蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

恥ずかしいことは、消去

2020-11-29 | 日々のこと
思い出すと、きゃっと叫ぶ恥ずかしい過去の経験、、、
叫び過ぎてうるさくて忙しいから、思い出箱から消去する。

良い思い出、美しい思い出、感動のシーンは自分で色を更に塗って、脚色、演出して自分好みに色濃く手を加える。
悲しい思い出や辛い記憶も、これまた悲劇のヒロインのように大げさな音響や小道具などを駆使して、仕上げる。
自分劇場は楽しい。

その点、ブログはさらっと毎日食べるお茶漬けのノリ。
気合いが入っていないが、日課のようなもので、ちょっとした指の体操になる。

一歩、家の外に出ると、周りの人の声が鮮明に聞こえる。
発音、滑舌の悪いバスの運転手さんのアナウンスも、何回も何回も聴くと、何を言っているのか、わかってくる。
英語のリスニング・トレーニングのようだ。
「毎度、ご乗車ありがとうございます」
ただそう言っているだけなのだが、ほんと、わかりにくい。
「まどまでじゃじゃだどださまがだざました」、、、はあ?何語? もごもごフランス語のような籠り方。
降りぎわに思わず運転手さんの顔を見てしまった。
外国人でもなく高齢でもなかった。
不思議な発音だが、いつも気になる。
いっそ何も言ってくれないほうが、スッキリする。
あのほとんどわからないアナウンス、誰も指摘する人はいないのだろうか。

まあそれはよい。

最近、電車内や飲食店内で話している人の声が、拡声器から聞こえてくるかのごとく、一字一句はっきり聞こえる。
忍者が池の上を歩けるような修行をしているかのごとく、バッティングトレーニングを重ねる野球選手が野球ボールがバレーボールぐらいに見えるかのごとく。
別に耳を傾けているわけでもないのに、話の中に入り込んでしまう。
たんなる好奇心の塊か。
別にわたしには悪意はまるでないし、悪用する気もさらさらないが、開かれた場所では個人情報は話さないほうがよい。

職歴だの職場事情だの家庭事情、恋愛やお金の話から身の上相談、人生遍歴、、、様々なことを皆さんは話している。
聞くなと言われても、ある分野の共通用語や地名、知っている事柄が出てくると、耳を澄まさずにはいられない。
ブログネタには全く事欠かない。

ということは、わたしの老後の見通しは明るい。
ほんの一歩、家から出て、うろちょろするだけで、ある程度の好奇心は満たされる。
無意味にうろちょろは、徘徊に近いから、いくら面白くても、わたしは無目的には、うろつかない。
何かすべきことがあって、その目的を達成するために出かけたついでに見聞きすることが楽しい。

出かけなくなれば、自然に耳の機能も衰えてくることだろう。
今は、聴力は、お出かけ(今日、用=きょうよう)とセットになっている。

と、なんやらかんやら、あれこれバタバタ忙しくしていて、話の詰めが中途半端ではありますが、とりあえずアップします。



大人しい

2020-11-28 | 日々のこと
クリスマスツリー、あちこちで見かける。
1日、1個、見かけたクリスマスツリーをアップしていこうか。
無理。
そこまで毎日、あちこちに行かないし、アップするほどでもないツリーもたくさんある。
しかも、どこ、とわかるのを避けたい。
このクリスマスツリーも背景を少し塗りつぶしている。

性格診断を長女がラインで送ってきた。
長女は自分は目立つのが嫌いで控えめ、コツコツ努力家タイプと診断されたらしいが、次女も同じタイプという結果が出たようす。
芯はしっかりしているとのことだが。
あら、わたしも全く同じ。
これって一卵性三つ子親娘?
たぶん、息子もそうだろう。
ついでに加えると、夫も。
さらについでに、娘婿もかも。
全員、そのようだ。
その統計診断結果によると、日本人には多いとされる。

道理で地味なファミリーなわけだ。
派手さが皆目無い。
皆んな、目立たないように、ひっそり大人しくしている。
仕事はそこそこ頑張っていると思われるが、私生活ではへんに目立つとろくなことがない。

というか、目立ちたくないから無理に大人しくしているのかというと、そうではなく、順序が逆である。
控えめにしているのが好きなだけだ。
その結果、大人しい。
(要ポイントである)抑えるべきところは、当然、抑えての話だが。
要(かなめ)を飛ばして、ただただ大人しいだけ、、、というわけではない。
が、まあ、家族皆んな、大人しいタイプのようだ。
それなりに目標も持ち、満足している。

