蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ヒマはあるがヒマではない

2021-06-30 | 日々のこと
今日は朝からあくせく。
バスや電車、アポには時間をピンポイントに準備しなければならない。
当たり前のことだけど。
時間の制約がない、全くの自由は素晴らしい。
が、制約があると、制約のない時間を有効に活用しようという気になる。
ただし、コマ切れだったり、時間はあっても日頃はなかなかする気にならない重い腰をあげられない、キッカケ背中押しが必要な事案だったりする。
流れをよくするポンプのようなもの。
わたしの場合、人工心臓のように無理やり流れを作り循環させてやらないと、なかなか自力では自主的に動かない傾向にある。

今日は、フリータイム!!
フリーダム!!
にもかかわらず、わざわざ市街地に出てきている。
が。ふらふら、アテもなく、ではない。
目的がある。
アポも完了。
明日も朝、早い出発なのに。
ちょっと後悔している。
いや。行きたい時に行かないと、いつ行く?
スキマ時間、ニッチ時間こそ、発想のポイント、ヒントが詰まっている、、、かも?

わたしの自主性に任せると1ミリも椅子やソファから微動だに動かない、、、ので、用事や義務を所々散りばめられている。

本当は、その用事や義務こそが人生の支柱。
あとは、暇つぶしのお遊び。
用事&義務とお遊びの比率、バランスや時間は人によってちがう。
自由になりたいものの、自由になると何をしていいかわからないこともある。

その行ったり来たりのマダラ模様には、意図しない偶然が絶妙な風合いを織り込む。
なんて、ヒマジンの戯言としか捉えられないだろうけれど。



なんでも先輩はエライのだ

2021-06-29 | 老い
わたしも今より若い頃があった。
今みたいに、日々、何枚もハンカチを失くすなんてこともなかった。
(どこに行ってしまったんだろう、、、わたしのハンカチ、、、)

老化はずしりと自覚を伴ってやってくる。

夫。
子供の時から頭脳明晰、秀才。
そして、まだ現役ワーカー。
同じく老化の波。
冷蔵庫を開けて、「アレが無い」と慌て、わたしがどこかにやったんだろうと言う。
はあ?
気の毒だ。
あなたも来たのね。
冷蔵庫の前の流し台にさっき自分で取り出して置いているものは何?

しかし、ここで、絶対にバカにはしない。
そんな無神経なわたしではない。
ぼけぼけの大先輩は、新人には超優しい。

大丈夫。
誰にでもあることよ。
あなただけじゃない。
ほんと、よくあることだから。
と、勝ち誇ったような、余裕の笑みを見せる。

めちゃめちゃ賢いクレバーな頭脳の持ち主も、偏差値、地面すれすれ低空飛行の人も、自然の流れには抗えず、大なり小なり似たようなもの。
しかし、飛び抜け優れた分野だと、ショックも大きいだろう。
バレリーナが足を失くすかのごとく。
(そんなプロのバレリーナがいたが、見事に復活していた。
すごい精神力の強さ)
得意分野だけに、きっと悔しいだろうけれど。
が、だんだん、平均値に近づいているだけ。(上層の人も下層の人も)

わたしなんか、元々、天然だから、どんなヘンなことを言ったり、したりしても、またいつものこと、と周りに気づいてもらえない。
最近は、わたしはわかっているのに、わざわざ説明してくれたり確認されたりするのが、ちょっと、むっとする、、、(生意気にも)。
客観的に見て、そんな風に見えるし、そんな風なヘンなことをしているのだろう。
ムカつく前に自覚しなければ。

しかし、すんなり認めると脳がそれでいい、と判断して、ぼけぼけはどんどん進行するのでは?
ほっておくと易きに流れるところを叱咤激励、喝を入れて脳に頑張らさせなければ。
が、わたしは自分にも優しいのでじゃんじゃんダメな脳を受け入れて堕落していく。 
上野千鶴子さんに、辛辣なハッパがけで蹴っ飛ばしてもらわないと。

とまあ、自分の売りではない、むしろ苦手分野が益々衰えて行く。
頭脳が売りの人は、バカになった自分を受け入れられないことだろう。
うんとプラスからマイナスへ。奈落の底感。落下イメージ。
わたしは、マイナスからそのままマイナスへ。横滑り感。時系列に従ってスライド。

自分のアホ歴は生まれた時から今日に至る。
周りがちらほら、こちらのアホ分野に入ってくるのだが、入ってきてほしくない。
定員オーバー。
わたしは今日や昨日からの新米アホではないので、ベテランは力強い。
というか、ベテランだけにアホに磨きがかかっていて自分でも恐ろしい。

が、若い頃の天然のアホと、シニアになって本気のアホでは、自分の受け取り方が違う。
天然お気楽でもやはり新しい老化によるアホ出現は不安だ。
天然は許すが、「本気出してるのにアホ」は、余裕や笑いがない。

