蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

迎春前夜、大晦日

2015-12-31 | 
朝からバタバタ、お手伝いのおばあさんと、義母。
彼女たちは、同じ年。
一方は、雇い主で、一方は雇われ人。
同じ年齢の超高齢、ご近所住まいなのに、不思議な構図です。

私の仕事は減って楽なものの、あんな高齢の人に仕事をさせるのは複雑な心境です。
が、経済活性化や、人材活性化、生き甲斐?のためにも、悪くないようです。
私の布団も彼女が敷いてくれたもの。
「朝は早く起きてこないでね」と義母からの要望。おもしろいです。
ここでは、超高齢者の皆さんは、お元気です。

もう一人、私と同じような世代の便利屋さんお助けマン女性がいます。
彼女はさすがに、フットワークが軽いです。
掃除や買い物、スイスイ。私設・家事ヘルパーさんのようなものです。
彼女は、頭脳明解、高学歴。
アタマも体も回転が早いです。

私は彼女たちの間を縫って、ぬらりくらりと仕事しているような、していないような。
おそらく、「なにもしない人」という烙印、評価だと思いますが(心の中で皆さん、思っていることでしょう)、受けいれています。
昨日は、超時間続く、義母のパワフル機関銃トークに、すっかり疲れました。

さて、大晦日。
それぞれのワールドで、のびのび頑張ることにします。
午後に次女がやってきます。

良い一年の締めくくりでありますように。

自分を知る

2015-12-27 | 思い出

年末の慌しい真っ最中に、まったく急がない内容のブログ記事を書く。

gooには、自分の「ブログ人気記事ランキング」というのが、ご丁寧に設定されていて、
懐かしい記事が入っていたりすると、それを読むのが意外に楽しい。

中身は自分のことなので、自分の記憶とぴったり鮮明に一致している(あたりまえ)。
年々、記憶が衰えているし、はっきりちゃんと細かく描写する意欲が薄れてきているので、
過去の記事を読むと、今では忘れてしまっているような当時のことを思い出させてくれて、ありがたいような気さえする。
ありがとう、筆マメのわたし。
ついでに、提供者のgooさん。


わたしは、自己評価が低い。
真の自分の力を知らずに、自慢しているひとほどみっともないものはない、
謙虚は美徳だと、無意識のうちに思っているからかも知れなかった。
(本来は、適正な自己評価が望ましい)

ところが、それは謙遜ではなかったということに気づいた。
これは、ある人に指摘されて気づいたことであり、指摘されなかったら、一生、気づかなかっただろう。

努力するのが嫌だから、低めに自分を設定しているらしい。
なるほど、頑張らない自分の快適な特等席を、自分で作っているということだ。
実は頑張ればできるのだが、超サボりのため、頑張らない。努力嫌い。
じゃあ、目標設定を下げよう、ついでに自分の評価も下げとこう。
そうすると、楽々、心痛まなくサボれる。
という、カラクリであって、決して謙虚でも、謙遜でも、なんでもなく、サボりの裏工作のようだ。

サボりは、前々から自己認識していたが、無意識の美徳であろうはずがなく、
策略、ずる賢いと評価された。
人にどう思われてもよく、ただただサボりたいだけのこと・・・。
さほど努力しないで、最低限度の頑張りで、目標値に達するための、言い訳であると言える。

そこで、思う。
世の中の皆さんは、いったい、なにを基準に自己評価しているのだろう。
60歳ぐらいで初めて壁にぶち当たった人もいるとか。
まあなんと、幸せな・・・。

わたしは、なんの言い訳もできない状況で、いくら頑張っても自分の能力がはっきり見えた原体験がある。
それは、子供のとき。
社会のせいにしたり、家庭事情のせいにしたり、自分の身体のせいにしたり、
そういう外的要因を取り除かれた状態で、状態が整えられた滅菌、無菌室で、
よ~し、頑張るぞ~と、勉強に挑んだ。
なかなか、結果が出ない。
頑張りなさい、と、背中を押されて頑張らされた。
小学校の高学年の頃から、勉強に関しては雲行きが暗くなりそうな気配はあった。
苦しい脂汗をたらしながら、どうにか乗り越えたものの、中学で、またその波が襲ってきた。

別にプレッシャーでつぶされたのではなく、完全に能力の無さで、自分の敗北を知った。
それは、中学2年の時の理科。頑張るだけ頑張ったが、だめだった。
返されたテストを手に、涙が出た。悔し涙ではない。現実を受け止める涙。
そして、高校2年の時の数学。
これは、完璧にアウト。
わたしの芯、核は地中深く埋もれたまま残っていたとは思われるが、
外に見えるものは、そこで完全にゼロになった。
無からの出発である。
自分の能力を知った。