それはそれとして。

昨日は考えを切り替えることが出来た。
ウジウジせずに行動することだと悟った。
ぐるぐる堂々巡りから解放された印象だ。
何周目かに、やっと外に少し出ることが出来た。
あとは、もう少し出て、後ろを振り返って、来た道を見ることかな、と。
自分はあそこから来たんだ、あそこを通って抜け出して来たんだ、と。
しばらくは行ったり来たりするかも知れない。
せっかく出てきたのに、ひょっとすると、また戻るかも知れない。
それはそれでいい。
自分の思うまま、こころのままにしよう。





何かが動いた

2020-11-27 | 日々のこと
涙が、はらはら、
鼻水も、たらたら。
電車の中でマスクをちょっとずらして鼻水を拭き取る。
居酒屋でマスクを外しては飲み、飲んでは着け、外しては飲み、のマスク飲み会みたいだ。

マスクをずらしては鼻水を拭き、またマスクを戻し、またもやマスクをずらして鼻水を拭く。
忙しい。
というより、恥ずかしい。
というより、電車内でマスク、ずらしたらダメでしょう。
でも、ズルズル、たらたら。
周りの乗客が次の駅で降りてくれたらいいのに、、、と、自己チュー発想がむくむく。

涙のワケは、よくわかっている。
わたしが、方向性を誤って選んだからだ。
ああ、またもや。
過去の失敗は活きない。
なんで?

学習能力のなさだろう。
わたしこそ、ダーヴィンの進化論によるところでは生き残れないタイプか。
強い者ではなく、柔軟に変化できる者が生き残る。
わたしは直進、停止、後退しか出来ない。
左折、右折が苦手だ。
曲がると元に戻れない。
ついでに言うと、地図が読めない。
平面が無理なら、平面での移動ではなく、立体移動をすればよい。
空飛ぶ自動車みたいに。
大阪府知事の吉村さんが言っていたが、彼のように若い人が子供の頃(わたしはもう大人だったかも知れない)、空飛ぶ自動車なんて夢のようだと感じていたのに、その実現に向けて動き出すそうだ。

しかし個人的には、わたしは平面での車の運転もままならないのに、さらに自由空間を飛び回る車など、、、あな恐ろしや。
よほどの規制やルールがないと事故だらけになりそう。
(ブルース・ウィルスの空中?タクシードライバーの映画を観たことがあったような、、、)
高度を上げ下げする斜め飛行とか出来ないようにするのだろうか?

と、話はめちゃくちゃ逸れている。

涙のワケを考えていたのではないのか?
解決への対策を練ろうてしていたのでは?

と、ここで私鉄からJRに乗り換え。
えーっと、、、

とりあえず、何も考えずに策も練らず自然体で、自分のこころのままに動いた。
でも、動かないという選択肢もある。
まあ、今日は、動いた、移動した、行動した。
さて、どうなることやら、、、。


傷ついた

2020-11-27 | お付き合い
口は災いの元。
ある人からの言葉でひどく傷ついた。
その人はいつも考えなしで、思ったまんま口から出る。
お腹の中に溜めない、隠さないという意味では腹黒ではないのだが、貯蔵場所がお腹ではなく口から真っ黒が出てくるのもいかがなるものか。
口から出る分には良いのか?
腹の中に隠し持っていなければいいのか。

いわゆるホンネをズバズバ言う。
気持ちいいかというと、そんなことはなく、限りなく傷つく。
言われた相手の気持ちを想像することが出来ないようだ。
想像力、欠如。
人間性の問題か。
言うべきか、言わない方がいいのか、口にする前に、検閲、自己チェック機能はないのか?
胸に収めることは出来ないのか?

