉氏が奔走して、氏が当時の陸相荒木貞夫中将と懇意な間柄だつたので、将軍に依頼して、頭山〔満〕翁に傷がつかないやうに、又私の身柄も途中憲兵に護衛させて、刑事らに手をつけさせないやうにして、検事正の所へ出頭させる、という段取りになつてゐたのだが、頭山翁が『ウン』と言はないので、延びてゐたところへ、天野〔辰夫〕が横から入つて私を攫つて〈サラッテ〉しまつた。――それも後日聞いた。
 翌朝、本邸に出向いて、翁並びに奥さんに感謝と訣別の辞を述べ、奥さんのお酌で一本戴き、〔天行会〕道場へ戻つて外を見ると、警戒網はすつかり解かれてゐた。天野の自動車を待つてゐると、女中が上つて来て、
 『大先生がいらつしやいました』
と告げた。降りてみると、下の控室に翁が来てをられた。
 翁の前に坐つて、お辞儀をすると、女中が持参の鶉〈ウズラ〉の卵を飯碗に割らうとするのを、翁は、落着いた声で、
 『寄越せ。』
と受取つて、手づから飯碗に卵を五個割つて、箸を添へて、黙つて私に下さつた。私も黙つて受けた。見ると、その碗も箸も、翁の常用の品である。 私は、瞬間熱いものがこみ上げた。慈父と愛児の情感だ!! 押頂いて一気に飲み干し、改めて黙礼すると、翁は特有のあの静かな荘重な口調で、
 『体を大切に』
と言はれて、立ち上られた。翁を送るために道場の玄関に立つた私の目は、涙一杯で、翁の姿さえ見えなかつた。
 私は、嘗て〈カツテ〉大陸で見たあの忘れ得ぬ夢に現れた白髪の老人と、この頭山満翁の風貌との、奇しき〈クシキ〉暗合を思はずには居られなかつたのである。
 王法と仏法 やがて自動車が来た。天野・本間〔憲一郎〕と同乗して警視総監官舎へ行くと、出迎へた大野〔緑一郎〕総監は笑顔で丁寧だ。引合はせが済むと、総監は皇后陛下の行啓の御警衛に出掛ける。天野も辞去する。それから、本間と一緒に宮城〔長五郎〕検事正の所へ出頭した。
 最初、検事正の所へ出る前には、私は表面犯罪人ではなく、事件解決のための参考人として出頭したのだ、というつもりで、毎日外から通ひで調べを受けるやうにしようか、と思つた。ところが、検事正と対面したら、
 『井上君、も少し早く出て来て呉れると良かつたね。』
と、いきなり検事正が言ふから、
 『私は犯罪人ぢやないんだから、遅い早いはないでせう。最近の新聞紙を見ると、先般来の事件に関して、単に私を知つてゐるといふだけで、四百人もの人が取調べを受けてゐる、との事に驚いて出頭したんです。』
と言い返したら、彼は唐突に、
 『日蓮聖人の御遺文に「王法もまた法なるべし」とあつたね。』
と言つた。これを聞いて、私はハツと気が変つた。
 『いや、解りました。御存分に――』
 禅問答ではないが、この間の消息は、説明してしまふと味が無くなり、真実が歪められる傾きも生ずるが、此処に謂ふ王法とは国法のことであつて、
 「国法も仏法の外にあるものではない。国法を犯せば即ち仏法の罪人である」
と、検事正は私を日蓮の行者と見て、御妙判〈ゴミョウバン〉を藉りて私を説服〈セップク〉にかゝつたのである。彼の伝記にもこの時のことを述べて、
  日召を喝破してやつた。
と記してゐる。が、私にすれば、王法は(仏)法であり、(仏)法でないのだ。日蓮聖人だつて、仏法のためには王法を破つて憚らなかつた。
 「王法は法であるか? 法でないか?」
曰く、それは有無一如である。天地の法の上に立つて行ずることが、国法に触れやうが触れまいが、それは大した事ではない。私は検事正に「喝破」されたわけではない。彼が何とかして私を説服しようとしてゐるその熱意を買つてやる気持が、瞬間的に湧いたまでである。
 私は、勿論仏法の罪人ではない。否、仏法の罪人を撃つたのである。しかし、王法が仏法で有るなしに拘らず、私が国法を犯してゐることは、もとより承知してゐる。私は天地の法によつて私の行為を律しているが、検事正は国法によって、私の行為を律しやうとしてゐる。仏法の裁きは私の務めである。王法の裁きは彼の務めである。よろしい! 潔く国法の裁きを受けよう。――さう観じて、私は検事正の言を受け容れたのである。
 宮城検事正との会見に際して、私と同行した本間は、検事正の切なる勧めにもかゝはらず、決して席に就かず、立つたまゝでゐた。そこで、検事正は本間を非常に警戒した。話がもつれたならば、本間が上からのしかゝるやうにして、一発のもとに検事正を殪して〈タオシテ〉しまひはせぬかと恐れたらしい。本間が何故坐らなかつたか、私はその理由を知らないが、多分何も理由はなかつたゞろう。無論、拳銃などは所持してゐなかつた。
 杣と材木 会談少時にして、私は検事正から木内〔曽益〕検事を紹介された。木内検事の案内で、警視庁へ出頭した。本間とはそこで別れた。
 警視庁では鰻飯〈ウナギメシ〉の昼食が出た。別に不快なこともなく、少しばかり話して、それから刑事部屋に案内された。刑事部屋では樽の鏡を抜いて、刑事連の慰労酒が始まつた。私も五合ばかり飲んだ。晩は別室に寝台を運び込んで、私ひとり寝た。
 朝になると、部長が来て、私を釈放して直ちに検束した、と云ふ形式を省略する承認を求めたから、そんな面倒なことは止めて、拘留にしたら良からう、と言ふと、大変喜んで正式に留置所へ入れた。【以下、略】

 1932年(昭和7)3月11日に検挙された井上日召が、その当日、警視庁の刑事部屋で開かれた慰労会に案内され、樽酒を振る舞われるという、およそ信じがたい出来事があったもようである。

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