まあアホは元々なので、初めて自分のアホと対応、対峙する人よりは、ちょっと知識がある。
抗体もある。
アホのキャリアは積んでいる。

なので、先輩アホとしては、後輩アホが続々と出てくる事態を見て、新米アホはさぞや自分に失望していることだろうと思い遣る。
それに比べると、早くからアホもまんざら悪くないなあと思う次第である。
これからアホになっていく方々は、覚悟してください。

アホアホと何回もうるさい、、、今回の記事でした。

人生、最後あたり

2021-06-28 | 無題
作家は、やはり素晴らしい。
知的なオピニオンリーダー。
澤地久枝さん、90歳。
母より2歳下。
超高齢になっても強く太く厚い、揺れないこころを持っておられる。
しかし、専門分野で高名で今も活動、活躍しておられる現役でこそかな、とも思う。
母と似たようなお年頃、同じ時代を生きて来た経歴を調べてみると、一介の田舎モンの母なんぞとは全く別世界の人。
これこそ、唯一無二の価値なんだろう。

しかし、その肝っ玉の太さがわたしの母と似ているのだが、残念なことに、母は唯一無二の無価値。
社会に何の発信力もない。
その娘であるわたしも同じ。
ではあるが、戦中派独特の強さがある。

有名作家女史、澤地さんが超高齢になって仰ることや行動は、わたしの母とあまり変わらないのに、この、唯一無二の価値か、無価値か、で、説得力は全く違う。
生きてきた経緯も大いに影響する。
世の中に対してアピールしなくていい場所にいると、埋没することに何のこだわりもない。
有名人を歳が近いからと、比べてみたりすること自体が馬鹿丸出しなのだが、他人とは思えない部分を感じた。

しかし、高名なこの超高齢作家女史のインタビューを拝読すると、わたしは、「自分教」教祖である母とオーバーラップして、なんだかあまり良い気持ちにならない。
有名な名声ある唯一無二の価値を発する人なら特別なので良いが、わたしの母のような唯一無二の無価値の人は、ただたんに、周りへの配慮に欠ける、自分勝手なふてぶてしいだけの人間として、娘のわたしの目に映る。
自分を過信し過ぎると、家族に迷惑をかける。
そんなことは、つゆとも感じていないだろうけれど。
あの世を目前に、周りの心配やフォローがいかなる大変なものか、まったく本人は想像していない。
お一人様だから周りには迷惑はかけてない、というのは思い上がり。
あの世に行ったその後、身内か他人かは別として、誰かのお世話になる。
強気は結構なのだが、たった一人で生きているわけではない。
たとえ、対価として金銭を支払っているにしても、なんらかの手をかけてもらっている。

しかし、あまり周りへ配慮し過ぎると鬱になり兼ねない。
だが、誰の世話にもならない、と堂々と言い切られると、なんだかなあ、、、と思ってしまう。
強いのは結構だが、人間として丸みや可愛げを感じられない。
まあ、職業柄、そして、唯一無二の価値ある人は、そんな平凡なことを言ったり思ったりしたら、シャープでもなんでもない、切れ味悪く、売れないだろう。
やはりわたしは、唯一無二の無価値グループの人間だなあ、、、と思う次第である。
比類なき人と比べようとする心情は、不毛で意味がない。
論点ズレズレ。
お恥ずかしい、、、。

しかし、どう生きて来ようが、あの世の直前状態、天国の入り口近くでは、どんな人であろうが、共通のものを感じる。

このインタビュー、わたしの敬愛する上野千鶴子さんとのもの。
キレ味鋭い人VSキレ味鋭い人の対談だから、わたしの感性など付け入るスキもない。
当たり前。
羨ましいお二人だ。
しかし、生死観や死に様は、それまで生きてきた経緯とは関係ない部分で、各個人によって確立されているようにも思う。
アウトプットする場所にいるか、いないかにもよる。
自分の考え方や感性、想いを確認するには、他の人たちの考えに触れると自分の具体的な考えを抽出しやすくなる。
なんでも、サンプル、たたき台があると、好き、嫌い、この部分は違う、全くその通り、、、などなど、気がつかなかった思いを具体的に取り出しやすい。

ご紹介いただいたKさん、ありがとうございます。

敵との闘い

2021-06-25 | 日々のこと
コロナワクチン2回目、昨日、接種。
今日はすごい倦怠感と、腕が痛い。
朝、顔を洗ってお化粧するのに、洗面台の前にキッチンから丸椅子を運び込んで置いた。
しんどいから立っていられないので、丸椅子に座ってお化粧した。
ワクチン接種の次の日は、予定を入れずに自宅で療養しておくようにと、説明書きに書いてあった。
が、怠い身体に、足を引き摺り引き摺り、外出した。
どうしてもハズせない用事があった。

しかし、しんどかったなあ。 
息もはあはあ、ぜいぜい。
やはりワクチンを健康体に入れると、身体がびっくりするようだ。

腕も結構痛い。上げられない。
まあ仕方ない。
明日は少しはマシになっていることだろう。

第1回目は予約時間の30分前から会場に行って2時間待った。
長時間待つのが疲れたため、2回目はあんまり早く行かないように、遅めギリギリ。
すると、予約時間を2分か3分経過した段階で家に電話がかかってきた。
まだですか?と。
前回とえらく違う。
2時間待ちと、2〜3分遅れただけで確認の電話。
予約時間を忘れていたら困るのだろう。
ワクチンが余る。
まあそういうわけで、息せき切って早歩きで、目指すワクチン会場に足を速めた。

