礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

清水幾太郎、朝鮮人虐殺の現実に接する(1923)

2014-06-08 05:11:18 | 日記

◎清水幾太郎、朝鮮人虐殺の現実に接する(1923)

 昨日の続きである。社会学者の清水幾太郎の『社会学入門』(カッパブックス、一九五九)から、清水が、関東大震災の体験を語っているところを紹介している。本日は、その二回目。

私の全体が悲しみであった 泥沼を渡って、亀戸の方へ逃げて行くうちに、私たちは、群集というか、流民というか、巨大な無組織集団に融けこんでしまった。
 私たちは、素裸〈スッパダカ〉同様の姿で、枕とかお櫃とかいうナンセソスた品物を大切に抱えて、町中一杯の流れを作って、まだ焼けない町をノロノロと動いていく。日は幕れてしまったが、一面の大火事のために、そう暗くはない。誰も黙っているが、みな家を失い、財産を失い、肉親を失っていることをたがいに知りあっている。私の妹や弟もいつか行方不明になっているのである。私たちは病んだ獣の群のようであった。私の心が悲しいと感じるよりは、私の全体が悲しみなのである。前後左右は見知らぬ人間ばかりなのに、私は、その人たちといっしょに、甘い暗い感情、それを抜け出るのが辛いような感情にひたされていた。この人間の流れの中から、時々、ウォーという叫びとも呻き〈ウメキ〉ともつかぬ声が起こる。それを聞くと、私の身体の底の方から自然にウォーという声が出てしまう。
朝鮮人の血 〔九月〕二日の夜、私たちは千葉県市川の国府台〈コウノダイ〉の兵営に収容されて、毎日、行列を作って握飯をもらい、夜は馬小屋や営庭の芝生で眠った。父は、行方不明になった妹や弟を探すために、毎日、東京の焼跡へ出かけて行った。
 あれは三日か四日の夜中であったと思う。馬小屋で寝ていた私は、水が飲みたくなって、洗濯場へ行った。洗濯場には、夜中なのに大勢の兵隊がいて、みな剣を洗っている。その辺は血だらけである。ピックリしている私に向かって、一人の兵隊が得意そうに言う。「朝鮮人の血さ。」私は腰が抜けるようにおどろいた。朝鮮人騒ぎというのは噂には聞いていたが、兵隊が堂々と朝鮮人を殺すものとは思わなかった。だが、もし私が朝鮮人の友だちを持っていなかったら、それほどには感じなかったのであろう。しかし、どういう訳か、私は何人かの朝鮮人の友だちを持っていたし、彼らが暴動など起こすはずはないと思っていた。また、もし私が軍隊というものに親しみを感じていなかったら、それほど驚かなかったかもしれぬ。しかし、父が日露戦争に出征していたということもあり、小学校の六年生の時、兵営の参観に行ったりして、軍隊というものに気安い親しみを感じていただけに、私の受けたショックは大きかった。
 私はゾッとした。軍隊は何のためにあるのか。軍隊によって守られている国家は何のためにあるのか。今から思えば、関東大震災のドサクサの中で、十六歳の私はこの大きな秘蜜の一部分に触れたのである。【以下、次回】

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1 コメント

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驚き (水谷圭一)
2015-10-30 23:38:01
それに近い話は時々紙面にも載るが真実はやぶのなかだったが、やはりこの話は残念ながら事実のように思われる。半島から多くの文化を得て来た日本がこういう追い詰められた状況になるとそんな本音がとびだすのかと思うと遣りきれない気持ちになる。
今日日韓会談を通じて早くよい関係に戻さなくてはなりません。

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