goo blog サービス終了のお知らせ 

K-CUSTOM~「EBBRO-エブロ・hpi」ミニカーマニアでいこう!~

EBBRO-エブロ・hpiのミニカー紹介、愛車にまつわるエトセトラ
クルマ、バイク、チャリ。ヒトと同じじゃつまらナイ!

ありがとう・・・

2006-01-17 19:47:01 | Weblog
-1月17日-
みなさんは今日、この日が何の日かご存知でしょうか。
大きな被害をもたらした「阪神大震災が起こった日」と答える人がほとんどでしょう。

-1971年1月17日-
この日、生を受けたひとりの世界チャンピオンがいます。
「リチャード・バーンズ」

彼はレディングのロイヤル・バークシャー病院で生まれました。
8歳になると家の近くの野原で、父親の古いトライアンフ2000を運転し始めたそうです。
彼は11歳で17歳以下の自動車クラブに加わり、1984年にドライバーとなりました。

1986年に彼の父親はニュートンの近くにあるジャン・チャーチルズ・ウェルシュ・フォレスト・ラリースクールに彼を入校させました。彼はそこでフォード・エスコートを運転しました。その後は故郷レディングのクラヴェン・モータークラブに加入し、デヴィッド・ウィリアムズの支援を受け、イギリス国内選手権に参戦しました。

1990年にデヴィッド・ウィリアムズからプジョー・205GTIを与えられ、彼はプジョー・チャレンジに参戦。見事シリーズチャンピオンに輝き、グレートブリテン・ラリーでWRCデビューを果たしました。
翌年はイギリス・プジョーのワークスドライバーに抜擢。1992年まで同チームに在籍しました。

1993年に彼はスバル・プロドライブに加わり、ボクスホールを駆るアリスター・マクレーとイギリス国内選手権を争い、史上最年少チャンピオンとなりました。

1996年に三菱に移籍。1998年のサファリ・ラリーで悲願のWRC初優勝を達成。
1999年にはスバルに復帰。2001年ニュージーランド・ラリーでの一勝のみであったが、彼は同年の世界チャンピオンとなりました。

そして2002年はプジョーに移籍。

運命の2003年11月。
彼はグレートブリテン・ラリーに参加のため、マルコ・マルティンとともにカーディフに向かう途中の車内で突然失神。検査の結果脳腫瘍が発見されました。
2004年シーズン、スバルへ復帰する予定となっていたが病気治療のため静養。
実質的な引退となっていたが2005年11月25日にこの脳腫瘍のため死去。享年34。

バーンズ選手が病に倒れることが無ければ、今日この日、35歳の誕生日を迎えるはずでした。明日からは当ブログも通常営業に戻りたいと思います。

リチャード!!あなたは偉大な人でした。どうぞ安らかに・・・

忘れない為に・・・

2005-12-06 20:12:55 | Weblog
毎年恒例の英国レーシング・ドライバーズ・クラブ(BRDC)の表彰式が行われ、リチャード・バーンズ選手に、イネス・アイルランド・トロフィーが授与されました。元F1ドライバーでBRDC会長を務めた故人の名を冠したこの賞は、最上の勇気とスポーツマンシップを発揮したドライバーに贈られるものです。

イングランド人としてはただひとり、WRCでチャンピオンを獲得したバーンズ選手は、2年間脳腫瘍と戦い続け、今年11月25日、永遠の眠りにつきました。初タイトルを獲得してから4年後のことでした。バーンズ選手の名が受賞者として呼ばれると、シルバーストンにあるBRDCのクラブハウスは感動的な雰囲気に包まれたそうです。

授賞式で司会を務めたジョニー・ジャーディン氏は、
「リチャード・バーンズは残念ながら先週金曜日に亡くなったが、その前に我々は、彼のファイティングスピリットに敬意を表し、この賞を贈ろうと決めていた。」
「当然のことながら、WRCで10勝を挙げ、2001年にドライバーズ・タイトルを獲得した素晴らしきチャンピオン、リチャード・バーンズのことに言及せずには、この授賞式を進めることはできない。」
「彼はサファリ・ラリーで活躍し、1999年に参戦した1000湖ラリーでも大成功を収めた。その時はあと少しでユハ・カンクネンを打ち負かすところまで迫り、全フィンランド人の関心を集め、注目を浴びるようになった。」
「最後の最後まで、脳腫瘍と戦っている間ですら、彼はまさに決然としていた。一切文句も言わずにやるべきことをやり続けた姿は、ちょうどイネス・アイルランドと同じだったが、彼は残念なことに、34歳の若さでこの世を去った。」
「けれども我々は、彼のことをずっと覚えているだろう。」
と語りました。