出来ないようだ。
鋭利な刃物でグサグサ刺され何度も傷つけられると、自己防衛策として離れたほうがよいと判断する。
情があって離れられない??
そんなことはない。
もう嫌だ。
我慢の限界。

いつもいつも我慢の限界のところまできて、頑張って持ち堪える。
頑張る必要なんかないではないか。
なぜ、頑張る?
意味がない。
何を考えている?わたし。

なるようにしかならない。
頑張る必要はない。
自然に任せよう。

これで今回は最後かなと

2020-11-26 | 
コロナ感染者数、じわりじわりと迫るものがある。
今期最初で最後になりそうだが、GoToキャンペーン、行ってきた。
結構、賑わっていたのに、残念な思いである。
しかし、予約時間を過ぎても宿泊ホテルのレストラン、個室の席に着いたまではよかったが、あまりにも食事が提供されるまでが長かった。
先に注文したアルコールも勿論、出てこないので、30分、ぼーっとただ座るだけで時間を持て余した。
せめて水か、飲み物だけでも出てくればよいが、手が足りないのだろう。

まだ座れるだけマシか。
スタッフの数が足りないのだろう。
今回は一段落、最後と思われるが、急に宿泊数が一気に増えて、日頃とのギャップの調整が出来ないのだと推定する。

客室に置かれていたアンケートに、その旨をしっかり書いておいた。
辛口ではあるが、歯が浮くような甘いことばかり書いても改善には役に立ちにくいと思い、苦言を呈した。
が、このウイズコロナではどことも厳しい現状である。

帰りは海にかかる橋を見ては、ハリウッド映画を連想し、向こう岸の、陽光に照らされキラキラする海に映える白い街並みを見ては、ギリシャみたい、と思い、徐々に高層ビル群に近づくと、ニュヨークに降り立つ、わくわくしながら新天地に夢を馳せる、ひと昔の人みたい、、、と、ひとりではしゃいでいた。
淡路島は、京阪神から近く小さく便利。

淡路島
通う千鳥の鳴く声に
幾夜目覚めぬ須磨の関守

と、長女が孫たちに句を教えていた。
わたしは、学生時代は毎日、教室の窓から、行き交う船を眺め、のどかな海原風景を見て、授業中はひねもすのたりのたりかな、と、自らも舟を漕いでいた。

廃校になった元小学校をリノベーションした複合施設「のじまスコーラ」は、明るい軽妙なイタリアンテイストで、こころもポップ。
さすが、パソナ。アイデア勝負かなと。





いつものワンパターン未来日記を書く、小2孫は、帰って来るなり、なかなか良い作文を仕上げていた。
家族中で絶賛した。
途中でぶつ切れで終わっているあたりが、文学的仕上がりになっている、と、彼の父親(娘婿)が褒めていた。
作文は食卓で書いていたため、目の前に出されたお皿に手が伸びるのを我慢しきれないと、ああいった文学作品が生まれる。
完結を放棄して食い気に走っているだけではあるが、いたって健康的である。


未来日記

2020-11-19 | 日々のこと
ふたつ続けて、ぽっかり忘れた案件がある。
続々、認知症。
ゾクゾク。
宅配牛乳の専用宅配boxからの取り忘れ。
ここ数日、暖かいのに、箱内のままかれこれ6日間も経過。
昨夜、発覚後、無理して飲んでお腹が心配。
(今、その影響が速攻。じつに正直な胃腸)
前後して、前歯がポロリ欠けた緊急事態が発生し、この時期、マスクで良かった。
歯科でどうにか治療してもらったが、その次の口内掃除を勧められアポ取ったのに、インナーマッスルトレーニングに気を取られ、すっかり忘れている。
思い出したのはアポ日時が過ぎて一週間後。
緊急事態が処理された後、ほっと一安心すると、緊急でない軽度のことから忘れていく。
優先順位が一位以外は忘却。
一度に、ひとつしか覚えていない。
自分の中で、喉元過ぎるとクリアしてしまうようだ。
もともと先方から勧められたもので、たいして喫緊重要性は感じていないため、再アポは取っていない。

3歳の3番め孫に、完全に追い越された感あり。
彼女は、鋭い。
正しく素早く認知し、記憶力も正確。
長女のDNAを感じる。

「トイレのタオルがピンクから赤に変わってる」
「じいちゃんのシャツがお出かけシャツ、今からお出かけ?」
ほんのすこしの変化も見逃さない。
メガネをはずしていると、
「ばあちゃん、メガネかけてよ。そのほうがかわいいよ」

しかし、気に入ったものはすぐ欲しがるので、彼女の目に入らないようにしなければならない。
この前もわたしが集めていたポイントシールを目ざとく見つけ、離さない。
返して、と言っても返してくれない。
彼女にとっては、たんなるシール単品だが、わたしにとっては、ポイント交換特典が付与されたもの。
代替えのシールをあれこれ出して、やっと奪回できた。
ごまかそうとしても、何日か経っても正確に覚えていて執念深い。
半端ない物欲は、ばあちゃん譲りとされている、、、。
いつも、わたしは悪い見本とされて、かわいそう、、、。
反面教師はツライ。