ワクチン接種はどうにか2回終わったものの、後が結構ツライ。
2回目はツライという声をあちこちで聞いたことがあったが、やはり声通りだった。
まあ仕方ない。
自分の体内に敵を入れるんだから。
敵と闘っている。
がんばれ、わたし。

しかし、倦怠感と熱っぽさ、頭痛が襲う。
がんばれ、わたし。

早くコロナが収束することを願うばかりだ。
オリンピック、パラリンピック開催は、この期に及んでもわたしは反対!
都知事の小池さん、疲労で倒れたようだが、分かる、その心情。
お気の毒である。


美しい絵物語というわけにはいかない

2021-06-23 | ブログ
ランダムにgooブログユーザーに訪れる、自分のブログをアピールする「アピールチャンス」、前に見たブログ記事が、いくつも連なってそのまま編集画面の上部に現れた。
同じブログが、複数。
同じ人にアピールチャンスがやって来て、同じブログを引き続きプッシュしているのか?
ちょっとしたデジャヴに陥った。
わたしは、アピールチャンスが訪れると前に一度出した記事とは別の記事を推す。
よほど自分が気に入った記事なら2回推す場合も稀にある。
あるいは、あまり更新していない時は仕方なく同じ直近記事を2回、出すこともあるが。

アピールチャンスを利用して他のブログを閲覧している人は少なくないようだ。
わたしも、その一人。
未知のブログと出会うことは楽しい。

せっかく訪れていただいた方のブログに、わたしはあえて行かないことが多い。
あえて、なのだが、失礼をしています。
人のことが気になると、マイペースが乱れるため、足跡を残してくれた人のブログに一向に顔を出さないわたしに不快な気持ちになっている方もおられるだろう。

わたしは、大勢の方々と交流するのはハナから諦めている。
元々、大勢の方々の目にも留まらないから、取らぬ狸の皮算用的な色合いがあるかも知れない。
が、負け惜しみの気持ちはあまりない。
わたしは、わたしで、感覚をシェアしてもらおうなんて厚かましい思いはない。
娘にブログ記事と同じことを話しても、無反応に近い、面白くも興味あることでもないようだ。
年齢も一世代違うと、ギャップがある。
第一、娘をネタにしたブログを書いていることもあるので、あまりうかうか喋れない。

いつも読むのは二つのブログ。
それ以外の他のブログを読むことはあまりなかったが、最近はタイトルに惹かれたりして読む。
(というよりは、ネタ探しに読んだりする)
が、ブックマークすることは、ほとんどない。
(毎日の数々あるリアルタイム社会ニュースや記事の中から、ブロガーさん個人のフィルターでピックアップしているブログを一つだけフォローしているが、毎日のように更新されているため、読んだり読まなかったり)

というわけで、せっかく蝶ブログにお越しいただいているのに不義理をしている。
一期一会のご縁を大切にしなければならないのに、そしていつも読んでいただいている人には有り難く思っているのに、行動に移さないで、不徳の致す限りだ。


ちなみに、、、
ブログに書いていると、スッキリするが、次女に同じようなことを話すと、「直接、本人に言えば?」と釘を刺される。
愚痴は聞いてくれない。
ピシャリ。
しかも、ブログではいつも一人で完結していて、めでたしめでたし、、、なのに、「それは違う」と反対意見を唱えられる。
スッキリどころか、モヤモヤの霧に迷い込む。
まあそれで良いのだが。
勝手な思い込みは考えに偏りを生じさせる。
全く同じ価値観や感性の人と、ぴたっと一緒にいるのは良くない。
危険だ。

次女と話していると、家族はお互いを思いやるというよりは、何かあった時に互助会システムが機能して責任が生じるため、家族に厄介や面倒をかけてはならないと感じる。
病気になったり怪我をしたり、事故を起こしたりして家族の義務を増やしてはいけない。
身を案じて言ってくれているのではなく、各自、負担を避けたいためか。
多少は身を案じてくれるのだろうけれど、面倒を起こされると困るという、自己防衛スタンスが見える。
まあ、理想の美しい家族愛、キレイゴトでは済まないよね、と思うわけで、ちょっと冷水で顔を洗うかのようで、いい歳して美しい絵物語を夢見ているのもどうなんだろうと、へんに納得したりする。







唯一無二の無価値

2021-06-21 | 日々のこと
一人住まいをしていた次女が戻ってきた。
いつも(夫不在の時は)一人で思いっきリラックスし、思いっきり手抜きの服装、食事で、思いっきり自堕落な生活を満喫していたが、、、
そうはいかないようになってしまった。
わたしのだらしないダラダラ生活、、、大好きだったのだが、、、