(小学校の社会科や、高校の時の日本史や地学などは、
どうしようもない、すごい悪い成績だったが、これがまた不思議に、けろっとしていた。
努力していなかったので。
一生懸命、苦手なことに挑戦して力の限りを振り絞ってやったことが、だめだった場合においてのみ、愕然となる。
努力して報われなかったことを受け入れることを知った。
だめなものは、どうしたってだめ、ってことだ)

精神的に、自己を形成する誇りは、無一文になったということだ。

幸い、一家離散したわけでも、不幸な事柄に見舞われたわけでもないので、
その後も、物質的にも、精神的にも、普通の人生を送っている。

というわけで、子供の頃に、一度、無になっているので、わりと打たれ強い。
自分のことを気づくのが早い年齢だと指摘する人もいる。

勘違いしている人を見ると、みっともなく我がことのように恥ずかしい思いに駆られる。
でも、勘違いしないと伸びない。
勘違いする時期は必要であるし、大事だ。
勘違いしたままの人生が、ほんとうのところは、幸せだ。
勘違いが妙に揺らぐと、ややこしい。
うっすら気づいても、気づかないふりをして、一生、突っ走ったほうが、楽だ。
残り時間のほうが短くなっている今の年齢で、自己・大改革を行っても、成し遂げる体力が無い。
だましだまし、ぼちぼち行くのが、よろしいかと。

と、またまた省エネ、サボりのススメとなってしまった。

追憶すると、
わたしの頑張りは、子供時代の後、あと3回あった。20代中半&後半、40代。
あとは、動物園のクマのごとく。
頑張る時には頑張らないと、たんなる、どうしようもない人である。

さらに、追加。
兄や姉のように、家庭教師をつけてもらっていたら、ちょっとは違っていたかも知れない。
(アウト!の最期が延びるだけだと推測できるが、いや、ひょっとして・・・? 進路が変わっていたかも?
甘いか)
が、親は見抜いていたと思われる。
わたしには、砂に水をやっても、溜まらず、漏れ抜け落ちるだけだということを。
実際のところは、もう、面倒になったのだろう。
あんまり一生懸命、わたしのことを考えていない可能性も大いにある。
早い話、手をかけてもらっていないことが、結果的には早く自分を知ることになった。

 

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すごい歳の差・事実婚。

2015-12-24 | 時事&世の中

昨日、テレビで流れているニュース。

内縁関係にある女性を殺した男性。
これだけ聞くと、よくある話だ。

殺害当時、内縁の妻、82歳。
男性は、自首した現在52歳ということだから、当時50歳。
32歳の歳の差。30年に及ぶお付き合い、同棲。

女性が認知症状が出てきて、それもあってか、寝ていた枕で口・鼻を押さえ窒息死させたようだ。
犯行当時は事件として扱われていなかったと見られる。
2年経った今、男性が、殺した女性が夜な夜な夢枕に立ち、仕事が手に付かない、と自首した。
自首した時の男性は、青ざめていた顔から、ほっと安堵の表情に変わったとか。

男女の年齢が逆のケースは、よく見られる。
女性20歳、男性52歳。
東南アジア外国人妻を持つ、日本人男性は、こういう年齢。
知人の知人(まったく知らないアカの他人)で、
フィリピンパブに通う男性が、二人目のフィリピーナと結婚するとかしないとか。
(ちなみに、わたしは、そういう傾向の男性を苦手とするし、わたしの人生において全く接点がない)

もっと男性のほうが年齢が上の場合もある。
経済的に貧困にあえぐ発展途上の国々で聞いた話では、赤ちゃんが生まれると女の子だと、とても喜ばれるそうだ。
これといった産業も無いので、女性がおカネ持ちと結婚して一家を繁栄させる。
ビジネスとしての結婚。
「本妻業」「後妻業」の、事件沙汰にならない、殺人が絡まないバージョンか。

が、今回の事件は、男女の年齢が逆。
若干20歳の若者が、52歳の熟々の熟女と出会い、ずっと一緒に住み、内縁関係を続ける。
母親より年上である。
よほどマザコンだったのか、特別な事情があったのか、捜査が進むにつれ、詳細は明らかになることだろう。

・・・

ここで、蝶ブログ記事を終えるという方法もある。
が、自分の感想を書きたくて、うずうず。

一般論として、年下の男性をゲットできるのは、「女の甲斐性」「女性が憧れる女性像」みたいに捉えられている面もあるが、
わたしなら、年下男性は、NG。(同世代程度の年下なら問題ないが)
50代で20歳の男性など、とんでもない。
お小遣いを渡して、サービスしまくって、気を使いまくって、
若い女性では得られないプラス面、優遇サポートを必死で与えようとするだろう。
人生で進みたい道を切り開くお手伝いをしたり、その道で活躍する方法をアドバイスしたり、なんらかの形で、
キャリアの無い若い年齢では体験できない、社会の先輩としての、特権みたいなものも、振りかざすかも知れない。

ある程度、育ってくれて、自立したその時には、男性の年齢に相応しい女性と結ばれるだろう。
それをにこやかに応援しながら、「わたしを卒業、おめでとう」と祝福するなんて、出来そうもない。
(自分の実の子供に対しては、すんなり「おめでとう!」で、やれやれ、肩の荷が下りたけれど。
責務を果たした安堵感はあるものの、それに対して見返りは期待していないから)

世の中には、こういう男女、けっこうあることかも知れない。
ドラマではこのネタ、嫌というほどお目にかかる。
ストーリー的には、おカネや愛憎が絡んで、ろくな展開になっていない。

社会バージョンを絡ませない、家の中だけに集約するとしても、
男性と女性、同じ年月を過ごすと、同じ年齢を重ねる。
当然、歳の差は縮まらない。
老いの実態、哀しみなんぞ、絶対にわかってもらえない。
仲の良い親子でも、親の老いの実態に、驚愕するのに。
くしゃみや咳ひとつするのでも、年寄りじみたその仕草が、カンに障るかも知れない。
食器の洗い方があまりキレイになっていなくても平気だったり、部屋の掃除やお風呂も、清潔ではなかったり、
若い頃とは違う、そういう自分の身の回り全部に、気を使ったり、理解できないだろうと思ったり、
そんなことを毎日感じながら、とてもいっしょに生活できない。

これは、「老い」バージョンであるが、
「男女の愛」熟女バージョンの時は、まあ、それなりに若い女性にはない良さもあることだろう。
が、若い女性には、女性としても、能力としても、絶対に負ける。
閉経後は、子供も生めない。
むしろ、そんな自分と別れない、うら若き男性がいるとすると、理解の範疇を超える。
だから、そもそも接点はないと思われる。
社会的なことを目当てに擦り寄ってきたとすると、こちらが警戒してシャットアウトする。

なので、自分にはありえない展開の事件、組み合わせとして、この事件は興味を引いた。

世の中の人も同じようなものだろうと思われる。
昨日は祝日であるにもかかわらず、家人がゴルフがなく在宅だったため、テレビ垂れ流し。
その中での、ある朝の民放・情報番組で、このニュースをわざわざクローズアップし、取り上げていた。

どんな新しい情報が加わるのかと一生懸命見ていたが、(わたしもヒマジン)
なんてことはない。
すでに報道された、ほんのわずかな情報を、ただただ大きな文字で、大きなボードに貼り付けているのみ。
表にするといっても、文字を、枠に入れたのみ。
わざわざ文字にする必要がどこにある?
別に複雑な内容を時系列に沿って説明するために、補足として必要とか、そんなことは、まったくない。
ボードを指差して、なにか詳しい説明があるかと思いきや、まったく、一切なかった。
しかも、コメンティター的な人が何を言うのかと思いきや、
考察も分析もない、こころにもアタマにも、まるで響かない、ただ、テレビの前の視聴者同様、したり顔で説明を聞くだけの、のぺっとした対応だった。
ほんの一言でもコメントを発して欲しかった。
(ホンネや好きなことを言うと、叩かれるから、言う前に口にチャックしているのだろうけれど。
あるいは、無関心、興味なしで、時間が過ぎればよし、とコメンティターとしての意識が低いか)

で、朝の情報番組をいつも見ている視聴者の平均像が予測できた。
そうとう、なにもすることがない、テレビしか見ない、かなり高齢の方々のようである。
番組制作者から、なめられている。
適当な生ぬるい、いいかげんな番組でも、テレビを見ることしかしない視聴者は、見る。
テレビからどんどん人は離れていき、どんな番組でもいいから、それでもテレビを見る人だけが残る。
質は低下するばかりだ。
(ううっと唸るほど、良い番組もあるが)

が、こういうことを長々、延々と書くわたしも、テレビを見るしかすることがない皆さんと、あまり変わりがないと思える。
めくそ、はなくそを笑ってはいけない。
そんな資格は決してない。

同じ穴のムジナ。

 

