蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

主婦のキャバクラ体験レポートを読んで

2019-04-24 | 趣味
エッセイスト柴原明子さんのエッセイが面白すぎる。
私にとっては、ツボ。
この人の元夫がキャバクラにはまり、一晩で2000万円も使ったり、で、どんなものなのか(敵を)知るため、彼女は潜入を試みた。
キャバクラ体験レポの記事の中で、ある一文に、デジャブ的にピンときたものがあった。
(ちなみに、主婦が客として入ったレポートであり、キャバ嬢として働いたレポートではない)

体験レポートによると、客は入店した時、大勢のまばゆいばかりの美人たちに迎えられる。
キャバ嬢って、ある意味、ダンス教師に通じるものがあると(個人的体験を通して)感じる。
いろんな特徴ある売り(個性)を持つ、プロがズラリ。
一瞥してお好みだったり、ちょっと踊ったりして気に入ったらお金を渡すと、さらに踊ってくれたり、教えてくれたりする。
あまり意味があるとも思えない、プリプリの身体の一部を触らせたり(意味があるんだろうけれど、いまいち、ワカラナイ。深い理解力、欠如)
いい線まで興味を惹きつけておいて、ハイ、あとはお金を払ってねー、とにこやかに背中をくるりと向ける。
ここからは、指名料がかかる。
美しい背中と、お高いレッスン料に、高いプライドが詰まっている。

お金で手に入るものが全てだとは思わないが、
ガス、水道、電気などは、お金で手に入れるほうが楽。
文明の力は、利用させていただいている。
衣食住、教育、娯楽もお金で。便宜上、お金を利用する。
愛情も? 一部、お金で手に入る。
技術は?
頭脳は?

ブレーンは、ある程度、お金で繋がるが、ネットワークや、信条、ポリシーが一致しないとお金では動いてくれない場合もある。

キャバクラが好きな人は、お金だとわかっていても擬似恋愛付き快楽を享受する。
私は、偏屈なので、お金で動くものには、最大の価値は置かない。
ただしサポート的には使う。

どれだけ自分が満足するか、だ。
キャバクラが好きな他人を非難する気はないが、もし恋人や配偶者なら、私は別れる。相入れない。
もちろん、キャバクラとダンス教室は違うし、キャバ嬢と先生は違う。
共通点は、ビジネスが介在している関係性であるということ。
経済で社会は成り立っていて、お金が動かない社会なんてないのだから、目をむくこともないと思う。
(とある別SNSで、お金の話を書くと、社交ダンス愛好家の中には不快だと思う人が必ず絶対にいて、いつも「不快です」とコメントを同一人物が寄せてくる。
このコメントは、わたしにとっては最大の不快である)

だからどうやねん!という話だが、柴原明子さんのエッセイの中の丁寧な解説に、社交ダンス愛好家と社交ダンスプロの相関図のようなものを発見し、すとんと腑に落ちた驚きに近い衝撃を書かずにいられなかっただけ、という話だ。

男性も女性も、キャバクラが嫌いな人も存在する。
私もその1人。
でも、根底に流れているものが一部共通するものがあると感じ、私はそうじゃない、そうであるべきではない、と、なぜか、お目々をパチパチ、まつげを揺らしながら、清らか路線を選択している。
お金は払う。
が、電気ガス水道代、衣食住、医療費には払うが、教育娯楽費に関しては、入り口までは最低必要限コースだが、あるところから更に進むと、高い意識を持っているんだ!と自負している自分。
わたしって、(現実はさておき)へんにプライドが高いなあ、と自覚したということだ。
ただ、たんにそれだけのこと。
偶然見たり接したりしたものから、共通点を見いだし、自分の特性を知り、再認識する、いつもの脳の巡廻コースである。
脳内お散歩、本日は終了です。


人々が交差する、昭和レトロな喫茶店

2019-04-22 | 人々の風景
大阪市内の、環状線やら、私鉄やら、いろんな電車が停まる駅の、駅前ど真ん前にある喫茶店。
昭和レトロな雰囲気で、分煙なんか、どこ吹く風。
プカプカ、モワモワ、お構いなく、周りからの濃い煙に、帰宅するとタバコの匂いが服に付着している。
ダンス会場に行く時、そこでボリュームたっぷりな、お値段も昭和の良心的価格のランチを食べるのだが、、、。

今どき、分煙しない店など珍しいからか、はたまた、良心価格のせいか、あるいは、立地の良さからか、いつもその店は混み混みである。
どう見ても時が逆流したような店。
古い、ビニール椅子に脂っぽい手あかが、テカテカついたような、庶民的な風情。
高級志向の人は、行かないかも知れない。

その店では、もちろん周りに遠慮することなく、思いっきり、タバコをプカプカ吸う人も多く利用する。
サラリーマンもいるし、労働者、ブルーカラーも、子連れ主婦も高齢者も、老若男女で賑わっている。