まあよい。

一番上孫(小学2年)のネタ帳(アイデアノート)を長女に見せてもらった。
彼のアタマの中がネタ帳に詰まっている。
覚え書き、図入り、絵入り、などなど、、、
電車関係、ゲーム関係。
忘れないように書いているのか、アタマを整理するために書いているのか。
ちなみに、彼の学校の作文はすごく笑える。
一週間前から日記がすでに出来上がっている。
予定日の日にちが書かれ、
「○○に行ってきました。
楽しかったです。
また行きたいです。」
と、フォーマットが決まっていて、いつも同じ。
前は、回転寿司に行った日記があったが(一週間後に行く予定のもの)、いつものフォーマットに加えて、「イクラとエビとタマゴを食べました」と書いてあった。
食べる予定なんだろう。
日記を先に書く、って、なかなかのものだが、ライターが取材記事を書く時は、取材したりインタビューする前にはすでにほぼ出来上がっている。
あとで補足的に付け加える。
でなければ、その場で大事なことを拾いすくいそびれることがある。
何ごとも準備や予習が大事。

しかし、日記はまた別だと思うが、おもしろい子である。
回転寿司をぱくついている彼を見て、子供のアタマも大人のアタマも変わらないと感じた。

ブログなどその最たるもの。
遊ぶにはもってこいだ。




美味しすぎる、、、

2020-11-17 | 日々のこと



カヌレ  cannelé de Bordeaux。
フランスの古いお菓子なのだが、次女がお土産で前回の帰省した時に長女にくれたらしい。
うちの分(親世帯=夫と、わたし)にもということで、二軒分の分量があったそうだ。
わたしは、カヌレという名前がなかなか覚えられないのは、一度も食べたり、体験、経験していないからだと思った。
パリの地下鉄にあるショップで売っていて買って短期滞在先アパルトマンに持ち帰ったことがある。
2011年の話。忘れるほど昔。

名前は忘れたが、味や食感、かたちは覚えていた。
その、少し聞いたことがある風のお菓子を次女が買ってきてくれる話が、姉妹の間でまとまっていたようだった。
だが、何も事態は動かなかったので、わたしはその話が立ち消えになったと思い、それとともにお菓子の名前も忘れた。

今回は、カヌレ専門店であるショップに売っている、全種類のカヌレを次女が買ってきてくれた。
わあ、豪華でカラフルなカヌレたちとご対面。

2011年の旅ノートを引っ張り出してきたり、わあわあ喜んでいた。
「そう言えば、前もカヌレとかなんとか言ってなかった?」
と、わたしが長女に聞いた。
すると、こんな返事が、、、。
「あれは、妹がお土産にくれたけど、美味しすぎたので、おかあさんの分、惜しくなってあげずに、全部自分で食べた」
なにぃ?!

次女は、半分は親宅、半分は姉宅に、カヌレをくれたようだった。
そうか、、、
それほどに美味しかったのか、、、。

今回は全種類だから何個ある?
食意地の張った長女だ。
が、食いしん坊の孫も然り。
その中でもわたしが一番、いやしん坊かも?
直系の血の繋がりは、どうしようもない。

それにしても、カヌレ、可愛くてキュートで、わくわく。
写真を見ているだけでも楽しい。
最後の一個、じいちゃん(夫)にあげる予定が、あまりにも美味しすぎて、1人でこっそり食べてしまった。
まったく長女のことは言えない。







自分のために生きる

2020-11-16 | 人生
やっとブログタイム。
といっても、今、近隣大型商業施設で末孫をベビーカーに乗せて子守中。
ちょっとかわいそうなおばあさん?
明らかに孫の守り。
老年ベビーシッター。

長女がインナーマッスルトレーニングと整体施術中、外で子守。
私もインナーマッスルトレーニングをしているのだが、(元気もりもりで)整体施術は必要ないため、後半時間を子守に当てている。
といっても、末孫は今、ベビーカーの中で寝ているだけなので、ソーシャルディスタンス仕様のベンチに座ってブログ書き。
気楽なおばあさんである。

