goo blog サービス終了のお知らせ 

礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宮本常一と船山信一

2024-02-08 00:01:20 | コラムと名言

◎宮本常一と船山信一

 昨日は、『未来』第179号(1981年8月)の特集「宮本常一先生=追悼」から、網野善彦の追悼文を紹介した。
 本日は、同特集から、船山信一(0794)の追悼文を紹介したい。船山信一は、マルクス主義哲学者、立命館大学名誉教授。
「宮本常一さんとの交流に関しての回想」と題する船山の追悼文は、かなりの長文だが、今回、紹介するのは、その前半部分で、これを前後二回に分けて紹介したい。

特別寄稿 宮本常一さんとの交流に関しての回想    船山信一

 宮本常一さんとの私の交流は昭和十二年〔1937〕から十九年〔1944〕までの七ケ年――私の「第二の人生」である「水産時代」の前半の東京時代――であった。当時の宮本さんは渋沢敬三さんのアチック・ミューゼアム→常民文化研究所に勤められていた。私は当時大日本水産会というところで雑誌『水産界』および『養殖と製造』『水産製造』、それから『漁村読本』の編集にたずさわり、また農林省の委託事業として全国の漁村・漁業(協同)組合・漁村青年学校をまわって「戦時下の漁村青年に与ふ」というような「講話」もしたが、それよりもむしろ座談会を開いて漁民・漁業協同組合役職員・漁村青年学校の教員・漁村青年の諸君から実情・意見を聞かせてもらって、「調査」しまた教えてもらった。私はそれらを『中央公論』に「戦時下の漁村を廻って」(昭和十七年六・七・八月号)というレポートとして発表し、またそれをまとめて『漁村記』(昭和十八年)として出版した。
 私はもともと農村・農家生れであって、大学では哲学を修め、漁村・漁業については全く無知なのであったが、唯物論研究会プロレタリア科学同盟での活動、それからとくに『改造』昭和十年〔1935〕四月号に発表した「現在における日本主義理論の特質」という論文のために治安雄持法に引っかけられ二ケ年にわたって警察→市ケ谷刑務所生活を送らされ、「懲役二年、執行猶予五年」の判決を受け、二・二六事件の少し後に釈放されたものの、ただ教職に就くことが完全にだめになっただけでなく、いかなる就職も全く不可能になり、ただ三木清氏に頼んで岩波文庫からフォイエルバッハの『キリスト教の本質』を訳出させてもらっただけであった。
 そういうときに私は『あざらしの如く』などという漁村小説も発表しておられた野村愛正〈アイセイ〉氏に大日本水産会に紹介してもらい、そこで出す『漁村』という雑誌編集助手に採用された。私はそこで漁村→水産講習所出身の鈴木善幸〈ゼンコウ〉さん(今の首相)にも指導を受けたのであったが、そのときは鈴木さんは水産界の大御所であった『伊谷以知二郎〈イタニ・イチジロウ〉殿』の執筆にたずさわり、また常務理事木下辰雄氏(後の全国漁業協同組合連合会長→参議院議員)の政治秘書のような仕事をしておられた。しかし間もなく鈴木さんらは全国漁業協同組合協会→全国漁業協同組合連合会(全漁連)の方に移られ、私は大日本水産会で雑誌『水産界』と『養殖と製造』および『漁村読本』の編集事務を一人で受け負うことになった。
 私は漁村・漁業のことは何もわからなかったが、日本の漁村の多くは半農半漁であるために農業・農村と共通な点も少なくなく、さらに農業・農村と反対な点がたくさんあり、それらを総括することは素人の私にとってかえって可能なことであった。したがって私の『漁村記』および私が『水産界』に連載した「全国漁村見聞記」および「漁村青少年の認識並に文化調査」はただ水産人にも歓迎されただけでなく、有馬頼寧〈ヨリヤス〉氏などの農政家の興味も引き有馬氏の『見聞読〈ケンブンドク〉』(昭和十九年)などでも推せんされ、また銀行家でありつつ民俗学者たちを後援され、自らも優れた民俗学者であった渋沢敬三氏の注意も引いたのであった。そういう関係で私は渋沢氏のアチック・ミューゼアムにおられた宮本さんと知り合ったのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2024・2・8(9・10位は、いずれも久しぶり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする