蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

いよいよ時間切れ

2021-06-14 | 
今、リフォームの里から帰りの電車内。
書き始めたのが遅かったため、あんまりちゃんとブログ更新できないかも。
と、先ずは言い訳。
言い訳人生。

さて、昨日に続き、リフォーム準備、ラストスパート。
今日は朝5時に自宅を出発した。
が、孫たちのお守りが午後に入り、早めに帰宅。
忙しないが、致し方ない。
所詮、ばあちゃん業と二足の草鞋。

しかしまあ、、、
夫の実家。
ドラえもんの四次元ポケットのように、小さな空間から出るわ出るわ、モノモノモノ。
最後の最後にまだ手を付けていない場所が出てきて、悲鳴をあげる。
助けて〜。堪忍。許してください〜。
ほんとうに叫びたい気持ちになった。

なぜ、あんな小さな空間にモノがぎゅっと詰まっているのか。
マジシャン?
モノを空間から取り出しただけでも、もう精神的に参っている。

姑、半世紀近くも暮らしていると掘り起こさず詰め込む一方になるんだろう。
毎日毎日の日常に追われ、暮らしに余裕がないんだろう。
姑が元気な頃は、遠く離れた蔵にいちいち食品を取りに行っていたが、あれはなんだったのか?
身近に良く使うものを置かず、めったに使わないモノに囲まれて暮らす。
人のことは言えないが。
人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものだ。
他人の暮らしていた家のリフォームはもうコリゴリだ。

昨日は日曜日で夫と一緒に、今日のリフォームスタート日に備えたが、夫はなかなかやりたがらない。
腰が重い。
タイムリミットを迎えている時だというのに、何も今しなくてもいいような、どうでもいいことに時間を費やす。
時間切れになっても後はわたしに丸投げする気、見え見え。
リフォーム開始前日になる昨日、リフォーム前の今を記憶に留めようと娘一家も遠方から顔を見せたが、遊びに来ただけで、邪魔になるだけ。
しかも、3番目孫のお誕生日なのでウチでのお誕生日会を控え、まだかまだかと帰る時間を急かす。
居ないほうがすっと仕事が進む。

まさにすったもんだの狂想曲。
当日にまで持ち越した、処理しきれていない遅刻の品々と最後の直前まで格闘することになった。
リフォーム好きの人の気持ちがわからない、もうごめんです、、、となった。
が、不要なモノを捨てる勢いがついたので、自分の家もついでにミニ断捨離の風が吹きそうだ。
、、、となれば、良いのだが、、、。



マスクの下は?

2021-06-12 | 日々のこと
夫の実家リフォーム担当の女性。
大手不動産屋会社のリフォーム部、支店長。
年齢不詳。
初対面の時からお互いマスク。
目元とオデコだけで年齢を推測する。
あとは、首と背格好。
キャラクターをかたち作るのには、声も重要な要素だが、年齢を定める決め手には直接つながらない。

彼女は平安時代なら絶世の美女かも知れなくて、色白の、髪の美しい典型的日本人顔。
弥生飛鳥時代あたりに大陸から海を渡って日本に来たかも知れない、東南アジアというよりは、中国系のアジア顔。
ではあるが、まん丸メガネに大きなマスク。
切長の細い目が笑うと、クールなイメージから目の形が変わって可愛い。

会話の中身から年齢を推定する。
祖母が、最近、どうのこうの、、、
というからには、おばあさんがまだご存命のお年頃。
わたしの娘世代か?
落ち着きすぎるぐらい落ち着いた風貌からは、年齢がわからない。
キャリアや、店長ポストに就いておられるところを見ると20代ではなさそう。
延べ何時間も面と向かって話したり接しているのだが、よくわからない。