今は、二人でいつまでも顔を突き合わせて喋っているわけにもいかず、口だけでなく手を動かして掃除をしたり、何らかのことをせざるを得ない。
別にしなくてもいいのだが、二人でずっと動かないでいると息が詰まるから、停滞した空気を打破させる手段だ。
で、働き者になってしまい、疲れている。
気疲れするあまり、身体を動かして身体が疲れている。
本末転倒?
いや、人間は、最低限のことはしなければならない、動ける間は働かなくてはならないということを身をもって体験している。
自主的なので、自分勝手にやっている。

謎の部分が多いわたしなのではあるが、謎に迫られると、例え最愛の娘であっても、距離を取りたくなる。
これはなにも嫌いだから、とか、理解不能だから、受け入れられないからとか、分裂、分断、破綻の成れの果て、ではない。
どんな好きなものでも、美味しく食べられる量やタイミングがある。
それに似たようなもの。
大好きな状態を作る、キープするには、最上の質を継続するための方法がある。
好きなら好きなほど、それは必要不可欠だと思っている。
料理だって、塩を入れ過ぎたり、煮込み過ぎたりして、よかれと思って欲を出して、やり過ぎて失敗することはよくある。
お互い自然に距離感を設けると、楽しい時間はいつまでも続く。

というわけで、彼女が自室に戻っている今は、一人の時間が確保されて、ああ、やっとブログタイム。
家族でわいわいも好きだけれど、一人タイムも好き。
関わり合いには程よい距離感を求める。
過度ではなく、適度な依存し合いが心地よい。
が、いつも理想通りには行かないのがまた妙味、スパイスになる。
アップダウン、良い時も悪い時もある。
楽あれば苦あり。苦は楽の種。


ちなみに、iPhoneウォッチ、どうにか相棒として働いてくれている。
長女が、昨日、我が家に訪れた時、「なんで家で時計つけてるん?」と驚いていたが、新品のピンクの美しい時計を家の中で肌身離さず着けるには少々抵抗がある。
が、スマホと連動する万歩計が欲しくて手に入れたものなので、着けないと意味がない。
雨に濡らすのが嫌で新品の傘を使わないようなもの。

しかし、この美しいピンクの美女(iPhoneウォッチ)に、振り回されている。
美しいのだが、手強い。
なかなか思い通りにならない。
次女が見るに見かねて、スマホを一旦、強制終了して、あれこれ設定に手を加えてくれた。
「これは苦心している老人に対するボランティアやで」と、余計な一言付き。
まだ、未解決なこともあるが、美女には謎がお似合いなので、とりあえずはあまりムキにならず、これで行く。

しかし、使うに従って、iPhoneウォッチの、今までは思い浮かばなかった自分が求めている潜在的な理想の機能に気づき、定まってきた。
それは、今回のiPhoneウォッチの機能とは違うもの。
が、一昨日、手に入れたばかりなのにそんなに早くに買い換えるわけにはいかず、兎にも角にもここ数年はこれで行く。
使ってみないと自分の潜在的欲求は見えないものだ。
明確に自分の要望をはっきり自覚して捉え、外に表すことが出来なかったわたしが、未熟。
自分のこころの声を聞くステップの一つだろう。
精神的な声は年がら年中、小さい頃から自問自答して聞いているわたしだが、機器に関しての要望に耳を傾けたのは初めてだ。
わたしの要望、ウォンツを自分で拾い上げるのに時間がかかり、やがてニーズになって買う頃には改善され、もっと進化した商品が並んでいることだろう。
逆に、そんなものは売っていないかも知れない。


話はころっと変わる。
英語がちんぷんかんぷんの知人。
我々の学生時代は英語は受験には不可欠。
国公立・私立大には、文系理系も必須。
だから、英語を必要としない学校へ。
当時の日本では、一生安定した大手企業に就職するには、そこに入れる条件を必要とした。
帰国子女枠なら別なのだろうけれど、英語である程度点数が取れない時点で、大企業や研究者、教育者などへの道の第一ステップの入り口に入れなかった。
と、前置きが長い。

しかし、絵に描いたような模範安定志向枠外の人は大勢いる。
むしろ安定コースはエリートと呼ばれ、少ないのかも知れない。
英語はエリートコースには必要不可欠だったと感じた。

長々と前振りばかりが続くが、
その英語がちんぷんかんぷんの知人は、英語なんか出来なくても、いずれ英会話アプリや翻訳アプリが出回るから、大丈夫と豪語し、呑気に構えていた。
海外旅行に行くわけでもないし、日本にいる限り、生活手段として英語は必要ではない。
外国人とコミュニケーションを取るにも、日本に来る外国人は日本語をわかろうと努力するから、日本にいる日本人が必死で身につける切迫感はない。
島国のこういう状態が、英語後進国になったわけだが、今は小学校、いや、保育所でもネイティブスピーカーの先生を雇って英語教育に力を入れる。

それはそれとして、
その英語ちんぷんかんぷんの知人は、一生、英語を使う機会もなく、不便も不満もコンプレックスも抱かず、生涯を終える。
幸せだと思う。
安定した大企業にしか幸せを見出せなかった人も、時代が変わると共に価値観も変わる、、、はずなんだけど、やはり、大きなものは、そう簡単には変わらない。
時代は変わっても未だ社会の壁となって立ちはだかる。

