子どものころ、私は、毎日ひどいいじめにあっていた。
力の強い者が勝つ。
弱肉強食の学級だった。
クラスのボスは、一番ケンカの強い男子だった。
人を泣かせる嫌なことをするのが好きな奴だったから、クラスで一番涙もろかった私は、よく泣かされた。
私が泣くのを見て、そのボスやその取り巻き連中はよく言ったものだ。
「泣き虫!」
「弱虫!」
「男のくせに!」
「おとこ女!」
そう言われたって、涙が出るのは仕方がない。
泣くのは、悔しくてたまらないし、味方がいなくて悲しいからだ。
そのたびに、自分が「男らしく」ないとなじられる。
「女なら泣いてもなじられることはない。女ならよかったのに」
そう思ったものだった。
本書を読んで、そんな自分の昔を思い出した。
それとともに、自分が無意識の中に女性と自分は違うという心が潜んでいることも自覚させられた。
本書は、著者自身が、自分が母から受けた経験をもとにしながら、社会が構造的に女性を抑圧していくと述べている。
奴隷的な扱いを受けていても、女性自身がそれに気づかないように社会ができている。
世間や家庭は、子どもをいい子に育てようとする。
しつけの名を借りて、女の子を「いい子」にしようとする。
それは、「女らしく」なるように育て上げること。
それは、女の子が本来もっている人間の力を、押さえつけて骨抜きにしてしまうことなのだ。
小さいころは優秀だった女の子であっても、成長して大人になって生きるとき、結局主婦に甘んじなければならない場合が多い。
男は、小さいころさほど優秀でなくても、成長して社会的な地位を得ることも可能なのに、女は、そういうわけではない。
社会には女性に対するそんな抑圧的な構造が出来上がっている。
それに気づいている人は少ない。
だから、しつけとは、愛の名においてなされるいじめなのだ、と主張している。
よく「男らしさ」「女らしさ」と言われるが、「男らしさ」は自立した人間であることを指し、「女らしさ」は男に尽くす人間であることを指していると、著者は主張する。
男の場合、「男らしい」というと、それは例えば周囲に対するポジティブな姿勢がうかがえる。
ところが、「女らしい」といえば、周囲に対して引っ込み思案であり、男性をはじめ他者に対する攻撃的な姿勢はないのが「女らしさ」である。
自分本来の気持ちと、「女はこうあるべきだ」と外から期待される「女らしさ」の社会規範とに引き裂かれて苦しむことがよくある。
つまり、自分を隠して、周囲からよく見られるようとするのが女らしさにつながる。
男にとって都合のいいのが女らしいということ。
そこに、「自分」はない。
著者が女性に向けて繰り返しているのは、「自立」ということだ。
自分と対話し、自分を受け入れ、自分の中に、これは信じられる、という神を見つける。
そして、パートナーや親ではなく、自分の足で自分のお金を稼ぐことが自立の基本になる。
自立した存在として生きようと呼びかけている。
読み終えて、男性としては、いかに自分たちに都合よく社会ができているかを理解し、女性の立場の大変さやひどさを分かって行動できることが大切だと思った。
意識しないところで都合よくできているということは、それが当たり前ということである。
当たり前と思わず、これは差別なのではないかと考えながら行動することが、男には求められている。
昔、いじめられ自分を否定されて過ごした子ども時代を過ごした自分なら、なおさら気をつけて生きなくてはいけないと思う。
それにしても、本書が最初に出版されたのは、1992年のことだった。(太郎次郎社)
その後、2005年に文庫化され(講談社+α文庫)、2019年に別な出版社(新潮文庫)から文庫として出版されている。
だというのに、30年たっても本書の内容は新鮮に感じる。
名著だ。
しかし、ジェンダーうんぬんとはいうようになったが、いかに社会の価値観が変わっていないかということも感じられる現在でもある…。