で、、、昨日、我が家での打ち合わせにおいでいただき、暑かったので初めてお茶を出した。
なかなか口をつけてもらえないなあと思っていたが、最後に飲んでもらえた。
その時、マスクの下から、ちらと顔が見えた。
あ、想像していた顔と違う、、、。
意外。
目の下は繊細でシャープな顔をイメージしていたが、結構、太めのガッツリ系雰囲気。
公家さんから、ラガーマンへ変身。
(女性なのに、なぜか「マン」)
アモイ像のようなおおらかさもある。
鼻って重要な役割をするものだと感じた。
口は見そびれた。
鼻だけが加わっただけで、随分、変わるものだ。
目から受けるイメージで他の顔パーツを想定して組み込み貼り付け、自分のなかで顔を勝手に完成させていた。
おおらかイメージは、マスクの下から見えた、どっしりした鼻から来るが、目だけ見ていると、とんがった小鼻の小さい鼻を思い浮かべていた。

とかなんとか、、、ということは、同時にわたしも見られている立場である。
一方的ではなく、双方向なので。
おそらく、同じような思い込み勘違いをされていると思う。
わたしも目が細く、メガネ。
大きなマスクの下は平安美人が想像されるかも知れないが、悲しいかな母親譲りの鼻がどかんと存在感がある。
こちらもアモイ像。
か細く幸薄きイメージではなく、しぶとい打たれ強い感じ。
だが、わたしはまだ未公開。

歳がいくと、皆さん、マスク歓迎。
容色が衰え、容貌に自信を失くす。
目だけ美人、あとは皺だらけ。
世の中も、良くないものは見えなくて、良いものだけ見て他を想像するのが良さそうだ。

あ、リフォーム担当者の女性、わたしは決してけなしていない。
意外と現実感がある温もりがあって、北川景子ではなかった。
これは、決してマイナス評価ではなく、わたしにとってはプラスだった。
親近感を抱いた。
が、彼女に直接そんなことを言うのは憚られたので、何も言わなかった。






羨ましかったのに羨ましくなくなっている

2021-06-12 | 人生
わたしがブログを始めた頃から知っているブログがある。
ヨーロッパの某先進国で4人のお子さんを育てておられる主婦の方。
当時は、子育て真っ最中の彼女。
異国の地で国際結婚し、ハーフの子供たち、、、わあ、素敵だと憧れの眼差しで見ていた。
エネルギッシュで力強くもあった。

さて、彼女もわたしも同じだけ歳を重ねた。
子育ては終了した。
あれだけ、お子さんたちとの活気ある暮らしを送っておられたが、子育て卒業の後は、、、?
直近のブログには、わたしがしたいことは何なの?みたいな、少しブルーの色合いが入った、こころ模様が綴られていた。

わたしは、子育て当時のキラキラした彼女が羨ましくもあったが、今は、違う思い。
いつまでも子供にかかりっきりになっていても、子供には子供の道があるわけで。
感謝されても、お役ご免の日は来るわけで。
子供が自立していってこそが、親の役割を果たしたと言える。
その時には別の自分を輝かせてくれる何かに移行するか、移行しなくても、違うかたちになっていて、自分は変化している。
いつまでも変化しないものなどない。

わたしはもう誰をも羨ましいと感じることはなくなった。
自分の歩んで来た道の後にある、「今」に喜びを感じ、満足している。
積み重ねた時間の続きは、過ぎた時間があってこその今であり、突然、降って湧いたような今ではない。
ではあるが、延長であっても、もう昔話はあくまでも昔。
昔への執着はなく、新しい門出。
昭和のバブル絶頂期を謳歌していたOLは、今ではお笑いのネタになっている。
(ちなみに、わたしは、その時代のOLではないし、OLを経験したこともないが)

人の人生と自分の人生を比べるのはまるで無意味である。
ましてや、勝ったの負けたのは、くだらない。
だが、昔、羨ましかったことが、今は全く何も感じない。
むしろ、その羨ましかった内容、中身は変化し永遠には続かないことを悟るテキストを見るような気がしている。

自分には自分を生かすステージがある。
生かすには、変化した自分を受け入れ、かつての最盛期の自分ではなく、ゆるやかに下降している自分がいて、その新しい自分の変化を楽しむかのように、新鮮な驚きとともに毎日を送っている。
衰えた自分との対面は、初体験で、変化を感じる。
が、その変化した自分には、また新しい自分を生かすステージがある。
けっこう、面白い興味ある人生読本のようなものだ。
歳を重ねると、時間は失うのではなく、積み重ねるものだと感じる。
自分の人生を肯定すると、なんだか楽しい。