英語ちんぷんかんぷん知人の肩を持つつもりで書き始めた今日のブログだが、、、
英語に触れずに生きていく、周りと関わる、その人の生き方や価値観は、その人の生きてきた軌跡から形成される。
(外国で現地人と結婚するケースもある)
人には人の背景があるので、皆、同じではない。
お互い、理解できなくて当然だ。
だが、「理解できない」ということがわかればよい。

ところで、
昨夜の林修先生のテレビ番組で、ドラマ「ドラゴン桜」の続き時間に、東大に16歳で合格した韓国人男性(28歳)がインタビューされていた。
こころに刺さる名言の数々があった。
「手間を惜しむためにすることには、手間を惜しみたくない。
=手を抜くためにすることには、手を抜きたくない」
「『唯一無二の価値』と、『唯一無二の無価値』は違う。
役に立たないものは例え唯一無二でも価値はない」
そう言っていた。痺れた。
わたしは、正に、手間をかけないために、最大の手間をかける、典型的人間だ。
そして哀しいことに、「唯一無二の無価値」を自負している。
自分の価値は世界共通に価値があるわけではなく、自分一人にだけ価値がある。
それ、悪い?
自分にも価値がなく、他の人にも価値がないより、自分だけには自分が価値がある、って、明るく楽しい世界観だと思う。
唯一無二の無価値の自分に、最大の価値を置く自分。
自分を救うのは自分。
他の誰でもない。

※蛇足
自己肯定一直線に妄信、猛進して開き直るのも一つの道ではあるが、そこでもう一踏ん張りして、自分にだけではなく他の人にも価値があるよう頑張り努力すれば、世の中の役に立つ人になるんだろうけれど。
器も色々ある。



幸せ感度のハードルが低い

2021-06-19 | 日々のこと
今日は既に2本のブログ記事を書き、お蔵入りにした。
未公開記事がふたつ続いている。
陶芸家が、釜から出してきた焼き上がった茶碗の出来栄えが気に入らないと、割って廃棄するかのごとく。
全くそんな立派なものではないが。

書いても書いても、自己満足が得られない。
そんな日もある。
たんなる気分屋か。
たんなる自己満足は、基準が曖昧で手に負えない。

ちなみに、あんなに昨日、自宅で既存クレジットカードと格闘して準備した電子マネー、今日、使ってみたら、またまたアウト。
「残金が足りません」と、スマホ画面に表示され、けんもほろろ。
5000円という設定になっているはずなのに。
あわあわレジで狼狽えるのは嫌なので、取り敢えずは、即あきらめて、無駄な抵抗はせず、現金で支払った。
前のスマホでは払えたのに、どうなっているのだろう?
何か設定を間違えているのだろう。
アホな自分には元々サジを投げているので、失望も少ない。
またまた自宅であれこれ設定しても、再び店先のレジでアウトかも知れない。
いったん、この電子マネーアプリ、距離を置き、成り行きを見守る。
といっても半日間だけの放置。

かなり気長なわたし。
自分をとことん見捨てない。
前のスマホで出来ていたことが、新スマホで出来ないはずがない。
なので、頭を冷やして再度挑戦。
ああ、死ぬまでに出来るかしらん。
出来ます、必ず。

それはそうと、今日は、新しいスマホケースと、iPhone Watchが自宅に配達されているはず。
楽しみにしているのは良いが、ちゃんと設定できるのかしらん、わたし。
スマホとウォッチが連動して設定出来ることを期待して、腕に装着したiPhone Watchで歩数をカウントしている自分を想像して、にやにやしよう。
ああ、それにしても、ささやかな楽しみにこころ躍るわたしは、幸せ感度のハードルが低い。
難易度のハードルもとことん低い。





可愛げがない、、、

2021-06-18 | 老い
何もしない生活が大好きなわたしだが、そういうわけにもいかない。
最低限度のことはする。
ぼーーーっとFMラジオを聴きながらコーヒーを飲んでいたら一日はあっという間に過ぎる。
通路にはみ出した枝切りや草抜き、掃除なんか朝には終わってしまうので、時間はたっぷり。
日常着の繕い、チマチマお裁縫をチクチクしたり、スマホであれこれ設定したりすると、時間はどんどん進んでいく。

特に今、難儀なのは、とある既存クレジットカードを「本人認証」してWEB登録したいのだが、なかなか出来ない。
利用上限枠を上げたいため。
電子マネーを出かけたお店で使う際、セキュリティを強めるために必要なのだが、インターネットでカード会社側の窓口から入って行こうとすると、アウト。
必要事項を入力した後、実行ボタンを押すと、「登録できません」と冷徹な反応。
何かが間違っているのだろう。
電話をかけて生対応してもらって聞けばいいのだが、億劫。
別の違うクレジットカードにしようか、と思ったが、やめた。
気が進まない。
本人確認できていないままのカードでは使用可能上限額が低いのだが、低くてもそれで我慢しようか、と、いたって消極的。
ぜひとも必要性が迫っていないので、なんでもうまくいかないと、とりあえず保留にして、また後日、出直す。
なかなか出来ないで、延々と取り組んでいると、娘に呆れられた。
ずーーーっと、それ、やってるなあ、、、と。
アタマが岩石のようにカチカチなんだろう。
溶解しない。
それでも、時間はかなりかかるが、どうにかやがて自分がやりたいことが出来るようになる、、、はず。