と、長々説明。
そこでわたしが、とても驚き感じることがある。
喫茶店だから昼時は主にその店のオススメランチを食べるが、一人で来る人もいるし、おしゃべりしている人もいる。
で、近くから、おしゃべりが聞こえると、ある種のトーンには、わたしは耳ダンボになってしまう。

まず、声、発音。
わたしは生まれも育ちも国籍も日本なので、日本語や日本人の細かい特徴がよくわかる。
背中合わせなので、顔は見えないが、イントネーションや、話し方で、即座にその人の社会的属性が想像できる。
うわぁ〜、絶対にわたしとは、接点がない人だ!という人がいる。
(昨日のわたしの背後に座っていた女性)

そのダミ声の女性は、マイナス感情を吐き出すように、一方的に話していた。
まずは、状況説明、自分との関係。親族の話のようだ。
長々だらだらと一方的に聞かされる、親族でもなんでもない相手のことが気になった。
なぜなら、あんな話、関係ない人にとっては、なんの関係もなく、しかも不満を爆発させられてもはた迷惑なだけだ。
しかし、相手は、ほんの一言、二言だけ、合いの手を入れる。
わたしは二人の関係性を想像した。
あんな話に素直に付き合ってあげる相手とは?
ちらと見ると、背中合わせの女性の肩越しに、相手の肘から先が見えた。
腕と袖口から、60代前半ぐらいの男性だと推定した。
この、ダミ声の女性の夫ではない。(内容が、相手は知らないと思われる親族の話だから)
では恋人か?
肩から上だけの後ろ姿で想像する、ダミ声女性は50代後半〜60代か?
まあ、恋人でもあり得ないことはない。
男性が、女性に熱を入れているのだろう。でなけれな、おとなしくあんな話を延々と、しかも肯定スタンスで聞かない。

それにしても、ダミ声女性。
なんども振り返ってしまうほど、わたしとは接点も縁もないタイプ。
年齢だけは同世代と思われる。
場所が大阪市内のど真ん中、しかも、梅田とかではない、ちょっとディープな地域だからだろうか?
どうすれば、あんなに、オール・マイナス要素の掃き溜めみたいなキャラクターが形成されるのだろう。
どんな生き方を積み重ねると、あのようなテイストが醸し出されるのだろう。
マスコミで報道されたり、映画やドラマで見て想像する、犯罪関係者的ニュアンスが漂うイメージ。
もし、あの女性が、同じ地域に住むか、同じ職場にいるか、親族にいるか、だったりして、頻繁に関わりをもたなければならなかったり、利害関係があったりしたら、わたしはこころの病気になるだろう。

というぐらい、、、しかし、わたしが知っているのは、彼女の肩から上の後ろ姿と声と話し方、内容の一部だけである。
決め込み、決めつけが著しいが、だいたい予想は外れたことはない(と自分では思っている)。
(しかし、今までの経験からすると、思い込みは結構激しいようにも感じるが、感受性が強く、どんどん想像が膨らみ、早とちり傾向もあるように捉えられなくもないが。
後になって、なあんだ、思ったほどのことはなかった、ということは、ないことはない、、、
と、自分の間違いを認めたくないものだから、読みづらい文章表現「二重否定が続く」背景、原因、解説を見苦しく付け加える)


で。
なんと長い、まったく見ず知らずの、なんの接点もない彼女の悪口を書きまくったが、、、
驚いたことに、その話を対面で聞かされていた相手は、恋人ではなく、女性だった。(今の時代、同性の恋人かも知れないが)
おかしいなあ、、、腕や袖口イメージでは男性だったのだが、、、女性もある年齢を超えると中性を超えて、逆の性別に変化するのだろうか、、、。

そして、次に、その同性の相手が口を開いた。
今度も一方的にペラペラ状況説明。
その後、またまた一方的に意見、感情を延々と。(話の中身は、人間関係が絡む、職場、仕事の仕方について)
ダミ声女性は、一言も発せず。
この二人、かわりばんこに、感情の吐き出し合いをしているのか、、、。
道理で相手がしゃべっている間、もう一人の人は、なにも話さないはずだ。
相手が話し終わるのを待っている、順番待ちだったのか。

相手にとっては、全く興味のない話であっても、聞いてもらうとスッキリするのだろう。
わざわざ人に話す内容ではないと不思議ではあったが、内容よりも、話すこと自体に意味があるようだ。
気が晴れるんだろう。
わたしのブログと同じだ。

ランチタイム、お昼休みのひとときを、こころのリフレッシュに使う人々だった。
わたしは、同じ時間帯、彼女たちとは背中合わせで、スマホ端末の説明を受けていた。
どっちが有意義か、なんて比べる意味がない。
どちらも、それぞれの思い思いの時間の使い方をしている。
ランチタイムが終われば、それぞれの持ち場に戻る。
大阪ディープ喫茶店は、同じ時間、同じ場所に、いろんな人が交差する。
そんじょそこらのテレビや小説より、ずっと面白い。