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好み

2015-12-16 | ブログ

人には好みがある。
千差万別。

わたしは、同性が語る下ネタが嫌いだ。
おんな同士、温度が気持ち悪い。
どんなに文章が上手く、理知的で素敵で、感動するようなブログでも、
下ネタが書かれているものは、さーっと引いてしまう。
その部分だけ、読まなければいいのだが。
わたしのブログも、他の人から見ると、別の、毛嫌いされるジャンルがたくさん含まれていることだろう。

そこまで書かなくてもいいのでは?と、目を背けたくなるようなこともあるだろう。
あえて、明るみに出さなくても、知った上でわざと、見て見ぬふりをすべき、オブラートに包み、やさしく覆うべき、デリケートな問題などもあると思う。
それに触れられると、とたんに理屈を超えて、不快になるような、嫌な、でも本質だったりする部分。

癒えていない生傷、一生癒えることがない、そういうものには、決して触れてはいけない。
しかし、不特定多数の各人の生傷がどこにあるのか、いちいち察知できない。
そして、自分と他人は同じ、と捉えてはいけない。

なので、読んだ人が思わず笑顔になるような、得をしたような気になるような、
良いことばかり書くか、当たりさわりないことを書くか、楽しいことのおすそ分けをするか、
はたまた、感情移入できることを選んで書くか、・・・
いろいろ方法はあるだろうけれど、
感覚人間で自己チューのわたしは、自分のことをか考えられない。

 

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きっちり決めなくてもいいんです

2015-12-15 | 老い

こころの病気は、こわい。
カラダの病気も、こわい。

病気のデパート、お悩みトラブル総合商社の人は、むしろ強い。
病気馴れしているから。

わたしは、心身ともに、どっちの病気も馴れていない。
人間は未知のものに多大なる恐怖心を抱く。
そのなかでも、「死」は、最たるもの。


昨夜、ふと、NHKで「にっぽん紀行」を観た。
うんと昔、子供の頃、親が「新日本紀行」を観ていたような気がするが、
「新」が取れたということは、どういうことだ?
「旧にっほん紀行」か?
はたまた「元祖にっぽん紀行」か?

まあ、なんでもいい。
それを観て、意味もなく涙が頬をつたった。
ああ、わたしも一人前の、いっちょまえの、日本の「お年寄り」の仲間入りをしたのだと感じた。

100歳で、過疎地で日用品の小売店を営んでいる、一人住まいのおばあさんのところに、
安い値段で、ちょっとしたお手伝いをする、地域のNPO「チョイてご」、40代の男性が出入りする。
地域では重宝され、高齢の人々に喜ばれている。
彼がある日、訪れたのは、頼まれたからではなく、自主的に足を運んだのだった。
桜の木を植えてくれるらしい。
近頃、足が痛くて、外に出歩けなくなった、100歳のおばあさんのために、
家から出なくても、自宅の台所の窓から見える、目の前の斜面を、植える場所に選んだ。

「来年も見えるよ」と男性が言う。
「来年、生きとるかなあ」と、おばあさん。
「生きてるよ」と、ぼそっと言う男性。

べつに、なにがしたい、とか、力みもしない、あたたかい、やり取りだった。

この男性、都会で、運送業を経営していたが、体を壊して、過疎地が募集していた、貸家付きの今の仕事に就いた。
若いのに、夢破れ、第二のスタート。
おそらく、離婚したか、妻が付いてこなかったかなにかで、一軒家に、単身住まいだった。
80歳以上のお年寄りばかりが住む地域では、
弾力のある筋肉が付き、しなやかに足腰の伸びた、すらっとした体格の彼は、場違いなぐらい若い。
てきぱきと、力仕事や、お年寄りにできないことを次々こなしてくれる姿は、頼もしい。
(わたしが、仮にこの人に惚れて、一緒に暮らして、彼を身近にサポートしてあげたくても、
おそらく、あの限界集落での暮らしはできないと思われる。厳しい現実)

都会での働き方と、この集落での働き方では、まったく時計の針の回り方が違うだろう。

1分1秒、時間の切り売り、使い捨ての都会に対して、
野山、田畑の広がる、自然に恵まれた地域で暮らすお年寄りたちの、一日一日の丁寧な暮らし。
子供世帯は、都会へ出たまま、帰ってこないので、残るのは高齢者ばかり。
これは、どこの農村部、限界集落でも同じ光景だろう。

子供が心配して、子世帯に引き取りたいと申し出ても、都会での同居を断るお年寄りたち。
自立できる生活のぎりぎりまで、最後の一日まで、この集落で住み続けたいと望む。


これが、過疎地でなくても都会でも、高齢者がどこまで自立した生活を送れるか、共通のテーマでもある。
最期は在宅(老人ホームを含む)か、病院か。
(現在、8割が病院で最期を迎えるらしいが、
政府は、病院から在宅へ、医療費削減のため、今後、在宅看取りを積極的に推し進めるとか)