ちなみに、携帯電話に電話がかかってきた。
だが、知らない番号には出ない。
携帯電話機種を変え、契約も変えたので、留守番電話機能はなくなったかも知れない。
そこで今、調べてみたところ、留守番電話は有償のオプションのため、再契約しない限り、付いてないようだ。
かつては母から留守電がよく入っていたが、再契約するべきか、、、。
しかし、よくよく考えると、今年、母の携帯電話はわたしが解約したのだった。
忘れていた、、、。
電話がかかってくるわけがない。
じゃあ、もう留守番電話は無しにしよう。
用事のある人はメッセージかなにかに入れてもらおう。
こちらで名前を電話帳に登録すれば、誰からの電話か即わかるわけで、名無しの権兵衛からの電話は無視しよう。

それにしても、通信機器、スマホ設定は超超超面倒くさくて、大嫌いだ。最たる苦手。
もともとアホなところに、老化の波が押し寄せ、アタマカチカチ石頭になっている。
スマホを最新のものに変えるのは、わたしには豚に真珠だ。
まあよい。
頭痛を抱えながら、スマホと格闘する。
やはり、わたしは好き勝手に好きなことをブログを書くのが一番の癒し、至福の時だ。

最近、わたしはスーパーやショップの買い物で、続けてボケっぷりを実感して落ち込んでいる。
クレジットカードの使い方が、スーパーのレジの機種によって違うため、それぞれに対応しなければならない。
Aスーパーは、クレジットカードを差し込むと「早く抜け」と指示されるので、注意されるまでには素早く抜かなければいけない。
自分で差し込み、自分で抜くシステムなので店員さんにカードを手渡すと怪訝な顔をされる。
Bスーパーは店員さんがカード処理をしてくれるため、勝手にカードを引き抜いたりすると、すごく嫌な顔をされる。
もう一度やり直さなければならないため、店員さんは、もろに不快感をぶつけてくる。
AスーパーとBスーパーでは、自分でする、店員さんがする、機械処理が速い、遅い、と逆のパターンなので、ぼんやりして間違ったりすると、明らかに店員さんの機嫌を損ねて、落ち込む。
すみません、すみません、と何度も謝る自分が情けない。

しかし、なんで頭を下げにゃならん?!
わたしはお客さんの上に、認知機能が低下している高齢者なのだ。
こういう時に、強い性格の人なら、開き直ることが出来るんだろうけれど。
よくお店なんかで逆ギレしているおじいさんを見かけるが、ああはなりたくないと強く思うものの、自己弁護、自己擁護もしないと老人鬱になりかねない。

いいのいいの、とボケたふり、
あるいはホントに100%ボケていたら楽なんだろうけれど、何しろ、カウントダウンが始まり近々、新入りの高齢者になるもので、まだ新米なのだ。
ボケも新米。
そのうち、しっかり、どっぷり、何も思わなくなる高齢者枠の大ベテランになるだろうけれど。
どんくさい自分にまだ慣れていない。
社会は高齢者に優しくすべきだ、と憤るあたり、やっぱり背景には自己正当化があるなら、年齢の問題ではなく性格やキャラクター、人格に原因があるようだ。

しかし、わたし、可愛らしいお年寄りになれるだろうか?
ちょっと自信がない。


モノとの関わり

2021-06-17 | 
久々ぶりに、gooのアピールチャンスが訪れた。
スカ〜ンと空振り、爽快。
皆さん、関心なし。
田舎の空き家問題は結構、社会問題化しているのだが、関係ない層と関係ある層に、ニ極化しているように感じる。

祐さんのご実家も似たようなモノ溢れ傾向ですか。
世代交代の時に、一気に処分するケースが多い。
行政のゴミ処理場にトラック数台、ゴミ袋数十袋、持ち込んだ話も身近(身内=姉二人)に聞く。
ちなみに、我が家のご近所さんたちは、今、スクラップ アンド ビルドの風が吹いている。
売買され、解体されたり、更地になったり、新築したり。
人流、経済の活性化。
新旧交代時期か?

