蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

トイレの神さま

2019-12-30 | 日々のこと
年末小掃除中です。
大掃除ではないので。
トイレに置いている、亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんたちが今、生きている子孫を見守ってくれるというメキシコのガイコツ人形。
今年も見守っていただきました。
何教?

これから、夫の実家(空き家)に民族大移動。
まだ仕事中の子供たちもいます。
さて、どうなりますことやら。

負けるが勝ちではなく、負ける一方

2019-12-29 | お付き合い
人付き合いの難しさ。
これが大の苦手で、わたしは家族&ほんの一握りの近親者以外とは付き合わない。

家族は固い結束があるので、それに安心しているため、あまり、それぞれの個人にズカズカ踏み込まない。
子育て期は、口出しするが、成人になり自立したら、皆さん、無罪放免。
両手でしっかり抱き抱えていた手を離す。
その代わり、各人、自分たちの巣を築き、(お一人様も含む)、緩やかな結束に変わる。

なので、わたしはこころ乱されることなく、安心、安泰の日々を過ごしている。

昨日の記事のKさんなどは、もはや人付き合いというよりは、降ってきたイベント。雨あられ嵐。
頻繁だったり、ハードだったりすると、負担だが、十分楽しませていただいている。
他にも、一生に一度か二度ぐらいしか、または一度も会わないかも知れないと思われる親友もいる。
(勝手に一方的にわたしが親友認定している。一種の心友)

まあそれは、それとして、、、

そういう、生のお付き合いが至って不得意なわたしなのであるが、、、

悲しいかな、趣味の関係で、必ず人と接することを余儀なくされる。
で、理解不能な状態に追い込まれる。

相手の言動に非常に傷つく。
相手は、わたしが何故傷ついているのか、全くわからない。
身に覚えもなければ、意識もない。
いちいち、あなたのここに、わたしは傷つきました、と毎度毎度、言っていたら、親睦が深まるどころか、ケンカになる。
いちいち、口に出して言わなければわからないような、意識自体に問題がある。

相手は、常に思ったことを口にして、その度にわたしは、グサグサ鋭利な刃物で切りつけられたように傷つけられる。

口に出さないでください、というのは正しいのか。
胸の中で思っていることをただ口に出さないだけ、というのは、常識としてマナーとしてはある。
親しき仲にも礼儀あり。

だが、「言うな」はわかるが、「胸の中で思うな」は、無理がある。
思ってしまうものは、思ってしまう。
外に出さないだけ。

相手は常に思ったことを口に出すから、わたしは、常に傷つく。
仮に口に出さなかったら?
傷つかないが、そんなこと思っているのかと、気もつかない。

口に出す前に、言うべきか、言わないべきか、一旦考えて、検疫通過、映倫通過になれば、口に出してもオッケー、というわけにはいかないのか?
言い方を熟考して、相手が衝撃を受けたり嫌な気にならないように、優しく説くとか、誘導するとか、そんな風には出来ないものか?
それは、相手に望みすぎだろうか?

コミュニケーションの難しさを痛感する。
思うな!って、ほんとに、難しいし、無理なこと。
思わせないようにしようにも、自分は自分で今まで生きてきた道があるから、そう簡単には変えられない。
お互い、自分を貫き通そうとすると意地の張り合いになり、やがて破綻する。
折り合いをつけ、折衷案で妥協しなければならない。
でもいつもわたしは、負ける。譲歩させられる。
誰とでも負ける。

逆の発想をすれば、わたしに勝つ人としか、わたしと付き合わないということだろうか。
わたしは、勝てる気持ち良さを相手に与え続けているということ。
わたしは負ける悔しさや悲しさと常に対峙しなければならない。
わたしはいつも負ける体勢が定位置か。
剛柔、強弱みたいに、正反対の組み合わせなのか。
わたしの持つ弱々しい性格ゆえか。
(そう吐露すると、大爆笑されることもある。Why?)

仮にわたしが勝つような相手だと、わたしは不甲斐ないと感じたり、それはそれで不足、不満が出るに違いない。
勝っても負けても、結局、満足しないという、収まりどころか。

わたしの相手は、強い人には平身低頭なくせに、わたしを相手にすると、偉そうにする。
相手を見て自分を出す。
人はみんなそんなものだが、極端な例や、いかにも感じ悪いのは、良くない。

わたしはどちらかというと、誰にも強く出ない。出られない。
だから負けるのだが、負けてばかりでは悲しすぎるから、作戦、策略を練る。
長期戦で巻き返しを図る。復讐の鬼となる。