多くの家族に囲まれ看取られるのが幸せとされているが、ほんとうにそうなのか。
どんなに回りに家族が大勢いても、死ぬ時は、一人だ。
福祉の隙間から零れ落ちた、凄惨な孤独死とは、また少し意味合いが違うが。


上野千鶴子氏は、著書で述べている。
死ぬ時が、どんな死に方なのかが、問題なのではなく、どのように生きていたか、だと。
生きている間に、どのように、周りと接していたか。

ふ~む・・・つまり・・・
おひとりさま(高齢死別、含む)であろうが、家族が大勢いようが、
生きざま、暮らしぶりが、死にざまを左右するということなのか。
生きている内容が問題であって、死そのものは、単なる点、エンドに過ぎない。

・・・

しかしながら、突然、エンドが来るのなら、よいが、そうはいかない。
自宅で生活するには、
自立しているか、あるいは、同居の家族やヘルパーさんに、介護してもらって生活できるか、である。
自立していなければ、一人では生活できない。
誰かの手を必要とする。
人の手が足りない場合は、人の手をおカネで買うこともある。
経済的にも人間関係的にも厳しい状況の場合は、家族が呑み込まれる、悲惨な事件になっていることもある。
政府は、いくら税金を投入して施設をたくさん作っても、働く人が充実していなければ、中身はスカスカだ。

核家族の終焉は、おひとりさま死。
核家族なのに、家族に囲まれて最期を迎えるなんて、虫が良い。
自分が高齢になった頃は、子供や孫は、とっくに独立して、別居している。

三世代同居住宅とか、ハウスメーカーは、いろいろ提案しているし、実際、住んでおられる方もたくさん知っている。
多世代同居住宅は、ぎりぎり自立できなくなる、その日まで、至近距離でスタンバイし、
べったり同居する期日を最大限、延ばしている効力がある。
しかし、自立できなくなると、家族が、福祉サービスを利用しながら世話をすることになる。
亡くなるまでの長い間の年月、あるいは、老人施設、または病院に入るまでの長い日々を、在宅介護に費やした人々もたくさんいる。
介護保険が機能し普及する、ほんの少し前までは、家族だけでの在宅介護が当たり前だった。
老人施設に親を入れようものなら、親を捨てる気か、と非難ごうごうだった。

おひとりさま、ということは、自分で自分を介護しなければいけない。
自立できなくなると、老人施設に入るという選択しかないのか。
もともとおひとりさまなんだから、家族がいないのに、家族に見守られながら・・・という最期は条件外、想定外。
先にも述べたが、人と、どういう関わり合いをしていたか、だ。

その寂しい末路が嫌で、非社交家で内向的な人が、無理やり、いろんな人と接するというのは、本末転倒かも知れない。
葬式を盛大にしたいために、多くの人と派手に付き合う、みたいなかんじか。
原因、プロセスがあって、結果がある。
逆に、達成目標を先に掲げ、それに向って、プロセスを組み立てるという方法もあるが。

苦手なこと(社交)を克服する努力よりも、自然体で行って、自然に侘しく淋しく消滅しすればそれでいい、と、わたし自身のことに関しては、自分では思う。

ある程度の年齢になれば、引きこもり生活を送ろうと、わたしは考えている。
社交は、ほとんどゼロ。
ご隠居さんなのに、人を寄せ付けず、縁側でお茶をすする相手がいない。
なので、死ぬ時は、きっと生きている時の延長のようなかんじだろう。
ある意味、それは理想かも。
ただ、ある程度の年齢、時期というものが、見えない。
近づいてきたら、徐々に見えてくることだろう。(と、いたって、楽観的)

いつまでも、引っ込まないので、家族に無理やり閉じ込められるかも知れない。
それはそれで、元気が有り余っていて良いかも。
要は、なんでもいいのだ。
なるように、なるってこと。なるようにしか、ならない、ってことだ。

 

あああ、おそろしく長々しい、本日のブログ。
なんで、こんなに長いのか。
これっぽっちも、読む人の身になって書いていないのが、アリアリ。
にっほん紀行のところで終わっていれば、有終の美だったかも知れないのに。

That is why I am.