かたや、最盛期を超えて抜け殻のようになった人がいると、「沈んだ後は浮くしかないから大丈夫だよ」と肩をぽんと叩きたい気持ちだ。
なんといっても、わたしは高齢者の中では一番若いので。
若いんだか、歳いってるんだか、わからないが、客観的に見ると、お年寄り。
高齢者なのだ。

子育て終了から高齢者には一足飛びにはならないから、とりあえずは10年ぐらいは、自分探しを再スタートすることになる。
が、焦らなくてもすぐに新しい自分にピッタリのものに出会えるかも知れない。
あるいは、なかなか出会えないかも知れない。
いずれにしても、新しい出会いを楽しみに歳を重ねていっていただきたいものだ。
新米年寄り先輩(わたし)からの一言である。

生き方、上手、下手

2021-06-10 | 人生
生き方に上手、下手があるのだろうか。
どんなに偉人で、社会的に大成功をおさめた人でも、この世からの散り際が下手で、自分もさることながら、周りの手を煩わせることもある。

今は、高齢者施設に放り込めば、はい、終了!と、肩の荷が降りるのか?
成功者は現役中にうんと稼ぎ、お金はたっぷりあるから心配ないのだろうけれど。
その一方で、自宅で最期を迎えたいという希望を叶えてくれる家族や身内もいる。

男性目線と女性目線は違うように思う。
いくら大成功を収めた人でも、私生活はどうなのか?
日常の生活、家事をはじめ、自分のこともできないような人と暮らして楽しいか?
大成功に対して群がってくる人々に囲まれて送る余生は楽しいか?
家事や面倒なあらゆることを代行してもらい、さらに贅沢で優雅な生活をお金で買う、、、
自分がしたいことだけを自分でする、、、と、究極はお一人様が最善かも知れない。
若く美しい賢明な人を配偶者、あるいは付き人にして最期を看取ってもらう?
これは、理想的で憧れの生き方上手なのか?

世間に認められる成功と私生活は一致しているのか?

家庭の外と中では別人だという人がいる。
研究に没頭できる環境を整えてもらい、縁の下から、内から支えてもらう人もいる。
研究が日の目を見ない人もいる。
どんな研究をしているのか全く知らないけれど、心身共に病気にならずやっていってくれたらそれでよい、という身内もいるだろう。
これは生き方上手なのか?

寝食を忘れて好きなことに没頭し、たとえ路上でのたれ死んだとしても、幸せな人生だとわたしは思うが、これは生き方下手なのか?

周りに迷惑をかけないのが生き方上手なのか?
よくよく考えると、成功を収めるという観点、側面だけで他人は古今東西の人を評価する。
なぜなら、著名人、歴史的に残る人でなければ、その後に生きた人は、過去の他人を知ることができない。
だから、名前が残っている人の中で、生き方上手、生き方下手、と判断するのだろう。
名前が残るには、大成功を収めるか
大犯罪者か、、、。
しかし、後から歴史を塗り替えられることもある。
解釈の仕方を変えたり、意図的にねつ造したり。
その点、作品はねつ造のしようがない。
盗作はあり得るが。

話が逸れている。
ほとんどの多くの一般人は名を残さない、足跡を残さない。
わたしは無名の一般人なので、自分や自分の周りの無名人が基準になる。
だから、生き方上手、下手の論点がズレる。
どう生きたか、は、その人を時空を超えて俯瞰的に評価する大事なポイントだが、無名の一般人のわたしは、どう死んだか、が、その人の生き上手か、生き下手かを決めると感じる。