毒親

2019-04-19 | 無題
今日は、ブログ村ランキングAIの目を全く気にしない、自分のためだけのタイム。
(人目を気にすると、どうもギクシャクする)

昨夜、クローズアップ現代(NHK22:00〜)で、「毒親」がテーマになっていた。
東ちづるが、親の顔色ばかりを伺い、自分のためではない、親のための人生を生きてきたことに気づき、母親といっしょにカウンセリングを受けたそうだ。
すると、優等生真面目タイプの、彼女の母親こそ、自分がこうしなければならないという良妻賢母のイメージに囚われていたことに気づいたらしい。
二人同時にカウンセリングというのが、なかなか効果があると感じた。
今では、高齢にもかかわらず、お母さんは、したいことが、いっぱいあって、選ぶのに困るほどだとか。
主体的に生きることに目覚めた、ということだ。

わたしの姑も、人から見られた自分を生きるタイプ。
わたしの母は、自分本位で生きるタイプ。
周りからすると、良妻賢母である姑のほうが、断然良い。
見るだけでなく、実際、関わりがあるとすると、姑タイプが気遣いもしてくれて、とても快適であるし、周りからの感謝や評価も高い。
母は、、、その逆。
しかし、母自身、本人はすこぶる快適。
ひょっとして、わたしは毒親に育てられたのかも知れない。

嫁に行き、実母から姑に、母がチェンジされ、とても嬉しかった。
家庭も、わたしにとって、心安まらない実家と、明るく暖かい婚家、
実母と姑、天と地の差があった。
姑本人は自分に理想像を課していて自身は辛く、大変だっただろうけれど。
こうでなくっちゃ、と、姑から学ぶことがたくさんあった。

が、、、晩年。
やはり、わたしは毒親の娘だ。
自分に忠実なほうを選んだ。
自分に素直になると、それはそれは快適。
わたしはそもそも、もともと優等生の逆タイプなので、優等生を演じることは出来ない。
だが、せめて、落ちこぼれない程度は、すべきことはすべきだと思って、やってきた。
最低ラインすれすれのところ。
上も見て、下も見て。
考えてやっているのではなく、わたしのキャラクターなのだろう。

わたしのような毒親に育てられた、わたしの子供達は?
気の毒な子供時代だっただろうか?
自分の思い出す回想シーンなんて、自分に都合が良いところしか覚えてないに決まっている。
マズイところは、さっさと忘れているに違いない。
でないと心の病気になってしまう。

と、主観はさておき。
客観的に見ると、子供達は普通に育っている。
わたしだけではとても、ちゃんと出来ないので、姑や舅の協力、バックアップもかなり影響していると思われる。
(夫が欠場している、深刻な問題は、ここではさておき)
まともな人々が、非常に近い関係者で、本当に良かったと、胸を撫で下ろしている。

子供達に「あんたなんか、、、、(こきおろす)」と思ったことは、一度もない。
なんて、出来た子供達なんだろうと、いつも目を丸くしていた。
わたしはいつも、親にも学校でも叱られっぱなしだったのに、子供達は、学校で保護者面談があると、褒められる。
わたしの子供ではないかのように、いつも思っていた。
夫サイドの優秀なDNAだろうけれど、わたしには、全くピンと来なかった。
どこかからもらってきた他人みたいで、面白かった。
手を焼いて困るのなら辛いが、良すぎて不思議、なんていうのも、ケッタイである。
しかも、そんなことを他人に言うと、自慢しているように取られてもいけないので、口には出さなかった。
自分の手柄でもないことを自慢、吹聴するなんて、そんなみっともないことは出来ない。
家の中では、「スゴイね〜」と心から思って子供達を褒めた。
本当によくやってくれた。
わたしのような手抜き親にしては、出来過ぎである。
やはり、姑のサポートが大きかったかも知れない。
だから、わたしは姑には頭が下がる思いで、感謝してもしきれない。
にもかかわらず、平素はほったらかし、ポイントしか動かない、口先ばかりのわたしである。


ここで本日のブログ、終わればよいものを、、、
一言余計なことを加えて墓穴を掘るタイプのわたし。

ママ友に、いかにも頑張ってます!タイプの人がいた。
あまりにも大変ぶりを自己アピールするので、いったい具体的にどんなことに頑張ってるんだろうと聞くと、日々、忙しく銀行に用事で行ったり、、、(あとは、聞いたけれど忘れた)とかなんとか日常の普通のこと。
絶対、石を投げられることを承知の上で言うが、日頃、わたしが仕事の合間に、ほんの片手間にやっていることが、彼女のメインだった。
わたしが100分の1ぐらいしか気合いを入れていないことが、彼女の全力、全身全霊だった。
価値観の違いである。
結果が、彼女が100倍なら、周りも彼女も納得するところだが、、、
100倍子供に全力を投入したからといって、100倍のリターンはない。
自分が100倍燃えて、一生懸命生きている実感を味わえて良かったね、ぐらいに思うほうがよい。