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超絶人気ブログを読んだ感想。「暮らし」について考えた。

2015-12-12 | 暮らし

ブログ「○の芝生」は、すごい人気だ。

彼女は文才がある。
わたしのブログへのアクセス経路に、「○の芝生 作り話」という検索から飛んできたものがあった。

なんで、そこから飛んでくるのかよくわからないが、
おそらく、わたしのこれまでの記事内のどこかに、「○の芝生」という文字が入っていたのだろう。
そういう記事を書いたのかどうか、などと、本人は覚えていないところが、じつに、いい加減であるが。

内向きの繊細な性格の、「○の芝生」のブロガーさん。
内向的なところは、わたしと同じだが、
わたしは、繊細ではなく、どちらかというと、ガラスのハートというよりは、銅の鈍い重いハート。
シャキーンと切り込むこともあるが、無神経なほうだろう。
マイコン制御で、精緻な作業ができるものではなく、直進しか機能がない工業用ミシンのようなものだろうか。
応用が利きにくいが、壊れにくい。


彼女のブログの圧倒的アクセス数には驚かされる。
確かに、素人のなかでは、読み物として、読み応えがある。
細やかな心理描写が、巧み。

と同時に、テーマに感情移入させられる読者が多いのではないだろうか。
わたしは、現役子育て世代ではないので、昔を思い出すしかないのだが、
「働く母親と、子育て」が、彼女のリアルタイム日常として、書かれている。

ガラスのハートでは、仕事をするには向いていないと感じる。
ガラスもだんだん、強化ガラスになるか、性能の良いプラスチック製になるか、
なんらかの変化がないと、ガラスのままでは行き詰まってくるだろう。

長女が貸してくれたコミックにも、「子育てしながら働く母親」が描かれているものがあった。
子供がまだ乳幼児で、病気になった時、保育所が預かってくれない事態が、じつに困る。
対策を講じなければ仕事ができない。
皆さん、どうしているのだろう?
長女の場合は、実家の母(=わたし)が、命綱となっている。
姪の場合は、旦那さんのご両親(リタイア)が、命綱。
長女の友人達は、やはり実家のご両親。
では、実家が遠い人や、実家が面倒を見てくれない人はどうしているのだろう。

わたしは、子供が乳幼児の頃、自分自身が病気になってしまい、夫の実家に子供ともに転がり込んだ。
その後は、わたしも病院通いから遠のき、子供も成長し、病気もほとんどしなかったので、両親の出番はなくなった。

○の芝生さんは、娘さんが小学生低学年なので、そうそうべったり、横に着いていなくいてもいいように思う。

子供が、「ママ、そばにいて。家にいて」と言うのを、
あらま、かわいそう、と思っていては、仕事ができない。
ネグレクトや虐待は赦されないが、そこそこの対策を練り、整えていれば、100点満点でなくても、見切り発車。
子供と一緒に、流されてしまうと、あとは、どうなるのか。
(よほどの重病で、かかりっきりにならなけれなならない場合は、別として)

子供が学校から帰って来るときに、家に居て「お帰り」と迎えてあげたいから、と、
専業主婦をいている元ママ友がいた。
彼女の場合、子供がいなくても、仕事はしないだろうと思われるが。
彼女に関してのみ言えば、子供はある意味、ダシに使われていると考えられなくもない。
あくまでも結果論であるが、子供にべったり手厚く過保護にしていると、子供は自立しにくくなる。
子供の要望をまるまる聞いてあげていると、際限ない。
親の方針があって、子供。
どの家庭にも、教育方針というものがあるはず。
ある程度、その時その時に細かいところは調整すればいい。


昨今は、専業主婦を養っていける大黒柱は、そう多くないらしい。
専業主婦はおカネを稼ぐ仕事をしなくていい、という、素晴らしい、黄金のカテゴリーに属している。
(外でおカネは稼がなくてもよいが、家事や家庭見守りを業者に代行してもらうと、かなりの費用になる)
国が面倒を見なくてもよいように、家庭内で主婦を養ってもらおう、などと、その時代、時代の国の政策に利用されている。
専業主婦であろうが、なかろうが、そんなことよりも、生活の質が問題である。
質を整え向上させるためには、ある程度、おカネが必要である。

健康、おカネ、時間。

週休3日を唱えるお偉いさんがいるが、「わあ、休みが増える!バンザイ!!」と喜んでばかりはいられない。
休みが増えるということは、労働時間が短縮されるわけで、給料もその分、減るのだろう。
おカネはあげられないけれど、時間をあげるからね。
そう提案されて、喜ぶかどうか。
一瞬、複雑な心境になるものの・・・
「おカネのあまりかからない、省エネ生活を満喫する術」を身につければよい。


