蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

マスクの下は?

2021-06-12 | 日々のこと
夫の実家リフォーム担当の女性。
大手不動産屋会社のリフォーム部、支店長。
年齢不詳。
初対面の時からお互いマスク。
目元とオデコだけで年齢を推測する。
あとは、首と背格好。
キャラクターをかたち作るのには、声も重要な要素だが、年齢を定める決め手には直接つながらない。

彼女は平安時代なら絶世の美女かも知れなくて、色白の、髪の美しい典型的日本人顔。
弥生飛鳥時代あたりに大陸から海を渡って日本に来たかも知れない、東南アジアというよりは、中国系のアジア顔。
ではあるが、まん丸メガネに大きなマスク。
切長の細い目が笑うと、クールなイメージから目の形が変わって可愛い。

会話の中身から年齢を推定する。
祖母が、最近、どうのこうの、、、
というからには、おばあさんがまだご存命のお年頃。
わたしの娘世代か?
落ち着きすぎるぐらい落ち着いた風貌からは、年齢がわからない。
キャリアや、店長ポストに就いておられるところを見ると20代ではなさそう。
延べ何時間も面と向かって話したり接しているのだが、よくわからない。

で、、、昨日、我が家での打ち合わせにおいでいただき、暑かったので初めてお茶を出した。
なかなか口をつけてもらえないなあと思っていたが、最後に飲んでもらえた。
その時、マスクの下から、ちらと顔が見えた。
あ、想像していた顔と違う、、、。
意外。
目の下は繊細でシャープな顔をイメージしていたが、結構、太めのガッツリ系雰囲気。
公家さんから、ラガーマンへ変身。
(女性なのに、なぜか「マン」)
アモイ像のようなおおらかさもある。
鼻って重要な役割をするものだと感じた。
口は見そびれた。
鼻だけが加わっただけで、随分、変わるものだ。
目から受けるイメージで他の顔パーツを想定して組み込み貼り付け、自分のなかで顔を勝手に完成させていた。
おおらかイメージは、マスクの下から見えた、どっしりした鼻から来るが、目だけ見ていると、とんがった小鼻の小さい鼻を思い浮かべていた。

とかなんとか、、、ということは、同時にわたしも見られている立場である。
一方的ではなく、双方向なので。
おそらく、同じような思い込み勘違いをされていると思う。
わたしも目が細く、メガネ。
大きなマスクの下は平安美人が想像されるかも知れないが、悲しいかな母親譲りの鼻がどかんと存在感がある。
こちらもアモイ像。
か細く幸薄きイメージではなく、しぶとい打たれ強い感じ。
だが、わたしはまだ未公開。

歳がいくと、皆さん、マスク歓迎。
容色が衰え、容貌に自信を失くす。
目だけ美人、あとは皺だらけ。
世の中も、良くないものは見えなくて、良いものだけ見て他を想像するのが良さそうだ。

あ、リフォーム担当者の女性、わたしは決してけなしていない。
意外と現実感がある温もりがあって、北川景子ではなかった。
これは、決してマイナス評価ではなく、わたしにとってはプラスだった。
親近感を抱いた。
が、彼女に直接そんなことを言うのは憚られたので、何も言わなかった。






羨ましかったのに羨ましくなくなっている

2021-06-12 | 人生
わたしがブログを始めた頃から知っているブログがある。
ヨーロッパの某先進国で4人のお子さんを育てておられる主婦の方。
当時は、子育て真っ最中の彼女。
異国の地で国際結婚し、ハーフの子供たち、、、わあ、素敵だと憧れの眼差しで見ていた。
エネルギッシュで力強くもあった。

さて、彼女もわたしも同じだけ歳を重ねた。
子育ては終了した。
あれだけ、お子さんたちとの活気ある暮らしを送っておられたが、子育て卒業の後は、、、?
直近のブログには、わたしがしたいことは何なの?みたいな、少しブルーの色合いが入った、こころ模様が綴られていた。

わたしは、子育て当時のキラキラした彼女が羨ましくもあったが、今は、違う思い。
いつまでも子供にかかりっきりになっていても、子供には子供の道があるわけで。
感謝されても、お役ご免の日は来るわけで。
子供が自立していってこそが、親の役割を果たしたと言える。
その時には別の自分を輝かせてくれる何かに移行するか、移行しなくても、違うかたちになっていて、自分は変化している。
いつまでも変化しないものなどない。

わたしはもう誰をも羨ましいと感じることはなくなった。
自分の歩んで来た道の後にある、「今」に喜びを感じ、満足している。
積み重ねた時間の続きは、過ぎた時間があってこその今であり、突然、降って湧いたような今ではない。
ではあるが、延長であっても、もう昔話はあくまでも昔。
昔への執着はなく、新しい門出。
昭和のバブル絶頂期を謳歌していたOLは、今ではお笑いのネタになっている。
(ちなみに、わたしは、その時代のOLではないし、OLを経験したこともないが)

人の人生と自分の人生を比べるのはまるで無意味である。
ましてや、勝ったの負けたのは、くだらない。
だが、昔、羨ましかったことが、今は全く何も感じない。
むしろ、その羨ましかった内容、中身は変化し永遠には続かないことを悟るテキストを見るような気がしている。

自分には自分を生かすステージがある。
生かすには、変化した自分を受け入れ、かつての最盛期の自分ではなく、ゆるやかに下降している自分がいて、その新しい自分の変化を楽しむかのように、新鮮な驚きとともに毎日を送っている。
衰えた自分との対面は、初体験で、変化を感じる。
が、その変化した自分には、また新しい自分を生かすステージがある。
けっこう、面白い興味ある人生読本のようなものだ。
歳を重ねると、時間は失うのではなく、積み重ねるものだと感じる。
自分の人生を肯定すると、なんだか楽しい。

かたや、最盛期を超えて抜け殻のようになった人がいると、「沈んだ後は浮くしかないから大丈夫だよ」と肩をぽんと叩きたい気持ちだ。
なんといっても、わたしは高齢者の中では一番若いので。
若いんだか、歳いってるんだか、わからないが、客観的に見ると、お年寄り。
高齢者なのだ。

子育て終了から高齢者には一足飛びにはならないから、とりあえずは10年ぐらいは、自分探しを再スタートすることになる。
が、焦らなくてもすぐに新しい自分にピッタリのものに出会えるかも知れない。
あるいは、なかなか出会えないかも知れない。
いずれにしても、新しい出会いを楽しみに歳を重ねていっていただきたいものだ。
新米年寄り先輩(わたし)からの一言である。