蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

落ち込み

2024-04-30 | わたし
脱力感というとまだいいが、虚無感、無力感に見舞われている。
ぽかっと空洞が出来たようなかんじ。
何もする気にならない。
時間を持て余す。

キッカケは、ある。
だが、それは本当のキッカケではなく、たまたま、表面的な糸口だったように思う。
自分が追い求めているものは、自分が未熟なせいで絶対に手に入らないものだと実感した。
原因は自分にある。

自分の性格を大改造しない限り、自分以外に解決を求めてもダメ。
では自分が変わればいいではないか。
自分は変わらない。変わりたくない、変われない。
仮に変わろうと努力すると、土台から潰れてしまう。
今まで積み重ねてきたものをリセットすると、土台ごとなくなり、わたし自身が壊れる。
そぉっと、上のほうだけ変えたらいいではないか。
あるいは、最小限の芯だけ残して、大改造。
または、大々的な改造でなくても、ミニミニマイナーチェンジするか。
だが、自分が足を引っ張っている。
どうにもこうにもならない。

さらに考えられるのは、努力したからといって変われるわけではない。
期待する結果が得られるわけではない。
努力もせずに、架空で言っているわけではない。
努力はした。
よく言われる日本人的特徴としては、プロセス重視で、結果より、到達するまでの努力を評価するらしい。
が、、、諦めるという結果もある。
目標から手を離す。
諦観、解脱の心境。あと一歩。

そこで、般若心経読本。
あまり役には立たなかった。
気を鎮めたり自分を立ち直させたり、全然しない。
よけいに落ち込んだ。
何をしてもダメなようだ。
こういう場合は、何もせずに時を待つ。
が、待っている間は結構、苦しい。
こんなことは、今まで初めてだ。

とは言え、思い起こせば、かつても経験したように記憶する。
1回目の無気力は18歳、2回目は40歳代だったが、特に40歳代の無気力はただ「楽しいことをしたい、という、自発的&活発な意欲がない」と自覚するだけのもので、さほど気になるほどでもない、うんと軽い症状だった。


FMラジオではDJの元気な声。
わたしはほとんど内容は聴いていない、まさに、イージー・リスニング。
こうやって、意味を見出さない時間は、意味を求めないことが意外に癒やしになっていくのかも知れない。


※写真は、さきほど、今朝の、たくさん落ちたハナミズキの花びら。
家の前の道路に広がる花びらも、せっせせっせと拾って掃除した。

憂さ晴らし

2024-04-24 | わたし
「姉さん」に対応する言葉は「弟」になる。
弟って??想像もつかない。

わたしは、末っ子なので、だからといって「下に弟か妹を産んでほしい」と母に直訴しなかった。
自分が1番下なので、年下の人に対して、ニュアンスがよくわからない。
接点がある知人たちは、99%年上。
(娘婿たち世代は除く)

一人だけ、少し年下の頑張り屋女性が知人にいる。
もう30年近い、長いお付き合いなので、知人以上、友人未満か。いや、友人に昇格か。
彼女とは1年に1回、紙の年賀状のやり取りと、クリスマスなど歳時に、誰かが作った音楽付き動画をLINEで送ってきてくれるぐらい。
お互い、自宅には行き来している。(しかし、30年の間に双方2回ぐらい)
コンサートや行きたいお店などにも、ほんの数回行ったことがある。(これまた30年に2〜3回)
もはやこれは、エピソードである。
わたしは、このパターンが少なくない。
長い時間を経ているのに、実際に行動を共にするのはほんの少し。
だが、点と点はつながっていて、あの時、彼女のお腹にいた子が、次は2歳になっていて、さらに中学生になっていて、さらにもう社会人になっている。
わたしは、そんな様に長年ほとんど会わない彼女ではあるが、友人だと思っている。
わたしは変人なのだろうか。

どこに住んでいて、どんな家族で、どんな風に暮らしていて、、、それだけ(起点)がわかれば、あとは長い時間を乗せていく。
だから、ほんの、点と点の接点になっても、点と点は長い線になって繋がっていく。