かといって毒親になれ、とは、全く、1ミリたりとも思わない。
子供にプラスの過剰なことをしたいのは、子供のためではなく、自分のためなんじゃないかと思う。(ネグレクトとかは論外。わたしは断じて認めない)
過干渉と放任の見極めは難しい。
放任とネグレクトとはまた違う。

一生懸命になりすぎて、幹より小枝に気を取られることがある。
周りが見えない。
わたしも、もう一度子育したら、失敗しているかも知れない。
今の教育事情は複雑、繊細で、孫育てには全く自信がない。

手を抜きすぎると、しっぺ返しもありうる。
とりあえず、安全地帯をキープして、基地を持たなければ、自分を守れない。
番組によると、安全地帯、それが親なんだそうだ。
安全地帯になっているかな?と自身を振り返る。
が、今頃になって、手抜きを反省して、お弁当作りをしたりして自分のサボり罪を軽くしようとしているのだろうか。

二匹めのドジョウ

2019-04-18 | ブログ
何日も前にアップした、ぼやき記事が注目記事にランクインされている。
ブログ村のAIに気に入られたようだ。
自分が断捨離したくないだけで、うるさい周囲に、吠えているだけなんだけど。

注目記事に入ると、なんだか変に意識して、何か書かなければ、、、と焦ってしまう。
結果は散々なことが常。
そうやって、いつも墓穴を掘る。

「もう、ええわ、(うんざり)あんた」
そう思われ、調子に乗っていると、飽きられる。
引き際こそ、美学の象徴なのに。
いつも、余計なことをしてしまう。
私は故意に意図して行うと、いつも失敗する。
逆に無意識だと、うまく行くことが多い。

ある知人によると、わたしの行動は脳を通さず、腸で考えているらしい。
ダンスに関しては、全く頭を使わない、脊髄反射だと評する人もいて、当たっていて悔しいが反論できない。

つまり、脳を使うと、ろくなことがない、というわけだ。
せっかく、無いアタマを振り絞って考えているのに、失礼しちゃうのだ。
頑張っても無駄なら、省エネ志向で、何も考えずに感性のまま、行こうと思っている。
もともと、計画を立てて努力して頑張っていないから、報われなくてもどうってことはない。
頑張っているのに、評価されない時に、ガクッと来るのだ。
頑張らない、期待しない、受け入れる。
省エネ、3アクション。

しかし、これはわたしだけの特典なので、他の人は同じようにはいかない。
真似してサボったら、ひどい目に遭った、という方がいても、責任は取りません。
自己責任でお願いします。

同じサボりにも、微妙なサジ加減があるのだ。
サボり感性を磨くのが大切。
その最も大きなものは、タイミング。
時機を読むということ。
たいしたこともしてきていないわたしが、偉そうなことを言っても始まらないが。

この記事、絶対、ブログ村AIの目には留まらないだろう。
狙ってやると、ろくなことがない。

うるさい!断捨離ブーム

2019-04-15 | 時事&世の中
昨夜のテレビ番組、興味深いものを観た。
1つは断捨離を通して見る人生カウンセリング。
もう1つは、ポツンと一軒家。
さらに、もう1つは、東大入学式の上野千鶴子さんの祝辞。
さらに、オマケの付録としては、若いイケメン社会学者のホンネトーク。

わあ、こんなにイッパイ!

夫が超絶、珍しく、お風呂→寝室という黄金コースを辿り(普通の家庭ではこれが普通なんだろうけれど)、早めに寝たため、わたしは、100%のチャンネル権を得た。

21時からのNHKスペシャルは、夫がテレビを観るリビングダイニング(可動式スライド扉一枚隔てられている)に隣接する部屋(大リビング)で観た。
22時までには夫は、寝室に移動したため、わたしも、それまで夫が見ていたリビングダイニングで引き続きテレビを観た。
(こんな長い説明、なんか意味ある?)
さて前置きは必要ないとしても、とりあえず、、、、、長々、導入部。

断捨離カウンセリングは、良いと思った。
モノと対峙することによって、自分の人生と向き合う。
しかし、教祖的な断捨離主宰者が、とても若い女性なので、歳をくっているわたしは、わたしの人生の半分しか生きていない人に、人生のナビゲートはしていらない、という気には、なったが。
生きてきた長さではない、質、濃さだ、としても、あの断捨離主宰者が、若いが例えば戦争経験者であるとか、重い病いを患っているとか、ハンディのある人だとか、特異な経歴の持ち主であるならいざ知らず、だ。
だが、わたしが納得するような説得力のある生き様であるなら、耳を傾けると思う。
しかし、どんな生き様であろうが、提唱している内容が共鳴できるものなら、別に誰が提唱しようが、関係ない。

