まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

Topic 神宮外苑から都市計画の現在を考える

2024-08-11 21:38:20 | 建築・都市・あれこれ  Essay

神宮外苑の巨大再開発

 神宮外苑では、ホテル付野球場、屋根付きラグビー場、超高層ビル三棟を含む巨大再開発事業が行われようとしています。開発事業は地権者である明治神宮、伊藤忠商事などにデベロッパーである三井不動産などが加わった形で進められています。この計画に対しては、国民をあげての奉献活動によってできた緑あふれる外苑の環境が損なわれること、とりわけ多くの既存樹木が失われることに対して、坂本龍一さんや村上春樹さんははじめ多くの人から危惧の声があげられました。また、日本イコモス国内委員会も「近代日本の公共空間を代表する文化的資産である神宮外苑の保全・継承について」というコメントを発表し、今の計画を見直すよう提言を行っています。

 私が、神宮外苑のことに興味を持ったのは、2013年の夏に建築家槇文彦氏が、東京オリンピック(その時点では招致活動中)を見据えた新国立競技場建て替え案(ザハ・ハディッド案)のあまりの巨大さ、周辺環境との不釣り合いに警鐘を鳴らして以来ということになります。その時以来、槇文彦氏が東京都体育館を設計する折に高さ制限で苦労された第2種風致地区(建築物の高さは15mまで)に、なぜ70mを超える新国立競技場(ザハ・ハディッド案、その後の大成建設・隈研吾案でも50m弱)が建つことになるのか、納得いく説明は得られませんでした。さらに、オリンピック後の現在進められている再開発計画では、建物の密度も上がり、200m近い超高層ビルも林立することから、従来のゆったりとした外苑のイメージは失われます。それは事業者が発表している下のパースを見ると明らかです。

神宮外苑まちづくりHPより引用 https://www.jingugaienmachidukuri.jp/planning/

 

 もし現在の計画を是とするのであれば、風致地区というこれまで長く守られてきた都市計画の枠組みを外したうえで、この地区は「世界都市東京における企業活動にとって大切な地区であり、風致を重んじるという従来方針を変更します」という説明が必要でしょう。しかし、現実には風致地区や、都市計画公園指定、文教地区などの都市計画の基本は変わっていません。都市計画の大枠は変わらないのに、なぜ一般の商業地区と変わらない巨大開発を進めることが可能なのか?。またそれは都市計画として健全なことなのか、そのあたりのことを考えてみたくなりました。

 その疑問に答えるためには、神宮外苑プロジェクトがどのような都市計画の仕組みのもとで「合法的」な状態になっているのかを知る必要があります。自分で調べるのには限界があるなと思っていましたら、東大の大方潤一郎先生が、わかりやすい資料をネット上で公開してくれていました。大方先生は、都市計画の専門家として、今回の開発の仕組みを批判的に紹介しています。大変勉強になります。大方先生の資料を手掛かりに、都市計画の視点から神宮外苑問題を考えてみたいと思います(随時大方先生の以下の資料を引用しています)。

参考にした大方潤一郎先生の資料:

https://toriaez-hp.jp/assets/2-1600000013/uploader/D8gQmtQCK6.pdf

https://toriaez-hp.jp/assets/2-1600000013/uploader/Pz1RO52T9r.pdf

 

神宮外苑の風致を守る都市計画は3つ:風致地区、都市計画公園、文教地区

<風致地区>

 神宮外苑は1926年に東京で最初の風致地区に指定されました。風致地区は都市計画法(1919年)で設けられた地域地区の一つです。「都市において自然的な要素に富んだ土地における良好な自然的景観」である風致を維持するための地域地区です。風致地区では、建築は許可を得ないと建てられません。原則としてたかさ15m以内で、周辺の風致と不調和でないことが許可の条件です。

「建築自由の国」日本においては例外的に大変厳しい規制です。明治天皇崩御の後、多くの国民の浄財や勤労奉仕でつくられたのが神宮内・外苑です。その風致を守るために、内・外苑ともに、厳しい風致地区に指定されているというのは、都民、市民にとっても納得のいく都市計画(風致地区)だと言えます。