普段は、わたしはいつも一人行動かというと、そうでもないのだが。
だが、スタンスははっきりしている。
女同士のどうでもいい話はしない。聞くだけ。
世間話は、世の中の、たまたま、わたしの近くにいた人々から聞く。
盗み聞きというと悪い言い方になるが、あっち(話す人)が、こっち(近くにいるみんな)に聞こえるような声で言っているからそうなる。
最近も、めちゃくちゃ興味深い話を、映画館の劇場内のわたしの隣の席で聞いた。
高齢二人連れの友人同士。
彼女の妹さんは、世間を全く気にしない人らしく、誰に何をどう思われても構わないとか。
人付き合いもしないから、誘ってあげないとのこと。
あらま、わたしみたいな妹さん。
そんな、世間体ばかり気になる姉さんに声をかけてもらわなくても結構、と、妹さんの心情になって、こころの中でわたしは呟いた。
映画なんか、誘ってもらわなくても観たければ一人で観る。
帰りにおしゃべりに花が咲くのだろうけれど。

わたしも、姉と用事で行動を共にした後は、ベラベラベラベラ長話をする。
喫茶店に入ろうとしても、混んでいて席が近い場所しか空いてないと(両隣は、一人で読書やノートパソコン作業していたりすると)、おばちゃんのペチャクチャは、絶対にうるさがられる、疎まれる、ウザがられること間違いなし。
なので、もっと余裕空間のある、空いたカフェを探す。
が、なかなか見つからないと、カフェ難民になる。
実家で喋るのが1番良い。
誰の耳もない。
コーヒー、お菓子付きだし。
ではあるが、そんな機会は滅多にない。
女性のおしゃべりは、じつに、はた迷惑。
よくよくわかっている。
実際に直接、車内に居合わせた高齢のご婦人に注意されたこともある。

と、おしゃべりする相手は、姉とだけ。
他人さんには、姉もわたしも話せないような実家事情がたくさんあるから、他人さんには知られたくないし、自己防御策である。

お喋りしなくても、わたしはブログで発散する。
ブログにしか書けないようなことを書いて鬱憤を晴らす。
そんな鬱陶しい話など、人に聞いてもらったら、それこそ気の毒だ。
読んでいただいている方々に対して、わたしはいったい何を思っているのだろう。

蝶ブログ、スルーか、あるいは興味あるワードだけ拾って、あとはザザザーっとスクロールしてください。






一生、癒えない傷

2024-04-13 | わたし
「フラッシュバック」というタイトルの蝶ブログ過去記事。
どなたかが引っ張り出して読まれたようだが、その記事を読んだ。
またまた、フラッシュバックした。

一度や二度ではない、フラッシュバックの引き金は、、、
突然、やってくる。

夫は、高校卒業後、親元を離れ賃貸住宅に単身で住んでいた。
そう書くと、自立した人のように聞こえるが、とんでもない。
大学の学費、住居、生活費、全て親持ち。
さらに近隣の市に住む叔母の家に、(自宅に家電一式、洗濯機も親に買い揃えてもらっているのに)洗濯物を持っていき、そして食卓を囲んでご馳走になっていた。
実家からは下着だの衣類やその他が、どんどん送られていた。
夫は、叔母家での大好きなメニューがある。
それを普段の今の生活で、キッカケがあると嬉々として夫は話す。
その瞬間に、わたしの脳内は瞬間的に爆発する。血管がブチギレる。
洗濯をしてもらい、ごはんをご馳走になり、生まれた時から知っている叔母一家、楽しい明るい暖かい家庭で好意と愛情に包まれ過ごす。
無邪気に素直に、何の憂もなく明るく育つ。
美しい光景。
(わたし以外は)全員が良い人々で幸せな時間。

親(姑)は子(息子)に、過保護、過保護、過保護、過保護、過保護。
食事が出来たら右手にお箸だけ持たせ、食事が終わったら箸を鉛筆に持ち替えさせる。
教育ママ。
ボクちゃんはお勉強だけしていたらイイのよ。
(社会人になってからは、
アナタはお仕事だけしてたらイイのよ。
→家庭は妻の尽力による癒しの場の提供)

その幸せ溢れるシーンで、なぜ、わたしの血管がキレる?
一種の条件反射。癒えることがない病気。こころの傷。
おそらく、目が開いたのだろう。
自我の目。
目覚めても、どうすることもできない不幸が待っているだけなら、目覚めないほうがいい。
目覚める時期、タイミングにもよるが。