今は、ブルドーザーで一斉に壊せない。
家屋の中を空っぽにして、壊す前にゴミ仕分けをしなければならない。
ここ数週間、うちの筋向かいの家を壊して更地にする時がそうだった。
てっきりリフォームするのだと思うぐらい、何段階にも分けてモノを整理、片付け、処分しておられた。
ガレージには家から運び出されたモノが埋め尽くされ、家の前の道にもモノが積まれていた。
先ずは、モノを仕分けして出す。
畳の一枚一枚も綺麗にキチンと重ねて積み上げていた。(これは解体業者)
木の一本一本も、岩の一つ一つも。
重機だけではなく、人力で鍬で掘ったり鋤いたりもしていた。
家を壊し更地にするのに、ずいぶん手間暇がかかっていた。
(目の前なので、毎日、ウォッチング)

ゴミ分別が厳しくなっている。
それがめんどくさい人は、お任せするなら、遺品整理業者に丸投げすると楽だ。
廃棄する前に、何段階か、業者にチェックしてもらう。
まずは一番目には、金目のものがあるかないか。
業者に見てもらう前に、現金や金(ゴールド)をはじめ、美術品や宝石など、明らかに換金できるものは先に自分で保管する。
換金価値のない美術品もあるが、思い入れがあるかどうか。
骨董品や古美術も。
次に、古道具や花瓶、置物、小物雑貨、現代物やレトロ物、、、など、買い手がいるかどうかの品々。
さらに次に、中古品としてまだ使えるもの。
ピアノは査定してもらい、まだ行けそうなら下取りしてもらう。
そのあとの不要品は、金属、木、陶器、ガラス、ビニール、プラスチック、紙やらに仕分けする。
個人情報や書類はシュレッダーにかける。
ゴミの仕分けも業者に任せると手間要らずだが、究極のプライバシーを任せたくない人もいるだろう。
気にしない人は気にしないが、アルバムが剥き出しで放置され置き去りになっているのを解体現地で見ると、災害で止むを得ずなら仕方ないが、そうでもないとすると、なんだかわたしなら気持ちが荒む。
侘しさを感じる。
自分の身内の後始末は自分でしないと、ゴミとして曝け出されて痛々しいような気になる。
遺骨をそのままにしているような感覚?
まあ、わたしの場合そうなわけで、人それぞれ感じ方や考えは違うので、他の人はどうでもよく、非難も関与もしない。
どうせゴミに出すならゴミ廃棄場での物体としての形は同じだろうけれど、他人任せではなく、一度、遺された家族や近親者、生きている人の手を経由して葬りたい。
モノにも、長年モノと共に暮らしていた人々の息遣いのようなものがあると思うので遺族として供養の気持ちを込めて。

モノに対する愛着は、生きてきた時間に対する労いと、捨てることによる精算で次のステップに移行する。
養分を吸収した後にリセットして新たに出直す。
一瞬でも光を当てて、長い間、お役目ご苦労様と手厚く葬る。
早い話、捨てるってことなんだけど。

話を元に戻す。
あまり親の家とは関係ない人もいる。
だから全く興味がない。
最近ではミニマリストも出現する。
もとから持たない。
常に毎日リセットで宵越しのモノは持ち越さない。
いろいろだ。

ただ、人の生き方、暮らし方を自分とは違うからといって認めないというのは、狭量だと思う。
それぞれのコースがあり、日々、世の中の動きと共に変化している。
世の流れを嘆く人もいるが、変えられない。
急速な濁流に流されないよう、必死で何かにしがみつき、助かる人もいるし、漂流する人もいる。
それが時代の流れというものだ。
抗わないで流れに身を任せると、次の地点に辿り着くようだ。



勝手に人が入って来る

2021-06-15 | 
夫の実家、リフォーム工事が開始した。

ちなみに、階段下収納というものは、本当に地下洞窟のように、何でもかんでも延々と放り込むことが出来る。
照明も廊下しかないので、奥深くまで見えない。
入れた本人(姑)も遠に入れたことも忘れていることだろう。
階段下収納は、キッチンの真横にあり、さらに他の全ての部屋に近い、家の中心に位置している。
なぜ、身近な場所に頻繁に使うものを入れずに、遠くの場所に収納するのか。
次女に話してみたところ、手近な収納場所にはいっぱい詰まってしまい、もう入らないので、遠くの場所に置いているのだろうという、わかりやすい解釈、解答を得て、じつにアタマがすっきりしている。
なるほど、、、。
モノを捨てないので、溢れ出るものを遠くに置き、不便ながらわざわざ取りに通う。
そう言えば、わたしは姑が元気な頃、いちいち遠くの蔵までスパゲッティだのレトルト食品だの、ストック食品を取りに行かされた。
冷凍惣菜は、隣の棟の冷凍庫に。わざわざ感ありありで。
蔵には食品をはじめ、衣類やリネン類、食器、本、日用品、贈答品、その他、ありとあらゆるモノが入っていた。
もし、あの蔵のなかを整理しろと言われたら、わたしはおヒマをいただき、実家に帰らせていただきます。

まあそれはよい。
なにしろ、使わないものを階段下にギッシリ詰め込んであったわけで。
その空間の広さ、容量の大きさに改めて驚いた。
突っ込んでも突っ込んでも突っ込んでも、どんどん突っ込めて、それを繰り返していたら、やがて手前までモノが押し寄せ迫って来たというかんじ。
階段下、奥深くまで、身体が入らないし、暗くて見えない。
トンネル工事人か、炭鉱掘りの気分。
ガス爆発や土砂崩れが起きないだけマシか。

