蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

降りる勇気

2018-11-29 | 人生
資産1兆円のセレブの妻になると仮定する。
(あくまでも仮定。あ、だれもそんな本気の人はいないですね)

ZO●OTOWNの前○氏みたいな。
準奥さんが数人、子供も数人、愛人、恋人もとっかえ、ひっかえ。
囲われている籠の鳥だが、餌がゴージャス。
新しい恋人を見つけて子連れで再婚するより、半永久的に口をパクパクさせているだけで莫大な援助を受け続けられる。
割り切れば素晴らしいATMである。
紗●子のように、人のお金の目がくらまず、自立して出て行く勇気があるとカッコイイ。

トラ●プ夫人も、義理の娘夫婦が自分を差し置いて権力をふりかざす。
さぞや、鬱陶しいと思う。
妻といっても、お飾りみたいなもの。

超贅沢な生活で飼いならされた環境を捨てることが出来るか?
そこがポイント。

ちなみに、わたしは日本のごく普通の一般庶民なので比較するのは馬鹿げているが。
極端な例としてシュミレーションするには面白い。

少しぐらい経済的に自立していても、はるかかなた、うんと上の恵まれた環境を捨てることが出来るか?

ずいぶん前に、ある70歳を過ぎた女性が離婚した、ということを何かで耳にした。
我慢に我慢を重ね、ついに踏ん切りがついたのが、70越えて。
しかし、高齢になって環境が激変するのは、体調を崩しそうだ。

デビ夫人のようなお金持ちになると、どうか。(お金の出所は、さておき)
財産がらみのややこしい面倒なことは人任せにしていると、ある日、裏切られて持ち逃げされたというニュースをテレビで見た。
信頼は簡単に裏切られる。
叶姉妹の、近しい人による宝石持ち逃げ事件も記憶にある。
自分のものは、自分で守るのが鉄則。
動産、不動産だけでなく、健康も。
さらに、人間関係は複雑だ。

守るとか守らないとか、キープするとか、しないとか、そんな、チャラく文字にしても薄っぺらいだけ。
誰も気に入らなくて、一人住まいをしたとして、それはそれで、全て一人でしなければならない。
電球一個付け替えてもらうのも、お金を払って外注さんに頼めばしてくれるけれど。
ヘルパーさんに対しても、好き嫌いや相性があり、ストレスを生むだろう。
はやくボケたほうが、理想のハードルが低くなってよいかも。
わたしは、口ばかりの、身体が動かないうるさい年寄りになりそうな気配が濃厚だ。
だから、それを避けるために、はやく全ての欲から解放されたい。
が、無理。

モノには管理やキープにはノウハウがある。
が、一番大切な、からだ、脳内、ハート。
これも突然、事故などで損傷したり発病することがある。
さて、あんなに全てを注いで築き上げた、マインド。
どうする?
嘆くこころも同時に消え去るといいなあ。
プラスが消えて、マイナスだけが残るのは最悪。
プラスもマイナスも同時に消えるといいのか。
毎日、少しずつボケていっているわたしなんかは、ひょっとして理想的コースを辿っている?

話が脱線した。
「お金」と「自立心、プライド、自尊心」を計りにかけて、自立心を選べるのは若いうちなのではなかろうか。
年がいくと、魂だけでは生きていけない。
男性も振り向いてくれない。
自分をちらと想像すると、人を信じることが出来ない、お金にガチガチにしがみついた、骨皮筋バーさんになりそうな気配もしてきた。


若いうちは、自分の可能性に挑戦したい。
なにもせずに、ツボミのまま、花咲かずに枯れて朽ち果てるのは、あまりにも哀しい。

自分の力で何かを成し遂げるシュミレーションが望ましいが、ナマケモノ専科の発想としては、大富豪の関係者(嫁、愛人、恋人)になれば、、、と恥ずかしげもなく依存からスタートする。

