新潟の観光サイト「「にいがた観光ナビ」には、加治川治水記念公園及び加治川堤の桜について、次のような説明がある。
六千本の桜が連なり、かつて「長堤十里世界一」といわしめた桜の名所です。
その姿は昭和41・42水害と河川改修で失われてしまいましたが、復元が進み、現在では加治川からかつての加治川沿いまで、約二千本の桜を見ることができます。満開の頃には、桜のトンネルが現れ多くの人で賑わいます。(以下略)
春にはその桜の花が美しいので、何回か訪れたことがある。
だが、秋は季節外れとなり行ったことがなかった。
秋はどんな感じなのだろう、と思い訪ねてみた。
いつもは桜のことばかり気にしてしまうのだが、今回訪ねてみて、改めて気になったのは、水門跡のことだった。
説明書のようなプレートが掲示されてあった。
これを見ると、2012年「土木學會選奨土木遺産」「加治川運河水門、土砂吐水門」と書かれてあった。
そうか、「土木遺産」というものがあって、その1つとされているわけだな、と理解した。
その下の説明書きを見て、納得した。
そもそも、この治水公園は、加治川分水脇に造られており、そこにこの水門跡がある。
近くにあった大きな図で、分水路ができる前とそれから後の水の流れの変化について知ることができた。
分水路の工事前には、加治川自体は大きく蛇行して阿賀野川に注ぎ、信濃川とつながっていたということだ。
もともと水はけが悪かったから、よく洪水が起こっていたという。
阿賀野川の松ヶ崎分水路ができると、やがて阿賀野川はそこを本川として流れることになって、加治川の治水状況は改善されなかった。
明治の後半に工事が始まり、5年後の大正年間に加治川分水路が完成し、ようやく水害が激減したそうだ。
だが、昭和41・42年の「羽越水害」で2年続けて堤防が決壊し大水害となった。
そこからさらなる河川工事が行われたが、その際に、分水路を加治川本川として、運が水門があった方を派川としたことから、この加治川水門が役目を終えたとのこと。
それで、そのときに6,000本の桜がすべて伐採されたのだった。
やがて工事が終わり、昭和57年から加治川分水門の復元・保存と桜の再現を量って、この加治川治水記念公園ができたという。
春に行くと、その桜の見事さばかりに目を奪われていた。
だが、この時期に行ったおかげで、治水公園そのものに関する知識を得ることができた。
例年なら、この時期には桜の木はほとんど落葉しているはずだが、今年の秋は、まだ冷え込みが少ないので、多少の落葉はあれども、きれいな紅葉は進んでいない。
でも、これからは、桜だけではなく川にも思いをはせて周辺の風景を見ることができそうだ。