提唱プロセス、内容は、非常に賛同できるが、導き出されようとする結果が、わたしの考えとは真逆である。
提唱者は、カウンセリング的な役をするだけであり、向き合い、考え、決めるのは本人だ。
わたしなら、家に溢れるモノを引っ張り出して1つ1つ、必要?不必要?と検証していくうちに、体力、気力ともにダウンし、どうでもよくなりそうだ。
人生対峙の途中放棄。
そこで止めるなら止めたらよいが、保留中のモノ、どうする?
捨てる?捨てない?
たぶん、捨てないでとりあえず、休憩となり、塩漬け、そのまま。
それが嫌なら、捨てたらよいのだが、捨てたくて捨てるのではない、ギブアップで煮詰まって判断能力を失っただけなら、捨てると悔いが残りそうだ。

わたしの人生の対峙は、体力、気力がないくせに、へんに底力があり、がんと動かない。
人に決めてもらうのではなく、自分で決めるわけだから、結局、全て捨てないことを選んだ場合、どうなるのか?
カウンセラーは、徒労に終わることになるのか。
時間と労力を割いての断捨離カウンセリングは有料だろうから、それはそれで、お互い納得出来るのではないだろうか。

人の力を借りなければ出来ないというのは、よほどのことである。
麻薬中毒やアルコール中毒など、重度の依存症で自分の意思ではどうしようもないケースだ。
あるいは、病気や身体が動かないために、人に動いてもらって片付けたり捨てたりする。
しかし、指図するのは、自分だ。
結局、究極は自分なわけである。
断捨離も自分と向かうための手段に過ぎない。

自分の人生なのに、自分の歳の半分の人からアドバイスを受けても、、、
そのモノにトキメクか、トキメカナイか。
それは本人の考え、感性に委ねるしかない。
が、認知症で考えや感性に問題がある場合は?
自己責任の範疇を超えている場合は、自分ではない他者に従うしかないのか。
しかし、認知症かどうか、分野的にまだらな場合は?
認知症だからと無理やり、こだわりの品を処分してよいのか?
その時期になれば、周りは本人にわからないように処分していけばよい。
本人にとって、知らないことは、なかったことと同じ。
へんに、神経に障るようなことはしないほうがよい。

ということで、断捨離は自分でします。
ほっといて、ちょーだい。
自分が向き合うべき、問題が詰まったまま、解決を先延ばしにしている人生ではないので。
自分と向き合っても、自己肯定しかない。
じゃあ、公共の場にモノを積んで皆さんに迷惑かけているわけでもないのだから、断捨離しません。


1つ目の番組感想だけで、こんなに書いてしまった。
しかも、眠くなってきている。
わたしの人生対峙は、眠気との闘いかな?
なんて、お気楽なんでしょう。
眠気が襲うというのは、脳がもう受け付けないということだ。
いたって容量の小さな脳に、わたしは救われていると多分思う。


朝からムカつく

2019-04-14 | 暮らし
日曜日の、じつに平和な朝。
なんの心配事もなく、なんの束縛もない。
自由な幸せを噛み締める朝である。
と、孫用お弁当づくりを担当するようになってから、お弁当がいらない、平日ではない朝が、やたら嬉しい。

で、リビングダイニングに行ったら、夫が早々に起きてテレビを観ていた。
ゴロンと、寝っころがり、いつもの風景。
だが、煌々と電灯が点いている。
我が家のメイン電灯は、蛍光灯ではなく、白昼色の、こってりした色の白熱灯。
調光可能である。
ハウスメーカー所属のインテリアコーディネーターの強い勧めで、生活空間の中でも、休養や癒しの場は、蛍光灯ではなく白熱灯をぜひ、とのことで、白熱灯を採用した。
病院や学校、オフィスは、仕事モードに適した蛍光灯。白くハッキリした明るさ。
電気代は白熱灯は、蛍光灯の4倍。
電気代の高さでわたしは、採用に難色を示したが、インテリアコーディネーターの信念に押された。
白熱灯は、暖かい演出効果があり、食事は、より美味しく見え、みんなの顔は、より綺麗に見えるらしい。
デパートやブティックの商品に用いられる照明は、キラキラ、白熱灯かLED電球が、ピンポイントで照らし出されている。

と、長い長い前置きはさておき。
その重厚な、たっぷり白熱灯を、朝ではあるが、電灯を点けなくても、しっかり明るい室内で、夫は、細かい作業をしているわけてもなく、寝そべってテレビを観ているにもかかわらず、 点けていた。
で、必要なしと判断したわたしが消した。
すると、夫はまた点けた。
わたしは「暗い?(明白に客観的にみて室内は明るく、電灯をつける必要ない、の思いを込めて)」と言った。
夫は「うん」と答えた。
前から何回もこのパターンが繰り返されている。

国際結婚が、文化や習慣の違いで破綻しやすいのは、じつによくわかる。
照明ひとつ取っても、これ。
室内の温度やテレビの音量の好みの差はストレスの元になる。
積み重ねが、馬鹿にならない。
しかも、わたしは根性なしで弱っちいので、すぐに自分の要望を引っ込め、暗くジメジメ内向に走る。自滅型。
夫は絶対に折れない。自分流を貫く。
そこで、折り合いがつかず、亀裂が生じる。