自分が死に直面すると、また考えは変わっているかも知れない。

遺品整理人

2021-06-09 | 
モノ。
遺品整理業者の折込チラシが最近よくポスティングされている。
需要があるからだろう。

今日もリフォームの里(夫の実家)に向かう電車の中。
行きの乗車時間内でのブログ更新をマイルールと勝手に決める。
わたしが、遺品整理をする時のポイント。
自分の琴線に触れるかどうか。
金銭目当ての泥棒になった気分でチェックする。
お眼鏡に適ったモノは、自分の家に持ち帰る。
ごくごくたまに、滅多にないのだが、夫と奪い合いになることがある。
夫の大好きなメーカーのボールペン。
気づきにくいところに保管していたのに、目ざとく見つけられた。
わたしが発見したのだから、鳶に油揚げはあげない。
何かの折に、何か魂胆があり、自分の権利を行使する時の手段の一つに使う。
策略ツールに取っておく。
優位に進める時のご機嫌を取るモノ、隠し球として、勿体をつけて、即、あげない。
孫にあげる、食品庫にこっそり隠している飴みたいなものだ。
(最近では、勝手に持ち出す、太々しい孫連合。ちっとも威力を行使できない)
孫たちへの飴レベルなので、たいした期待もしていないが。

遺品整理業は、意外に儲かるかも知れないと思った。
ちょっとしたところに、金品が挟み込んであったりする。
マネー、紙幣、お金である。
今日の日当になった、と、喜んだ日もあったが、最初の一日だけで、あとは、とんと金目のものにはお目にかかれない。
結局は、交通費と労力の全日程分を考えると足が出る。
まあよい。サプライズの付録だ。

遺品というとなんだか生々しいが、わたしも一緒に暮らしていた時期もあり、自分の遺品?も紛れ込んでいる。
子供が小さい頃におじいちゃん、おばあちゃんに書いたミニレターなんかもあり、娘に見せるために持ち帰る。

20年前に亡くなった舅の遺品もいっぱい。
使える切手は良いが、消印の押してあるものや、テレホンカードも未使用はさておき、穴あき使用済みのものもある。
同じ趣味でなければ、コレクションの意味はなさない。
使えそうもない傷んだバッグなどは、悩むことなく簡単に捨てられるが、新古品や綺麗に大切に保管してあるものが、処分するには中途半端で困る。

食器もまあたくさん、あるあるある。
もう、うんざり。
疲れ果てる。
何日にも分けて処理することにした。
こんなにたくさん遺した姑が恨めしくさえ思った。(お金なら嬉しいが)
実はまだ蔵には手付かずの何重にも包装したままの贈答品の品々がたくさんあり、見て見ぬフリをしている。
これらは、まだ新しい昭和のモノ。
昭和時代は冠婚葬祭は現金に加え、モノでやり取りしていた。
お祝いもモノ、お返しもモノ。
どこの家にもモノが溢れ返っていた時代だろう。
やがてお返しはカタログになり、食品やイベントを選ぶことも出来るようになった。
モノからコトへ推移した。

いつまでも推移しないと、どうなるか。
時代に押し流され、押しつぶされ、やがてモノは無くなるとは思うが。
時代をシンボリックに代表するモノを厳選して標本のようにサンプルとして保存するのも悪くないと思う。
ただし、スペースがあり、保存状態が良ければ。
今の生活を脅かすような、全然、共存共栄しないモノとの暮らしは避けるべきだ。

あるお宅。
素晴らしい伝統的日本家屋。
知人が親戚から管理をまかされたものだ。
家主は一生不在で、調度品は一切無し。
処分したか、移動させたのだろう。
西洋人の娘婿が同居していた時期もあったようで、離れに西洋スタイルの水回り、バス、トイレを増築したと見られる。
調度品が全くないから、気楽である。
傷付く心配も、盗られる恐れもない。
あっけらか〜ん。
家屋と庭のみ。

お茶の先生の邸宅だったというそのお宅、生活されていた時は、選び抜かれた調度品が家と調和し、重みを増していたことだろう。
わたしは、そのお宅の玄関や和室などで、今は無き調度品を想像して、目の前の空間に、脳内に調度品を置き、佇まいを楽しんでいた。