パーティや慈善活動などで、色んな人と知り合い、次の相手をゲット。(ああ、浅ましいシュミレーション)
相手をゲットするにも、棚ぼたではなく、活動を通して新しい自分を発見する。
自分の新たなポテンシャルに気づく。
そこに、協力、激励、賛同してくれたり、発想に刺激を与えてくれたりしてくれる人と活動を共にし、次第に異性を意識し合って、新カップル成立。
富豪との傘下から離脱して、独立するコース。

自立心を伴う独立ならよいが、花から花へと、ヒラヒラ舞うだけ、いずれ歳には勝てず色褪せ、というのは、いただけない。
しかし、相手からお金だけは、しっかりいただく。対価。
ある程度の若さを失うと、それを元手にお店や商売を始める人もいるだろう。

だが、厄介なことに富豪から自立したつもりで次の人とゴールインしたものの、相手はカネ目当てだった、コネ目当てだった、なんていうこともある。
で、不信感に苛まれる。
本当の愛情を掴めない不幸。

ちょっと映画の観すぎだろうか。

愛を信じないという信条を貫けばいいと思う。
無償の愛なんて、宗教の授業で習ったけれど、理想はあくまでも理想。
崇高すぎて、わたしのような下衆モンには着いていけない。

ココシャネルみたいなクールなのもいい。
自立心のある人は、事業や仕事だけでなく、突き詰めると孤独だと思う。
そういう人には、はやくボケてしまうことをオススメする。
ボケたもの勝ちなんじゃないかと思ったりする。
そう思った途端にボケなくなって、計画通りにいかず、かえって悲しかったりする。
うまいこと、いかないものだ。

※(富豪=勤務先
愛情=誠意ある仕事、評価
次の相手=次の職場
お金=報酬
ボケる=リタイア
に置き替えることもできるかな、と思ったりした)


じゃあ、今のうちに意識して心おきなくボケとこう!って、これもヘン。
「意識して力を抜け」と、ダンスの先生に指導されるが、難しい。
意識して、無意識になれるか?

意識すればするほどボケなくなる。
わたしの望む方向ではないのに、結果的に、良いのやら良くないのやら。
でも大丈夫。
わたしは、天然なので。キャリアが長い。

出て行く人、残留する人

2018-11-28 | ご近所さん
昨夜、ご近所さんのAさんが、引っ越しの事後報告に来た。
彼女は、子供が幼稚園から同学年同士、地域の自治会、子供会、小学校のPTAが同じ。
いわゆる、ご近所ママ友。
さらに私はとは同じ出身校、夫が同じ職業。
かなりの共通点がある。

子供が地域を離れ、活動範囲を移し、自分の行動をするようになってから、親同士の付き合いも激減した。
ここ数年は、娘一家のほうが、Aさんと偶然、近所で見かけて出会う回数が多い。
私は、顔を見たのは、去年の自治会の会合以来。

普通なら、親友とまでは言わなくても、相当親しくなっても不思議ではないのだが、なぜか、さらりとしている。
わたしの、付き合い嫌いキャラクターのせいである。

で、お引っ越しされた。しかも半年前に。
噂は聞いていたが、わざわざご挨拶に来てくれた。
この地を離れる、元ママ友は2人目だ。
駅から遠い、不便な立地にあるわたしの住まい。
買い物難民も増え、車を持たないお年寄りには住みづらくなっている。
便利な駅近のマンションに住み替える人は、益々増えるだろう。

築30年の家は、大規模リフォームするか、住み替えるか。
で、Aさんは住み替えを選んだ。
元々、親きょうだいをはじめ、親戚縁者もいないこの地。
住み続ける理由はない。
好きな地に移り住める選択。
まだ若いうちに、住み替えるのがよいと思う。
70歳を越えて建て替える人もいる。
最後のチャレンジだろう。
便利な都会とは真逆の、田舎暮らしに入る人もいる。
人それぞれの価値観だ。

