蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

横糸なしでは布は織れない

2020-07-31 | 人生
たいしたことも、なんにもしないで、一生を過ごすのも、さほど最低ではない、、、と、立ち読みした本の著者からのメッセージを受けた。

なるほど、その通り。
達成感を味わう喜びも知らず、さほどその喜びを手にしようともせず、当然、シャカリキになって努力もせず、結局、だらりと過ごしてきた一生もそれほど悪くないのでは?と著者は言う。
著者は70歳ならではの目線である。

どんなに頑張ってきた人も、頑張って来なかった人も、ボルテージが下がり、体力、気力が下がれば最後は同じということか。
確かに。

ただ、それを、「俺は頑張って来たけど、頑張って来てないヤツと、結局、最終コースは同じか、なあんだ」という著者の気づきが、わたしのカンに障る。
すごく、上から目線を感じる。

頑張った頑張ったと、自分で言い回っている割に、たいした成果が現れない人もいる。
「俺は頑張った!」と、あまり大きな声を上げると、暑苦しさを感じる。
水面下では手足をバタつかせて必死で泳いでいても、水面の上では、何食わぬ涼しげな顔でそっと静かにしているほうが、わたしは好きだ。
ただ、そうしようとしても出来ないことが多い。

思いっきりバタついて、必死で対岸にたどり着き、ふと、横か前か後ろの周辺を見ると、あれ?アイツら、目標も持たずに努力もせずに、ご褒美も欲しがらず、覇気がないヤツばっかり、、、やる気も能力もないんだろうなあ、、、
まあ、岸に着いてのんびりしてたら、結局はあまり変わらないかな、、、みたいな感じだろうか。

頑張ってなかった人を思いっきり軽蔑している深層心理を勝手に読み取った。
頑張った俺は、損をしたわけではないが、頑張らなかった人と、最終的には同じなのか、、、という感想。
ある意味、平等感は、不平等感でもある。

ご苦労様、お疲れ様!なのだが、何かしら人生のプロセスあたりでの意気込みに押し付けがましさを感じてしまう。

なあんだ、必死で頑張っても、俺もそこらへんの無能なバカとおんなじかい、、、のような。

わたしの考えすぎだろうか。
頭脳が優れた人が老化現象で認知症傾向が出た時に、頭脳が優れてなかった人から「あんたも結局はおんなじだね」と思われるほうが、ムカつくとは思うが。
上から目線で、自分から「自分も結局はバカ連中と同じか」と思うほうが傷つかない。
下のバカたちから、「あんたもわたしらと一緒だね」と、にたぁ〜っと笑って仲間扱いされると、プライドが許さないだろう、きっと。

結局は同じでも、上から脱落してくるのか、元々下に居続けて同じになるのかでは、ニュアンスや受け取り方は違うだろう。
今までバカにしていた連中に、仲間扱いされるのは嫌だろう。
思い上がりがある分、没落感はあるだろう。
これは人によって違うが。

老人ホームの幼児体操もどきに、拒絶反応を示すお年寄りがいる。
まだまだ気持ちが付いていかない。
ワシは、絶対にあんな風にはならない!無縁だ! バカにしおって!と怒りさえ出てくる。
いずれ行く道、すんなり受け入れたら気が楽になる。
だが、まだ入り口、過程のところでは無理。
第一線から退いたばかりでは、当然、上から目線になるのは当たり前。
いつまでもかくしゃくとして、年齢を感じさせない人もいるから、気の持ち方は大事かも知れない。
(が、それぞれ個体差がある)

しかし、気持ちとは裏腹に抗えないこともある。
腹をくくる、観念する、執着心を取り払うと、肩の力が抜けて新しい別の世界が開けることもある。


ちなみに、話はころっと変わり、、、
縦糸を家族、先祖、子孫などの血縁とし、横糸を地縁、友縁とすると、、、
わたしは縦の糸に頼りすぎ。というか、それのみ。
横糸が無い。
あるとしたら、インターネット繋がり。
さらに無理矢理あるとしたら、趣味がらみ。
あまりにもお粗末。
努力を怠っている。
しかも、インターネットでは、ろくでもない日記ばかりを綴って恥を晒している。
さらに、友人ネットワークの輪を広げようとする努力は皆無。
たんなる自己満足のツールとなっている。

こんなわたしでは、「あなたのブログ、読んでいます。スローと申します」などとリアルな姿を現してお目にかかろうものなら、、、。
ただただ恐ろしい、、、。
これも自分が蒔いた種。
自分の生き様すら検証し直さなければならない。
過去は変えられないので、変えるとしたら未来。
しかし、未来は変えることが出来るのか?
おこがましいような気もする。

ただ、日々、毎日が動いている。
動きは止められない。心臓が動く限り。
だが、一瞬一瞬は過ぎると過去になる。
方向性を持たせると未来はある程度はデザインできるのかも知れない。


※蛇足です。
中島みゆきの「糸」の歌詞では、縦の糸はあなた、横の糸はわたし、となっているが、縦横どっちがどっちでもあまり変わらないように思う。
縦、時系列血縁を縦の糸とすると、縦の糸はわたし、になり、横の糸はあなた、になる。
相手から見ると、縦の糸はあなたで、横の糸はわたしになる。
どうでもいいことだけど。



だらだらだらだら書いただけ

2020-07-30 | 日々のこと
「コンフィデンスマン JP プリンセス編」を観た。
楽しい映画だった。
ブログ村エッセイのブロガーさんの紹介記事がランキング インされていて、その記事を読みたかったが、ぐっと我慢して、映画を見終わってから読んだ。
いわゆる、答え合わせ。
先に読んだら、ネタバレになってしまっても楽しみが減るし。