長所と短所は表裏一体。
柔和に見えても、やられたら、やり返す。
ただし、基本的にはケンカはしない。
不戦勝。
(他人の場合は)全速力で立ち去るのみ。

立ち去らずに、傷ついて泣いているということは、まだ未練があるということ。
どうにか改善したいと願っているということ。
相手も謝ってきたし(ただし、どこが悪いのかさっぱりわからないようだが。それって、けっこう深刻なんだけど)
頑張ってみるか。そう思っている。


明日、会える?って、えらい急やん

2019-12-28 | お付き合い
師走も押し迫ったつい先日、出かける間際にスマホが鳴った。
また、母かな?
年末で、なんか思い出したのかな?
と画面を見てみると、なんと、お久しぶりの名前が現れていた。

元、仕事仲間K。
蝶ブログにも何回か登場する、頑張り屋さんK。
いつもながら、突然のアポ電だった。

「お久しぶり。Kです。明日、会える?」
え?と、なった。
いくらなんでも明日は無理。
「じゃあ、明後日は?」
と畳み掛ける。

なんで会えないの?
時間、取れないの?
と、やたら強硬姿勢。
わたしだって、年末、予定の一つや二つ、詰まってますわよ。(と言いたかったが、口に出せなかった)
年内に会いたいという。
年末残り少なく数えるほどしかない中で、Kが折れるかたちで、会える日時を調節した。
年内、ギリギリ滑り込みセーフ。

しかし、わたしは彼女とは、年賀状以外のやりとりは、ほとんどなく、長いスパンで、数年おきにポツリポツリと連絡が入る。
今22歳の彼女の末っ子が2歳ぐらいの時にも、チビさん連れで会った。
彼女と交友のある、ミャンマーで活動している女性の絵画展にも行ったなあ、、、と記憶断片を引っ張り出すために、脳ミソをぎゅーっと絞る。
ミュージカル「マンマ・ミーヤ」を観に行ったり、三田(兵庫県)あたりに芝桜を見に行ったり、いつも突然、思いついたように彼女がリクエストし、それにわたしが応える。
お互いの家に各1回だけ行ったこともある。
たったの1回で、何度も行き来しないところが、我々らしい。
いや、、、もう1回、彼女の家に行ったかも、、、上のお兄ちゃん(長男)が結構大きくなっていたから、2回行ったのかも知れない?
いや、1回だったか?
そんなレベルの記憶、やり取りである。

最後に会ったのは、いったいいつだっただろう???
国家試験に苦節何年もチャレンジ、最後あたりはメンタルをやられたらしいが、どうにかこうにか、試験に合格し、彼女は社労士として働き始めた。
何人もでやっている事務所に雇われていたが、人間関係で、ものすごくストレスを抱えていた。
そして、彼女は独立した。
偉いなあと感心していた。
あの頃、上のお兄ちゃんは大学院を出て、就職が決まった。
お兄ちゃんの今の年齢から計算すると、あれから更に10年も経つ?
え?もうそんなに経つ?

で、またまた彼女は仕事のストレスを抱え、行き詰まり、新たな出発をすることになった。
その間、悶々としていたらしい。
悩んで悩んで落ち込んで地の底を這って暗い時は、人に会いたくないそうだ。
やっと人に会おうという元気が出てきたという。

会いたい、行きたい、行動したい、と思ったら、その時にやっておかないと、一生、出来ない、と、タイミングや勢いを大事にすることをモットーとする彼女。
で、テレビで放送されていたお店に行きたい!と突如、思い立ったとか。
その店はわたしの住んでいるところから割と近いので、わたしに白羽の矢が放たれた。
えらく急いでいたのは、タイミングを逃したくないからのよう。

長々、説明した。
まだまだKさんの話は続くが、なにしろスマホ入力なので、手が遅い。
ユニークで刺激的で驚愕的なエピソードを満載した、体当たり旅のこぼれ話も、いっぱい聞いた。
書ききれない。

それに、今日は、別途、趣味関係で辛いことがあり、涙ぽろりん。
延々と入力する気力が失せている。
また、続きは次の機会に。

写真は、Kさんが行きたかったイタリア、シチリア料理のお店。

あ、ちなみにKさんは、蝶ブログを知っている。
が、忙しい人だから、読んでないだろう、きっと。


「合わない感性」のことを「嫌い」という

2019-12-25 | 趣味
嫌われてもいいホンネは、蝶ブログで吐く。
別の趣味SNSでは保身意識があり、自分の持つ悪人要素、腹黒内部は、さらけ出せない。
ここ蝶ブログは、SNSとはいうものの、自分だけの城。(大袈裟)
(gooさんの所有する賃貸マンションに住んでいる一住民に過ぎない)