たまたま、わたしは、娘一家が近くにいる。(たまたま、でもないか)
今は、ジジババは、子育てサポートに、良いように使われてあげている(出た!上から目線)。
いずれは、我々老人サポートと引き換えに労働チャージを、などという保険をかけている気はない。
そんな魂胆は、期待を裏切られたり、サポート温度が微妙に違ったりして、ストレスの元である。
今の子育てサポートも、両世代に、負担がないような方法で行われている。
どちらかに負担がかかると、その負担分を将来、別の形で担保してもらおうと期待してしまう。
それはやめたい。
その場その場でクリアし、持ち越さないようにしたい。都度精算、貸し借りなし。
どうしてもという、平時ではない場合はもちろん、臨機応変に対応するが、平時は、役割分担は淡々と。
必要以上に、もたれかかったり、もたれかかられたりするのは、重い。
極力まで各世代、頑張るが、無理な時にはギアチェンジして、数段パワーアップ互助へシフト。

このように、近くに子供世帯、親世帯が住んでいるかどうかで、その地を離れるか離れないかのキーとなる。
親子共々、別の地に移住する、という選択肢もあり、ガチガチに決め込む必要はないと思っている。

が、今のところ、わたしの未来図は、あと20年はこのまま今の地に住み続ける。
孫たちも成人し、この地を離れることもあるだろう。
実家は、次世代にバトンタッチ。
次世代がバトンを受けとらなかったら、処分という方法もあり得る。
我々の目が黒いうちは、そんなことはさせない、と言っても、身体も動かない状態ではいくら、わめいても、実行力がない。
それより、20年後は、老人ホーム探しに余念がないだろう。
気に入った老人ホームがないからと娘宅にお世話になるのは絶対に避けたい。
と言っても、どうなっているかわからない。
母や祖母たちのように、自立できなくなる日までは自宅で住みたい。
自立できなくなったら、未練を残さず自宅を去りたい、、、が、、、。
今からあと25年あれば、納得して計画通りに行動できるだろうか。
わからないけれど、少なくとも、今日、明日に近々、引っ越すことはありえない。

次の関門は、5年後。
必ずやってくる、難儀なポイント地点。
生々しすぎて、嫌々すぎて、文字にする気が起こらない。
3年後に考えよう。
(嫌なことは、後回し作戦)
時期が近づくと、事前に事態が動くから考えざるを得ないだろう。
それまでは、まったり休憩。
動物園のナマケモノ状態で、何も考えない楽しい時間を過ごそう。
と言いつつ、おしりが何やら落ち着かない。

お殿様になった

2018-11-27 | 
岡山に行った。
日本三名園のひとつである後楽園。
快晴にも恵まれ、結婚写真の前撮りをしている新郎新婦さんをあちこちで見かけた。

後楽園は、300年もの歴史を誇る。
14万平方メートルもある。
これは維持管理、掃除は凄そうだ。
国費から補助が出ているのだろうか。
ミシュラン・グリーンガイドに選ばれたのもわかる。
海外からどんどんお客さんに来て欲しいものだ。
渋いオカヤマ。
「きびだんご」だけじゃない。

鯉がお上品。
やはり鯉は、澄んだ池に少量が良い。
大量にぎゅうぎゅうバタバタ狭苦しく飼育され、人の足音を聞き付けるとピラニアのごとく、猛スピードで寄り集まってくる鯉とは、少々、趣が違う。
しかし、鯉も主の威勢を反映していると感じる。
だが、ピラニア鯉だっていいかも知れない。勢いがある。
飛ぶ鳥を落とす猛勢。
なつかしい、焦点の合わない遠くを見る目になる。

と、話は逸れる。
松ひとつ取っても、植木職人の一番の腕の見せ所。
時間もかかるが、費用も半端ない。
昔の殿様に想いを馳せながら、庶民にも栄枯必衰があるとしみじみ感じる。
平成も30年も続き、いよいよ終わりを迎えようとしている。

わたしは、ボケながら、あと30年も生き長らえなければいけない。
お天気の良い日には、散歩して、風情ある風景を堪能したいものだ。
この心情、あきらかに25年は早い。
自覚、自己認識している。
でも65歳以上になると、あらゆる入場料がお安くなり、足腰が動くうちは、シニア特権を享受したいものだ。

