礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒

2018-05-30 05:47:56 | コラムと名言

◎和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒

 話題を『聞書き猪俣浩三自伝』に戻す。この本の語り手・猪俣浩三については、まだ、プロフィールなどを紹介していなかった。デジタル版日本人名大事典+Plus「猪俣浩三 いのまたこうぞう」の項には、次のようにある。

猪俣浩三 いのまた-こうぞう 1894-1993 昭和-平成-平成時代の弁護士、政治家。/明治27年7月20日生まれ。昭和2年弁護士を開業。戦後、社会党の結成に参加。22年衆議院議員(当選8回)となり、人権侵害、汚職問題で政府を追及した。45年アムネスティ・インターナショナル日本支部を設立し、理事長。平成5年8月21日死去。99歳。新潟県出身。日大卒。著作に「抵抗の系譜」など。

 二十年以上前のことになるが、井の頭線の渋谷駅の近くに、「渋谷古書センター」という看板を掲げたビルがあり、その二階か三階に、「榊原書店」という社会科学関係専門の古書店があった。私は、その店で、猪俣浩三著『闇取引と刑罰』(有光社、一九四〇)という本を見つけた。レジに持ってゆくと、老店主が、つぶやくように、「最近は猪俣先生の本を読む方も少なくなりました」と言った。
 この本は、きわめて興味深い本で、戦時体制下・統制経済下における日本人の経済活動の実態を、シンラツな筆致で描いていた。それ以来、この猪俣浩三という人物を、ひそかに注目してきた。
 さて、『聞書き猪俣浩三自伝』によれば、猪俣浩三は、「日本のラスプーチン」と呼ばれた飯野吉三郎(いいの・きちさぶろう)と、「わりあい親しい関係」にあったという。本日は、同書のうち、そのあたりを語っているところを紹介してみよう。

  和製ラスプーチン、飯野吉三郎

 話題が裁判を離れるが……。やはり、昭和七、八年〔一九三二、一九三三〕時分のことだったと思う。私は世に〝穏田〈オンデン〉の神様〟と称されておった、怪行者の飯野吉三郎【いいのきちさぶろう】と、わりあい親しい関係をもっていた。例のロッキード疑獄事件で、戦後保守政界の黒幕だった児玉誉士夫〈コダマ・ヨシオ〉の正体が、一部、明るみにだされただろう。飯野吉三郎も同じように、戦前の政財界の裏面において、隠然たる勢力をつちかっていた男であった。
 それだけではなく、飯野の勢力は宮廷内、とりわけ大正天皇の皇后であった、貞明皇太后のもとにまでおよんでいたふしがある。ために和製ラスプーチンの異名すらあった。ラスプーチンは帝政ロシヤの末期、ツアーの後宮にはいりこみ、数々の悪事をなしたといわれる怪僧だが……。そうした面まで加味すると、飯野吉三郎の往時の黒幕ぶりは、あるいは、児玉以上であったのかもしれない。
 現在、飯野吉三郎の名前が知られるのは、大逆事件の通報社としてではなかろうか。その間の事情は、次のごとくに伝えられている。大逆事件処刑者十二名の中には、いささか毛色の変わった人物として、自由民権運動以来の老闘士奥宮健之の名があげられる。奥宮は同じ土佐出身同士ということから、幸徳秋水とは昵懇【じつこん】の間柄にあった。幸徳より求められて、奥宮は自由民権時代に用いた、爆裂弾の製造方法を伝授したという。そして、この製造方法が、天皇暗殺実行者であった宮下太吉へと伝達されたのだと。
 他方、天性の策謀家をもってなる奥宮健之は、飯野吉三郎との交際もあり、幸徳と飯野との間をとりもったりもしていた。飯野のほうでは、左翼情報源のつもりで、奥宮となじんでいたらしい。その過程で、管野須賀子や宮下太吉の天皇暗殺計画が、いつしか奥宮を通じて飯野の耳にはいり、大逆事件の発覚となった。つまり、奥宮健之が処刑されたのは、いわゆる裏切り者の口封じでもあった。そういう通説が流布しているようだ。
 ところで、その真偽のほどはわからぬが、私は飯野吉三郎のところで、従来の通説とは少し違った、大逆事件発覚のいわれを聞いている。飯野の屋敷には、中年の書生が一人おった。この男が、昔は幸徳秋水らの仲間であったのだそうだ。仲間とはいっても、おそらくは、手伝い程度の仕事でもしていた、浅い関係ではなかったかと思われる。いかにも肉体労働者上がりらしい風体で、知性など少しも感じられない人間だったからだ。貧相な体格の上、前歯が二、三本もぬけておった。だから、歳をとっているのやら、若いのやら、皆目、見当がつかない。どうにも、陰気な雰囲気の男だった。
 事の顛末はというと、この書生が仲間を裏切って、大逆事件の一件を、飯野のもとへ密告におよんだのだという。そうした行きがかりからか、その中年書生は、飯野が飼い殺しにしている様子にみえた。この裏切り者の秘話が、飯野の口からはかれたものか。それとも、中年書生が自ら語ったものだったかは、いまはもう、判然としないのだが……。
 私が飯野吉三郎と最初に出会ったのは、昭和四年〔一九二九〕頃のことであった。それがいったい、どういうきっかけだったかは、もはや、しごく漠然としている。たしか、飯野の家屋敷が差し押さえをくっておって、これに関連した民事訴訟の相談を、依頼されたのではなかったかと記憶する。債権者は大阪の人間で、相手が、音に聞こえた〝穏田の神様〟でもあったからだろう。別城【べつき】という名の、一見して凄みのある壮士まがいの弁護士を、東京へ送りこんできていた。私は何度か、この弁護士と会い交渉したことだけは、おぼろげに覚えている。
 ともあれ、いかなる風の吹きまわしか。飯野吉三郎は、私に対して、ひどく好意を抱いてくれたらしい。その後は家内と一緒に、ちょくちょく自宅へ招待されるようになった。ある正月のことだが、飯野は贔屓〈ヒイキ〉にしている三河万歳を連れて、私の家へ、わざわざ年賀に来たことさえあったのだ。【以下、次回】

 これを読んで重要だと思ったのは、大逆事件の端緒について触れているところである。猪俣浩三は、「その真偽のほどはわからぬが、私は飯野吉三郎のところで、従来の通説とは少し違った、大逆事件発覚のいわれを聞いている」と述べ、飯野吉三郎の屋敷にいた「中年の書生」が、「仲間を裏切って、大逆事件の一件を、飯野のもとへ密告におよんだのだという」という伝聞を披露している。
 ところが、猪俣は、この「中年の書生」の名前を言わない。また、この秘話を、「中年の書生」本人から聞いたのか、飯野の口から聞いたのかという、かなり重要なところもアイマイにしている。これは、どういうことなのか。
 推測するに、猪俣浩三は、その「中年の書生」の名前も知っているし、また、その秘話を誰から聞いたかも、よく覚えていたはずである。ところが猪俣は、それを語ってしまうことに躊躇があったのであろう。
 すでに紹介したように、この本は、編著者の山下恒夫氏が、猪俣浩三から聞きとった話をまとめたものである。聞き手である山下氏には、猪俣の語りがこうした場面に及んだ場合には、その「中年の書生」は誰ですか、その話は、「中年の書生」本人からお聞きになったんですか、などを確認してほしかったと思う。あるいは、そうした確認を経た上で、本にあるような記述に止めたということなのだろうか。

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