先日、他のブロガーさんの文学作品の感想や評論を読んでみると、唸るほど素晴らしく、とてもわたしは手も足も出ないと慄いた。
映画の評論は、文学よりはハードルは低いと感じるものの、いろんな映画を見て知識がないと、たんに、「面白かった」ではお粗末すぎる。
なので、わたしはいざ、感想となると書けない。
でも、面白かった。
長澤まさみも良い女優になった。
エッセイブロガーさんも書いておられたが、三浦春馬にはこころを痛めずには観れなかった。
歌って踊れる、才能が詰まった若手俳優。
完璧主義であまりにも志しが高く繊細なこころは、ポキっと折れてしまったのだろうか。
全く何も知らないので想像に過ぎないが。
真っ赤なスーツで踊るが眩しく、今となれば痛々しい。

さて、映画の論評はお得意な人にお任せして、と。
わたしは、ぼーっと映画を観るだけ。
実は先々週にも、やたら暗くて陰湿で残虐で怖い映画を観た。
「透明人間」は、サイコ・サスペンス・ホラーだとかで、怖くて当たり前のようだ。
最初のタイトルのところから、暗さ全開で、しまった、、、観るんじゃなかった、、、と思った。
やはり、映画は、楽しくなるようなものがよい。
なにもわざわざ、気持ちが悪くなるようなものを好きこのんでお金と時間と労力を使ってまで観るなんて。
これからは、もっと吟味しよう。
たぶん、B級作品。
辛いのが苦手な人が、激辛カレーを食べると苦痛。

IT社長級の豪邸に住む主人公の恋人。
広々としたロケーションに建つ、海が全面に見える自宅なのだが、ああいう立地は嫌いだし、ああいう家も好きではない。
落ちつかない、リラックスできない。
わたしは若い人の好みとは合わないと強く思った。
若くなくても、建築家、安藤忠雄さんの建てた家も好きではない。
コンクリート、嫌い。
もっと天然素材がいい。
丈夫ならそれに勝るものはないが。
内部インテリアを自然素材にすればいいのか。

たんなる一個人の好み。
文字にする必要もないけれど。
書きながら、文字の無駄使い感がヒシヒシと。

そう言えば、今更なんだけど、、、
映画の帰りに立ち読みをした。
テリー伊藤の最新の著書。
パラパラと、自分が興味あるところだけ拾い読み。
本全体はリタイア後の生き方みたいなもの。
現在70歳のテリーさんの年齢からすると自然な流れ。
その中でわたしが面白いと思った箇所は、、、

「何もしない人生もいいんじゃないか」
何もしないことをテリーさんは肯定しているのだが、その説明の中で、わたしは、おやと首を傾げた。
何か大きなことを成し遂げたりして達成感を味わう喜びを得るわけだが、さしてそれを求めない人がいる。
人生を通しても、充実感を得る喜びをあまり感じない人。
そういうガッツのない人もそれはそれでいいのではないか、と。
否定から入った肯定の仕方が、わたしはなぜか気に入らない。
上から目線の、匂いを感じるからだ。

今まで素晴らしいことが良いと思っていたが、素晴らしくなくてもいいのでは?と。
誰もがカッコ悪いと感じることを照れもせずやる、それはカッコいいことかも?と。

わたしは共鳴出来なかった。
なんだかなあ、、、
素晴らしいほうがいいと思うけど。
そういうものを得たいというエネルギーが少ない人もいて、高みも目指さないし、さほど望みもない、そんな低エネルギーも悪くない、と。
それって、低エネルギー状態を評価していない上に立って、でも自分がよければそれもいいのでは?と。
評価されない低エネルギーの人をなんだかバカにしているような気がした。
客観的に読めないで、曲解したり、深読みしすぎかも知れないが。
わたしの卑屈な下から目線かも知れない。
弱い者は、上から目線に対して敏感である。

今日はどうもボルテージが低い。
こんな日もある。
頭がぼや〜っとしている。
スイッチが入ってないか、栓をちゃんとしてないかんじ。
ゆるゆる。
老化をしっかり感じる。
まとめをせずに逃げる。



爆弾プレゼント

2020-07-28 | 暮らし
シベリア育ちと、スーダン育ち?
夫とわたし、体感温度が違いすぎる。

夫婦別姓ならぬ夫婦別室。
涼しい夜。
わたしは肌寒いから薄手の羽毛布団を掛けて寝た。
夫は暑かったようでエアコン付けっ放しで切らずに出勤。
寒いぐらいの夜だったので、まさかエアコンが付いているとは想像していなかったため、発覚が遅れた。
これは、わたしの痛恨のミス?

テレビの音。
相変わらずの大音量。
ものすごく大きい音。
なぜ、あんなに大きい?
益々耳が悪くなっているとすると、補聴器も付けず、よく仕事に支障が出ないものだ。
しかも、わたしが大嫌いな番組ばかり。
個人の気質の違いを理解すべき、だとか、そういう脳の働きをすっ飛ばして、気も狂わんばかりに破壊的に不愉快。
気が遠くなるほどの不快感。
喉から何かが逆流しそう。
脳が爆発しそうだ。
顔面がぐちゃぐちゃに歪む。

暴力を振るうだの、借金を重ねるだの、ギャンブル狂だの、女癖が悪いだの、そんなのでなければ、悪意もないのだし、正直な人なのだし、働き者だし、、、。
色々頑張って列挙してみる。

お互いに嗜好、好みが違うだけ。
「微妙に」「気にならない程度に」ではなく、生活のベースとなる「真ん中」のところで。

わたしの基本スタンスは、「他人に迷惑をかけなければ、何をしてもよい」。
犯罪やイジメなど、とんでもない。
しかし、「他人」とは誰を指す?
世間の皆様のことであり、家族は身内なのだから他人ではないのか?
だが、世の中には家庭内DVもザラにある。

という家庭内の各々の事情、、、
色々あり、コロナ禍でも家庭での問題が浮き彫りにされた。
それなら、一緒にいなければ良いわけで。
手っ取り早い方法は、別れること。

だが、別れられない社会的事情の人もいる。
あるいは、そこまではちょっと、、、というような、たんなる生活リズムや生活様式の違いの場合は、、、
信頼感で結ばれ、夫婦の絆はあるが、生活は別々に。
時間帯で分けたり、一階二階などの階数で分けたり。
お互いが不愉快にならないゾーンを整備、確保して、家庭内ディスタンスをキープする。