いいね!や、応援クリックは、有り難いと嬉しく思っているものの、実はわたしは、あまり、とらわれない。
いいね!欲しさに、なんてことはあり得ない。
現実的には、最近、新しいアプリを使うようになってから、初めて、いいね!が、自分のブログにも機能していることを知った。(たぶん、goo同士、限定)
せっかく、いいね!を付けてくださる方には申し訳ないのだが、わたし、腹黒です。
蝶ブログには全編、腹黒コンテンツが溢れかえっているので、既にご存知だとは思うが。

と、前置きはさておき。
(これ、前置きやったんかい!と、漫才ならツッコミをここで入れる、、、長い前置き)

別の趣味SNSの会員さんの日記を読むと、、、
クリスマスから年末年始にかけてパーティ三昧。
特に元旦から5連チャンで踊りに行く、とのこと。
1月1日、2日、3日、4日、5日、、、結構なことだ。
羨ましいなあ、、、の前に思ったことは、、、独身、単身、一人住まいなの?この人。
どうもムスメとムスメ婿は、ムスメ婿の実家に年末年始は行くので、楽々お気楽、、、とのこと。
ムスメさんはいるのね。じゃあ、寡婦?(表現が、お役所っぽい)
旦那さんは亡くなったか、別れたか?
人のプライバシーには首を突っ込む気はないが、旦那さん以外のスケジュールは、華々しく賑やかにご自分の日記に公開されている。
こんなに公開されているのだから、プライバシーお披露目タイプの方なんだろう。
ここまで発信するのなら、ダンナさんは、、、?と、ツッコミを入れたくなる。

しかし、わたしは、あちらの趣味SNSでは、保身スタンスなので、ツッコまない。
ダンナさんが居ないなら、あるいは、存在しないなら、なんの問題もない。
が、、、もし、ダンナさんが居るなら、おいおいおい、と、わたしは思ってしまう。
独立採算制の別行動、個人の集合家族なんで、ノープロブレム、平和です、なんてこともあり得るし。
余計なツッコミを入れて、地雷を踏んでは、つまらない。
が、なんだかなあ、、、である。
情報公開は、自己開示であるが、公開される内容の偏りを感じる。
ではあるが、自分に都合良いことだけを公開してどこが悪い?嫌なら読みに来るな!だろう。
ご無理ごもっとも、その通りでございます。

まあ、そういうわけで(どういうわけで、、、?)
各個人の自己開示の情報は、不快で嫌なら見に行かない自由が確保されている。
それを前提に言わせていただくと、、、(言わなくてもいいのに、まあ、言う自由もある)

その趣味SNSの自分の日記に、孫のバレエの発表会の動画をアップしている別会員さんがいる。
微笑ましい、可愛い盛りのお年頃。
子犬のモフモフみたいな。
会員さんたちは、カワイイ!と皆、褒めまくるコメントが、ぞろぞろ付く。
わたしは、性格が著しくひね曲がっているので、こういう動画は、お気に入りさんだけの限定公開にしたらよいのに、と思った。
わたしのような、一、通り過ぎの者まで見れてしまう。(その、もふもふお孫さんの、おばあちゃんであるご本人のリアル人物は知っているが)

見て見て!うちの孫!!カワイイでしょう!!!
これはなんの罪もない、人間としての素直な感情の発露である。
それは重々理解し、非難も否定もする気はさらさらない。
が、、、じゃあ何が言いたい?
わたしは、実像の彼女が好かんタコ。
彼女は、趣味分野で実力もある、人気もあり、お人柄も良い、行動力もある、人の為にも尽くす人。
なんの申し分もない。
しかし、わたしにはナイナイ尽くしだからと、卑屈になどならない。(そういうのは、卒業、超越した)
じゃあ、何なの?
何なんだろう?
何の理屈も理由もない、単に好み、嗜好だろう。
妬み、そねみ、ひがみではない。
いい年したおばあちゃんが、自分の90歳ぐらいの母親のことを「ママぁ、ママぁ」と呼び、娘さんやらお孫さんを一般に公開する神経が、ただ単にわたしの好みと合わないだけ。
であるが、個人の好みには、白黒、勝負のつけようがない。
どっちがいい、なんて言い合うのは、全く不毛な時間だろう。
お互い、相手を認めた上で、「わかるわ。でも、わたし嫌いなの」の世界だ。
「そんなに素晴らしいんですか。でも買いません」と、プレゼンテーションの後のようなもの。
だから、同好の人だけ閉ざされたところでやれば余計な摩擦もないのに、路上パフォーマンスなんぞするから、色々な意見や感性が出てくるのだ。