かたや、都会では独居老人の数が激増しているらしい。
明暗分ける可能性を皆、持ち合わせている。
長い人生散歩の中に、人生修行も含まれている。



思い出したくもない大恥

2018-11-26 | 仕事
昔のことを断片的に思い出して、きゃっと真っ赤になることがある。
苦しいぐらいに恥ずかしい。
苦しいを通り越して、きりきり痛々しく苦痛。
特に、仕事で恥さらし的なことをした時。
出来もしないことをさせられ、恥をかいているのに、仕事になっている。
それでお客様は代金を支払っている。
支払う側も大きな会社の雇われの身だから、自腹ではないので痛くも痒くもない。
しかし、なあ、、、

お金をもらうからには、それに相応しいことをすべき。
お金の流れとしては、非常に両者、円満なのだが、わたしの仕事レベルでは、まるで、詐欺である。

わたしは、クライアント会社の社員さんにレクチャーをしに出向いた。
素人さん相手ならともかく、企画部の人様相手にレクチャーなど、とんでもない。
堂々と、デタラメをそれなりにハッタリ、ならまだしも、いかにも自信がない、いい加減な適当なレクチャー。
早口でペラペラ、薄っぺらく、用意していたものを読んだだけ。
専門的でもなんでもない。
ああいう仕事を何回もした。
ひどく精度の低い仕事。

あんなことは、もう二度と、ごめんだ。
最低の仕事なのに、お金がもらえる。
良心の呵責に苛まれる。

でも、誰も泣きを見ていない。
誰にも迷惑をかけていない。
お金を支払う会社も、支払ってもらう会社も、円満。
実に不思議なお金の循環。
世の中には、こういうことはよく行なわれているのかも知れない。

例えば、年度末の予算の使い切りとか。
必要なことにお金を使うわけではないのに、使い切ってしまわないと、次年度の予算を確保できない。
不必要かも知れないのに、立て続けに行なわれる公共事業とか。

思い出したくもない過去である。



自分を理解してもらわなくても別にいいかぁと、、、

2018-11-24 | ブログ
ご近所回覧板ぐらいの閲覧数に、ぎょっとしてブログ記事をアップした。
アップして間も無く、あらら、不思議な怪奇現象が、、、。
閲覧数がいつもぐらいに増えていた。数字が戻った。
そんな、あほな。

時間別閲覧数ではなく、1日の集計閲覧数だったのに。
信用できない。
が、まあ、結果良ければ全てよし、とするか。
て、AIもミス多発なんですね。
信用するのは自己責任か、、、
それもちょっとキツイと思うが。

最近、わたしの話したり書いたりの表現方法が悪くて、伝達事項に誤解を招くことが少なくない。
必死で説明するのだが、モタモタ。
相手はどうせ、わたしがまたボケたことを言っているのだろうと、まともに扱わない。
正解のことを必死で訴えているのに、無視される。
なのでわたしも、直訴を中断して静かに引き下がる。
後で、わたしが主張していたことが合っていた、となっても、誰も謝りもしない。
わたしは、やっぱり、それ見たことか、と思うけれど。
こころの中で思うだけ。
自分の正当性を訴えるのに疲れた。
もう、なんだっていいかな、と。

どん底

2018-11-22 | ブログ
閲覧数を見て、絶句した。
もちろん、悪い意味で。
ブログ村の注目記事、今朝見ると、第5位にランキングされているが、昨日の閲覧数は、な、なんと。
ご近所の回覧板で回った軒数ぐらい?
著しい、この乖離。

どうなってるんだろう。
一昨日から見ると6分の1、いつもの10分の1、良い時の20分の1。
これって、なあに?
放置すると空き家も、あばら家になり、いずれは倒壊の危険性あり、ということか。

ちょっと、こころを入れ替えてみよう。
最近、趣味SNSばかりに行っているから、ブログの神様が、コラコラとお灸をすえたのだろうか。
お仕置きされた。

もともと大したことのない愚ブログだけれど。
慢心した?
読んでいただく皆さんが、いつまでも読んでくれる、とは限らない。
それにしても、、、ブログを開設した初日より少ないのではないだろうか。
5年間放置している、別に持っている旅ブログより少ないのでは?
びっくり!