ちなみに、、、
どちらかが介護が必要になったら、お互い、絶対に手を貸さないだろう。
外注さんに丸投げして、お金で済ませるだろう。
ヘルパーさんや施設のお世話になるだろう。
助け合いの精神が急に生まれるとは想像しがたい。
堪え難い苦痛を毎日、積み重ねている。
人から見ればたかだか、そんなエアコンやテレビぐらい、、、と笑い話にもならないだろう。
エアコンやテレビは外に現れる具体的な現象に過ぎず、根っこのところが根深く深刻である。
嫌がる相手を思い遣らない、自分本位な絶対的方針、、、。
一事が万事。

一緒に生活していると、さらにどんどん苦痛が拡大していく。
助け合いが必要になった時、一気に反転するだろうか?

ではあるが、苦痛は一時的なもので、その苦痛の元から遠ざかると、苦痛は緩和される。
耐えられるなくなる頃には、どちらかが何らかの支障をきたしていることだろう。
事態は動く。
その時までの辛抱なのか、その時はジ・エンド、終焉なのか。
悲しみも喜びも同時に同梱されている。
引き離せない。ワンセット。
何ごとも表裏一体である。

哲学は、難しい本を読まなくても、普通に暮らしていると読み解くことが出来る。
哲学は、書物の中の文字では体感できない。
生活人でなければ身に沁みない。
ソクラテスは悪妻に悩まされて、副作用として哲学者として大成した。
幸福になりたければ、勉強して、幸福とは何か?を探求すべし、だとか。
しかし、早い話、良妻のほうが幸せになれるそうだ。

では良妻とは?
山内一豊の妻のような人?
夫を陰から支える?
あるいは、能力を引き出し、さらに引き上げる?
そもそもデキる夫なら支えなど必要ない。
デキない夫にはデキない妻が相応しい。合っている。
相手に不満を抱くということは、不甲斐ない自分を責めているようなもの?
だが、自責の念が強すぎると、この世からいなくなりたくなる傾向にある。
だから、あまり突き詰めてはいけない。

怒りは大きすぎると、静かな悲しみになり、諦めの後に、やがて無反応になる。
鎮静化する。

C'est la vie.

だが、痛いものは、何度経験しても痛い。
モルヒネを使わない限り。

良いことばかりでは、人生の喜びを見過ごしてしまう。
スイカに塩、ぜんざいに塩昆布。
幸せボケして感謝のこころを忘れた愚かな人間をピリッと覚醒させるために神様が仕組んだ爆弾か。


嫌いなものは嫌い

2020-07-27 | ご近所さん
今、ブログ村エッセイのご近所さんをぐるり一周してきた。
裕さん、旅に出るんですね、いってらっしゃ〜い!
お土産は、「エンジン排気量10倍パワーチャージのチャンジーになって再登場」でお願いします。

ケイコサンの写真はいつも、うっとり。
どんな被写体にもシャッターを切る人の想いが込められているような気がする。
瞬間の旬を逃がさない。
色とフォーカスのコントラストに覚醒、しばし引き込まれる。

ブーツさんの日記についての考察、興味深かった。
わたしなら、、、
現実逃避、あるいは強い自己肯定願望。
それと多少の自虐趣味。悪趣味、悪ふざけ。
自己陶酔もあるかも。
自分しか知らない自分の胸のうち、何を書いても他者は全く正誤を判定できない、、、ことをよいことに、好き放題、書いている。
わたしの場合は、ストレス解消かなと。

と、前置きはさておき。
一昨日、最寄り駅の電車の待合室で、電車が来るまでいつものごとくスマホをいじっていた。
すると、隣に座った人に声をかけられた。
あら、ご近所の女性。
彼女は高級輸入洋装品店をA駅前で長い間、経営していた人だけあり、いつも素晴らしいファッション。
なによりも発色が美しい。
いかにも上質でお高そうな、濁りがない澄み渡るような色の洋服を身に纏っておられる。
白銀のヘアと透き通るような色白の肌に、原色の真っ赤な口紅。
自宅ファッションもポップでカラフル。
今回は、なんと素敵で可愛い、彩り爽やかで涼しげなマスク。
配色とモチーフに感動!
さすが!オシャレ!の一言に尽きる。

(外観、外側を飾るプロ。
私生活はまた別の一面がある、、、これは、人間として当たり前のこと)

さて、この人物との関わりについて。
姑は昔、A駅エリアに住んでいたため、顧客だったこともあり、プライベートにもお付き合いがあったようだ。
姑は、高級品好みで、好みに合う商品が入ると店から連絡を受けて買いに行っていたらしい。
わたしも結婚直前に姑に連れられて、その店に行ったことがある。
こじんまりとしたお店には、舶来用品のみが売られていた。
が、とても値段は高かった。

わたしは洋服にそのような大金をかける趣味はないので、さ、さ、さーっと見渡して、はい、買いたい物、無し!というかんじ。

ちなみに、ご近所さんのママ友つながりの人が輸入洋服を時々、自宅で販売していた。
これもまあまあの金額だったが、薄めのサマーセーターの一枚や二枚はご近所の手前、買ったように思う。
買う人も買わない人もいるが、居住地で売買は、売り手も客も、同じご近所さんだと、冷蔵庫の中身が知られる感覚に近いものがある。
お互いのフトコロ事情がそれとなくわかるので、ブレない信念と距離感をもって接しないと、ミニトラブルの元になる。

まあそれは、よいとして。
潤沢な資金があり高価なものを普通の感覚で買うなら別に個人の自由だ。
潤沢ではない収入で高価なものを好きで買う人は、これまた個人の自由である。
人それぞれの道。
生活が破綻しなければ、好きにすればよい。
生活は破綻しないが、家族にしわ寄せが行く場合もあるだろうが、それも人の道。