世の中には、不条理なことや矛盾がいっぱいごろごろある。
時代が違うと価値観も違う。
今頃なんだかんだ言っても始まらない。
なぜかいつも不機嫌な妻たちを見て、理由はわからないものの、触らぬ神に祟りなし、と、腫れ物、危険物注意の精神で夫たちは接する。
不機嫌、突然の激怒は、積もりに積もった鬱憤なので、どうすることもできない。
長い年月の間に、形や大きさ、形状が変化している。巨大な妖怪になっている。
今更、解けない、溶けない。
出口を失い抱え続けた弱者の怨み。
原発の汚染物質のようなもの。
地中、深く、埋めるしかない。

その一方で、、、自分だってそうだ。
同類。
人のことは言えない。
見方を変えると弱者ではない。
なのに、わたしは消えることのない不満を抱え続けているのに、なぜ相手は何も感じていないのか。
原因を解明できないが、妻が不機嫌な理由は自分(夫)にあるような気がするため、出来るだけ神経に触らないようにしているかも知れない。

2050年には独居老人が激増するらしい。
結婚しない、子供がいない。
人生ライフスタイルは個人の自由。
(老夫婦で死別もあるが)
結婚に求めるものが、複雑になっている。
結婚しないのも、よくわかる。
折れ合うことをしないと無理だ。
理解できない、納得できないものをそのまま抱えて進めない。
ではあるものの、生活は妥協なしには成り立たない。
自分を押し殺してまで結婚したくないのは一理ある、、、が。

身体に何も大きなトラブルが発生しなければ、2050年に、わたしはまだ生きているかも知れない。
たぶん、独居。
いや、ひょっとして、、、老人ホームの別階で別居?
あるいは、同じ墓の中で眠っている。


次に向かう兆し

2024-03-18 | わたし
先ほど、蝶ブログ記事を途中まで書いたが、途中でやめた。
公開したくなくなっている。
他人様に取っては、実につまらないプライベートな出来事。

と言っても、今まで書いて来たのは、どれもこれもプライベートなつまらないことばかり。
書きたいか、書きたくないかは、自分が書いて楽しいかどうか。
この土日、別の場所でイレギュラーな過ごし方をしていて、ブログ時間が取れなかった。

今、わたしは変わり時。
人生のステージを一歩、進もうとしている。
新しい局面を迎えようとしている。
歳は行っても、生きている限り経験は積まれ、常に新しい展開になる。
時は進み、次のステップへ移行する。
が、まだ揺らぎ中。
行ったり来たり。揺り戻しがある。
が、前に進んでいるような気がする。
あたかも電車に乗って移動していて、途中、長い停車時間の後、次第に再出発の時間が近づいているような感じ。
ではあるものの、うっすらとしか、まだわからないのだ。
次のわたしが、どうなっているのか。
変化の兆し、前夜。
ただ、変化は良い変化なのか、悪い変化なのかわからない。
だが、変化であることには変わりない。
不安はないのだが、かたちが見えるまで、なんとなく落ち着かない。


寒く暗い雨の朝

2024-03-12 | わたし
ある人と話していた。
30年来の知り合い。
「今はもう別に何がしたいというものはない」と、わたしが言った。
すると、その人は言った。
「もう、やりたいことはやったからでしょう?」
なるほど。
その通り。
かと言って、今はやる気がなく生きた屍というわけではなく、十分満足しているのだ。
あとはそのまま、すーーっとニコニコして生きていけたらいい。
わたしはまだまだ平均寿命より20歳も若いのに、皆さんには活力がないと思われることだろう。
だが、満足していたら、別に活力がなくてもいいと思う。
イキイキ、やたら元気に張り切って頑張らないといなければならないのか?
誰のために?
愛する家族たちはいて、こころの拠り所にしているが、今は見守るスタンスで関わっている。
いずれ、見守られる時期が来る。

頑張らない、頑張れない自分がそれで良ければ良いのでは?
活発な毎日を期待されるとすると、誰に期待されるのだろう?
静かに安らいで生活しているのは、わたしの年齢では理想的模範的ではないのかも知れない。
模範って、誰のために?
自分で勝手に理想像を作り上げて、へんに抵抗している。
迷惑をかけなければ、自分の満足いくようなスタンスで生きたい。
自分の理想像そのものが変化しているのだろう。
出力を減少、下げて行きたい。
世間(メディア)では、下げるな下げるなと圧をかけてくる(ように感じる)。