大型商業施設のベンチや椅子が置かれている無料スペースで、ひとりで、じっと座っている70歳ぐらいの男性を見かける。
彼らを見ると、ひょっとして、家にいる奥さんに、「夕方まで外に居てちょうだい」と、家を追い出されたのではないかと想像する。
商業施設でなくても、公園や図書館なら、じっと座っているだけではないと思うが。
なにもしていないようでも、体や目、アタマを動かす。
しかし、体力や気力があまりなく、意欲もない場合、じっと座っていることになる。
それはそれで、その人の人生だ。

話は、どんどん、逸れていく。
子育てから、老後の暮らし方まで。
とりとめないから、今日は、これで終わりです。

 

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趣味限定のことを書きました。(スルー推薦版)

2015-12-11 | 趣味


最近、趣味snsの日記や、書き込みコメントは、面白くなく、興味が失せてきました。
まったく、つまらないです。
人の意見や、人の行動に興味がなくなってきたら、一瞬の認知症信号かも知れません。
たんに、飽きただけでしょうけれど。

自分がホットになれない、盛り下がるモノ、コト、ヒトには、近寄らないほうが、楽しく過ごせます。
なぜか、その趣味snsの人々は、私を不愉快にさせます。
実際に知っている人々も少なくありませんが、どうでもいいと感じるようになりました。

日記など、皆さん、自慢か、愚痴。
(蝶ブログも最たるものですが)
自分の意見の押し付け、認めてほしい人々の集まりです。
よく、あれで、皆さん、不快にもならず、なぜ、人の愚痴や不満や、自慢に耳を傾けて、しかも親身で親切なコメントを残すのか、まるで、わかりません。
これも、私の理解力ダウン、コミュニケーション能力の低下に他ならないのではないかと危惧しています。

自分を分析すると、不快の答えは明白に出ています。
妬みです。

その、自分に打ち勝つのも自分。
おそらく、趣味のダンスにのめり込み、欲が増し、自分より優位な人に対して、許せない、そういう、なにか勘違いしている変な自分がいます。
そんな自分をもっとしっかりコントロールして、独自の道を築きたいです。

これは、ダンスに対する精神面です。
私はダンスに関してはメンタル的には自信がありません。
自信家ではありません。
開き直りの境地には至っていません。
かといって、神経質で、か細い訳でもありません。
鬱になりにくい楽天家です。

技量面は、先生の教えを守り、練習し、少しずつ、一歩ずつ、(亀か蟻のごとく)前進していることでしょう。

ちなみに、
性格がよく、前向きで頑張る人でも、ダンスには技量や力量として現れない人もいます。
その場合は、ダンスに現れなくても、いいと思います。
体現できなくても、低いレベルでも、諦めない持続の気持ちが大切かと感じます。
年齢の壁は大きいです。
不可抗力には逆らっても空回りするだけです。

良いダンスとは、・・・客観的に優れていなくても、自分が心底、楽しめたらいいと思います。
主観の美と、客観の美が一致しなくなっても、運動や社交のためにダンスを続ける、芸術路線ではない、そういう老後ダンスも存在します。
美学を貫くか否か、人それぞれの価値観でしょう。

私は近未来は、見えても、その先にある(かも知れない)老後ダンスは、まだ見えません。
あるのか、ないのか、近未来を経過しないと、わかりません。
(仮に、何事も外的要因がなく順調にダンスが続けられたら、年齢の壁があるに決まっているにしても)

なにはともあれ、
楽しく、素敵なダンスライフを送りたいです。

以上、
同じ趣味以外の人が読んでも、全く感情移入できない内容になりました。
こういうのは、スルーするのが正解中の正解です。

大きな流れには逆らわない

2015-12-10 | 老い

まだら認知の母と接するのは、最大限2時間。
それ以上は、すごくストレスとなります。

丁寧に一生懸命、誠意を込めて積み重ねた時間が、彼女の記憶には残らず、一瞬のうちにリセットされます。
虚しいものです。
頑張った、私の労力、時間はどこへ?
(といっても、わたしの場合、たいして役にも立ってないし、客観的には、さほど頑張ってませんが)


自分がしたいからするのであって、感謝や評価を求めるものではありません。
見返りを求めない純粋な愛情、ボランティア精神。
自分が納得するしかないですね。
わたしは、そんな崇高な人格とは程遠い俗人なので、2時間で時限装置タイムアップ、嫌になります。
高く美しい目標を掲げていると、続きません。

壊れてしまった人と、まともに向き合おうとすると、自分が壊れます。
自分ができる範囲で、自己満足のために接するのが良いかと思いました。

壊れてしまったものは、どうしようもありません。
元には戻りません。
いくら壊れても、親子の絆は切れませんが、自分も大切にしないといけないと、つくづく感じます。
いずれは自分もそうなります。
行く道です。