そういうモノが無いと、管理する側は、気苦労はない。
生花や掛け軸、お道具類は、壁や床、建具、空間に彩りを添え、趣きを深める。
ただし、空間を生かすも殺すも、たった一つの壺一つにも重大な責任がある。
全く調度品が無いのは、それはそれで、全てから解放されて良い。
禅の世界観に通じるものがある。

ただし、何も無いのが良いからと、庭はコンクリート一辺倒というのはどうかと、、、。
石庭なんていうのもあるが。


時代や様式をごちゃごちゃして、自分の趣味だけで集めて寄せるのも、デパートみたいで良いかも。
が、とてつもなくセンスが悪くなる可能性もある。
ヘアスタイルは、丸刈りかヘッドスキンかで、ティストが変わるように、何にも無いにしても、程度、レベルによって色合いが変わる。

ちなみに、近年は、棺に入れる三途の川の渡り料金まで、紙製の六文銭だから、何だっていいのだ。






モノとの格闘を前に

2021-06-08 | 
新スマホ、感度が良すぎて迷惑、いや困惑している。
別SNS日記にお寄せいただいたコメントに、せっかくお返事を心を込めて書いたのに、指のどこやらが当たって、パー。
露と消えた。
なかなか面白い文章になったと我ながら悦に入っていたのに、また一から入力し直し。
膨らんだ心の風船の熱は下がり、しなしなに萎えていった。
でも、また一から入力する。
温度が下がろうが、雨が降ろうが槍が降ろうが、、、。
それが、わたし。

とは言え、また失敗しないか、ビビりまくり、ヒヤヒヤ。
わたしの指先よ、お願いだからブルブル震えないでおくれ。

ただ今、リフォームの里(夫の実家)へ。行きの電車内である。

今日は別に行かなくてもよい。
解体日は既に決まっているので、満足できないまま、片付けられないまま、ガシャガシャガシャと、直前にダンボールに詰め込むだけの話。
その時間もなければ??
いや、どうにかなるはず。
とは言っても、吟味したところで、ダンボールに詰め込むだけの話。
中身を確認して詰め込むのか、確認せずに詰め込むのかの違いだ。
たぶん、今後、開けることなく、次世代は捨てることだろう。
それなら、先に捨てておいてあげるべき。
そういうモノ、品々が、山のようにある。
モノと時間の経緯、謂れは、先人から、伝説のごとく、言い伝え、申し送り、引き継ぎのように、語り継がれ、伝えられてはいる。

モノも、収納する空間があると、なかなか捨てられないものだ。
がらーんとした空間を次世代は自由にフリーハンドで描くかのように使う?
使わないこともあり得る。
それなら、建物ごと壊したらよいかも。
そして、高さ50センチぐらいの石碑を建てる?
○○跡。
では更地をどうする?
ほっておくと、草ぼうぼう。
買い手はいない。
ただの近所迷惑。

更地にもなっていない、現存の建物を見上げて、さて、これからどうするかなあと思う。
とりあえずは、今、着手にあたるリフォーム。
これに取り掛かる。
その後のことは、このリフォームが終わってから考えよう。

そもそも、リフォームは大々的に何度か節目節目に行われている。
今回の家の隣に建つ、昭和4年築の棟(現名、ちびっ子ハウス。ネーミングはわたし)は、わたしが嫁に来た時は、姑の姑(舅の母親)が住んでいた。
舅の両親が住んでいたのだが、おじいさんが先に亡くなった。
で、おばあさん(姑の姑)が一人で住んでいて、姑が毎日、食事を作って運んでいた。
おばあさんが亡くなると、舅は、ずっと待ち侘びていた、おばあさん宅のリフォームを行った。
それまでにも最低1度はリフォームされている。(たぶん、第二次世界大戦後)
舅がその家をリフォームした後、舅が亡くなってから姑がまたリフォームした。
最低3度はリフォームしている。

今回のリフォームはその家ではなく、母家。
母家は半世紀近く前にそれまでの建っていた家を壊し更地から新築し、一から建て直されている。
わたしは、前の母家のほうが風情があって好きだ。
(建て直した家しか知らないのだが)
まあ趣味の違いだとは思うが、テイストがどうも好きではない。
今回はその半世紀前に建った家の半分をリフォームするが、大規模リフォームになる。