大人なので、「あら、それいいわね!」とは本人に言っても、「あら、それ、感じ悪いわね」とは言わないだろう。
個人の感想は、口に出す場合と、胸に仕まっておく場合がある。
相手の気持ちを思い遣って、というのが道徳的優等生の答えだが、わたしは、それプラス、自分の評価に跳ね返るのを避けるため。
これは道徳の教科書には載っていなくて、社会に出ると防衛本能として身につくことがある。
聖人君子、キレイごとばかり言って世の中で生きて行く人、美しいが、実は、煙たがられたり、嫌われたりしている。
だが、誰一人として本人には伝えないから、いつまでも美しいまま。
それはそれで、世界遺産みたいなかんじで、守らなければならないのかなあ、、、と、俗世間に汚れ、もはや純白、純真ではないわたしは、思うのであります。
外の世界から離れ、好きなようにマイウエイで、自分の世界を楽しく満喫していると、○○障害やら、なんやら、病名が付く世の中。
世間とのお付き合い、人との調和、協調もある程度はクリアするようにしないと、ダメみたいだ。
そのあたり、調整するのは自分。
色々な人がいて、バラバラの特徴ある個性を出し合うのは、面白いと思うんだけど、、、


師走、、、忙しないというのに、いつまでもまとめに届かず、〆られなくなってきた。
こういうの、時間泥棒なのかも知れない。すみません。


閲覧数が急減するワケ

2019-12-24 | ブログ
蝶ブログとは別の、趣味SNS。
最近、わたしの日記の閲覧数が減ってきた。
原因のひとつには、飽きられてきたこと。
あと、別に考えられるのは、わたしの思い込みの可能性はかなり高いが、最近の自分の動向を書いている内容に対して皆さんが親近感を覚えないこと。
好かれていないという印象を受ける。

それまでは、イジケているダメ子路線だったのだが、最近は成功例の報告のような内容に移行している。
人々が安心できるような、どこにでもいる、口ばかり辛辣なダメダメ女性のダメダメ日記のほうが喜ばれると推測する。
蝶ブログはダメダメのままだし、ダメダメ路線は、ねつ造ではない。
(いつも読んでくださる方には、ありがとうの気持ちです)

ダメ子が、ダメ子から脱皮すると、その瞬間は、とてつもなく嫌味な、悪臭がすると想像する。
落ち着くとまた、身に応じた適度な謙虚さが戻ってくるのだろうけれど。
わたしは、すっかりお年寄りで、年齢より30歳、老けているくせに、別の面では、全く小学生と同レベル。
分野によって、バラツキがあるということだろう。

まあ、そんなこんなで、同じ趣味の人には、趣味のことで、間違っても自慢してはいけない。
本人は自慢している自覚はなくても、自慢と受けとられることがあり、無意識なだけに、そうとうムカつかれる。
自分が一番だとプライドを持っている人ばかりなので。
事実報告でも、ダメだった可哀想な事実の実況報告は良いが、上手くいった場合は、人々を不快にするように感じる。
自慢だと取られる可能性が非常に高いと思われる。
検証したわけでもないので、わたしが勝手に思い込んでいるんだろうけれど。

人って不思議。
ライバルならいいけれど、下にいる人は下に居続けないと生態系が崩れるかのごとく、良い影響を与えないのだろうか。

とかなんとか、今日のブログ記事は、わたしの深読みし過ぎ、思い過ごし、自意識過剰の産物のような気もする。
わ、嫌な自分。

リベンジを果たしに武者修行

2019-12-23 | 趣味
大阪市内、上級者が集まるといわれるダンスパーティ会場に行った。
武者修行。
8年間、辛酸を舐めてきたパーティ。
今回は3度目のリベンジ・チャレンジ。
1回目は、会場の雰囲気に飲まれ、いともカンタンに敗退、撤退。
2回目は、武器を携え、戦力アップ。
この武器は、超上級者の知人を保護者にして、バックアップ体制。
これは功を奏した。
知る人ぞ知るの、あんな上級者、しかも、お金なんぞでは踊らないストイックなお方、そんな人物と踊りながら、会場にしだいに慣れて行った。
目が慣れて薄暗かったものが、だんだん落ち着いて会場内を見渡せるようになってきた。

しかし、自転車でも補助輪を外さないと、乗れたことにはならない。
さあ、3度目。
お一人様で敢行。
2回目と同じドレスで縁担ぎをした。いわゆる勝負服。
1回目は、自信のなさから、真っ黒カラス服だった。
やはり、やる気を見せるためには、積極的に出なければならない。
かといってキバりすぎるのも、どこの田舎から出てきたの?になる。
なので、日常感をサラリと演出。
(実際はキバった服をやめて、あえて、普通っぽい、だが、自分にとっては、一番自分の長所が見える、と、勝手に思い込んでいる服)

