今しがた森下(8期生・研究者)と大西君(研究者)が帰った。
森下は最期に俺のパソコンからドクター橋本とドクター北野の書き込みに返信を書いていた。少しばかり泣きそうになる内容・・・。
高校入試で当時の2群に森下を落としたことは俺の口の中に刺さったトゲ・・・そんなトゲは無数にあるのだが、それでも塾を続けてくれた森下への感謝代わりに最高の布陣、医学部の井上さんを森下の英語に充てた。四天王寺出身の才女、ナチュラルな英語は俺や当時の田丸ドクターのレベルを凌駕していたと思う。ところが森下は高2に進学する頃に塾を辞めることになる。
生徒の噂でアメリカへ留学したと聞いた。口のなかのトゲは痛みを増した。
そして翌年の夏、帰省した森下がおずおずと塾に姿を見せた。有無を言わさず当時の中1に英作文を教えさせた。些少だがバイト料も払った。
それをきっかけに夏休みになると必ず帰省、いつだってその時代の生徒たちを教えてくれる森下が塾にいた。そして運命ともなる大西君との邂逅・・・。
大西君はウチの塾初の押しかけ講師だった。紹介したのは圭亮(けいすけ)のお母さん。いつもながらの圧倒的な迫力、赤福の新入社員を指導する御仁に俺が抗弁できるはずもなく、なし崩し的に大西君の講師生活が始まった。それが早春、そしてその夏、アメリカから帰省した森下と塾で出会うことになる。
大西君が森下を誘うかたちで、講師の合間にひと夏を鳥羽の安楽島の『ドミンゴ』でともにバイトとして過ごす。その間の交流のなか、行き詰っていた留学生活の新天地を大西君が所属していた立命館大学に求めることになる。あれはニューヨークでテロが起こった年の秋。
後になり大西君から聞くことになる。ホテル『ドミンゴ』で語らった幾多の夜のなか、森下は以下のように話したという・・・「なんで塾の先生は、塾を辞めていった俺なんかをバイトで雇ってくれたんかな。俺は塾生にとり模範とすべき立派な先輩じゃない」
初めてその返事をするよ。
俺のイメージ・・・答は長らく愛(いと)おしんだプロレスにある。
ウチの塾はリングだ。チケットを売るのは俺の役目か。しかし、主催者の俺に慣れ合うことなく、それぞれのスタンスで闘うことで活性化していく。漠然としたルールはある・・・生徒の実力を上げること、ひいては志望大学に合格させること。
いつしか森下はウチの塾の顔のひとつとなり、塾内で森下組めいた団体を築いていく。18期生の岡南(東京工業大学理学部3年)はその薫陶を余すことなく受けた一人だ。俺だけでは岡南を育てることはできなかったはず。高校入学時から森下の「東京大学を目指す」という確固たる意志がなければ、今の岡南はなかったと思うのだ。
様々な講師の個性がぶつかる・・・俺の権威なんてどこにもない。そんなひっくり返ったオモチャ箱のような塾にしてみたかったのだ。
ただ、森下をここまで育てることができたのは俺だ・・・そんな秘めやかな思いはある。トゲは・・・いつのまにか消えてしまったようだ。
森下はこれからも「森下!」と呼び捨てることにしよう。もちろんマージャンに負けない限りは愛情を込めてだが・・・。
その森下の次回の登場、再来週を予定している。
ついでに、ブログでの僕の呼称も、普段通り「北野君」でお願いできませんか。ドクターなどという呼称は、仕事中だけでどうか御勘弁いただきたいです。(笑)なぜ僕が、未だにふらりと塾に立ち寄りたくなるのかといえば、一人の素の人間にもどれるからです。僕が塾に立ち寄るときは、何も言いませんが実は必ず何かしら人生の節目にあたったときなのです。
文系の博士号取得の大変さと喜びを最も理解できる人間の一人が私だと思う。
私はマスター・キートンのように、なかなか博士論文を提出できていないけれど、学問はどこでもできる。学びたいという心さえあれば、の精神で頑張っていきたいと思います。
数年のうちには私もPh.Dを取るつもりです。お互いに研鑽しましょう。
数年前に早稲田界隈で麻雀をしたのが懐かしいですね。あの時は古西とアキちゃん、村瀬がいたっけ。
その時でしたか、先輩と古西で三重に帰省したのは。
またカタチを変えてバカやりましょう。