<都市計画公園>

 神宮外苑は民間の敷地ですが、都市計画公園に指定されています。実態としては公園ですが、公園の指定はそのままかかっていますので、3階以下で容易に移転できるもの、すなわち木造住宅程度しか建築できないという厳しい規制のもとにあります。

<文教地区>

 またこの地域は都の条例で文教地区になっています。文教地区ではホテル、旅館そして観覧場はつくれません。このあたりのことも大方先生の資料にまとめられています。

 以上のように外苑地区には、(細かいところまでは分かりませんが)概ね都市計画が適正に適用されていると考えてよいと思います。

ちなみに、都市計画法では目的や基本理念が下記のように掲げられています。

(目的)

第1条 この法律は、都市計画の内容及びその決定手続、都市計画制限、都市計画事業その他都市計画に関し必要な事項を定めることにより、都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与することを目的とする。

(都市計画の基本理念)

第2条 都市計画は、農林漁業との健全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活及び機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的な利用が図られるべきことを基本理念として定めるものとする。

 ここから読み取れることは、健康で文化的な都市生活のためには、私権には制限を設ける必要があるということです。都市空間の形成には様々な主体が関与しています。複雑な力関係の下で出来上がります。民間企業であればできるだけ大きな建物を建てて、最大限の利益を得たいと思うだろうし、そうすることが株主への責務でしょう。しかし、大きなビルを建てることで日が当たらなくなる住宅もあれば、そのビルへの電力供給や発生交通など、いろいろ周りも含めて考えないといけないこともあります。また機能的な都市活動のためにはすでに住宅となっている土地に道路を通さないといけないこともあるでしょう。ほおっておくと、混乱のままの市街地となります。ルールが必要です。そのルールの基本が法定都市計画ということだと思います。

 

風致を守ってきた都市計画を残したまま、新たな地区計画などが上書きされた

 前項のように歴史的風致を守り継承していくための都市計画が用意されているのに、なぜ前述したような巨大開発が可能となるのでしょうか。どのような都市計画の仕組みなのでしょうか。大方先生の資料を頼りに整理してみます。

<地区計画、再開発促進区>

 地区計画神宮外苑地区には2003年に最初の地区計画がかけられました。「神宮外苑地区地区計画」です。地区計画では、都市計画が扱う範囲よりもずっと小さな特定のエリアについて、区域の整備、開発及び保全に関する方針が定められます。その後何回か改正を重ね、2022年には地区計画の中に再開発促進区が設定されました。この再開発促進区になると、風致地区の高さ制限の緩和が可能になるのです。地区計画及び再開発促進区で詳細な計画が決められたので、これまでの風致地区の規定に従う必要はないという扱いです。この地区計画に沿った開発案を事業者が提示しているのです。

 都市計画の仕組みとしては、合法的な手続きが進められています。その点については小池知事が言う通りです。

 確かに手続き上は、問題ないのですが、銘記すべきはその地区計画および再開発促進区の計画内容が、市民の望む神宮外苑の風致をきちんと守る内容になっておらず、ただただ地権者・関係者の土地を最大限有効活用したいという意向だけで組み立てられていることです。「風致を損ねる地区計画」が、できたので、従来の「風致を守る都市計画」を上書きしていいというのは、おかしな理屈です。

<公園まちづくり制度>

 都市計画で公園(都市施設)と指定されているのだから、一般的には木造住宅程度の簡易な構造物しか許可されません。将来公園にするときの障害にならないためです。これは都市計画法に定められています。ところがここでは200m近い超高層が建つことになっています。それは2013年に創設された「公園まちづくり制度」を適用しているからです。

 都では公園として都市計画されても、50年間動きがなく公園になりそうにないところを都市計画公園から外して、民間の開発を進めるという方針を打ち出しました。民間開発により高層化することによって足元に公園的な空地を生み出せばいいという考え方です。