それを着て、さあ、出陣。
結果は、オッケー。丸。戦果あり。
まあマイナスの自信が、少しはプラスになった。

だが、パーティは中盤も過ぎ、戦果も手ごたえを感じたというのに、トイレの鏡で見た自分の顔は、どこからどう見ても、魅力のない老けたシニア。
歳相応ではあるが、元々、顔には自信は全くない、非美人のわたし。
スタイルも、脂肪の乗りが良い部分と、タプタプ部分のある、ぽってり体型。
現実を鏡は如実に物語っていたに過ぎない。

2013年に2回目のパリひとり旅をした時、地下鉄の窓に映る、さえないおばさん顔の自分を見た。
駐在員でもない、駐在員の妻でもない、その地に、なんの関わりもない、ただ異邦人のように、存在が宙に浮いている自分。
あの時の不思議な感覚が蘇った。

が、外国語は話せなくても、最低限度の知恵はどうにか備わっているので、自分の出来る範囲で出来ることは実現できる。
それでいい。

これは、実がないんだよ、サワリだけ、予告編に過ぎないんだよ、と、魔法がとけたシンデレラのように、現実に戻るのだろう。
シンデレラは、あれから王子様と結婚してハッピーエンドだが、私は王子様と結婚した時点がピークだと思う。
やったぁと、成果をあげたのに、身贔屓に光り輝いた顔に見えてもいいはずなのに、不細工な顔の自分の現実が見える、、、ということは、ピークを無意識に予見したのかも知れない。

まだ美味しい部分は残っているのに、深追いしない自分。
自分への失望を恐れ、腹八分目にしているのだろう。
目一杯でないので、逆に少しまだ余裕を楽しめる。
やり切る、出し切る、200%の力を発揮するというスタンスもあるんだろうけれど、わたしはあんまり意識的にはそうしない。
無意識に結果的にそうなることは、あり得るかも知れないけれど。

追い求め過ぎては幸せを取りこぼすことがある。
自分にはポテンシャル、可能性があるとわかれば、それでよい。
新しい次の自分が進む道は、さらにさらに上を求めるのではなく、今あるところにあると考える。
自分はまだ行ける、とわかれば、上を目指すのではなく、現状維持に努力したいエネルギーが湧いてきた。

器や枠が出来れば、あとは、中味を充実させる。
枠ばかりを大きくしても、足元をすくわれる。
選んだ道、来た道を振り返り復習して、密度を濃くし、精度を上げたい。
て、いつも大袈裟なわたし。
絶対、有頂天にはならない。

だが、実際のその瞬間は、我を忘れて夢中になっていると思われる。

専業主婦の引きこもり

2019-12-19 | 時事&世の中
専業主婦の引きこもりは結構多いそうだ。
ニュースで、特集されていた。
昔と今では価値観が違う。

花嫁修行中のお嬢様は、すねかじりのニート。
家事手伝いなんて優待枠は絶滅種に近い。
(家業手伝いは、あり)

今は、仕事をしていない専業主婦は肩身が狭い。
美容院で、「お仕事は、何されてるんですか?」と聞かれると深く落ち込む、と、取材された専業主婦引きこもり女性が言っていた。
わたしは、若い頃はお遊びのバイト程度で、無職だった。
幼稚園児の頃から、
「将来、何になりたいの?お父さんと同じ職業?」と聞かれると、迷うことなく、誰に教えられたわけでも洗脳されたわけでもないのに、「お嫁さん!」と即答していた。
あれは、いったい、何だったのだろう。
きっと、サボり根性の発芽だったに違いない。
自己防衛本能の芽生えか。
だとすると、恐ろしい幼児である。

仕事をし始めた当時、非常に平凡で、なおかつ贅沢な思い上がった動機ではあったが、○○家のお嫁さん、○○さんの奥さん、○○ちゃんのお母さん、以外の顔を持つ自分を確立したくなった。
よくよく考えると、わたしはお嫁さんになる努力しかしてこなかったくせに。
矛盾のかたまり。
常にわたしの原動力は、「矛盾」との闘い。

精神的自立を目指して仕事をするようになっても、所詮、給料は端金。僅かな収入。
経済的自立を伴わないものは、自立と言えるのか?