パリのスタッド・ドゥ・フランスで開催されたレース・オブ・チャンピオンズでは、バーンズ選手と、9月のウェールズ・ラリーGBで亡くなったマイケル・パーク選手のふたりを偲び、黙祷が捧げられたそうです。
今年は2人の偉大な選手をラリー界は永遠に失ってしまいました。
しかし、私たちは彼らのことを永遠に忘れることはないでしょう・・・

最後の、そして永遠のお別れ

2005-12-05 20:30:15 | Weblog
リチャード・バーンズ選手の家族は、バーンズ選手のこれまでの人生と業績を称えるため、一般参加の可能な追悼式を今月の終わりにロンドンで執り行うと発表しました。
通常の葬儀は、家族と親しい友人のみで今週に行われるそうです。
家族からの声明は以下のように書かれています。

「内輪のみの葬儀を行った後、リチャードのこれまでの業績を称えることを目的として一般参加が可能な追悼式を行います。」
「この一般追悼式は、リチャードの人生を称えるためのものであり、出席者は相応の服装で式に臨んでほしいと思います。」
「家族とリチャードのパートナーであるゾエ・キーンは、世界中のリチャードの友人やファンに対し、感謝の気持ちを表したいと思います。大変多くの人々が、公式サイト(www.richard-burns.com)における追悼ページにおいて、リチャードに対する敬意を表してくださいました。」
「1万5千人を超す方々からオンラインで哀悼の言葉をいただき、その心温まるメッセージは、単にリチャードに対する敬意や、世界的な人気を表すだけにとどまらず、現時点において私どもにとって本当に励みになっています。」

バーンズ選手は2003年11月に脳腫瘍と診断され、それから2年間勇気を持って病と闘いました。
ですが彼の復活にかける強い思いにもかかわらず奇跡は起きず、11月25日に帰らぬ人となってしまいました。
彼がイングランド人として初めて、そして唯一の世界ラリーチャンピオンとなってからわずか4年後のことでした。
一般追悼式は、12月22日(木)午前11時よりロンドンのセント・ルーク教会にて行われるそうです。

ぜひとも参列したいのですがロンドンにはさすがに行けません・・・
遠く離れた日本からですがバーンズ選手のご冥福をお祈りしたいと思います。

早過ぎる死、過酷な運命

2005-11-28 18:38:18 | Weblog
2001年のWRCチャンピオン、リチャード・バーンズ選手が長い闘病生活の末、11月25日、34歳という若さで亡くなりました。ミツビシ、スバル、プジョーで活躍したバーンズ選手でしたが、タイトル争いの最中の2003年の最終戦、ウェールズ・ラリーGBに向かう途中で脳腫瘍による発作が起き、ラリーを欠場しその後は病気治療に専念していました。

2003年のラリーGBへ向かう途中、運転中に突然気を失ったバーンズ選手は、隣に乗っていたマルコ・マルティン選手が助手席からクルマを路肩へと運転し事なきを得ましたが、その後病院へと運ばれました。検査の結果、脳に星状膠細胞腫が見つかり以降、治療生活を行っていました。今年の初めにも手術を行っていましたが、11月25日、家族や友人が見守る中その生涯を終えました。

バーンズ選手はWRC104戦に出場、10勝を挙げました。初優勝はミツビシをドライブしていた1998年のサファリラリー。翌年、スバルに移籍し1999、2000年は選手権2位に、そして01年にはチャンピオンを獲得!!
2002年にはプジョーに移籍しましたが、プジョーでの2年間は勝利には恵まれませんでした。しかし、2003年は未勝利ながらタイトル争いに絡み、最終戦を迎える段階ではトップのセバスチャン・ロウブ選手から5点差の58ポイントを獲得していました。
そして2004年には再びスバルに戻ることが決定していましたが、2003年シーズンを終える前に闘病生活を余儀なくされていました。

病に冒されなければ、今でも一線級のドライバーであったことは間違いありません。
あまりにも早過ぎます・・・
心より御冥福を祈りいたします。

業務連絡

2005-11-28 18:26:23 | Weblog
3泊4日の研修に行っていました。
色々とつかれたました・・・

ココ何日かで様々なことがありました。
しばらくはTOPをこのデザインに変えておきたいと思います。

ラリー界は大切な人を失いました・・・

戦略結婚の行く末

2005-11-24 19:32:38 | Weblog
少子化により苦戦の続く玩具業界。
老舗メーカーの倒産、合併が続いている中、大手で来年3月に合併を予定しているトミーとタカラは22日、東京・丸の内で会見を行い、合併後の新しいロゴマークや合併後の企業グループの基本思想などを発表しました。