で、ガラス越しに天井から床まで差し込む自然の光が眩しい爽やかな朝、わたしはコーヒーを淹れてあげようと思っていたが、淹れずにスマホの充電器を携えて自分の部屋に引きこもった。
あてつけに、リビングダイニングに設置してある全ての電灯を点け、メイン照明の調光をマックスにしてきた。
どうせ夫は、わざとそのまま、電灯を消さずに点けたままにしていることだろう。
夫も夫、妻も妻、じつに嫌な夫婦である。

ちなみに我が家も、お国が促す、LED電球に移行しないとダメなんだが、なかなか出来ていない。
LED電球なら、寿命も長く、電気代もかなり安いので、朝の諍いも減るんじゃないかなあと。
自分で電気代がやたら高い白熱灯を取り入れておいて、夫に文句を言ったらバチが当たるかも。
今、トイレに行くために階下に降り、リビングダイニングをそっと見ると、電灯が消されていた。

さて、そろそろ、コーヒーでも淹れようかな。

ピカピカの一年生のわたし

2019-04-13 | 趣味
お目にかかったこともない先生に個人レッスンを受けることにした。
私にとっては神様みたいな、ある方からの御推薦、お墨付き。
受ける前からもう、ウキウキモード。

じつは、趣味に熱を入れすぎ、熱くなりすぎ、袋小路に迷い込み、神様にすくい上げてもらった。
この神様は、私のダンスの師匠。
1人で、にっちもさっちも(死語か?)行かずに、ダンス、やめようか、とも思った。
でもやめられない、でも進めない。
完全に煮詰まった。
一晩、まんじりともせずに(ちょいちょい眠って)、カチカチに固まっていたところに、「誰か助けて〜」と、こころが叫んだ。
一人一人候補者の顔が、次から次へと浮かんだ。
次!はい、次! この人じゃない、次の人でもない、はい、パス!はい、パス!と。

次々、現れる証明写真のような顔が頭の掲示板に入れ替わり中で、カチっと止まったのが、この師匠。
この師匠が、わたしを救ってくれると感じた。
で、体裁なんか全てとっぱらって、弱々しく弱音を吐いたところ、神様師匠が的中通り、鳴門の渦の中(擬似表現です。めんどくさいこと、書いてます)から、わたしを引っ張りあげてくれた。

ふとした、師匠とのやり取りから、この、わたしは見たこともないY先生を紹介してくれた。
師匠にとっては、直近1週間前に試合で活躍していたところを見たばかりの人。
所属する勤務先教室に初めて入ってきた何年も前から知っている人らしい。
なにか、閃くものがあり、ぴーんと来て、わたしはその人の個人レッスンを受けることにした。
その人、ブレイクする前の、予感がした。
期待の新人だ。

来週から早速。
うまく合えば、週二回でもよいと考える。
チャンスがあれば、意外にわたしは短期集中タイプ。
日頃、まったく動かないのは、時機をじっと待っているのかも知れない。

春は入学の季節でもあり、たまたま偶然、重なった感がある。
ピカピカのランドセルを背負った自分に、なんだか期待している。

整形美人に、またまた溢れる想い

2019-04-12 | 無題
整形美人について語り出すと止まらない。

表面の美しさは、美しいことに変わりない。
作り物であろうが、長持ちしなかろうが、とりあえず、今、この瞬間、外側は美しい。
中身がいかなるものであろうが、表面の美しさは真実だ。
中身が良いものだけが、外側が良いかといえば、そうとは限らない。
逆もある。
中身が悪くて外側が良い、
中身が良くて外側が悪い、
中身が良くて外側も良い、
中身が悪くて外側も悪い、

いろいろある。

外側だけを切り離して見れば、生きた花よりも美しい造花はある。
リアル女優さん生本人よりも美しい、撮影された映像もある。
ホンモノの女性より女性らしく美しいニューハーフもいる。
とすると、整形美人であろうが、仮面美人であろうが、純粋に外側だけを切り離して見ると美しいものは、美しい。
中身がどうであれ。

現に映画や小説、事件などで、外側の美しさに惑わされ身を崩した話はよくある。
歴史に登場する傾城の美女は、後から付け加えた話もあるし、美人だけではなく知能犯である説も多い。

美しいだけのお人形さんでは、すぐに飽きるし、別のお人形さんが出てくると、目移りする。
やはり、唯一無二の個性が加わると強みかと思う。
が、とことん飛び抜けて、類が無いほど美しい、というのも個性かも知れない。
しかも、それは強烈な個性。

男性は、女性の美や若さに強く惹かれるDNAを持つのは、動物の本能。
そういった男性にモテたい女性が、若さや美に固執するのはよくわかる。

しかし、わたしのような、もう自力では子供が産めない年齢になると、男性の、自分の種の保存欲求には振り回されない。
仮に、振り回されるとすると不毛である。
やめときなはれ、そんな無駄なこと。