だが、仕事をするということは、どういうことか、を思い知った。
社会の仕組みを実感した。
ほとんど仕事をした経験がなかったら、気がつかなかったことも多い。

いや、しかし、今、思えば、小さい頃から、家業の仕事はしていたのだ。
家業の丁稚奉公のようなもの。
お勉強一本槍の兄は特別枠で、家業も家事も課されず、無罪放免。
だが、それも実はかわいそうだった。
勉強以外は、許されないなんて地獄だ。
しかも、秀才ならともかく、脳みそレベルは、わたしと似たり寄ったり。
今なら事件の種だろう。
まあ、家庭内企業のようなもので、家父長制のもと、父は恐ろしいほど仕事の激務に耐え、母は馬車馬のごとく馬力のある(この表現、明らかにおかしいって、、、)ハードワーカー、かつ、お山の大将、裸の王様で君臨していた。
外部から見える風景と、中から見る景色は大きく違い、わたしは、1日も早く、お嫁に行きたかった。
過激労働はノーサンキューのサボりなんだろう。

話は脱線するが、、、
姑が嫁に来た時は、実家から女中さんを連れて来ていた。
しかし、姑は、女中さんが羨ましかったと、こぼしていた。
女中さんは、やめて帰ってしまったから。
やめたくても、やめられない、自分の身を嘆いた。
江戸時代じゃあるまいし、命まで取られないんだから、やめたければ、やめたらいいではないか、と、今なら思う。
プライドだけで生きていたのだろう。
もともとIQの高いDNAを持つと思われる姑は、知恵を別のやり方で、付けていった。
わたしの目から見ると、姑が贅沢だと感じた。
アンチ・エコをモットーに、誇りを支えていくことが、彼女の人生の使命だと思っているように見えた。
わたしも若かったし、なにしろ、「将来の希望=お嫁さん」であったわたしが、偉そうなことは言えない。
まあ、直属の上司=姑は、そういう人だったが、上司の上にまた上司がいた。
姑の姑だ。
これまたこの人は、賢いお方で、才媛であったにもかかわらず、エコ派。拍手!
洗濯の仕方ひとつとっても、姑と、姑の姑は、方針が正反対だった。
赤勝て、白勝て、の世界。

蛇足ながら、姑はアンチ・エコ、その夫は、きっちりした人、
姑の姑は、きっちりした人、その夫は、きっちりしてない人、
現在の嫁(わたし)は、へんに節約家、そして悲しいかな、わたしの夫は、きっちりしてない人、
ついでに言うと、息子は、今風、エコ・ミニマリスト。
順番順番に、交替で組み合わされ、面白い。
必然的にそうなったのかも知れない。
どの代にも言えることは、男たちは、おぼっちゃま。
わたしの息子は、アンチおぼっちゃまで、家を出て行った、とわたしは推測している。
ファミリーヒストリー的に言うと、江戸時代の跡取りたちは、おぼっちゃま兼、働き手、兼、家父長リーダーだったのだろう。
時代は大きく変わる。
わたしは、現在のおぼっちゃま(夫)を時代の隙間に落っこちて、崖の木の枝に引っかかっている人だと見なしている。
(自分はどうなの?は、得意技の棚の上)
息子は、おぼっちゃま枠はもういいから、また別の方向性を見い出して歩んでほしい。


と、延々と話が脱線した。
ぐわぁ〜んと、130度、角度を変える。
専業主婦で、一度も社会に出たことがない人は、わからないことがある。
いつでもやめられる、帰り道切符のある、ちょっとバイトとかは、働いた経験とは言い難いと、わたしは捉える。
ぬくぬく、あるいは、しかたなく、家庭の外には出られない。
家庭と社会の間にある厚い皮、着ぐるみを被っているような感じだろう。

でも、夫も子供もいて、国のお世話にもならず、経済的には働きに出なくてよくて、最悪ではないはず。
そういうところは、先進国の明暗かなと。

わたしは、雑巾を縫いながら、おんぼろラジオ、ガーガーでも、楽しい。
この延長でいけば、月に支出、10万円以内でも十分楽しく暮らしていけそう。(計算してないけれど)
外貨を稼ぐ必要がなくて、やれやれだ。

健康で、自分に誇りが持てたら、それで充分。
よく、老後の黄金の3要素、健康、お金、友達、と謳われる。
が、わたしは友達がいなくても家族が有ればいいと思う。
家族が無ければ、、、ラジオがあればいいかも。
それと、ブログ。

そんな事態にはまだなっていないが、やはり、人恋しいと思う。
人一倍寂しがりだから。
 
今日のブログ、テーマは、専業主婦の引きこもり。
なんだか、まとまらない。

わたしは、引き込もっていても、固定引きこもりではないから、楽しいのだろう。
内側、小さな針の穴から外を見ている。
楽しいこと、いっぱいある。
仕事しなくてもいい優待席にいるのなら、そんなに悲観したりしなくてもいいと思う。