新しいロゴマークはブルーを基調に「タカラ」と「トミー」の名前が重なったものとなりました。「縦と横の長さを、美しく見える黄金分割の比率にして中に両社のロゴを入れた」(富山幹太郎・トミー社長)デザインとなっており、合併後も調和の取れたグループ展開を行う考えを示しました。
タカラの佐藤慶太会長は「トミーの良さはマネジメントがしっかりしている点で、タカラは面白い点。両社の良い面を足せばよい会社になれる」と、合併後の発展に改めて自信をみせました。

トミーとタカラでは、8月に行った第一回目の説明会で合併によるコスト削減効果として100億円の目標を出した。

今回の説明会では、商品化決定プロセスを見直し、過剰在庫を抑制することや、事業戦略統括室の設置によって企画から販売、消費者までを見通した最適な事業戦略の策定を行うことを発表しました。
これにより、2007年3月までに85億円、次年度に10億円、さらに次年度に5億円のコスト削減効果を確保するという。

グループ構成と組織に関する基本思想では、第一にスリム化された高収益の本社機能と、事業戦略を追求する子会社の確立を目指す。
海外事業については、米玩具大手であるハスブロとの提携強化、欧州でのタカラ製品の販売、アジア戦略の強化により、2009年度で500億円の売上確保を狙うとのことです。

私個人としては、「トミカ」「チョロQ」の今後ばかりが気になってしまいます。なんだか最近「値段の高さとクオリティのアンバランスさ」ばかりが気になってしまうチョロQ。トミカを先生に生まれ変わってくれればと思っています。

納得いきません。

2005-11-22 21:38:57 | Weblog
プロドリフト選手権。
「D1グランプリ」
2005年最終戦「筑波ラウンド」が11月20日に行われました。

注目はチャンピオン争い。
シルビアに乗る「ワクワクさん」こと風間靖幸選手。
RE雨宮のFD3Sに乗る末永正雄選手。
二人の走りに注目が集まっていました。
そしてベスト8で直接対決となりました。

風間選手が先行の際に、末永選手が接触!?
実際は、風間選手のギア抜け(ミッショントラブル?)による失速が原因とのことでした。その結果末永選手のベスト4進出が決まりました。
が、この時足廻りうけたダメージが原因で末永選手はリタイアしました。
エビスでもこのような状態で風間選手は熊久保選手と接触して(その際は風間選手の勝ち)います。
「スペアカーを使うのはフェアではない」という雨宮監督の判断で、リタイアを決定したとのことですが・・・

私は正直納得がいきません。風間選手のこの様なトラブル?による接触・撃墜は二回目です。たとえトラブルでも走行妨害で失格にするべきだと思います。今回は末永選手が「試合に勝って、勝負に負けた」結果になっていますが・・・正直?です。

年々、高度化・メジャーイベント化をしているD1。
メジャーイベントへの階段をもう一歩上るにはルール明確化などの大きな改革が必要だと思います。

東京モーターショー見聞録 その8

2005-11-04 22:53:20 | Weblog
行ってきました!!
第39回東京モーターショー!!

今回はその8です。
永らくお待たせいたしました!!

二輪館、カワサキブースでの一枚です。
一緒に写っているのはZZR1400というオバケバイクです。
ありえないパワーを発揮する、ありえない一台。
プロ以外の人が扱えるのか疑問なバイクです。
自殺したい人にもってこいの?マシンですね。
二輪館はレベルが高かったです。いろんな意味で。

手持ちの画像がなくなってしまいました。先輩の画像データが手に入り次第「回顧録」として再連載したいと思います。

ニアミス

2005-11-03 16:49:49 | Weblog
トヨタF1ドライバーのヤルノ・トゥルーリ選手とラルフ・シューマッハ選手がアムラックス東京にやって来ました!!今年の活躍の原動力ともなったTF105と共に快く記念撮影に応じてくれました。・・・ウソですけど。

久しぶりにアムラックス東京に行ってきました。
そこで画像の二選手の「抜け殻」とエンジンレスのTF105(104?)を発見しました。東京モーターショーだけでなく、こんなところでも展示されていました。

TF105とヤルノ・トゥルーリ選手といえば、先日MINICHAMPSから「JAPAN POWER」と言うシリーズが発売となりました。
佐藤選手のB・A・Rは瞬殺のようでしたがトゥルーリ選手のTF105は・・・余裕があるようでした。ポイントは佐藤選手の43倍獲得したのですが。売れ行きが43倍にはならないようです。