快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀と日光の明智平について

2018-11-22 20:06:53 | 明智光秀
 日光に有る「明智平」と言う名前の由来については、家康の時代以降から徳川時代につけれらて明智光秀の明智氏に由来するものとする説が多いのですが、一方でその前に既に命名されていたとする説も有り、はっきりした事まで調べ切れていません。
 そこでこの「明智平」について上記の各ケースについて考えてみたいと思います。

 1.家康と光秀が知り合う前から既に「明智平」と言う名前がつけられていた場合。
 それならば徳川幕府が明智平の近くである日光に東照宮を造ったのは何故か?となり、豊臣氏滅亡後でも徳川幕府が明智光秀を裏切り者扱いしていたならば、縁起が悪いとしてこの地に東照宮を造るはずはない、と言う事になるはずではないでしょうか。
 2.家康と光秀が知り合った後では有るが、本能寺の変以降の秀吉時代に「明智平」と言う名前がつけられる可能性。それは言うまでも無く有り得ないはずです。
 3.家康と光秀が知り合い、かつ豊臣氏が滅亡した後に「明智平」と言う名前がつけられた場合。
 それは大いに有り得ると思います。
 そして豊臣氏が脅威ではなくなってから堂々と明智の名を入れて土岐一族が徳川幕府成立に貢献したシンボルとした、と言う所でしょうか。
 
 と言うわけで上記のうち、有り得るのは1と3で、つまり明智光秀を評価し、江戸から見て北は土岐氏庶流の明智氏を暗示し、徳川御三家と言う名目で東に常陸土岐氏の有った水戸徳川家、西は美濃土岐氏の有った尾張徳川家、南は海なので西南西に近い方向に土岐氏の勢力圏であった伊勢を含むエリアに紀伊徳川家、と言う配置にした面も有ったのではないか、と考えています。
 ただそれだけではなく、水戸と尾張と紀州は江戸から見て防衛拠点としても重要な位置でも有ったと考えられるのでこの点も有った事は確かだと思われます。
 そして興味深い事は土岐一族もかつては徳川御三家の有ったこの重要拠点の少なくとも一部のエリアを押えていて、これら領地を防衛する各情報を持っていたと言う事です。