が、年齢が若いと、そうでもないだろう。
まだまだ自分のポテンシャルを試したい年齢。
承認欲求や達成感、自立実感を味わったことがなく、そのまま歳を取るのは、咲かない花のまま枯れるかのごとく。
しかし、咲く花ならまだいい。
バラの蕾のまま何万何千万本ものバラをエッセンスにした香水もある。
咲かなくても、何千万分の一で、良い香りを醸し出すのも素晴らしい。
なんか、スマップの曲で、ベストワンではなく、オンリーワンを讃える、そんな曲があったような、、、。
色々、あり、色々、人は抱える。

自分は、楽しいけれど、他人さんは楽しくないかも知れない。
無責任に、自分のことだけ言ってられない。
まあ、人はどうあれ、わたしは楽しい。

自分は自分の道を歩み、子供たちは自立してくれた。
自分の仕事で成功を収めるよりも、自分自身のささやかな世界の幸せに浸っている。

それがどうした?の話でありますが。

またやってきた、暗黒の時間

2019-12-18 | 日々のこと
専業主婦の引きこもりについて、ブログ記事を昨日から今日にかけて書いた。
が、どうしてもまとまらないので、お蔵入りにした。

夜はなんだか、気持ちが暗い。 
そりゃあ夜は暗いものだから。
地球が自転しているから。

今のモヤモヤした気持ちを文字に表したところで、なんの解決にもならない。
読まされる側は、はた迷惑でもある。
イ〜〜っと、なる。
今日、忘年会で、少しお酒を飲んだ。
悪いお酒だ。
精神衛生上、この上なく良くない。

こういう時はどうする?
皆さんは?
わたしは、気が乗らない、やり残した家事をちゃっちゃと片付けて、もう寝よう。
布団を頭からかぶって、目をぎゅっとつぶって、朝になるのを待つとしよう。

ラジオと雑巾

2019-12-17 | 日々のこと
スマホを見過ぎて、目がチカチカ。
こりゃいかん、と、スマホから目を離した。
そうだ!雑巾を縫おう!
と、いきなり思いついた。

キティちゃん柄の小さな3段、裁縫箱に入った針と糸。
雑巾にする、そのために取っておいた使い古しのタオル。
孫の保育園用に10枚要るらしい。
そう前から聞いていた。

さあ、タオルを広げる。
静かだ。静まりかえっている。
ん?
裁縫といえば、ラジオだろう。
と、納戸に入ってゴソゴソ。
小さいカセットテープレコーダ兼用ラジオを取り出した。
これ、新品。
ずいぶん前の新品。こういうのを新古品というのだ。
前に納戸を整理した時(ダンボール箱を二階に上げただけ)、小さい、吹けば飛ぶような、ちゃっちいラジオを発見した。 
あれを出して来よう!

で、いつのかわからない、超新古品のラジオを箱から出し、コンセントにつなぐ。

お裁縫と、ラジオ!
この図。レトロで気に入った。
洋裁、和裁と独身の時に習っていたのが、まるで悪い冗談のような、わたしの手先の不器用さ。
粗い荒い、すごいアライ目の、ひと針、ふた針。
ひと針、ひと針、熱心に入魂。
まるで、戦地に向かう兵隊さんへの千人針のよう。

ラジオは、電波事情が悪く、最初はAMしか入らなかった。
ほとんど、ベタなおしゃべりと、CM。聞きたいのは、これじゃない。
まるで、暗い部屋での内職イメージ。
おばちゃん、おっちゃん的ノリはあまり好きではない。

FMにするが、ガーガー電波は、まるで短波放送。戦時中の暗号か。
あるいは、短波にかじりつく株デイトレーダー?
ちょっと演出としては、狙っていた路線ではないが、しかたなく、ガーガーしたFMを流す。
パリの工房跡を利用した小さなスタジオみたいなイメージに近づいてきた。(言い過ぎ)
そのうち、電波が段々、合ってきた。
て、電波って、段々、合うものなの?
まあ、いい。

すごく昔を思い出して、楽しいノスタルジックな心境。
しかし、近所のスーパーに行けば、とても安く雑巾は手に入る。
100円ショップでも然り。
たった100円のために、半日、格闘したわけだが(時給20円?)、100円以上の満ち足りた気分を味わった。(て、単位は100円ではない)