 外苑地区においては、ラグビー場とその周辺が「公園としての実態がない」と判断されています。神宮球場は公園として機能していると判断されているになぜラグビー場だけ公園的でないと判断するのかわりませんが、さらに不可解なのが、公園から除外されるエリアが、ラグビー場の敷地形状とは異なることです。いわゆるゲリマンダー(計画者の恣意的な区分設定のこと)的な区分けです。ちょうど三井不動産が超高層を建てるエリアにぴったりとした形状で公園から除外しているのです。ここまで来るとちょっと開いた口が塞がらないという感じです。

 このほか、文教地区の規制により、新神宮球場に併設されるホテルや屋根付き競技場(観覧場)は許可できないのですが、「知事が必要と認めた場合」にはこの限りでないという条文があるので、私が推測するに、おそらく難なく事業者はクリアーしたのでしょう。

 

何が問題なのか?

 開発に伴う環境影響評価の問題なども大方先生はきちんと指摘されています。樹木の問題など多くの課題があるのですが、ここでは都市計画に関わる領域に議論を集中したいと思います。

<地区計画が免罪符になっていること>

 地区計画はローカルなエリアの条件を反映し、住民の同意も得ているはずなので、地区計画に定めれば市域全体をカバーする都市計画よりも上位としてよいという考え方があります。通則的な制限を強固に規制してもよいし、反対に大幅に緩和してもよいという認識につながります。一般的にはその通りだと思います。

 ただ、神宮外苑の場合、都市全体の観点から規定されている風致地区で守ろうとした価値が、地区計画の内容により、著しく阻害されています。明治天皇を顕彰するための樹林等がつくり出す歴史的風致と、地区計画に定める超高層ビルがそぐわないということは否定しきれないと思います。超高層ビルを前提とする地区計画や再開発促進区を実現したいのであれば、堂々と神宮外苑の風致地区を外したいという議論をすべきです。

 少し地区計画制度の歴史を振り返ります。地区計画はある一定のまとまりを持った「地区」を対象に、その地区の実情に合ったよりきめ細かい規制を行う制度です。市域全体で決めている都市計画の内容を強化したり緩和することができます。1980年、日本でも「ドイツのBebaungsplanのようなきめ細やかな形態規制をすべきだ」という多くの都市計画関係者の声に応えてできました。地区の固有性に対応した細かい都市計画規制を用意したいというのは都市計画関係者の長年の願いでした。私は1970年代に都市計画を学びましたが、その頃日笠先生や日端先生たちが、より良い市街地の姿を実現するうえで有効な手段となる地区計画制度の必要性を強く訴えておられたのことを思い出します。

 前段からもわかるように、本来地区計画制度は、都市全体を扱う既存の都市計画では一般的なルールを定めることしかできないので、より詳細に地区の実情に応じた、計画的な裏付けのあるルールを定めようとするものです。どちらかというと、都市計画で定めるよりも、詳細で厳しいルールを共有することで、暮らしやすく美しい環境を作り出していこうという考えです。その地区計画が、本来の意義を離れて、単なる「既存のルールを守らないための手法」として機能していることが、残念です。「地区計画さえ作ってしまえば、既存のルールを守らなくてもよくなる」という、事業者の開発にお墨付きを与える手法になってしまっているのです。

<都市計画は機能しているのか> 

 都市計画制度の存在意義が問われていると思います。中曽根内閣の規制緩和路線から、今日の都市再生まで、この40年ほどは、大都市の都市空間を利権の対象にするという視点が強調され過ぎています。確かに、グローバルな競争の中で、大胆に空間再編を進めるべき場面もあるとは思います。グローバル企業にとっては、生死をかけた戦いの場所なのでしょう。しかし、都市は、人が心地よく誇りをもって文化的に暮らせる場所でなくてはなりません。その部分を忘れてしまうと、長い目で見た時にそのまちは選択されなくなってしまうでしょう。グローバル企業から一人暮らしのお年寄りまで、多様な関係者の願い・思いをうまく調整しながら最適解を見出していくのが都市計画の役割です。その役割を十分果たしているとは言えない状況です。

