30kmからの川沿いの道は、すでに走り続けることはできなくなっていた。
とにかく太ももが筋肉痛になっているし、時折深呼吸もしてみたが息苦しさがある。
しだいに歩きが多くなってきた。
33㎞の平成大橋のガード下に、高橋尚子さんがいた。
ハイタッチをしながら、「あきらめちゃ、だめ。まだいける、まだいける。」と声をかけ続けていた。
タッチを交わしたものの、脚が上がらない私は、ここからはひたすら歩く方が多くなった。
そして、「5時間ランナー」として走っている人が、「私と一緒にがんばりましょう」と呼びかけながら背後から抜いて行った。
この辺では、歩いている人は私だけではなかった。
だけど、走ろうという気のある人は、私を次々に追い抜いていく。
目の前に見える人の大半が、歩く・走るの繰り返しなのだ。
みんな同じように苦しんでいる。
㉞11分8秒㉟10分10秒。
川沿いの土手道を降りてすぐ下の道を戻るようになっても、私は苦しさを味わっていた。
背中が痛い、息が苦しい、太ももが痛い、目の前がちかちかする。
異常に暑くなったり寒気で震えたりした。
時折眠気まで襲ってくる。
早く家に帰って、横になりたいな。
だけど、ゴールは遠い。
制限時間が7時間だから、歩いていればゴールにはたどり着ける。
そんな消極的な考えで、ひたすら歩き、時々走る、を繰り返した。
㊱9分56秒㊲11分14秒。
36kmポイントに戻ると、高橋尚子さんは、まだ人々を励まし続けていた。
私がほとんどを歩き続けていた33分余りの間、彼女は、声をかけハイタッチを繰り返しながら、ランナーを励まし続けていたのだった。
きっと1時間以上そうしていたのではないか。
そのプロ根性に、頭が下がった。
ただのゲストランナーではなく、この励まし方は、なかなかできることではない。
感心した私だったが、それ以上に感心するのは、もう少し後のことになる。
平成大橋を渡り、37kmを越えた。
1km余りの関屋分水沿いの道となり、風が気持ちよかった。
㊳10分48秒。
「あと5km」の看板を見てしばらくたった辺りだった。
後ろから、にぎやかな声が聞こえて来た。
「ほら、あと5km。このままゴールまで行くよっ。」
「今まで歩いていたあなた方を、もう歩かせないよっ。」
…高橋尚子さんの声だった。
彼女は、残り5kmあまりの地点から、歩いているランナーを拾い、「一緒にゴールまで行くよ!」と声をかけながら、集団の先頭で走っていたのだった。
私は、もう自分は歩くと走るの繰り返しでないと進めないから、この一団をやり過ごそうと思った。
ただ抜かれていくのがしゃくだから、少し一緒に走ってみることにした。
すると、不思議なことについていけた。
ウオッチを見ると、走るペースは、きっちり1km7分ジャストのペースだった。
「これなら、行けるかも。」そう思って、もう少しついていくことにした。
給水所を見ると、尚子さんは、「給水取ったら、すばやくちゃんと戻って来るんだよ!」と完全に姉御肌の口調でランナーに命じ(?)、自身は何も取らずに走っていた。
私も水は口にしたが、少し離れた尚子さんとの距離を取り戻そうと、少し速く走ったりした。
「あと3km。ゴールするぞー!」「オー!!」
尚子さんの声に、ランナーたちは勢いづき、どんどん集団がふくらんでいった。
だが、こぼれるランナーもいるようになった。
私も少しずつこぼれ落ちそうになりながら、ついて行こうとした。
不思議なもので、難儀だが、まだ走れていた。
高橋尚子さんのもつ魔力、恐るべし。
気力体力の折れたランナーを走らせてしまう。
ただ、こぼれ落ちそうになるのも当然で、ウオッチを見ると、尚子さんのペースはしだいに上がっていっていたのだ。
㊴8分5秒㊵7分5秒㊶6分35秒㊷6分25秒。
「みんなで一緒にゴールするよー。」「オー!!」
最後には、尚子集団から10mくらい遅れながら、ゴールの新潟市陸上競技場に入った。
そして、ようやくゴールにたどり着いた。
日本文理のチアガールズとタッチする余裕も出た。
そして、ゴール。