では、若さや美を諦めるのか?
No!
男性のために、ではなく、女性のために、でもなく、自分のために、なりたい自分になる。(但し、美や若さにこだわるなら)
70歳を越えて40歳になりたい人はなればいい。
しかし、努力に対して目標達成率はどれぐらいか?
わたしは、そんな効率の悪い努力はしない。
自分の年齢で、神様が決めた、残された健康寿命を享受したい。
自分では寿命は決められないから、お任せコースだ。
お任せの貴重なタイムリミットありの自由時間に、必死でアンチエイジングするのもよし。
わたしは、しないだけ。
男性にモテなくてもいい。女性にも。

ついでに、孫にモテなくてもいい。
(ここからは、蛇足です)
小学校の給食が始まるまでの間、お弁当作りを買って出たのも、自分がしたいから。
食生活担当の娘婿が大変だろうから、苦手なお弁当作りも後方支援の気持ち。
自分で無理しないで出来ることで役に立つことがあれば、と思って手を挙げた。
決してモテたいためではない。
押し付けがましいのであれば、その旨、伝えてくれたら(喜んで)やめる。
朝、早くから頑張っていて、結構、しんどいし。
でもあと数日。指折り数えている。
(蛇足、終了しました)

限りなく中性になっているかと言うと、そうではない。
脳は一部男性、残り女性、身体は女性。
加齢の分だけ頭も身体もシニア寄りだが。
知能は、性別関係なく、面白いほど下降一直線だ。
仕方ない、、、。
神様の思し召しだからぁ。
楽でいいわぁ、神様ありがとう。

美容整形、まだまだ言いたいこと、いっぱい

2019-04-11 | 無題
美容整形する人の心理を考えてみた。
「美容整形してでも美人になりたい。
自分のお金で、自分が依頼して顔にメスを入れてもらって、なにが悪い。
しかも、不安や恐怖も乗り越えて。」(たぶん、美人になりたい思いが数段上)

いくら、外見や容姿、顔じゃないんだよ、と諭したところで、聞く耳を持たない。
テレビでは、美容整形女性のお母さんも横にいて取材を受け、娘の行動を認めていた。
しかし、母親なら複雑な心境だろう。
自分のDNAを表面的に上書きされるのだから。
子供のやりたいことなら、犯罪や自傷行為など以外なら何でも後押し、後方支援か。
反対するパワー不足で、諦めとも思える。

しかし、美人になりたいというモチベーションはすごい。
この動機は強烈にストロング。
顔じゃないのだ、といくら頭でわかっても、実際自分が美人になって、わかることがある。というか、美人の気持ちを味わってみたい、と切に願う。

お金分野で考えると、、、
お金を1000万円、(仮に)フーゾクで貯めて、貯まった後に何に使うか考える。
具体的な目標はなく、とりあえず1000万円貯めて、それから考える、という順序。
先に目標、ではない。
自由にできるお金が1000万円ある自分は、何をどう思うか?
自分に対する実験的なものだろう。

いろんなモチベーションがある。未知の自分は、山の何号目かに立たないと、横や下は見えない。
とりあえず、見える景色を平野から高原、高台へと変え、さらに頂点目指す。
いきなり、頂点には登れない。
てことで、美人の気持ちになるには、美人にならなければ、味わえない。
お金持ちもそう。
想像は、あくまでも想像。実際に味わってみたい。
そんな気持ちなんだろう。

だから、美容整形したい人を責める気はなく、健気で一途で一生懸命で、少し不憫と感じる。
自分が囚われている考えから解放される、あるいは達成するには、まず、やってみる!というものだろうけれど。
まだまだ私も解放されていないが、顔は一部に過ぎない、という境地に辿り着いた。

いくら顔や見かけがよくても、あくまでも外側部門。
見た目そのまんま。
隠し球を持ってこその見た目。
ましてや見た目が、上げ底なら、中身はどうする?
見た目が90%というのは、本人の90%は見た目に現れているということだと、わたしは解釈している。
何も、見た目90%が大事で、中身はどうでも良い、というわけではないと思う。

眠くて寒くて、しかも、もうじき業者さんが2社も来て、家の中をガサゴソする作業が待っているので、強制終了します。
こんな時に限って緊急に書く内容でもなんでもない。





整形美人になりたい人

2019-04-08 | 無題
最近の美容整形は、すごい。
韓国美人は皆んな同じ顔に見える。
特にモデル。
リカちゃん人形みたいなかんじか。
本体は統一、同じ企画で量産されたもの。
何年モノ、○○年産は、出来が良い、だとか、レアだとか、ワインみたいに、評価されたりして。

テレビで、整形の自撮りビフォーアフターをしている女性が紹介されていた。
日本人で、韓国で整形した女性たち。
「整形は後ろめたいものではないので、明るく日の当たる場所で整形を認めらたらよい」という、ご本人の希望で。