<事業者の都合に公益性があるのか>

 開発事業者の広報をみると、「明治神宮が外苑を維持管理する費用捻出のために、開発事業の利益最大化を図る」ことが重要であることを力説しています。明治神宮が維持管理すべきなのは風致に富んだ明治神宮であり、開発利益最大化のために改変され風致を失った環境ではないはずです。維持管理のお金を生み出すために、維持管理すべき大切な風致を失うというのはパラドックスです。

 また明治神宮は進駐軍から返還された明治神宮を国から格安の値段で払い下げしてもらっています。大方先生の資料によると、払い下げにあたって「遊覧のみを主とする場所、例えば上野、浅草両公園とはその性質が異なるので、明治神宮に関係のない建物を遠慮すべきはもちろん・・・」という申し入れを受け入れています。その約束を反故にしてはならないのではないでしょうか。

 今回の計画を俯瞰すると、事業者の最大利益確保のために、都市計画側が協力をしているという構図が浮かび上がってきます。

これからなすべきこと 

 神宮外苑の問題は、いろんな問を私たちに突きつけています。

 第一には坂本龍一さんがいうように「目の前の経済的利益のために先人が100年をかけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々を犠牲にすべきではありません」ということ。

 そして第二。私たち都市デザインに関わるものには、先人たちが築き上げた都市計画が、健全に機能していないのではないか、今都市に関わるものがなすべきことは何か・・・ということのように思います。

 これからどうすべきかというのは難しい問題ですが、風致を守りながら、施設を更新していく都市デザインを構想することが必要です。球場やラグビー場がバリアフリーなどの問題を抱えていることは分かります。しかし、前提条件は風致を守ることです。都市計画家、都市デザイナー、建築家などの役割が大です。

 明治神宮内・外苑を国民的関心の中で造営したときのように、多くの人々の参画も必要でしょう。また神宮外苑の持つ公共性を考えると、国や都の資金を投入することに市民は異論を持たないのではないでしょうか。

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design

設計計画高谷時彦事務所 TAKATANI Studio

 

 

 

 

 

 

 


久しぶり、渋谷で映画

2024-08-11 15:03:17 | 建築・都市・あれこれ  Essay

 久々に渋谷で映画鑑賞。「マミー」。和歌山カレー事件を扱ったドキュメンタリーです。冤罪の可能性が高い事件です。

 渋谷ではアップリンク(渋谷アップリンクはなくなり今では、吉祥寺アップリンクだけですね)やユーロスペースなどには何回か行きましたが、イメージフォーラムは初めて。100席弱の地下スクリーンでの鑑賞でした。いいスケールです。かみさんのおかげです。

 ネットで検索すると、高崎正治氏が設計したとのこと。意外?におとなしい建物でした。

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design

設計計画高谷時彦事務所 TAKATANI Studio

 


Lec.7 事例研究 イチローヂ商店

2024-08-09 18:14:18 | 地域風景の構想 design our place

 

 

 


Lec.7 まちかどの物語を聞く:風景との対話

2024-08-08 22:45:20 | 地域風景の構想 design our place

Lec.7 まちかどの物語をきく:風景との対話

(1)気になる建物、まちかど

 私たちのまちの中には、周囲から抜きんでて強い印象を与えるランドマークと呼ばれるものがいくつかあります。鶴岡でいうと、歴史的中心部にあって、大きくて目立つ文化センター(荘銀タクト)のような建物、酒田でいうと、新井田川の橋詰に特徴的な屋並をつくる山居倉庫のようなものです。また鶴岡駅前にツインタワーとしてそびえる再開発ビル(マリカ東館と西館)、あるいは酒田駅前に高層のホテル、住宅と図書館などの文化施設の複合体、ミライニも代表的なランドマークです。

左は荘銀タクト(鶴岡)、右は山居倉庫(酒田)