と、延々と長々と、横道に逸れている。
その、高級輸入品ブティックの元経営者の女性が、スマホにどっぷり浸かっているわたしに、声をかけてきた。

「おかあさん、お元気?」
「はあ、元気です」

「おねえさん(姑の姉)は、お元気?」
「はあ、元気です」

「おかあさん、どこにおられるの?
おねえさん、お元気?(2度目の質問)
「元気です(2度目の答え)」

「おねえさん、どこにおられるの?
「前と同じところです」

「お家は?  空っぽにしてるの?」
「管理はしてます」

「おかあさん、お元気?
おねえさん、お元気?
(これ、同じ質問、再び)」
「はい、元気です
(これ、同じ答え、再び)」

「おかあさん、頭のほうは大丈夫?
「(この人、これが聞きたかったのね)
そうですね、年齢相応です」

何度も同じことを聞かれる場合は、答えに納得していないか、もっと深く掘り下げて知りたい場合。
それをわかっていながら、あっさり答えるわたし。
ちょっとでも説明したら、どんどん聞いてこられる可能性、大。

電車が来たので、わたしは、さっさと歩いて別の車両に乗り込んだ。
この女性には別に、どう思われてもよい。
お互い、無理せず別の車両でアッサリ行くほうが良い。

そもそも、なぜ、こんなにわたしはこの20歳ぐらいも上の女性を毛嫌いしているか。
なにしろ、40年近く前から顔と店は知っていて、近所に住むようになってからは30年ほど経っている。
その間、お互いの家族にも度々顔を合わせている。
わたしが住んでいる家の以前の住人である、学生時代の友人Wさんの顔も彼女は知っている。
なにしろ、長い年月を経ている。

客商売だけあり、いつも誰かの何かを褒める習性が身についているようだ。
学生時代の友人Wさんのことをいつも「あの人は美人ねえ」とわたしの顔を見る度に褒める。
Wさんは綺麗な人ではあるが(当然ながら女優さんレベルではない)、そう度々褒められると、なんだか目の前にいる自分が不美人だと言われているような気になる。
しかも、顔ばかりを褒める。
わたしと入れ替わりに引っ越して出て行った、お客さんでもない、今後、見込み客にもなる可能性はゼロのWさんをわたしに褒めてみても、わたしが不愉快になるだけなのに、なぜ、いつもその話題?

その時期が終わると今度は、わたしの家族をベタ褒め。
わたしを喜ばそうとしているのなら大違い。
よく知りもしないで、学歴や職業などばかりを褒める。
夫の姉の旦那さんにまで、褒め言葉は及ぶ。
情報を姑から聞いているのだろう。
完全にわたしは、拒絶反応を起こしていた。
一種のアレルギーである。
人の家庭や家族のことは褒めちぎるが、いままで一度たりとも、わたし自身のことを褒められたことはない。
なにも褒めて欲しいわけではないし、褒める部分など全くないが、30年近くその路線だと、ほとほと嫌気がさす。
ほっといていただきたい。
離れてほしい。
「こんにちわ」の会釈だけで良い。

そういう経緯があるので、わたしは極力、近寄りたくないのだが、いくらスマホで完全ガードしても、御構い無しにズカズカ踏み込んで来られる。
うんざり。
空気を読む機能は備わっていない。

なので、電車の別車両への乗り込みは、ソーシャルディスタンスの距離よりさらに遠い、こころの距離を保つ。
人の家に首を突っ込まないで、ご自分の今後に向かっていただきたい。
て、わたしは、その人がたんに嫌いなだけなんだろう。

長々、悪口。
しかも、褒め殺しをしてくれ続けていた人に対する悪口。
ちょっとこころが痛むかと言えば、、、全然。
スッキリした。ブログ効果。

ただし、わたしの評価はまたまたダウンし、わたしを嫌いになる人は増えたことだろう。






中学生だった、わたし

2020-07-26 | 思い出
今回はタイトルから先に来た。
あるブログのタイトルを見た瞬間に、「ソレ!」と、お題を頂いた。

現在はおじさんになっている、元中学生だったそのブロガーさんの懺悔記事を読んだ。
それ、それ、そのまんまです。
わたしは中学の時に感受性の強いナイーブなこころを悪たれ男子に傷つけられた。

当時の悪たれ男子、Y君が、前回の同窓会で謝ってきた。
「ごめんな、傷つくってわかっていながら、止められへんかったんや」

なんや、この子、自覚があったのか!?
そのほうが、驚きだった。
確かにわたしのこころは、ズタズタ。
でもティーンエイジャーはあんなかんじ。
大人への発展途上の子供は残酷。

もっと小さい頃。
わたしが小学校低学年ぐらいの時、その場所を通らないと家に帰れない避けられない道で、悪ガキに生きたカエルを投げつけられそうになって、死ぬほど怖かった。
この世の地獄。
まあ、一回限りだからよかったが。
悪ガキは本当に悪ガキである。
小さな(かわいい)女の子にカエルを投げるなんて。
しかも、結構、大きかったような気がする。ガマガエル系。
ああ、田舎の子供は野蛮、、、。

しかし、それはまだマシ。
家族旅行でグァムだったかに行った時、テニスをした。
テニスコート一面に大きなカエルがいっぱいいて、踏みそうになった。
カエルを避けながらのボールを追いかけるテニスプレーはなかなか難しかった。
カエルは嫌いだ。

踏まないように細心の注意を払う、、、一歩一歩、足元に。
そう言えばパリも2011年に行った時は、街中が犬のトイレと化していた。
衛生的にどうなの?
花の憧れのパリ!!お洒落な街なのに、目をキラキラさせて前を向いて歩いていたら、えらいことになる。
そういう衛生観念文化なのかなあと不思議な気がした。
しっかり下を見て歩かないと、ベチャっと踏んづけてしまう。
だが、注意を怠るほうが悪い。
自己責任。
2013年に行った時は、それらは、なかったように思う。
2011年から2013年の間のいつかに、厳しい法令でも出来たのだろうか。
(記憶違いかも?)