インターネットでも、凄まじいビフォーアフターが紹介されている。
美人がさらに美人になるのは、通常よくあることだが、不美人が美人になるのは、スゴイ。
見てくれを良くするパッケージや包装紙で人は騙される。
でも、外見や容姿で人を判断する人が後をたたないから、外側の美こそ全てだ、と信じて疑わない人間が多くいてもしかたないかも知れない。
(抗えない老化と向き合う年齢にならないと、わからないことは、たくさんある)

自分の外見、顔を美しく理想に近づけることで、自分のモチベーションをアップさせ、価値を上げるのは、本人の自由だ。
美しくなった顔を見て、美人だと評価する外野、他人も、自由だ。
騙されてもよいと思う。

仮に初めから美人であろうが、後から美人になろうが、あくまで、「見かけ部門」である。
美人だから、優良会社に就職できたとしたら、仮に整形していたとしても、それはその美人の手柄だろう。
美人枠で就職しなくても、別枠で就職する手もあるが。

これは、異性を魅了するのも同じ。
美しさに吸い寄せられ虜になるのは、鳥などはそうだ。(ただし、メスを引き寄せるために美しいのはオス)
美しさだけではなく、立髪だったり、叫び声だったり、大きな身体だったり、メスを惹きつけるための、オスはメスをゲットするために、自分がオスである売りを最大限、強調する。
そうしないと、子孫を残せない。

しかしながら、人間は、子孫を残す気がないなら残さなくてもいい選択の自由を認められている。
同性婚だと、生物の教科書を参考にすると体の生殖メカニズムから子供は生まれない。
もし子供が欲しいなら養子をもらうか、パートナーではない、同性ではない異性の精子か卵子を受精卵の二分の一、提供してもらうしかない。
子供は要らないとしても、オス同士、メス同士、パートナーを得るための競争が生じる。
それは、美しさや、顔、容姿も入るのだろうか?
仮にわたしが女性をパートナーに選ぶとすると、美人や整形美人を選ぶかなあ?
女性的な魅力を女性に発するには、どうすればいいのだろう?
自分は女性らしい、胸がすごく大きいとすると、相手の女性には胸は小さい人のほうがいいのだろうか?
まあ、わたしは、あまり同性に対する性的好奇心が無いため、深く知りたいとは思わず、興味がないが。

異性も同性も容姿、美醜は、本人にも他者にも、大きな影響があるようだ。
わたしは、整形であろうがなかろうが、美しい人は美しいと思うが、メンテナンスがたいへんだろうと感じる。
自分の美に固執するあまり、アリ地獄に陥るかのように、満足出来ずに不幸せにならないことを祈る。
自分の見かけの美もさることながら、能力や、感性にも固執して、自滅する場合もある。
エネルギー源になるなら良いが、制御能力を失って、心を病んでは意味がない。

外見に限らず、他人に良く思われたいのは、人間の承認欲求だが、欲求に呑まれては元も子もない。
わたしは、あまり承認欲求がない部類なので、なんであんなに必死に自分を追い込んでまで追求するのかわからない。
(仕事などの場合は別)
自分に向けて追求するならわかるが。
人に対して認めて欲しいという強い欲求を否定はしないが、あまり理解できない。
(仕事などの場合は別)

自分を切磋琢磨した結果、人に認められるのは理想だ。
人に認められたいために、頑張るのは、わたしとしては、順序が逆である。
(期限や予算が決められ、結果を出さなければならない仕事などの場合は別)
自分がどうしたいか、であって、人にどう思われたいか、ではない。

美しい自分になりたい、人に美人だと思われたいからではない、それも結構。
たんに外見だけの話であり、その外見に固執する価値観には、賛同できないが。
やりたいことをする、ということは自由だと思う。
必死でやっている内容や結果においては、さほど、わたしは価値を置かない。
よかったね、したいことができて、というかんじ。

外見はどうでも良いといっても、社会生活を送るにあたり、あまり奇抜すぎるのも生きにくい。
それぞれの自分がやりたいこと、なりたい自分に向かって頑張っていただきたい。
ただし、表面に現れる結果に対しては、賛同する分野と、価値を置かない分野がある。
わたしは、外見にはあまり価値をおかない。

長々と書いてきて、結局、見かけ否定だった。
が、全く否定しているわけではなく、そこまで価値を置かない、と言っているだけ。
芸術に高まるほどの美は、大いに崇めたてるし、町内での美人さんも素晴らしいし、せっかくの生まれもったる美は、大切にしていただきたい。
ただし、容姿、美だけに囚われるのは、いただけない。
中身が大事である。
美人は三日で飽きる、とは、よく言ったものだ。


美容整形は、自分の部屋を好きなインテリアに模様替えするようなものだろうか。
気に入った住環境を確保し、一歩一歩、次のやりたいことを実現していくのだろうか。
仕事などに追われると、なかなかそんな余裕はない。
旅行したり、リフレッシュする。
顔いじり(美容整形)も、趣味みたいなものなんだろう、きっと。
社会に顔を広く出して活躍する人は、趣味と実益を兼ねていることだろう。