 そういったランドマークが地域風景をつくるうえで、無視することのできない大切な要素になることは論を待ちません。ただ私がここで、扱おうとしているのは、まちのみんなが知っている目立っ建物(ランドマーク)ではなく、個人にとって「少し気になる建築」あるいは「ちょっと気になるまちかど」のことです。

 気になるまちかどの対象は人によって違うことになります。個人的な思い出に結びついている場合もあるでしょう。あるいは幼いときから大人になった今日までその前を通っているが、何か他の建物とは違うものを感じるという場合もあるかもしれません。

 私の場合は、どうしてもまちのところどころにある、歴史的なたたずまいを持つ建築が気になってしまいます。私は、2005年に東北公益文科大学大学院に研究室を持ちましたが、それ以来折に触れ鶴岡や酒田など庄内のまちをぶらぶら歩くようになりました。この地域は、空襲にあっていないこともあり、ポツンぽつんと面白い歴史的建築がある。そういう建築は、よそ者である私に、この地域はどういう歴史があり、また何を大切にしながら人々が暮らしているのかを語り掛けてくれます。

 例えば一つの気になる建築があるとします。私のようなよそ者の目に留まるということは、何か周りとは違う雰囲気を持っているということです。そういう建物には、曰くがあるはず・・・言い換えると作った人の特別の思いや、そうなったいきさつが閉じ込められているはずです。どういう人がどういう経緯でつくったのか、あるいはその後どのように使われてきたのか、知りたくなります。また大変手の込んだディテールがある場合。これは建て主の思いであったり、またつくった職人の気持ちが込められていたり、その両方であったりするでしょう。そこに込められた意匠の意味や、技法など、興味は尽きません。またそれが作られた時代性というのもあるでしょう。当然、素材や技法には地域の特徴が出ます。

 そのような様々な事柄を、建物は私に語り掛けてきます。そういう建築の声に、耳を傾けることで、私は庄内のまちを良く知り、関心を深めていくことができます。

 もちろん、歴史的建築だけでなく、気になるまちかどはあります。写真の建物は、「歴史的」というほど古いものではないと思いますが、とても惹きつけられるものがあります。この建築の場合には、設計者にあってお話を聞きたいというのが、私の気持ちです。

 これは地元の人にとっても同じだと思います。ふと気になる建物や街角の風景に出会ったときに、自分が何に惹きつけられているのか、立ち止まって考えてみることも、意味があるのではないでしょうか。そこからまちの歴史やくらしを知ることが、まちを誇りに思う気持ちにつながっていくはずです。

  自分の気になる建物や街角の声に耳を傾ける、そして語られる物語をより深く理解するために、その建物などについて詳しく調べてみる・・・そういった活動をすることで、いつもの見慣れた風景の中に特別の彩を見出すことができます。風景との対話により、自分とその場所とのかかわりをより深めていくといってもよいでしょう。

 戦災に会わず、歴史的なものが多く残るまちには、多くの気になる建物や場所との出会いがあります。鶴岡のまちで、私が気になり、また研究室で長くかかわることになったのが次の2つの建物です。

 

(2)旧小池薬局恵比寿屋本店(参考:事例研究)

 鶴岡の中心部を、市役所でまちづくりの先頭に立っているHさんと歩いていた時のことです。ふと、古い薬局があることに気付きました。RCの建物で、いわゆるアールデコの意匠を纏っています。1930年代前後からはやったスタイルです。鶴岡にもあったんだ、面白い建築ですねと、Hさんに話したら、彼も面白がって、中を見せてもらえるか頼んでみますといって中に入っていきました。彼は私とは違い行動派です。

 そこから、私と旧小池薬局恵比寿屋本店の付き合いが始まりました。オーナーの小池F子さんが誇らしげに語ってくれた昔話を聞いてまず驚きました。この小池薬局が、薬の「宝丹」を東北一売ったというのです。宝丹は(株)守田宝丹が明治期に売り出したお薬で、日露戦争では「征露丸」とともに兵士が常用した薬です。