と、相変わらず、話は逸れに逸れている。
話を戻す。

中学の時だけでなく、幼稚園と、小学校高学年は、クラスメイトの悪ガキに悩まされた。
じっと我慢して、卒業する日をひたすら待った。
わたしは当時から忍耐強かったようだ。

中学はさほど我慢を強いられたわけではない。
嫌な悪ガキもいたが、面白い子もユニークな子も、存在感ある子も、大人みたいな子もいたので、まあ良しとしようというところか。
わたしたちは、悪ガキ軍団に対抗して、悪女子軍団を作った。
クラスには二つの軍団。
だが、作った当初は対抗していたかも知れないが、男子軍団と女子軍団は、敵対していなかった。
男子軍団の敵は男子、女子軍団の敵は女子。
男子軍団の味方も男子、女子軍団の味方も女子。
たんなる二大派閥だっただけか。
勢力はクラス内に留まらず、他のクラスへも、学年全体へも影響力を持った。

この二大派閥は、体も大きく成績もさほど悪くなく、運動もそこそこ出来て、活発なメンバーたちがグループの構成員。
先生も一目置くような、力のある子たちが集まっていた。
このグループに属していないと不利益を被るだとか、いじめを受けるとか、そういうことはない。
明るい二大勢力だった。

もちろん、わたしも入っていた。
どちらかと言うと、先鋭隊を動かすほうで、自分は動かない。
まあ、中学生のかわいいお遊びであり、陰湿ではなかった。

にもかかわらず、Y君には思春期の乙女心を踏みにじられた。
一生、忘れない、、、たぶん。

男子は自分はどうってこと思わなくても、女子は傷つくのだ。
代償として、Y君には一生、反省していただく。

とかなんとか言っても、中学時代が一番、成長期で刺激的で、多感な年頃で、激変時期、色々あった。
中学時代って真剣勝負で全力でぶつかった時期だった。
懐かしいというよりは、今とは何か切り離された時代のような気がする。
だが、あの時代が原点なのかも知れない。



幸せスコーンの味

2020-07-25 | 日々のこと
次女が帰省してきた。
スコーンを焼いてくれ、長女一家を呼んでアフタヌーン ティータイム。

わあ、焼きたてのスコーンに、たっぷり生クリーム、生クリームとバターの中間みたいなクリームに、いちごジャム、そしてアイスティー!!
ママの家庭の幸せ味を堪能した。

て、わたしの母親はスコーンなど焼いた試しがない。
姑も然り。
祖母ももちろん。
実はわたしも、、、。

長女もママだが焼かない。
ママの味は、ママではない独身の次女によって、復元でも再現でもなく、普通に、作られた。
これは新・家庭の味なのか?

ネタを明かせば、お気に入りブロガーさんが幼いころから地元、成城で親しんでおられる成城石井のスコーンの素を使って出来る、お子ちゃまでもカンタンにプロの味!というシロモノ。
わたしはアフィリエイトや広告収入を得る嗜好は全くないので、成城石井に何かもらっているわけではない。

なにしろ、その超カンタン便利の魔法の粉で、いとも短時間で手間いらずの、チョチョイのチョイで、美味しい憧れ幸福のアフタヌーン ティータイムが実現した。

一人、二個。
ホクホク、アツアツの味はママの味がした。
(どこの、どんなママなんだろう???)

幸せはイメージでどうにでも作られる見本のようなものだと思った。
わたしも、バーチャル世代の落とし子か?
(ずいぶん、歳をくっているものの)

原体験そのものをイメージ作り出来る、自由に理想をデザイン出来る、悪い意味ではねつ造できる、そういう時代なのかなあと。

ちなみに、
次女、、、
とても興味深い、しかし、わたしにとってはショックでもある、客観的観察者次女が発した一言、、、。
この内容に対峙するにはハード過ぎるので、この続きはまた、こころが丈夫な時にでも、、、。

モテない

2020-07-24 | わたし
わたしはモテない。
コンプレックスも凄い。

だが、世の中にはステキな人と、そうでない人がいる。
真ん中には、普通の人がいる。

わたしは普通だと思う。
たいがいの人は普通だと思う。
それを自分でどう捉えているか。
分類してみた。

1.ステキだと思っている。
周りからもそう思われていると自覚している。
2.ステキになりたいと思っている。
まだまだステキになれると楽観視している。
3.ルックスはステキではないが、他の面では負けてない。
4.ルックスなどどうでもよい。

などなど、ステキにも色々。
内面に磨きをかけ内側から輝こう!と、よく女性雑誌などに書いてあるが、
これは、ちょっとした敗者復活戦だと思う。
確かに外側ばかりにこだわっている人は滑稽だ。
バランスというものがある。

しかし、大概は外側から入る。
詐欺師以外は、外側に中身が出ていることが多い。
ある程度の年齢になると性的機能が衰え、肉体もダウン、容姿もダウンする。
さて、どうする?

アンチエイジングで頑張る人もいるし、若作りレースから降りる人もいる。
レースから降りると、楽。
快適だ。
そして限りなく中性になる。

元男性と元女性。
しかし、同じではない。
元のテイストは残っている。
お互い、歳を重ねているので、精神的にはキラキラ輝いていても、肉体的にはどちらも生殖能力はない。
そのあたりが微妙だ。

お茶を濁して書いているため、書く本人は全く面白くない。
はっきり書けないし、書く必要性を感じない。
仮にはっきり書いたとしても、書いた本人はスッキリどころか、あんまり快適ではない。
自分の胸の内だけで思っておく。
て、「文章にはしません」とわざわざ文章にする意味があるのか?
歯切れが悪いだけ。
それにしても、、、ああ文字のムダ遣い。

というわけで、
「モテる」の定義は曖昧だ。
うんと若い頃は、わたしは見かけ倒しだった。
いかにも味がありそうな女性に見えて、全然中身は空っぽだった。
今は味があると本人は思っているのに、内面に興味を持ってもらうに至らない、誘導効果のない残念な外見。
ルックスに、とんと魅力がない。
一方が立てば、一方が立たない。
まあそんなものだ。

