子どものころ、マンガ家にあこがれていたこともあって、苦労してマンガ家になった人たちの立志伝とも呼べるマンガやエッセーなどは、いろいろと読んできた。
そのマンガ家に憧れていた人たちにとって、聖地ともいうべき場所が「トキワ荘」だった。
最初は普通のアパートだったのに、手塚治虫が住み、寺田ヒロオが住むようになった。
手塚治虫がアパートを出ていったあとに、藤子不二雄の二人、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ほか…が入っていった。
若いマンガ家たちの「城」にもなったトキワ荘。
彼らが青春時代を過ごしたともいえるトキワ荘ゆえ、たくさんの逸話が生まれたのであった。
だけど、自分にとって、そのマンガ家たちのメンバーの中では、寺田ヒロオについては、よく知らないのだ。
「スポーツマン金太郎」などの代表作があるとは知っていたが、具体的にどんなマンガだったのかよく知らない。
私が夢中になってマンガをよく読むようになった時代には、寺田ヒロオのマンガはもう少年雑誌には載らなくなっていたのであった。
だけど、トキワ荘の話には、必ず登場して来る寺田ヒロオ。
もう少し、彼について、そしてその作品について知りたいと思って、図書館で1冊本を借りてきた。
それが、この「少年のころの思い出漫画劇場 寺田ヒロオの世界」(寺田孝雄監修;講談社)
代表的な作品として、マンガが3つ載っている。
「背番号0」
「スポーツマン金太郎」
「暗闇五段」
の3つが、マンガそのものと登場人物、その前後のあらすじなどが載っていた。
いずれの話も、今見ると登場するキャラクターたちが、昔のギャグマンガのような姿で描かれている。
だが、ストーリーはスポーツの真剣勝負や微笑ましい友情ものもあり、見ていて楽しいマンガであった。
高校時代は野球が好きで、野球部でも活躍していた寺田。
スポーツマン金太郎などは、その経験が生かされた、たしかに面白い野球マンガだった。
川上監督や長嶋選手など、実在の人物も登場している中に、金太郎が野球をして活躍するのだから、事実とフィクションが混じっていて面白い。
後半には、寺田だけでなく、手塚治虫や藤子不二雄らの寺田に関する思い出話が掲載されている。
彼は、トキワ荘の仲間やマンガ家仲間の中では、兄貴分としての存在だったようだ。
「新漫画党」という若手マンガ家たちの勉強会を結成して、そこでも中心として活躍したとのこと。
そして、仲間たちや後輩たちへの面倒見もとてもよかったというエピソードが披露されている。
だから、多くの人たちから好かれていたということが書かれている。
だが、時代が進んで急激に劇画調のマンガがどんどん広がっていくにつれ、彼のタッチのマンガは時代から取り残されていったようだ。
本人は、子ども向けのマンガには刺激が強い表現のマンガはいらない、という強い意志があったようだ。
その意志から、自分のマンガのタッチを変えることなく、マンガ界から離れていった。
とはいえ、間違いなくマンガ界に大きな貢献をしていたことが分かった。
子どもたちのためのマンガを描いていこうとしていた寺田ヒロオ。
思いやりと優しさがありながら、意志も強い人だったのだということを知った。
亡くなったのは、もう30年余り前の1992年。
享年61歳は、やはり早過ぎた。