 私は大変驚きました。東京の上野にある守田宝丹の本店ビルを設計したのが私だったからです。不思議な縁を感じました。自分がこの旧小池薬局恵比寿屋本店を通して、この地にもつながっていることを感じました。

 その日をきっかけにF子さんから、守田宝丹から送られた立派な看板のことを伺ったり、建物の中も見せていただけるようになりました。残念なことにF子さんはしばらくして亡くなられ、新しいオーナーさんが建物を引き受けられましたが、大変価値のある建物なので、引き続き調査をさせていただき、国の登録文化財にすることができました。

 地元でも建物の価値を認識してくださり、市民や商店街、地元建築士会の皆さんと活用策を愉しく考えるイベントを催したりしました。今は、商店街の若い方々が中心になり、様々な催しで活用しています。

 私たち研究室でやれたことは「建物の価値を明らかにして、みんなに知ってもらう」ということだけでした。建物の価値については簡単な所見にまとめました。教育委員会と相談し、オーナーさんの理解も得たうえで、数年前に国の登録文化財に申請しました。

 大切なのは活用していくことですが、今後の地元の若いまちづくりリーダーの方々の活動に注目しています。

 

(3)イチローヂ商店(参考:事例研究)

 私が大学に研究室を持つ以前、初めて鶴岡に来た1990年代から気になっていたのがイチローヂ商店です。

 内川にかかる大泉橋のたもと、橋詰めにある不思議な3階建ての建物です。3階建ての塔状の洋館と、後ろにある2階建ての和館が組み合わされています。赤いトタンで覆われている洋館の1階は陶器屋さん。木造の和館はお住いのようです。

 調べてみると、昭和初期に橋をかけ替えたころに、三階建ての洋館はできていました。背後の和館はその前から古い写真に登場していました。中の構造を調べると、道路側にある3階建ての洋館の一部は、和館の構造体の上に不思議な形で載せられていることが分かりました。

 洪水で流されて新しく鉄筋コンクリート造の橋ができるのに合わせて、どうしても3階建ての洋館を建てたかったのだろうと思いました。木造建築がほとんどの時代に、3階建ての洋館は目立ったはずです。しかも橋詰というのは、まちにとっても特別な場所です。橋に面したコーナーには立派なショウウインドウがありました。

 この建物には、洋館を建てた方の息子さんと思われる方が住んでおられましたが、私が鶴岡に関係するようになった頃、お亡くなりになりました。このままだと空き家になり、取り壊しになる可能性が高いと思われました。

 私たちは、地元商店街の方々や、建築士会の人たちと建築調査をするとともに、空き家になる運命にあった建物の再生計画を立てました。ただ、この敷地のうえには都市計画道路が都市施設として指定されており、木造2階までしか建てられないことが分かりました。木造3階建てのこの建物は建築基準法でいう既存不適格建築であり、大規模な改修はできません。大きなハードルを前に、どうすればいいか頭を抱えることになりました。

 そんな折、土地と建物を買ってくださる方が現れ、貸しスペースとしての改修が行われました。建築基準法をどのようにクリアしたのかは、わかりませんが、残念なのは、洋館の外観なども「和風」になり、川に向いたショウウインドウもなくなってしまいました。もちろん壊されなくてよかったという思いですが、それまでの「異彩の輝き」が、全くなくなってしまったことは残念でした。

 しかしこの大泉橋の橋詰に不思議な建築物があったということは、人意図の記憶に残り続けると思います。橋詰というのは、日常空間であるまちが、川という異空間と出会う場所です。鶴岡出身の藤沢周平氏も橋詰という場所の特異性を前提に、男女の出会いの物語を描いています(藤沢周平1983『橋物語』)。今後、どういう物語が、この橋詰で生まれていくのか・・・そう思うと、この場所は、私にとって気になり続ける場所であり、多くの人にとっても多彩な物語を聞くことができる場所であり続けると思います。