今、神様がわたしに若さをプレゼントしてくれたら、、、
嬉しくて大喜びだが、全てを一からやり直すのは勘弁してほしい。
今のこの状態で、若さだけが蘇るという、虫のいいプレゼントがいい。

若さを過信しすぎて、若さを武器にしすぎて、男性に振り回され、疲弊、消耗していそうな気がする。
暴走して人生をぐちゃぐちゃにしそうな予感がする。

ああよかった。
歳を取っていて。
暴走しようがない。
なぜなら、、、受け止めてくれる相手がいない。
悲しいような、よかったような、、、
人生の帳尻はよくわからないままに合っている。

フラッシュバック

2020-07-22 | 思い出
今日は、自分の評価を下げることがはっきりわかっていながら、黒い感情が抑えられない。
なので愚痴る。
吹けば飛ぶような、わたしの評価など、どうでもいい。

つい先日、なぜか夫が、トイレットペーパーの1ロールをトイレ内の補充棚に入れようとする流れがあった。
「ここ?」と、トイレ掃除器具が入っている収納スペースに入れようとした。
そこは、液体掃除薬剤や、水回り掃除用具が入っている場所なので、ビニール袋で覆われていない、個別のむき出しトイレットペーパーを入れると濡れる恐れがある。
第一、棚の高さは30〜40センチあり、1ロールずつ並べるには、高い。
トイレットペーパーは、その隣にある、一個ずつ並べて入れるトイレットペーパー専用に作られた、スライド扉のある棚にいつも入れている。
もう20年前からそこ。定位置である。

水回り掃除器具入れの中にトイレットペーパーを入れようとする夫を見て、愕然とした。
(入れなかったけれど)
入れる場所が違う、間違っている、とかではなく、この人は20年間、一度もトイレットペーパーを交換したことがないのだという事実に衝撃を受けた。

昔の男性は、台所に入ってはいけないとされ、また、家の中のことは全くわからないことが男の甲斐性であるかのごとくだった。
男はシゴト。女は家庭。
夫は今でも、ゴルフの用意をしてくれる奥さんがいるゴルフ仲間を羨ましがっている。
その奥さんはゴルフをしないにもかかわらず旦那さんのゴルフ用意をいつもする。
奥さんがいないと、下着の場所すらもわからない。
なに、それ?


夫は、母親である教育ママゴン(姑)に男としての何かを潰されている。
母親(姑)も、息子である夫も、お互いそれで良いのだが、後を引き継いだ妻(わたし)は、忌々しく苦虫を噛み潰している。
舌打ちどころでは到底収まらない。
なぜ、あんなにスポイルし、家事が全く出来ないハンディキャップ人間に育ててしまったのか。
出来ない以前に、意識の問題。
何か意図、目的があるのか。
あるとしたら、何なのか。

夫は大学が遠隔地にあったため、実家を離れ一人住まいをしていた。
せっかく家事能力を身につけることが出来るチャンス、良い機会があったのに、みすみす取り上げて潰されてしまった。
犯人は、母親。
家事電化製品は一通り揃えてもらっているのに、炊事洗濯掃除などする由もなく。
姑は、近くに住む夫の父親(舅)の姉妹に対価を支払い、息子が自分ですべき家事を丸投げサポート依頼していた。
(この話、蝶ブログに何度も何度も書いているが、黒煙立ち込める火事は鎮火せず気が収まらない)
まったく気が知れない。

夫は家に洗濯機があるのに、わざわざ車で隣の市まで洗濯物を持って行って洗濯をしてもらっていた。
寝たきり病人か?
バリバリに若い自由な学生なのに!
ご飯をよばれ、お腹もこころも満たされ、寂しくないように配慮されていた。
有料で!!しかも、親のお金と采配で!!

まったくそれが当たり前のことだと心底思っていただろう。
家事は誰かにしてもらうもの、と。

オバさんが洗濯や家事をしてくれるのを、単身住まいの可愛い甥に対する単なる好意だと思っていたことだろう。
嬉しい自主的ボランティアだと。
裏では取引が成立していた。

だが、登場人物全てが満足しているのだから何の問題もない。
しかし、そこに問題がある。

母親はなぜ、息子に自分の身の回りのことを自分でさせない?
一種の逆ネグレクトではないだろうか。
過干渉。
自立の芽を摘む。
何のために、自立の芽を摘むのか?
息子のため?
どういうことが、息子のためなのか?
さっぱりわからない。まったくわからない。
オバさんも文字通り、喜んで引き受けていただろう。
別にお金目的ではないだろう。
全然、お金に困っているわけではない。
オバさんの息子たちとも年齢も近いし、親戚の暖かい仲良い交流に、誰が異議を唱えることだろう。
(オバさんの夫)オジさんも、息子たちと同じ年頃の甥の来訪には喜んでいたと想像する。
一族が全員、楽しく幸せなのに、わたしがなぜ、ひとり、こんなに腹を立て怒らなければならないか。
まるで、平和な街に現れる札付きの悪モノのようだ。

田舎で見守る両親、祖父母。
都会で迎えるオバ一家。全員が幸せ。
そこには崩しようがない幸せ構図があり、完結している。
なのに、である。
わたしは、その中で孤軍奮闘していた。
虚しい、やるせない、腹立たしい、悔しい、馬鹿らしい、どうしようもない思いに駆られていた。

時の経過がそれらの感情を封印していたが、ひょんなことから、当時の断片に接することがあると、一気に堰を切ったようにヘドロが溢れ出す。

たった一つの小さなトイレットペーパー1巻で。
コトっとドアが開き、溢れ出る思いに飲み込まれそうになる。
当時の思いはドアの向こう側で膨れ上がり増長し、化け物になっている。