建て直すには気合いと情熱が足りない。
わたしはあまり積極的ではなかったが、姑が亡くなった時は、長女が丁度産休中だったため、コトが動いた。
夫はこれから週に何回かは実家に泊るだろう。

姉の嫁ぎ先と全く同じパターンになった。
両親亡き後、夫を、生まれ育った地方の実家にお返しするコース。
円満に2つの生活を同時パラレル進行。

とまあ、理屈はそうなっているのだが、ここで、4つ目の乗り換え駅。
一旦ここでアップしないと、片付け作業に差し障る。

今日も一日、片付け、頑張らなくっちゃ。


中身のないプライド

2021-06-05 | 日々のこと
新しいスマホとお出かけ。
まだスマホカバーを買ってないから、裸ん坊スマホは気疲れする。
古いスマホは、WiFiが飛んでないと単なる時計とカメラ。
まあそれでもいいのだけれど。

ダサダサのダサ〜いミニポシェットをぶら下げ、いちいちスナップを開け閉めして落下防止し、やたら過保護対応で新スマホを持ち歩いている。
しかし、なんだか心臓に悪い。
1秒も早くスマホケースを購入したい。
だが、物持ちのよいわたしは、中途半端なモノを買うと、捨てられずに苦しむ。
なので、今はモノが無い苦しみを味わい中。
ただ今、スマホケース吟味中。
ぱぱっと決められないだけだけど。
ゆっくり好きなものを選びたい。

・・・と、書いてスマホを一旦、リュックに収納。

・・・

趣味のお出かけ、帰路になった。
帰りは何も書きたいことがなくなった。
身もこころも満たされて、満足感に浸っている。
満足すると、閃きもアイデアも愚痴も不満も、何の感情も湧き出てこない。
お花畑に座っている。
たんに頭の中が空っぽになっているだけだけれど。

ちなみに、今、次女が家に帰ってきている。
彼女は食にうるさい。
買ったお惣菜やお弁当は嫌い。
家でなんらかの調理をしたものが良いらしい。
冷凍するのも嫌う。
なので、使い切る量を買わなければならない。
めんどくさい、やっちゃ。

わたしは、食べるものは買ってきたものや、既製品で済まし、大量にまとめ買いをして冷凍する派。
夫は買ったお惣菜でも何の文句も言わない。
夫のほうが、食事の用意はすこぶるカンタン、楽勝。
夫が実家に泊まる日が増えて、楽ちんだと思っていたら、今度は、食生活うるさ型の次女と毎日、顔を合わせることになった。
一難去ってまた一難。
せっかくサボれると喜んでいたのに、うまくいかないものだ。
仕方なく栄養バランスを考え、野菜なども配した食事作りを心がけざるを得ない。
わたしは、手抜きサボり食が大好きなのに、、、。
幸か不幸か健康になってしまいそうだ。

小3と小1孫たちのための、おばあちゃん食堂を開いている。
で、何が食べたいかとリクエストを聞くと、なんと、カップ麺が食べたいとのこと。
毎回、カップ麺を出すわけにもいかないので、生ラーメンにしている。
腕をふるおうと力んだら、お湯を注いで3分のカップ麺をリクエストされたわけであるものの、、、手抜きでサボりのわたしだが、しかし、カップ麺はいくらなんでもどうかと。
本当はサボりじゃないのかも知れない。
いや、サボりだ。
だが、サボりを自負してはいるが、カップ麺をリクエストされると、主婦の沽券に関わる。
一寸の虫にも五分の魂。
手抜きサボり主婦にも1ミリのプライド。
なんの役にも立たないプライドではあるが。

というわけで、ほんの少し仕事をしている風がわたしのお好みのようである。
サボりのくせに、生意気なのだ。

帰路に、頭の中はお花畑になりつつも、電車下車駅が近づくと、脳内で夕飯の準備が始まる。
何を買って、何分のバスに乗ろうかと、バス時刻表と睨めっこ。
お花畑劇場はあっけなく終了した。