(4)まちかどの物語を多く持つこと

 最近長野県の松本市を訪ねました。訪れて驚いたのは、実に「気になる建物」がまちにあふれていることでした。私のような一介の旅人にも、多くのことを語り掛けてくる建物が、たくさんあるのです。

 わかりやすい例を挙げると、下のようなミニお城建築。

 当然賛否はある(私は賛の方です)でしょうが、いつだれがなんでこんな建築をつくったのか、知りたいと思いました。市民はみんな知っているのかもしれません。ただ中途半端な気持ちでつくれるようなものではないので、つくった方の並々ならぬ気持ちが伝わってきます。こういう建築のいきさつを多くの人たちが賛否を含め共有できることが大事だと思います。

 もう一つだけ例をあげます。玄関わきに洋館がくっついています。

 

 仮に先ほどの例が、「お城を商店の上に乗せるのはおかしい」といわれるのであれば、この建築も「和館にとってつけたような洋館はおかしい」となると思います。しかし、玄関わきに洋風の応接室をくっつけることは、大正から昭和初期にかけて大流行でした。したがって私たちの目にもある意味おなじみなので、不思議な感じはしないのだと思います。

 良い悪いという論争も楽しいのですが、いずれにせよ、松本のまちには、このような気になる建築であふれていました。またそれらがみんな、きちんと活用されています。歩いて楽しいまちです。

 まちの中に、それぞれの人が気になる建物やまちかどがたくさんあり、それに親しみを覚えるとしたら、その人とまちは、深くつながっていくのではないでしょうか。そういうまちに、人々は愛着を感じ、大切にしたいと思っていくのだと思います。

 私の場合には、建築になってしまいますが、人によってはお店(の食べ物や売っているもの)だったり、橋や樹木だったりするのかもしれません。また、まちの名物おじさんが気になるという場合もあるでしょう。気になるまちかどを多く見付け、それとかかわっていくことで、まちともっと繋がっていきたいものです。

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design

 


Topic 1  都市デザインを考える

2024-08-07 00:01:59 | 建築・都市・あれこれ  Essay

 私の関心は、東京や地方都市において都市デザインがどういう役割を果たしうるのか、役割を果たすためには何をどういう視点からなせばよいのか・・・というところにあります。最終的にそこまで到達できればいいのですが、ここでは日々の活動の中で都市デザインについて感じたことをトピックとして記録するところから始めようと思います。まずは、都市デザインを私がどうとらえているのか、そのあたりを整理したいと思います。

 

都市環境について

 私たちが毎日暮らしている環境は、住宅や学校、オフィスなどの建築や、道路、橋、公園などからできています。ここでは都市環境と呼びます。「都市」ということばから、農村部が入っていないような印象がありますが、私たちが集まって暮らしていく環境を総体として都市環境と呼びたいと思います。ビルトエンバイロンメント(Built Environmennt)という言葉もありますが、うまい訳語がありません。

 私たちが暮らす環境は、社会的あるいは経済的、心理的、精神的な環境としても、とらえることができますが、私たちが都市環境といった場合には、自然を基盤に人間の手によって作り上げられてきた、物的な、フィジカルな側面に注目します。

 私たちの都市環境は自然や風土のもとで人々の物的あるいは精神的ないとなみが長い時間をかけて作り上げたものです。文明的あるいは文化的所産です。そういった都市環境のなかで私たちは育ち、くらし、様々な経験をします。時間とともに、都市環境は、様々な意味や物語に満ち、複雑な文脈をもつ世界となります。その環境とのかかわりの中で、私たちは自分というものを形成し、自分が誰であるのかということを確かめます。「ここはどこ?」という問いは、都市環境の中で自分がどこにいるのかということですが、それは「私は誰?」という問いにほぼ等しいと思います。私たちは、歴史的、文化的、また風土的存在である都市環境との関係の中で生きており、自分を定位しているのです。

都市デザインとは

 都市環境は、住宅のスケールから、町内を超えて町や村にまでつながります。またさらに、都市群や地方、国という単位にまで広がります。私たちが、都市デザインという言葉で対象としているのは住宅から行政単位でいう市や町、村の広がりです。