目の前にいた高橋尚子さんと、2度目のハイタッチ。
「ありがとうございました!」と思わず叫んだ。
そばの時計表示は、5時間19分を示していた。
去年までなら、ゴールどころかどこかの関門で強制収容されている。
しかし、今年は、7時間制限だ。
だから、堂々のゴール…ということにしておこう。
そう思えど、最後のペースを上げる走りは、最後の体力を奪っていた。
歩くのもきつく、トラックのそばにしゃがみこんだ。
係員が、「大丈夫ですか。担架も用意していますよ。」と言って来た。
笑って断ったものの、まだ簡単に歩けるほどではない。
ふらつきながら、何とか記録発行所へ行き、記録証を受け取った。
去年と違うファイルで、Negiccoが笑っていた。
それを見ても、歩くのが苦しく、競技場のトラックにへたり込んで座った。
そんなに苦しかったのに、完走賞のおにぎりをもらってから競技場を出てみると、手荷物受け取りのための長い行列が、まるでディズニーランドの行列のように蛇行しながら、できていた。
その中の一人とはなってみたものの、あまりの長さと苦しさに、何度かしゃがみこみながら列が進むのを待った。
手荷物交換所で息子と再会した。
息子は、自己新記録を出していた。
同じように、暑さに参った、とは言いながらも、
若さでがんばり切れたようだった。
近くの体育館でもたもたと着替えて、恒例のNegiccoパネルで記念撮影をした。
歩き始めると、「まもなく制限時間となります。」というアナウンスが競技場に流れていた。
まだまだたくさんのランナーがゴールに向かっているのを見て、「7時間制限になってよかったなあ。」と思った。
走り切れなくても、歩いてでも這ってでもゴールに向かおうとした皆さんの姿は美しい。
改めて、そう思った。
私自身は、本来の目標を達成できずに、敗者の気分ではあったけれども、とにかく完走はしたのだ。
そのことには胸を張って帰ろう。
そう思いながら、息子と共に近くの白山駅まで歩き、帰路についた。
苦しみまくった今年の新潟シティマラソン、これにて終了であります。
とにかく太ももが筋肉痛になっているし、時折深呼吸もしてみたが息苦しさがある。
しだいに歩きが多くなってきた。
33㎞の平成大橋のガード下に、高橋尚子さんがいた。
ハイタッチをしながら、「あきらめちゃ、だめ。まだいける、まだいける。」と声をかけ続けていた。
タッチを交わしたものの、脚が上がらない私は、ここからはひたすら歩く方が多くなった。
そして、「5時間ランナー」として走っている人が、「私と一緒にがんばりましょう」と呼びかけながら背後から抜いて行った。
この辺では、歩いている人は私だけではなかった。
だけど、走ろうという気のある人は、私を次々に追い抜いていく。
目の前に見える人の大半が、歩く・走るの繰り返しなのだ。
みんな同じように苦しんでいる。
㉞11分8秒㉟10分10秒。
川沿いの土手道を降りてすぐ下の道を戻るようになっても、私は苦しさを味わっていた。
背中が痛い、息が苦しい、太ももが痛い、目の前がちかちかする。
異常に暑くなったり寒気で震えたりした。
時折眠気まで襲ってくる。
早く家に帰って、横になりたいな。
だけど、ゴールは遠い。
制限時間が7時間だから、歩いていればゴールにはたどり着ける。
そんな消極的な考えで、ひたすら歩き、時々走る、を繰り返した。
㊱9分56秒㊲11分14秒。
36kmポイントに戻ると、高橋尚子さんは、まだ人々を励まし続けていた。
私がほとんどを歩き続けていた33分余りの間、彼女は、声をかけハイタッチを繰り返しながら、ランナーを励まし続けていたのだった。
きっと1時間以上そうしていたのではないか。
そのプロ根性に、頭が下がった。
ただのゲストランナーではなく、この励まし方は、なかなかできることではない。
感心した私だったが、それ以上に感心するのは、もう少し後のことになる。
平成大橋を渡り、37kmを越えた。
1km余りの関屋分水沿いの道となり、風が気持ちよかった。
㊳10分48秒。
「あと5km」の看板を見てしばらくたった辺りだった。