ムカつく憤り噴火話

2021-06-04 | 
どなたが引っ張り出してお読みになった蝶ブログの過去記事「総務部のお仕事」。
今、読み直してみると、当時を振り返る。
なかなか面白い。
自分にウケる。

お葬式は、自分が出られないなら、弔電なりなんなりで代用すべきで、代わりに嫁を使者として使うものではない。
自分が行けないなら、それでいいではないか。
地方議員じゃあるまいし。
顔や名前を売る必要がどこにある?
自分の代わりにお葬式に行ってくれる便利屋でも雇うとよい。

ああ、くだらない、、、と、今、思った。
意味のない総務部のお仕事を不平不満を胸に、よくまあ真面目に言われた通り行く自分も自分だ。


それはそうと、先ほど、姉から電話がかかってきた。
40分の長電話。
LINE電話の電波状態が悪すぎて中断が続き、自然終了するかたちになった。
姉の昔の姑の話になり、地方の古い慣習や封建的な価値観の今との違いが、あまりにもギャップ、開きがあり過ぎて、憤り、怒りを通り越して、驚愕を通り越して、胸が悪くなった。
家の嫁を貰うとはどういうことか?
と、上から目線の姉のお姑さん。
もう他界されているが、今、聞いてもムカつき過ぎて気分が悪くなり嘔吐しそうな勢い。
女性の地位や人権を貶めているのは女性なのではなかろうか。
わたしたちの両親にも迷惑をたっぷりかけ、嫌な思いをさせた、そんな鬼毒姑などとは決裂して、離縁すればよかったのに、と姉に言うと、そんな気はさらさらなかった、とのこと。
離縁しなくて本当によかった、今は幸せだ、とのこと。
なんじゃらほい。
感情移入して真面目に聞いて損した。
まあもう何十年も前のこと、もう何十回と聞いた話なのではあるが。

この世にいない人の悪口を思いっきり言っても、聞かされるほうは、ムシャクシャするだけ。
言うほうは、スッキリするだろうけど。
あ、ブログにもそういう面があるかも知れない。
吐き出す側は良いかも知れないが、吐き出される側は、たまったものではない。
もう遅いかも知れないが。
お読みになった方、、、すみません、、、。

横暴で時代錯誤で無知で、あり得ないほど大嫌いな人(姉の姑)の話を聞いて、久々ぶりに荒んだ気持ちになった。
あの人は良い人だった、とか、面白い人だったとか、そんなプラスの思い出話ならともかく。
マイナス感情を文字化してぶつけても、スカッとしない。
しかし、入力したら居眠りしてしまっていた。
やはり悪口は人を救うのだろうか。


待ちわび日記

2021-06-04 | 日々のこと
お腹が空いてペコペコである。
お腹が空き過ぎたせいか、マスクの中は汗がダラダラ。
ただいま、ワクチン接種会場の外で順番待ち中である。
予約時間より早く30分前にスタンバイ。
会場の外には人がいっぱい。
うまく流れてないのかな?
人流はストップしている。

と、ここで雨。
近くの駐車場に場所を移す。
予約10分前だが動きなし。
待ってる皆さん、首が長〜くなっている。
そろそろ中を伺ってキョロキョロ皆んなの首が左右に動き、落ち着きがない。

空腹はピークを過ぎたが、力が出ない。
予約時間の5分前になった。
人はどんどん増えるわけではなさそうだ。
そんなに詰め込んでも、キャパには限界がある。

さて、時間になった。
・・・動きはない、、、が、まあいずれ、、、動き出すだろう。
皆さんの顔を見ていると、社交ダンス会場の時の感覚。
わたしはまだ若いほう。 
高齢者の中では最少年齢だから。