 このスケールでの都市環境を、人間らしく安心して人が住み、働き、遊び、暮らすことのできる快適で、機能的、個性的、そして美しいものにしていこうという活動が都市デザインということになります。あるいは都市環境の中心に人間を据え、歴史、文化をふまえた存在として捉え、人々が誇りに思えるような環境を作っていくこと、建築や道路、広場、公園、そして自然的環境を、快適に誇りをもって暮らせるものに近づけていくことが都市デザインともいえるでしょう。

 住宅や個々の建築のスケールでは建築設計、また道路や橋などは土木設計、公園は造園、照明は照明設計など個別分野にはそれぞれ専門がありますが、そういう要素をうまく総合化していくというのも都市デザインの役割です。

 都市環境を扱う分野には都市計画があります。都市を計画するという行為は、都市というものが発生したメソポタミヤ文明や殷の時代からあるわけです。同様に都市デザインもその時からあるはずです。都市計画や、都市デザインを広義にとらえればその境界は限りなくあいまいになります。

 一方で、狭い意味での都市計画というのは、19世紀半ばにイギリスで生まれた近代都市計画を指します。現代においては行政が、都市計画法などの法律に基づいて行うものです。都市の目標像、マスタープランを提示し、その目標に向けての法定の都市計画を定めます。

 また狭義の都市デザインは、後ほど説明するように、20世紀半ばにアメリカを中心に生まれ現代に続く都市デザインを意味します。このエッセイの中では基本的に狭義の都市計画、都市デザインを対象とします。   

都市デザインの誕生

 19世紀半ばに生まれた近代都市計画や20世紀初頭から並走するモダニズム建築や都市思想は、19世紀末から20世紀にかけて、過密と非衛生的な環境に苦しむ大都市問題の解決の中から生まれました。衛生思想や労働者の劣悪な環境を救う理想都市的な思想の影響もあったはずですが、都市環境が歴史的、文化的また風土的存在であるということをひとまず棚上げして、インタ-ナショナルで機能優先の都市空間づくりに励んできました。その結果が均質で味わい深さに欠けるまちを生みました。その反省のもとに、都市環境に再び人間を置き、歴史的文化的また風土的存在としての都市環境を個性的魅力のあるもの、誇りをもって生きるためのよりどころにする活動が20世紀後半からの都市デザインだったというのが私の理解です。

 都市デザインが扱うべき課題や目標、手法は地域、時代によって様々です。しかし、人間を中心に据えるということと、歴史、文化、風土的存在として都市環境をとらえるという態度は根底にあり、変わらないものだと思います。

 したがって都市デザインは、その場所における時間の流れや、文化の繋がり、そして風土が積み重ねてきている文脈を注意深く読み取るところから出発します。もちろん既存の文脈にばかりに目を捕らわれると単なる保守主義になってしまいますが、それを十分咀嚼したうえでそっと丁寧に新しいものをつけ加えていくという態度です。

建築デザインへのかかわり

 都市デザインには多様な主体が関係します。私は、建築の設計を専門としていますが、ひとつの敷地内で建築をつくる場合にも、常に都市環境の中の一要素をつくるという意識で取り組んでいます。都市というスケールで見ると、建築の新築は、都市環境の一部修復なのです。

 また、私たち建築設計に携わるものが提案できるのはフィジカルな側面です。住宅づくりで例えるとハウスということになります。しかし、ハウスをつくることが最終目的ではありません。人が住み、くらしが積み重ねられることで、ハウスはホームとなっていきます。槇文彦氏は、建築家は空間をつくって終わりではない、ユーザーがその空間をアクティヴイトすることを通して、その人にとっての場所となることで、設計は完成する。したがってそこまで関わる、あるいはそこまで考えるのが建築家だということをおっしゃっておられます。私たちも、都市環境をデザインするときには、それが使われて大切な場所や思い出の風景となっていくことを想像しながら設計を進めていくことが必要なのです。

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design