雑巾を縫うために、和裁や洋裁を習ったわけではないが、わたしには雑巾が、ぴったりだと、しみじみ感じた。
施設のボランティアの雑巾縫いでもよいが、わたしは、ボランティア精神は育っていない。
(キリスト教は、博愛精神だろうけれど、仏教は、先祖や子孫のため、自分の縦の血縁関係のために尽くす、と、姑を通して学んだ仏教)
で、孫のため、という大義名分。
ただ単に、雨の日に、ラジオを聴きながら、縫い物をしたくなっただけだが。

もうこれで、95歳になって病院に入院する寸前まで、ひとり遊びが出来るような気になった。
自宅でラジオを聴きながら、雑巾縫い!
それが楽しいと思う自分がいるなど、全く予想も想像もしなかった。

だが、「いついつまでに、○枚、お願いね」なんて言われると、途端にやる気は失せ、憂鬱になり、きっとアタマに漬物石が載るのだろう。
仕事なら、電動ミシンだ。が、納期に程遠く、クビになるのは、見えている。

白昼のわたしの遊び。
所詮100円レベルではあるが、金銭では計れない喜びもあるのだと感じた。
でも、たまに、やるからいいのだろう。幼稚園並みのお遊び。
人と話すより、ラジオのDJの話に頷き、笑い、ちょっと怖いものがある。
どんだけ、内向的なの?
でも、人に合わせるより、楽しい。
引きこもり予備軍か?
そんなことはなく、わたしなりの、静と動、内と外、メリハリを楽しんでいる。
ジャンプする前は、身体を屈めなければ、飛べない。
エネルギーをチャージしている。

とか言って、結局、飛ばないんだけど、、、。
飛ばない自分も、心地よい。

忘れた頃にまた、、、鬱陶しい人

2019-12-16 | 趣味
庭の紅葉もすっかり枯れ落ち、牛の形だった枯葉は、今度は、お魚さんに!
「この世界では、牛の後は、魚になるんやで」って、孫に説明してやらにゃあいかん。
いや、やはり、純真な子供に、悪ふざけは良くない。
それに、魚にしては少々、変形で無理がある?
意味不明ばあちゃんに位置付けされるのは、やめておこう。

ちなみに、、、
ある、怒り心頭の出来ごとがあった。
2年と少し前、ダンスで組んでいた人、A。
彼のせい(もあって)膝が悪化して、当時、Aとのダンス続行を打ち切った。
そのことを、相手は特定せず、趣味SNSで書いた。
SNS会員のほとんどの皆さんはわたしのリアル実物を知らない。
知っているのは、その人物Aと、もう一人のみ。
なので、Aが物凄い勢いで噛み付いてきた。
まるで彼、Aのせいで、わたしの膝が壊れたかのように言われては心外だ、と。
公のコメント欄ではなく、外部にはわからない、閉ざされたメールで、ガンガン言ってくる。
しかも、当時のメールのやり取りをベタベタ貼り付けて。
何通にもなると、鬱陶しいことこの上ない。
自分の書いたものなんか、見たくない。
それなら、堂々と、公の場でコメントすれば良いではないか。
我々二人だけで交わしたメールを公開するわけにはいかないからだろう。

あれこれあり、この人と離れられて、別れられて、本当によかったと、つくづく思った。
1秒も長く関わりを持ちたくないので、喧嘩をこれ以上、広げる気はない。終結したい。
なので、謝ったにもかかわらず、気が収まらないようで、まだ、あれこれ言ってくる。
殴った相手が倒れていて、白旗を上げている上からまだ、どすどすと靴のまま踏んづけてくる。
この人はやはり、前に当初、思っていた通りの人だった。

時間が経って少し収まってから、そっと、SNSのお気に入りさんから削除しようと思う。
今、削除すると、火に油を注いでも困る。
嫌な相手とは喧嘩せず、気づかれないように、そっと逃げること。
関わりを一切、断つこと。しかも、そっと。それが肝心である。

Aは、他にも、そっと知らない間に、別の会員Bさんに、お気に入りさんから外されていたと、えらく怒っていたそうだ。
早かれ遅かれ、皆さん、することは同じなのだろう。

他にも度々アタマに来る人物は実社会にもたくさんいるが、とりあえずは、冷静になって考えてみる。
自分はどうか?
相手ばかりを責めていないか?
いろんな事態が進行するにあたって、お互いの非を認め合い、お互いの良い面も悪い面も両方、認め合ったりする。

このAに限って言えば、それは一切ない。
自分でも気づかず、人からも学ばず、かわいそうな人である。
一人去り、二人去り、彼に親身になって助言する人も現れず、皆んな人知れず去っていくのだろう。

だって、あんな人、関わるの、嫌だから。
塩、塩、塩。
前に自分のブログで、Aのことに関して、そう書いたような気がする。
あれから2年。
忘れていたのに、また。

塩が、足りなかったようだ。