暗いニュースや災害特集が続く。
一瞬で積み上げてきたものが失われた絶望感、喪失感、虚無感は想像を絶する。

今日は朝から寒い雨。
食欲がないのと同様に、書きたくなる気力というものも、わたしの心身健康のバロメーターのようだ。
どんな状況であれ、生きていかなければならない。
また時間が変われば気も晴れる。気が変わる。

暗いブログ記事はアップしない方針の人もいる。
元気な時の自分しか表に出さないようだ。
読む人に与えるものを想像する、忖度。
マイナスの自分は出さない。
ゴミを散らかしては迷惑。
それもまたその人のスタンス。
人の数だけ考え方、感じ方がある。

ある人に「ズルい(逃げている)」と言われた。
わたしが結論を出さずに、のらりくらりしているからだ。
努力から逃げる。
やりたくないこと、向かい合わなければならないこと、対峙から逃げる。
暖簾に腕押し、2階から目薬、糠に釘。
一向に成果が上がらない。積み重ねようにもザルから溢れ落ちる。
確かにその通り。
わたしは、優柔不断そのもの。
何も好きでそうしているわけではない。
このわたしの性格、短所は大きな悩みの一つ。
潰れず持ち堪えられるか。
寒い雨の日は、古傷が痛むかのように、どんよりこころが沈んでいる。

自分だけの世界

2024-02-21 | わたし
19世紀のヨーロッパ。
社交界、サロン文化華やかし頃。
美しい名門貴族の婦人や、煌びやかなブルジョワたち。
毎日、ブログ村エッセイのブロガーさんが、絵画と共に紹介されている。

うっとりするような優美な世界、芸術、、、。
なんだけど、、、貴族は職業は貴族、収入は貴族階級ならではの不労所得。
では、ブルジョワは?
似たようなもの。
では、中産階級は?労働者は?奴隷は?

実は今、読んでいるのが19世紀に奴隷だった少女のお話。
単行本で大手書店の目立つ場所で売られていた。
その本は「買って買って!」と言わんばかりにわたしの目を引き、買った。

生まれながらに貴族の女性と、生まれながらに奴隷の女性。
同じような時代。
この、奴隷の少女の本はまだ10分の1ぐらいしか読んでいない。
19世紀、自らの体験を綴った自伝、半生。
150年近く前に書かれたということと、著者は作家ではないこと、翻訳されていることで、読みにくい文章ではある。
それは致し方ない。
が、明治時代後半の日本を舞台にした小説「橋のない川」に共通するものがある。
不条理な差別と、自由のなさ。
平等と尊厳。

しかしまあ、かたやその一方で貴族文化や芸術をもてはやす。
芸術はパトロンがいないと成り立たないこともある。
ブルジョワがパトロンになるわけで、芸術を支える。
プロレタリア文学とかもあるが。

所詮、庶民、一般人であるわたしは、訳もわからず上っ面だけを見てキョロキョロするのみ。
深くは、わからない。
自分の感性に響くものだけに対して、きゃあきゃあいっているミーハー。
時折、頑張ってお勉強として知識を得ようとするが、感性はついていっていない。知識も根付かない。
(これは、あくまでわたし個人のことであり、皆さんのことではありません。と、変に先回り)

自分が好きなもの、良いと思うものに触れたらよいのでは。
例え理解なんかしなくても。
東洋趣味を、時代や国をごちゃごちゃにしている西洋人のように、西洋趣味をごちゃごちゃにしている日本人のようであっても、自分フィルターで寄せ集める分には良いのでは。
学会で発表したり、人に教えたりするわけではない、自分だけの世界に浸るには、何でもよい。
ただ、少し深く知ると、味わいも増す。
自分の熱意が、自分に返ってくる。
自分に対するご褒美。

断言するが、、、こういう中途半端な感覚は、絶対に、頷いたり賛同したり共鳴したりする人はいないだろう。
ほんとうに、自分だけの世界を愉しんでいる。

悩みは優柔不断であること

2024-02-17 | わたし
自分の行動を選ぶ時、目的と難易度と適性を考える。
自分とはまるで関係ない雲の上のようなことでも、憧れ眺めるだけなら、自分の適性(能力)は関係ない。
自分もやってみる場合は、ある程度、適性(能力)が関係する。
その間に横たわるのが、難易度。
それを柔軟に跳ね退けるのは、熱意、どれぐらい好きか。