と、前書き。
昨日は晴天に恵まれ、午前中に七五三とお宮詣り。
その後、昼食はうちでして、午後は写真スタジオで写真撮影。
写真は、末孫のお宮詣り、二番め三番め孫の七五三。
今回は、七五三も卒業した長男は、写真にはきょうだい枠でオマケ参加ということになった。
ジジババさんは、娘サイドのみの参加。
娘婿側のおじいちゃんおばあちゃんは、写真での閲覧参加。
集合写真には、最初の孫にはあちらのおじいちゃんおばあちゃんも写っていたが、孫が増える度に参加は見送りとなった。
わたしは、いつも同じような服装。
誕生した孫順に写真を並べてみると服装の手抜きぶりがよくわかる。

写真スタジオ、今回で5回め?だったか?
どれも可愛い写真である。

着物は、わたしの子供たちが生まれた時にその都度、実家が作ってくれたもの。
男の子と女の子用。
もう一枚、姑が作ってくれた、女児用晴れ着があるのだが、夫の実家を探したものの、見当たらなかった。
数代前の姑の和ダンスの中にある、見当をつけていた着物のたとう紙を開けると、なんとわたしの振袖だった。
では、いったい少し大きめの女児用の着物はどこに行ったのだろう。
草履とバッグもちびっこ長女と次女が二人とも着物と共に同時に身に付けて写真に写っているのに、見当たらない。
今回の七五三のスタジオ写真では、三番め孫(三歳女児)は、四番め孫(三ヶ月女児)が着用したお宮参り用の着物を順番に着た。
だが、神社では三番め孫と四番め孫は、同時に着物を着れなかった。
次の七五三の時までに見つかればいいが、ほぼ諦めている。
(読む人にはどうでもいい事情を延々と書いている、、、)

娘の子供だから、わたしの親が作ってくれた、自分が着た晴れ着でも問題ないが、これが、息子の子供だったらそうもいかないだろう。
いわゆる息子の嫁が、「こんなお古の着物を着せられた」と、パワハラ被害者意識、不快感を示すかも知れない。
息子には嫁はいないので、というか、もう諦めているので、嫁姑の心配事はない。
ある意味、よかった、、、。
たぶん、違うんだろうけれど、みんな、幸せ。

ちなみに、、、
結婚もしたくない、異性とも付き合いたくない50歳以下の男性女性は多いらしい。
結婚は、経済的、時間的、身体的自由を奪われ、お付き合いするにはお金が十分ではないとか。
勢いや、ホレタハレタで結婚しても、その後の生活が大変。
昔ほど情熱的ではなく、現実に直面する理性が勝つのだろうか。
ひと昔前の、時代的に終わっているわたしが何を言おうが、何の説得力もない。
老人は引っ込んでおこう。
(実際のところは自分では違うと思い込んでいたとしても)

子育てには強力なエネルギーが必要である。
気力、労力、知力、体力、経済力、人間力、ネットワーク、、、その他、いっぱい。
わたしにはとても出来そうもない。
若い頃は何も知らないから勢いでやってきた。
それが若さというものだろう。

今という時は、二度と無い。
今、この瞬間を大切にしようと強く思って、毎日、のほほんと暮らしている。
(て、ちょっと逆説的か)

いろんなタイプがある。
先週観た映画「おらおらでひとりいぐも」のように、べつに寂しさを紛らわせるために、何人もの自分を登場させる必要は全くない。
人それぞれの人生だなあと感じる。

好きな人と暮らすことを自分を解放することだと思っていた主人公だが、好きな人が亡くなった後は寂しさから逃れられない。
だけど、他人に影響を受ける自分(他人軸)から解放されたと感じる主人公。
これからは自分軸で生きる。
わたしにも言えるが、いまに始まったことではない、何を今更感がある。
他人軸を卒業してから、かれこれ20〜30年になる。




ちょっと違うなあ

2020-11-12 | 映画
今、かなりブルーな気分になっている。
ブルーというよりは、黒。
明日になれば晴れる。
こうやって、いつも自分を騙し騙し生きている。

田中裕子主演の映画「おらおらでひとりいぐも」を観た。
タイトルから女性の自立した生き方を提案してくる、元気をもらえるような映画かと、勝手に思い込んでいたが、違った。