後ろから、にぎやかな声が聞こえて来た。
「ほら、あと5km。このままゴールまで行くよっ。」
「今まで歩いていたあなた方を、もう歩かせないよっ。」
…高橋尚子さんの声だった。
彼女は、残り5kmあまりの地点から、歩いているランナーを拾い、「一緒にゴールまで行くよ!」と声をかけながら、集団の先頭で走っていたのだった。
私は、もう自分は歩くと走るの繰り返しでないと進めないから、この一団をやり過ごそうと思った。
ただ抜かれていくのがしゃくだから、少し一緒に走ってみることにした。
すると、不思議なことについていけた。
ウオッチを見ると、走るペースは、きっちり1km7分ジャストのペースだった。
「これなら、行けるかも。」そう思って、もう少しついていくことにした。
給水所を見ると、尚子さんは、「給水取ったら、すばやくちゃんと戻って来るんだよ!」と完全に姉御肌の口調でランナーに命じ(?)、自身は何も取らずに走っていた。
私も水は口にしたが、少し離れた尚子さんとの距離を取り戻そうと、少し速く走ったりした。
「あと3km。ゴールするぞー!」「オー!!」
尚子さんの声に、ランナーたちは勢いづき、どんどん集団がふくらんでいった。
だが、こぼれるランナーもいるようになった。
私も少しずつこぼれ落ちそうになりながら、ついて行こうとした。
不思議なもので、難儀だが、まだ走れていた。
高橋尚子さんのもつ魔力、恐るべし。
気力体力の折れたランナーを走らせてしまう。
ただ、こぼれ落ちそうになるのも当然で、ウオッチを見ると、尚子さんのペースはしだいに上がっていっていたのだ。
㊴8分5秒㊵7分5秒㊶6分35秒㊷6分25秒。
「みんなで一緒にゴールするよー。」「オー!!」
最後には、尚子集団から10mくらい遅れながら、ゴールの新潟市陸上競技場に入った。
そして、ようやくゴールにたどり着いた。
日本文理のチアガールズとタッチする余裕も出た。
そして、ゴール。
目の前にいた高橋尚子さんと、2度目のハイタッチ。
「ありがとうございました!」と思わず叫んだ。
そばの時計表示は、5時間19分を示していた。
去年までなら、ゴールどころかどこかの関門で強制収容されている。
しかし、今年は、7時間制限だ。
だから、堂々のゴール…ということにしておこう。
そう思えど、最後のペースを上げる走りは、最後の体力を奪っていた。
歩くのもきつく、トラックのそばにしゃがみこんだ。
係員が、「大丈夫ですか。担架も用意していますよ。」と言って来た。
笑って断ったものの、まだ簡単に歩けるほどではない。
ふらつきながら、何とか記録発行所へ行き、記録証を受け取った。
去年と違うファイルで、Negiccoが笑っていた。
それを見ても、歩くのが苦しく、競技場のトラックにへたり込んで座った。
そんなに苦しかったのに、完走賞のおにぎりをもらってから競技場を出てみると、手荷物受け取りのための長い行列が、まるでディズニーランドの行列のように蛇行しながら、できていた。
その中の一人とはなってみたものの、あまりの長さと苦しさに、何度かしゃがみこみながら列が進むのを待った。
手荷物交換所で息子と再会した。
息子は、自己新記録を出していた。
同じように、暑さに参った、とは言いながらも、
若さでがんばり切れたようだった。
近くの体育館でもたもたと着替えて、恒例のNegiccoパネルで記念撮影をした。
歩き始めると、「まもなく制限時間となります。」というアナウンスが競技場に流れていた。
まだまだたくさんのランナーがゴールに向かっているのを見て、「7時間制限になってよかったなあ。」と思った。
走り切れなくても、歩いてでも這ってでもゴールに向かおうとした皆さんの姿は美しい。
改めて、そう思った。
私自身は、本来の目標を達成できずに、敗者の気分ではあったけれども、とにかく完走はしたのだ。
そのことには胸を張って帰ろう。
そう思いながら、息子と共に近くの白山駅まで歩き、帰路についた。
苦しみまくった今年の新潟シティマラソン、これにて終了であります。