あまりにも適性がない場合、いくら好きでも、費用対効果や、能率、効率を考えてみる。
見通しなど、まるで無視、でも良い。
人それぞれの時間の使い方、労力の使い方、お金の使い方、エネルギーの使い方。

そう考えると、危険でハードな「登山」なんて、よほど好きでないと出来ない。
緊張感や達成感は何ものにも代え難いのだろうけれど。
わたしには無理。

わたしは、怠け者なので、何ごとにも、ぬるい。
緩い、温い。
最小限の労力で最大限の効果を期待する。
省エネ。
あまり無茶はしない。無謀な試みにはチャレンジしない。
手堅く行く。
ローリスク、ローリターン。
おそらく、満足の沸点が低いのだろう。
なので、なかなか行動には移らない。
活気がない。
感情の起伏が少ない。 
淡々としている。

人に押されて渋々動く。
しかし、動くからには効率を重視する。
期待が少ない。プラスがあれば、儲けもの。
なんでもいいのだ。
こういうのを覇気がないと言うのだろうか。
だけど、いつもだいたい機嫌は良い。
(でも、怖いものはいっぱいある)

ここまで昨日、書いて、ボツにしようとした。
が、今朝、捨てる前に読み直してみた。
このまま続けて書くことにする。
日が変わると気分も変わる。


わたしが最も苦手とするのは、自分から自発的に能動的に動くということだ。
自分で考えて自分で決断して自分で行動する。
この局面になると、途端に苦しむ。
受動態が楽。
どうしたい?わたし?
どうすればいい?わたし?
2択か3択。
①する②しない③保留

わたしは保留が多く、もたもたしている間に選択肢が狭まり、最後には選択肢がなくなる。
それは避けたい、と考えに考えるのだが、熟考しすぎて、決断できない。 
これを優柔不断というのだろう。のろま。
自分の性格は自分が一番よく知っている。

したいか、したくないか。二択。
これに、「別にどちらでもよい」が加わる。
すると、事態に流される、ということになる。
そうなる前に決めなければ。行動しなければ。
期限を気にしながら、ぐずぐずする。
最後あたりには、脳の空気が圧縮されて決まってくるのだが。

選んだことが失敗方向だったとしても、嘆くのは自分。
誰の迷惑にもならない。
自業自得。
あまり能動的な欲求がないため、困る。
そう言いつつ、損はしたくない。嫌な目には遭いたくない。
煩悩のカタマリである。
損得感情が動き始めると、たちまち躍起になる。
欲深い。

※写真は、吹田の地車(だんじり)
天保期(1830〜1843)頃の作だとか。





忖度は窮屈

2024-02-14 | わたし
元来、生まれつき、わたしは周りは気にしない「天然」である。
ではあるが、歳を重ね、最近のわたしは、忖度意識が働きすぎる。
率直に思ったことを書いても、嫌味や自慢と取られるかも?と、危惧したり、
あるいは、謙遜し過ぎて、かえってわざとらしい、自意識過剰と思われやしないか、と気を回したり。

そして、この人が今、こう言っているのは(行動を起こすには、その裏に行動心理があるため)優しい言葉をかけてほしいからだろうと推測して、頑張って期待に沿うよう忖度する。
人を思い遣るのは、わたしにとってはトレーニングした学習の賜物であり、学習成果でもあるが、生きにくい。
知恵を付けると自然体のまま野生児のようには振る舞えない。

自然発露としての優しさがない。
人様の受け取り方を気にして、発言を考える。まさに忖度そのもの。
頭で考えて行動する。
日本人気質、日本人文化?
息をして地球に生きている限り、税金か、場所代みたいなものか。
が、自分の居場所を確保するためには、少しぐらい努力しなければ。
好き勝手していては、今まで人としての蓄えた信用なり人間性なりが目減りして底をつき、やがてマイナスへ転じる。
評価が下がる。
本当は、こころの底から人を気遣う優しい言葉が自然に出るのが望ましい。
人の思惑など気にせず。
だが、
たとえ腹黒であっても、人に疑念を抱かれてないよう、せめて外観はスッキリした爽やかであってほしい。
腹黒部分を消滅させれば済むことなのだが、お釈迦さまではないので、凡人のわたしには煩悩がある。
誤魔化したり、嘘をつくのではなく、自分に正直にありたいが、それを貫くと、時としては人を傷つける。