だんだん自然消滅に向かうものを逆の力で引っ張り戻すことは、意味がないことです。
機能が残っている部分とだけ、そっと接して、無理にリカバー、復活、回復に圧力をかけないで、
自然界の生物の、あるがままの方向に従うのが良さそうです。

大きな自然の流れには、逆らっても得るものはないと思っています。

 

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一方通行の、恐ろしさ

2015-12-09 | 無題
電車の中。往復4時間。
文庫本でも持って来ればよかった。
が、本を買うのは2年に1回、あるかないか。
(立ち読みは、常習犯。
ただし小さな小さな胸が痛むので、買うときは、立ち読みしている書店で買う。
免罪符のつもりか?)

わたしは本を読まない人、と見なされている。
はい、活字と脳の互換性は、一方通行。
発するのみ。
受け入れる側の流れが、脳の管内に脂肪でもへばりついているのか、すんなり行かない。

これは、最近の実母と同じ。
必死で書いている。
そして、読んでくれと言う。

実際のところ、読みたくない。
地雷が埋まっているからだ。
突然、触れたくない感情にダイレクトに、何の前触れもなく接触し、不意に打撃を受ける。

なので、「きれいに書けてるね」と、ざっと文字の形や、筆圧をチェックするのみ。

読む相手を想定せずに書いたものは、恐ろしい。
時折、蝶ブログも、アタマが現実を離れ、そういう世界に迷い込んでしまうことがある。

くわばら、くわばら。


さて、
地下鉄、そろそろ、居眠りタイムに、移行します。

不愉快うんざり人物

2015-12-04 | ご近所さん

義母の40年前からの知人。
何度もバス停で顔を合わせる。
最近は、かなりの確率で遭遇する。

わたしは、この女性が苦手中の苦手。
遠くからでも、その人を見つけると、うっ、、、、となって、がくっとなる。
ああ・・・。

先方は、必ず、わたしに近寄ってきて、蔓延の笑みで、なんやらかんやら話しかける。
話の内容が、不快である。
直近では、娘婿の出身大学を聞いてきた。
じつに鬱陶しい。
どこ出身でもいいではないか。
学部まで気になるらしい。


ホメ殺しというものは、人を不快にさせる、ということを彼女はわかっていないのだろう。

なんでもかんでも、わたしに関連する人物を褒めるのであるが、わたし自身のことは、これっぽっちも褒めたことがない。
すべて、わたしではなく、わたしの関係者のことを褒めちぎる。
それはそれで、彼女にしてみれば、おべんちゃら、営業トークのつもりなのだろうけれど。
わたしは、聞けば聞くほど、不快この上ない。

学歴、肩書き、オンパレ品評会。

先日、ついに、バスの中で、うんざりの沸点に達した。

「最近では、そういうことにこだわっていては、だめですよ」と。

ちなみに、わたしは、彼女自身についても、彼女の家族についても、顔しか知らない。
学歴だの、職歴だの、まったく知らない。
強いて言えば、わたしと同世代の息子さんが未婚であるということぐらいか。
そのほかは、ご主人や、近くに住むお姉さんが亡くなった時もリアルタイムで知っている。
40年もあれば、ご近所でもあるし、そこそこ、情報は伝わる人には伝わってくる。
真隣に住んでいても、個人情報について、知らない人は知らない。

人の出入り、流れのない、閉塞感のある田舎とは違う、
そこそこ流れがあって風通しの良い、今、住んでいる地域が、住み心地がよくて気に入っている。
しかしながら、個人情報を保護したいわたしは、彼女のような人は、ほんとうに迷惑な存在である。

ご近所に、情報通の人(ぬし)がいて、その人のところには、かなり細かい正確な情報が集まっている。
その人物を通して、他の人の情報を聞く分には、わりと嫌ではないのだが、
自分のことを言われるのは、嫌。
自分の知らないところで話題に上がるとすると、それは止めようがないが、
面と向ってあれこれ言われるのは、不愉快である。
これは、究極の自己チューか。

 

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わたしは、言われるのも嫌だから、人にも、他人の情報を流さない。

最近、娘が、孫を散歩させていて、あちこちから情報を拾ってくる。
情報の出口は、おしゃべりができるようになった、小さなこども。
幼稚園~小学校1年生ぐらいの女の子は、家庭事情をぺらぺらと、よくしゃべるようだ。
こどもの口にも、戸は立てられない。

しゃべられてもいいような、立派な家庭であれば問題ないが、
なんだか、そのために、頑張って襟を正すというのも、順序が逆のように感じる。