主人公は75歳の設定かと思いきや、さらにもう10歳、田中裕子の演技や演出によって、上のような印象を受ける。
ライフスタイル、歩き方、体型、服装から受ける年齢イメージ。
でも、8歳〜9歳?ぐらいの孫がいるから、やはり70代か?
わたしは60代真ん中あたりだが、同じ年頃の孫がいる。
おばあちゃんたちは、もっともっと若い。
ちょっと、年齢整合性、チグハグ感を感じる。

主人公は、今の新しい時代の女性になるんだ、と1964年に田舎を飛び出し、好きな男性と結婚。
わたしとちょっとしか年齢が変わらないのに、違和感を覚える。
わたしも相当古臭いシーラカンス田舎出身であるが、さらに古く感じる。
が、日本の北のほうは、西とこんなに違うの?まるで外国みたい、と思った。

わたしが生きた時代と同じなのに。
しかも時代の最後方、古臭いわたしなのに。
映画に使われているのは、ダイワハウスの家のようだったが、キッチンは最新。
時代設定としてはあんなものか。
だが、わたしは直に畳やカーペットに座るのは、しんどい。
絶対に椅子かソファ。
そして、テーブルにミカン、て、ギャグ?
手編み風ロングベストのホームウエアの服装もギャグ?
うーん、、、共感を覚えない、、、。

年代や年齢がほぼ似ているのに(10歳違い)、全くといっていいほど、感覚が合わない。
わたしの20年先なら、あり得ると思うが。
どうも、映画とわたしの接点のピントがぼけてしまった感がある。

しかし、ひとつ思ったことがある。
趣味は大事だ。
静と動。
インドアとアウトドア。
社会との結びつき。
基本には健康あってこそ。
それと、余裕。

いつも思うことは同じ。
たどり着く結論は同じ。
変化がないのは、ボケの始まりか?

友達がいない、、、

2020-11-09 | お付き合い
友達がいない、、、という内容の日記を某SNSで読んだ。
社会問題を含む深刻なものではなく、たんに、行動は一人ですーーというものだった。
友達が欲しいけれど、募集するのもナンだし、友達は作るものではなく、出来るものだ、との主張をされていた。

そうかな。
たしかに友達は自由。
義務でもないし、生活の手段でもない。
しかし、お一人様たちがネットワークを駆使し、独居住まいの万が一の時のために友達システムを早々と構築している人々もいる。
それは友達というよりは、互助会のようなものである。
ワーキングママ友のつながりにも似ている。
緊急、もしもの時の子供の預かり合い。
それは、真の意味の友達とは言えないが、まあ友達のうちの一つだろう。

困った時に、もたれ合えるのが友達?
それは家族?
依存し合う?
社会制度が整うと、受け皿やセフティネットが、国レベルで手を差し伸べてくれる。
が、なかなか、隙間や、こぼれ落ちるものもある。

わたしは、真の意味では友達はいない。
募集する気はさらさらない。
この指、止まれ!わたしと一緒に遊びましょう!
なんて、呼びかけない。

しかし、勝手にわたしから一方的に友達認定している人もいる。
支持者、ファンみたいなものか。
一対一の、面と向かってのお付き合いが苦手なので、どうしても一方通行になってしまう。
逆に「ファンです」と言われることも稀にある。
こういう、わたしみたいな人、意外と少なくないと思っている。

一人で行動する方が、意見を調整する必要がなくて便利だ。
が、不便でも一緒に行動することに意義がある。
だとすると、自然に友達が出来るのではなく、努力して作るものではないだろうか。
人に合わさず努力する気もないのに、自然に出来る友達なんかいないように思う。
喜びも悲しみもシェアするなら。
良いとこどりは、友達とは言えないのでは?
もたれ合わない、自立、独立した者同士の友達とは?
信頼は一朝一夕には築けない。
おいしいところだけ共有するのは、友達なんだろうか?

わたしは、基本的に人を信用していない。
裏切られたとしても、信じたのは自分であり、自己責任。
孤独と引き換えに自己愛が強すぎるのだろう。
頑丈な装甲車に乗って運転している。

自分から進んで行かないから、進展はない。
当たり前のことである。

ちなみに、、、
わたしは、独特の雰囲気を持っているらしい。
独自のもの。
そうだろうなあ、、、
出逢った人にはそう言われることがある。
これから先、益々年齢を重ねると、どんなおばあさんになっているのだろう。
童話に出て来る魔法使いのおばあさんみたいなかんじ、、、は、避けたい。