アホに向かって、アホと言ってはいけない。
改善の余地があるアホには、相手を傷つけない言い方がある。
言い方を変えると良い。
短所は長所の裏返し。
先ずは、良い面に目をつける。

しかしなあ、、、
日頃、思っていることが表面に出る。
「こころの声、出てますよ」

不満を持っている人に対して、その人にとって良くない(嘆かわしい悲しい残念な)結果が引き起こされたら、やっぱり、ほれ見たことかとわたしは溜飲を下げる。
道順はさておき、結果的に自分が望む方向に進めばよい。
待てば海路の日和あり。
家宝は寝て。

結果が良ければ全て良し。
究極の結果って?
幸せに眠ることかなと。
眠ることはプロセスに過ぎないが、結果になったりする。



昔、わたしは若い女性だった

2024-02-10 | わたし
人はいつまでも、感情だけが残る。
喜怒哀楽の中でも、マイナス感情は延々と尾を引く。
何にあんなに怒っていたのか忘れても、その怒りの感情だけは生々しく蘇る。
認知症の人を叱ってはいけないのは、その辺りの事情がある。

さて。
喜怒哀楽の中で、出来るだけプラスの感情を引き出すものに接したいものだ。
それが無理なら、マイナス感情を引き出さないよう、誘発危険ゾーンには近寄らない、気をつける。
あとは、自分の楽しかった思い出を少しずつ引っ張り出して、にやにやする。

わたしが1番楽しかったのは、18歳〜22歳。
この黄金の期間。
当時、まだ人生を20年ぐらいしか生きていないのに一生で1番楽しいと感じた。
なんて薔薇色の日々なんだろうと、きゃっきゃと喜んでいた。
暗い高校生活の後に訪れた、予想もしない楽しく弾む、夢のような時間。
だが、この薔薇色にも23歳頃には翳りが差していた。
いつまでも続くとは思わなかった、この竜宮城気分。
なんの努力もしないのに、何の優れたこともないのに、若いというだけで周りはチヤホヤしてくれた。
だが、喜びに頬を紅く染めながらも、わたしは若さによるチヤホヤは永遠に続くことはない、と、脳の隅っこで覚醒した目でじっと見ながら呟いていた。
自分の売りは若さしかないことを、自分は若い真っ盛りにいたにもかかわらず、当時の自分は1番よく知っていた。
若さは、良い意味でも悪い意味でも、破壊力がある。

若さを失った今は、若さの蓄えはないが、若さが変化した、発酵したかも知れない「元・若さ」がある。
「元・若さ」は、若くはない年齢=老齢。
が、伊達に歳は取ってない。
積み重ねられた年月は、皺だけでなく、機微や知恵がヒダになって折り重なっている。
つるんとした若さは、それはそれでツルツルピカピカして素晴らしい。
つるんとしない、元・若さも、捨てたものではない。
両方、貴重な年月である。

若い女性に世の中が甘い(特に男性は)のは、仕方ないかなあと思う。
自分だって若い時は、若いだけで思いっきりもてはやされ、優遇されたんだから。
順番、順送。
若い時にチヤホヤされなかった人は、それはそれで、また晩年、良いことがきっとあるはず。
いつの時期も、どんな時期も、絶対に濃密で自分らしく輝くはず。


20年後

2024-02-08 | わたし
昨日は一日中、丸々、全く何もしなかった。
していたのは、息だけ。
ほんとうに、見事なまでに何もしなかった。
1ミリぐらいは動いたかも知れないが、トイレに行く時だけ。
入院中か、牢獄に入っているか、そんなかんじ。
晴れ晴れ良い天気、囚われるものもない、檻もない、身体も動く、病気でもない、目も見える、耳も聴こえるのに。