・・・
と、文章はここでコト切れていた。
「憤死」というものがある。
まさに「憤爆睡」。
(こんな言葉はあるのか、ないのか知らないが)
幼児が泣きながら寝てしまうように、怒りながら寝てしまった。
しかし、目が覚めたら、また気分スッキリ。爽快。

そう言えばブログ、どうなってたんだっけ?
アップした?
消えた?
居眠りヨダレの跡形は見当たらなかったが、書きかけのものをほったらかして憤りながら寝入るのは、初めての経験。
これからも、こういうことはあるのかも知れない。
脳が長時間、激しい感情に対応出来ず、パタンと蓋を閉めてしまうのだろう。
安物の脳を持つと、後を引きずらないから良いような、良くないような。
モノゴトの解決や追求には向いていないようだ。
寝てしまうなんて、自分でも笑ってしまう、、、。
わははは。

こうやって着々と確実に歳を取って行くのだろう。



子供の人生

2020-07-21 | ブログ
わたしのブログ。
胸のレントゲン撮影の時に、「吐いて〜、吐いて〜、吐いて〜」と息を吐き続けているようなもの。
「吸う」が無いので、ただただ一方的発露、吐露になっている。
よくまあこれだけ、「IN」が無くて「OUT」ばかりが続くものだと我ながら感心する。
自己中の性質はこういうのが多いように思う。
対外的には「めんどくさい性質」ではないはず。
ブログで発散してバランスを取っている。
これは公にするのはどうも、、、というモノは、非公開にする。
いわゆる、ボツ。
非公開もどうだかなあ、、、という、なんだか知らないが未練があるものは、一部、書き直して露出度を変更する。
だが、ネタは尽きることはない。
毎日、無意識に息をしているかの如く次から次へと、入力指は動く。
問題は、読んでくれる人が飽きるという点。
当たり前の流れだ。

ブログ記事を全部、非公開にしたら、胸のつかえは取れるかというと、ちょっと中途半端である。
閲覧数が10本の指で収まったとしたら、これまたモチベーションが維持できないだろう。
一種の露出魔なのか?


話はごろっと変わるが、、、
もし、自分の息子や娘が性的マイノリティなら、、、
彼らは、もういい歳をしているのだが、今まで浮いた話はまるでなく、(親に言ってないだけかも知れないが)付き合っている相手がいることに、まず驚くだろう。
その相手が同性なら、また2回目の驚き。
2度、びっくり。
それはあり得るかも知れないと、驚きを掻き消すように、自分で自分を納得させようとするかも。
まず最初は驚きであって、失望ではないと思う。
気持ちが落ち着いてきたら、、、あれこれぐるぐる考えて、きっと自分に都合が良いように解釈するだろう。
精神衛生上、良いように。
落ち込んだりはしないにしても、お相手であるパートナーの彼らとのお付き合いの仕方を試行錯誤しそうだ。

孫はもう複数いるので、次世代の顔が見たい希望は既に叶えられている。
そういう意味では、息子や次女は、気が楽だと思う。
自分の人生を歩んでくれたら良い、なんてキレイ事を言っても、なんだか白々しいかも知れない。
でも、彼らが決めたことなのだから口出しはしない。
「えーーーっ!驚いた!びっくり!」と言うだけだろう。
それ以上でも、それ以下でもない。
一人で生涯独身よりは満ち足りた人生になると予想する。

そういう事態にもなっていないのに、あれこれ仮定するのは時間の浪費だ、と言われそうだ。
その通り。

なにしろ、わたしは残りの二人には、結婚に関してはもう期待していない。
今は非婚はザラにいる。
自分には自分の道がある。
いくら親だからといって、あれこれ口を出すのは鬱陶しさ全開。
しかし、ニートや引きこもりの親御さんはさぞかし、こころを痛めておられることだろう。

とは言え、親から見ると、ニートや引きこもりと同じように捉えられようとするあたり、性的マイノリティに対して理解や認識が足りないように思うが。
何しろあまり皆さん、表に出さないのでよくわからない。
それぞれが他人に迷惑をかけず充実していれば良いのでは?
と、なんの役にも立たない、こころにも響かない、当たり障りのないフレーズを書く自分が、不甲斐ない。


話はまたまた変わり、、、
何にしても、わたしは完璧、完全は求めない。
理想はそうであっても、現実はそうならないことは多い。
自分の理想を他人に押し付けることほど暑苦しいものはない。
だが、同じ方向を向いている場合は別。
選手とコーチのように。

親に育てられた思い出や思いがある。
と同時に、子を持つ人は、親として子供を育てる思いがある。
さらに、子供が孫を育てるのを見て、過去の思いのいろんな断層に触れる思いがする。
さらに自分の親は老いて、朽ち果てる寸前。
自分も老いていくにもかかわらず、朽ち果てそうな親を見ながら、自分も同時進行で歳を取り衰えていく。
さらに同時に子供は孫を産み育てる。
孫はどんどん成長する。
スタートの生と、エンドの死が全て同時進行。
何重にも繋がったエスカレーターのようだ。

自分の子供の中には、結婚しない子も、子供を持たない子もいる。
それはそれで、一代限りで彩りを加えてくれる。

やいやい口うるさく結婚させようとする祖母もいる。
後継が欲しいと望むにもかかわらず、ただ欲しいと言うばかりで、ノウハウや方法、手段を考えつかないで終わってしまうこともある。
自分の望みを人に託すのは、よほどうまい手がない限り、無理。
自分のことは自分で。
ましてや、人の人生を自分の思い通りにしようなんて、とんでもない。
自分の人生すら、自分の思い通りにならないのに、人まで操ろうなんて。

皆さん、うまくいかずにあれこれ試行錯誤している。
最後には望みが叶うのか、出来ることは全てしたからと諦めるのか。

聞かれてもいないのに、人様に人生指南アドバイスする人がいるが、いかがなるものかと思う。
押し付け、お節介、余計な介入。
一生懸命取り組んで、どうしても上手く行かない人にアドバイスなどしようものなら、タイミングが良ければヒントや発想の転換になるが、渦中にいる時は、大概は「ほっといてくれ」と、アタマから火が吹くのではないだろうか。