わたしが帰る時に出て来ていた最後の丸い容器らしきものと、紙の小箱が気になった。
中身を確認できていないので、後ろ髪を引かれる。
ひょっとして、すごく良いモノかも?
捨てるにしても、何であるかを確認しないと気がかりだ。
おっと、物欲の塊りが顔を出したようだ。
いかんいかん。顔を左右に振る。
しかし、アタマの隅っこに、きっとリフォーム業者さんがお取り置きしてくれているに違いない、と淡い期待を抱いている。
別の場所に保管してくれたなら上出来だが、甘い、、、家屋脇の廃棄用のモノが積まれた場所に持っていかれ、ゴミの山に埋もれた可能性はある。

半世紀近く暮らしてきた時間の物証である大量の生活品(ゴミ)の中に、オヤ!と、わたしの琴線に触れるものが稀にあり、蚤の市、大規模フリーマーケットに売られているモノを物色する気分になっている。


と、それはそれとして。
リフォーム後にごろんと横になる、気持ち良さげな家具の大販売会がネットで紹介されていた。
ネットでの販売ではなく、現地販売会。
家具は現物を見ないと、大きさや雰囲気がわからないからわたしは買えない。
脳内で素敵な快適なソファに身を沈め、リラックスしている自分を想像したが、3秒で脳内劇場はさっと幕を閉じた。
アタマに描く次に続くシーン。
ごろんとなっているところに、ご近所の方々。
勝手に入ってくる。
跳ね起きる自分。
人のプライベート空間などお構いなしに、人が侵入してくる。
わたしが、あのリフォームの里には絶対に住めない難儀な理由はそこにある。
わたしはフレンドリーではなく、開けっ広げではないので、人が勝手に敷地内に入って来る風土、風習、習慣には適応できない。
自分の城を確保した上で、たまに行くなら良いが。
好むと好まざるにかかわらず、人の目にさらされるのは苦痛だ。
隣の住民が誰かもお互いに知らず、孤独死しても異臭でやっと気づかれるなんていうのも困るが。
と、いつも両極端の例を出して顰蹙(ひんしゅく)を買う。
が、勝手に人が入ってくることで、精神的デメリットだけではなく、事故や事件を未然に防げる可能性もある。
神経質な人はセキュリティシステムを充備し、専属の人を雇うだろうが、人選も何かと問題を含むことがある。
マンパワーは、一方的にお願いし、依頼、頼るにも、信頼関係を築くのは一足飛びには出来ず簡単なことではない。


話は戻るが、
開放的な空気が肌に合わない、身に馴染まない。
バカンスにリゾート地を訪れて解放感に浸るのは大変爽快だが、毎日が自宅公開解放というのはわたしの特性としてはノーサンキューだ。遠慮したい。

リフォームの里の近隣の人で、同敷地内に親が子供夫婦に家を建てたところ、新妻さんは中から鍵をかけているという情報が姑のところまで流れてきていた。
鍵をかけたら、非難されるのか、、、。

姑は元気な頃、昼寝したりする時は玄関の鍵をかけていた。
それでも用事がある人は裏に回ってくる。
晩年は、玄関が閉まっていると裏に回ってくる人もいなくなったようだが。

交際好きな姑だったが、さすがに晩年は疲れてきたようだ。
ご近所や親戚にはいたって良い評判を得ていた。
わたしなら、そうならないだろう。
が、良い評価を得たいために、自分を押し殺すのは、わたしはしたくない。
好きでやっているならよいが。
自分を曲げてまで頑張る気はなし。
風土に合わない人間だ、、、と思われているかも知れない。
そういう風土が嫌な人はその地から出て行っている。
良いと思う人だけがやっている。
なので、皆んな同じような感覚、考えの人がより集まり残り、掻き乱されることはない。
それが嫌な人は、その地に住んでいない。
意思表示である。
江戸時代の封建社会ではないから、住所は自由に決めることが出来る。
土地の人は、住んでいない人のことは仲間外れにしているが、当たり前。
仲間に入りたくないから、出て行っているのだから。

わたしには閉ざされた人だけでコミュニティを形成する田舎暮らしは無理。
定年後、田舎暮らしに憧れる元都会人がいて移住するものの、人付き合いの難しさでギブアップする人もいる。
郷にいれば郷に従え、、、だが、新天地には従いきれない郷もある。
わたしは元々田舎の出身であるが、田舎とて時代の波を無視した地は若い人が定着できず自滅する恐れがある。

まあそういう距離感で接しているが、拒絶感を無言で放っている。
だが、地域のカラーは無視できない。
あの地を敬遠する理由はそれだけではないが。
もっと違う根因があると自己分析する。

歳がいったらあの地も悪くないと思ったが、考え方一つで、ころっと暮らし方も変わる。
改良、改善する手もある。
もっともっと歳がいくと考えも変わるかも知れないが、その時は人様(専従スタッフ)のお世話になる高齢者施設に入っているだろう。
その時は軸足は一つ。
好きなようにシフトできないので、覚悟しなければならない。