何もしなかったが、目や耳が生きているため、日中はFMラジオ(地元の局)を聴き、19時からはテレビを見た。
テレビは日曜日以外(平日)は、NHK専門。
ただし、日中は見ない。
19:00ニュース、19:30クローズアップ現代、20:00(昨夜は)解体キングダム(国宝の改修&大木伐採)、21:00ニュース、(いつもは)22:00NHK番組(だが、昨夜は21:00から夫にチャンネル権を献上)。
22:45連続夜ドラ、23:00からは日によっては10ch有働由美子さんのニュース番組、その後24:00ぐらいまでダラダラ。
一昨日は、寝る前の洗顔中に、背後からとても興味ある紹介(興味あるタレントと精神科医)が聞こえた。
NHK Eテレ番組「スイッチ インタビュー」に惹きつけられ、その後の「ニュー試」も引き続き見て、午前1:00過ぎまで見ていた。
その翌日である昨日は何も予定がないという日だったので、深夜番組を存分に気遣いなく見られる。
日によっては、19:00から23:30まで延々とテレビを見ているということになる。
完全に20年後の生活を早取りしている。
というか、このまま、だらだら20年歳を取っていけば、たいした変化もなくて、あわあわしなくて良いのかも知れない。
ただし、脳のネジは間違いなく緩む。
身体は歳相応に老化する。(これは抗えない)

ネジが緩むのに任せて、話し相手はテレビ。
それと、顔が見えないインターネット。
(なんでも良いが趣味を持つ必然性を強く感じる。
出来れば外の世界と繋がるもので、実際に身体を動かすものが望ましい)
20年後に、この蝶ブログ記事を読むわたし(87歳)は、どんな顔をしているだろう。
20年前に予想していた通りの生活をしていて、びっくりしていることだろう。

で、昨日の日中に聴いていたラジオの中身が全く思い出せない。
スピッツの曲が流れていたのは、アタマに残る。
昨日は、蝶ブログももう一つの趣味日記も書かなかったし、スマホで遊ぶことはあまりしなかった。
同じスマホでも、行政アンケートに答えたり、時間が余った時にやろうと思っていたことを暇に任せてしたり、スマホを離れ、紙(手書き日記など)と戯れた。
強いて言えば、半年分のクレジット決済のチェックをした。
たくさんのレシートが処分出来て、スッキリ。
だが、金融系も含め、スマホで処理しているため、チマチマして面倒。
他にもすべきことはたくさんある。のだが、気分に任せている。
あまりにも、気分に任せると、期限が過ぎて手遅れになり、自分が泣きを見る。
なので、少しは時々、タスク事項を見直さなければならない。
実は今は考えなければいけない案件を複数、抱えている。
時間が進むと、まだ考えがまとまらないまま、ブルドーザーに地ならしされてしまうように、建物を撤去されてしまうように、自分の想いが形になっていない状態で潰されてしまう。
それは避けたい。

昨日、日中、姪とLINEでやり取りする事項もあった。
姪を通じて、姪の夫ともやり取り。
なんだかんだと、時計の針は動きは遅いものの、確実に動いている。

もう一件、タスク(すべきこと)が、思い浮かんだ。
電話しなければ。

とかなんとか、何もしない、1ミリも動かない日は、部屋の中では動かないまま、容れ物(容器?船?)は動いているのだ。
だが、20年後もそう。
自分が入っている容れ物は、天国に向かって少しずつ動いている。
生き物である限り、突然、明日の命の保証は確定ではない。
でも、20年後の生きている自分を自然に想像できるのは、幸せだということだ。


蛇足。
最後の最後、19時からのニュース番組が始まるまでに、あまりにも時間が余り退屈してうんざりして、(18:45頃から)世界史の学習本の最初のページをめくった。15分眺めていただけ。
(いつも見出しと序章で終わる。)
この本は、何もすることがなくなった時の最後の砦。
わたしの子供が小学生低学年の時に、子供のために買ったシリーズ。
まだまだいっぱい色々あるので、究極の暇つぶしは出来そうだが、まだ他にも別のジャンル(家庭科、音楽、美術、書道)の暇つぶしも隠し持っている。
だが、意外にそういうところから、夢中になる楽しみを見つけることがある。
残念ながら、体育は好きでないので、頑張って自分に鞭打っているところがある。


※写真は、ホンモノのバイオリンやピアノを用いた自動演奏機。
古いヨーロッパ製??
音はデジタルではなく、生演奏、ホンモノ。