外で立って隣で待っている男性。
「時間通りに行くわけがない」
と、細い小さな声で呟いた。
あぁ疲れた〜。

中に入って座りたいところだが、席はいっぱい。
皆さん、ご高齢。
これじゃ、席を譲ってもらうどころか、譲る立場。
自分も来月に高齢者の仲間入りだから疲れます。

と、ここまで書いて、やっと中に入れた。
しかし、、、中に入ってからが長かった。
結局、予約時間の1時間10分遅れ。
30分前から待っているから1時間40分、待ったことになる。
ああ、しんど。お疲れ様。

ところで、話はコロっと変わる。
ここで私信です。
裕さん、いつも深いブログ、面白いです。

ブツ(物体)はなくなっても技術は残る。
マインドは残る。
確かに。
ブツもマインドもなくなると、心配や不安もなくなるかも?
それはそれで、お花畑の準備期間。
お花畑は悪くないと、わたしは思っている。
アタマをやられるか、身体をやられるか。
どっちもやられるか、どっちもやられないか。

わたしは高齢になることはマイナスばかりではないと思っている。
出来なくなることは増えるが、出来ない自分とまた新しくスタートしたらよいのでは。
と、老化肯定ばかりしている。
自分を肯定しないと、いったい誰が肯定してくれる?
しかしなあ、、、
まあ何ごとも、ほどほどに。
ほんとにいいかげんな、わたし。







引退したくないと訴えてくる

2021-06-02 | 日々のこと
新しいスマホは、WiFiが飛んでない場所で使う。
古いスマホは、主に自宅で。
とりあえず、裸んぼうの新しいスマホと恐々、お出かけ。
硬い床に落としたら、どうしよう、、、裸んぼうの赤ん坊。
まだスマホカバーを購入していない。
今度購入するのは、手首にストラップを通すハンドループ付きのものでないと不安だ。
落下防止。
首からぶら下げは、やめる。いくらなんでも。

古いほうのスマホに装着していたスマホカバーはお払い箱にしたものの、、、
新しい、2年間ベンチ入して出番を待っていた華々しい朱色のスマホカバーがやっと活躍の機会を得たものの、、、
どうも使いにくい。
重い、邪魔になる。
持ち歩きにくいし、椅子に座って作業する時にも、使い勝手がよくない。
カバーが主張してくる。
ということで、前のおんぼろスマホカバーはお蔵入り2日目にして古巣から出戻り、返り咲いた。
2年も席を温めて万全を期してスタンバイしていた、朱色の、まるで還暦を祝うかのような輝かしい大振りスマホカバーは、またまたベンチ入りになった。
しかも、返り咲いたボロスマホカバーと同じ型のケースを新調しようかと思っているぐらい、古いスマホカバーは使いやすい。
しかし、もうスマホ自体が引退しているのに、スマホカバーを購入するのはいかがなるものか。
旧式iPhone用カバーなのでスマホが壊れたらそれまで。
iPhoneは同じものを6年も使っているから明日をも知れぬ命。

それとは別に、買うのなら、落としたりぶつけたりしないかと戦々恐々と使っている新しいピカピカスマホのカバーが先なのではなかろうか。
あれもこれも、他にもすることや、手続き、さらに関連グッズで欲しいものもあり、気忙しい。

リフォームの里(夫の実家)に向かう電車内で、新しいスマホで、ちまちま入力している。
乗り換える度に、手から滑り落ちやしないかとヒヤヒヤ。

ちなみに、新しいスマホは量販店やインターネットで定価より4万円ぐらい安く手に入ることがわかった。
もう定価で買ったから遅いけど。
ドコモさんか、アップルさんに、定価との差額は寄付します。
しかたない。すでに買ってしまってるから。
SIMの入れ替え等、自分でチョチョイのチョイと作業をしなければならないようだが、わたしの場合、時間がかかりそうなので、人件費だと思って定価で購入することに対して、ケチな自分をなだめよう。

さて、どうでもいいことをツラツラ書いている時間はない。
(すみません。どうでもいいことをお読みいただき)
今日もまるで引っ越しするのような大量の荷物と格闘してまいります。
時空を飛び交う品々の数々。
一つ一つ、眺めて悦に入っている余裕はない。
解体まであと2週間を切った。