悩みに悩み、やることは全てやって、あとは天命を待つだけ、という状態なら、どんな結果も受け入れられることだろう。
もがくと沈殿しているものが撹拌され、水が濁るが、やがて動きがなくなり落ち着いて静かになるとまた分離され、水は澄んでくる。
もがく間は苦しく、さらに結果が出るそれまでの待ち時間が長く辛い。

時間を置くと、また違う見え方にもなる。
長い時間をかけて諦めるという、そういう自然治癒みたいなことは多いと思う。


ちなみに、
決断がやたらびっくりするほど早い人がいるが、何ごとも遅いわたしにしてみるとスゴイなあと感心する。
早くても遅くても結果は同じだったりする。
にもかかわらず、自分流時間の取り方を人に強制するため、お互いストレスになる。
共通項目以外は、出来るだけ一緒にいないことが、解決方法かと思っている。


今日はなかなか終わらない、、、
〆られない、、、
急激な暑さからかな?なんて、急に明るく切り替えてみたりする、、、
汗がだらだら。
ブログもだらだら。

ばあちゃん、嫌い

2020-07-20 | 日々のこと
外出先から自宅へ向かうバス停でバスを待っていると、、、
何やらいつも見慣れている背格好の子供たちが近付いて来た。
あらま、孫軍団。
後ろを見ると、ノーメイク・マスクの長女。
孫たちはそれぞれにリュックを背負い、各自、本を借り、図書館帰りのようだった。
リュックの中には12冊の本。

同じバスに一番下孫Cも乗り込んだ。
長女が「ばあちゃんのお隣に座り」と促すと、Cは即座に「ばあちゃん、嫌〜」とリアクション。
またまた即座にわたしは「まあ失礼な子!」とマスクの下から大人げなく不満声が期せずして漏れた。

バスから降りたら、長女だけ、いったん、長女の家に戻り、後にわたしの家に来ると言う。
子供たちだけ先発隊として我が家に。
孫Cは、ばあちゃん嫌い発言の割にはすんなりおとなしく、わたしと手を繋いだ。

右と左の靴を左右間違えて履いている孫Cの手を引いて、わたしの自宅に向かった。
靴は左右反対でも上手い具合に歩くものだと妙に感心した。
片方の手には、アンパンマンクッキーをしっかり抱えて、とことこ歩いた。
ちょっと前なら泣き叫んで「ばあちゃん嫌〜」と嫌がるのだが、少しの間に成長したものだ。

ところで、話は変わるが、、、。
人はいくつもの幸せを同時に手に入れられない。
長女も新幹線通勤をしていた時期もあったが、仕事の第一線から離れ、ワーキングマザーの道を選んだ。
その際、彼女が口にした言葉が忘れられない。
「組織の歯車の一つは、自分の代わりの人はいくらでもいるけど、自分以外の誰でもない、自分しか出来ない道を選んだ」と。
よくあちこちで度々耳にする言葉ではあるが、実際、実体験を通しての言葉にはリアリティがあると感じた。

彼女は不本意ながら、結果的にはいつも望みの第二希望コースになる。
学校も第二希望、就職も第二希望、結婚相手も第二希望、だそうだ。

わたしの目から見ると、十分すぎるほど十分だと思う。
(わたしは、最下位すれすれ狙い)
彼女はよく頑張っている。
わたしの血は全く流れていないのではないだろうかと本気で思うほど、わたしとは正反対で全然似ていない。
生まれもった星、性質なのだと勝手に想像し、理解している。
甘々で頼りない親に代わり、下に続く弟妹たちの厳しい引率者、リーダーとなって引っ張って行ってくれて感謝している。
どっちが親でどっちが子供なのかわからないシッカリぶりで、夫もわたしも、今はウチから娘が引き上げると警戒事態宣言が解かれたのごとく、思いっきり脱力している。
子供がシッカリして嬉しいのは、まだ親が元気モリモリのうちであり、ある時点で逆転の憂き目に遭う。
嬉しい悲鳴なのか情けない悲鳴なのか、、、。
まあ、頑張って家族を引っ張ってくれる長女ではある。

じつは、この長女の陰には立役者、功労者がいる。
その人は、娘婿。
今のご時世は、ああいう、仕事もしっかりする一方で、よく家事育児をし、優しいパパが多いのだろう。
「家事育児を手伝うダンナさんは素晴らしいね」と、わたしが言うと、
「手伝うだって?
半々が基本なのに、手伝うという表現はおかしい!」と長女は目を三角にして言う。
まあそうだけど、年齢が若くても頭が古い男性もいる。
まだ未だに家事育児は女性の仕事と頭から抜けない人が少なからずいる。
だが、フルタイム共働きでは、お互い仕事で疲れているのは同じではないか、と。
確かに、、、。
でも、まだまだそんな理解力があり行動する男性ばかりではないそうだ。

そういう男性を夫に選んだのは長女の功績だと、長女は言う。
幸運の第二志望説か。
しかし、自分の能力以上のものを相手に求めるのはおかしいので、夫婦共に同等の能力を持ち、バランスが取れているのだと思う。
結構なことである。
このイクメン様のおかげで、わたしは必死で孫サポートをしなくて済む。
やれやれ。
自分が良ければなんでもよい。
わたしは自己中一本やりなので。
「ばあちゃん嫌い」と泣かれても涼しい顔。
(もっと深刻な事態のケースではまた違うだろうけれど)


幸せをあれもこれも、手に入れるのは無理だ。
望むほうが間違っている。
一つでいい。
一つだけでもお釣りが来る。
十分満足で感謝している。

そのたった一つの幸せを手に入れるためには、犠牲も強いられることもあるだろうし、小さな不満や愚痴もあるだろう。
大きな幸せには、小さな不満は付き物、ワンセット、切り離せない。
100パーセント晴れ渡る日ばかりではない。
なので、それでいいのではないかと思う。