自然が世の法則である。
エネルギーの法則で浄化の法則である。
そのために、自然というのはすべて浄化の行為となっている。
自然という言葉、文字をよく理解して、自然に正しく対応していくことで、
正しい浄化の行為となって、一生を無事に過ごせるものとなっている。
「花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき」と
有名な詩にもあるように、まさに人の人生も同じにしてあるものである。
花の一時は人生の儚さでもある。
その凝縮された一生を見て、人の一生を知り、自然の法則を覚ることである。
素直に、自然と共にそのサイクルに身を任せて、
雨の日も、嵐の日も、曇りの日も、晴れの日も
応じて生きて一生である。
自然の法則をよく覚り、法則を身に付けて統一された行為となっていけば、
病という気を思うことなどなくなっていくものである。
凡そ人が病に侵されるのは、自然の法則が身に付いていないからである。
法則を身に付ければ、その心の念いは、一切の苦を滅していくもので、
病気を一切思う必要がないものとなる。一生涯病気にかかることが無いものとなっている。
多くの人が何らかの病にかかり生きているのは、法則が身に付いていないからである。
つまり、自然にそぐわない生き方をしているためである。
如何に、エネルギーの法則、自然に生かされているという事に無知であるかという事である。
幼心にして仕方なくも、成長するにしたがって間違いから学び、修正していくことで、
正しい浄化の行為となっていく。法則の行為となっていく。
無知にして生まれ、経験によって覚え、学習することで無知を克服していくのが人生である。
それが道理の徳、道徳を学ぶという事である。
よく観て聴く耳を持てば、悟ることは適うものである。
因みに、
身を入れて聴く耳を持てば、耳が徳をすると書いているように、
覚っていけるものである。法則の功徳である。