それもさることながら、ブログ村の注目記事ランキングって、いったい何?
AIの仕業だとすると、AIって、いったい何?
わたし(たち)は、AIに絶対的信頼をし、頼り切っているのではないだろうか?
という、AI能力や基準を丸呑みすることへの警鐘?

あるいは、注目記事ランキングは、AIではなく人の感性や手作業によって行われている?
はたまた、AIも人も関係なしの、適当、めちゃめちゃに、その日その日、デタラメに選別されているのかも知れない。
まあ、なんでもいいんですけどね。
ブログ村には一円も払ってないけれど、gooには毎月お支払いしている。
だから、わたしのブログは、つまらない、しょうもない内容ではあるけれど、広告は載ってない(はず)。
(あ、今、見て見ると、いっぱい広告が載っている! なあんだ、、、)

スマホ画面に広告チカチカは、やはり何ごとも、タダで楽しもうなんて了見は甘いということを気づかされる、人生テキストの一部だと、わたしは捉えている。
(なかには、興味のある宣伝もあるし、退屈で死にそうな時には、暇を埋めてくれることもある)

しかしながら、どん底最低でも、注目記事ランキングに入れてくれている、ブログ村様には、(ランキング基準には疑問を感じても)感謝しないといけない。

ゲーム依存性

2018-11-15 | わたし
趣味関係の知り合いでゲーム依存性の人がいる。
大の大人が、、、といっても、大人を通り越して、還暦過ぎたおじいちゃんが、、、小学生の隣でスマホの画面を夢中で覗き込む。
小学生もゲーム。同じゲームだったりして。

彼は、ゲームをやめよう、やめようと自主規制しているが、どうしてものめり込んでしまうらしい。
あまりある暇な時間をゲームに費やしたら、なにもすることがなくて鬱になるよりいいではないか、と、わたしは思うのだが。
彼曰く、強力なキャラクターにするために課金してしまうとか。
ゲーム会社もそうやって、客を夢中にさせ、お金を絞り取るのか。

お金も時間も限られているのに、ゲームに費やしてしまう自分が嫌だから、お金がかかるゲームは、今年いっぱいでやめる、と彼は宣言しておられた。
ただし、お金のかからないゲームをするそうだ。

しかし、思うに、、、
競馬やパチンコに、お金をかけずに楽しんでいる人はいるのだろうか。
買い物依存性もそう。お金をどんどん費やしてしまう魔力にハマる。

わたしは、ドケチなので、その手の誘惑には全くハマらない。
いかにお金を使わないか、に喜びを感じる。
ギャンブルは、大嫌い。ギャンブルする人とも、全くおつきあいはない。

でも、何もすることがない、膨大な時間を持て余している人や、出先での時間待ちには、ゲームもよかろう。

ゲームは、費やした時間とお金がゲーム上の成果として手に入る。
だから夢中になるのだろう。
やればやるだけ、はっきりわかるものが手に入る。
人間関係はそうはいかない。

わたしは、全くゲームには微塵も興味がないが。
人には人の楽しみがあり、良さを理解できなくても、不可侵だと思っている。
もし、家族ならイライラするに違いない。
時間やお金をゲームに費やして、家族の団欒タイムも常にゲーム、会話もゲームしながら、外食時もゲーム、だったらとても許容できないと思う。
だが、所詮他人なので、踏み込まない。
非常に寛容である。
こころが広いのではなく、自分とは関係ないから。

そうすると、家族は、身近で一挙一動が気になる。
良いことなら問題ないが、嫌なことならこころの病気になりかねない。
だから、家族とは言え、距離感が必要だと思う所以である。
各個人の意思や嗜好を尊重する。
あるいは協調の精神をもって我慢し合う。

子育て時期は、尊重もへったくれもなく、ただただノルマをこなし、目標に向かうのみだった。
不思議と子供たちは、すんなり、ついてきてくれた。
子供も巣立ち、二人になると、ノルマなど無いわけで、あとはいかに残された二人が邪魔し合わないか、だと思う。
夫婦間もそうだし、子供に対しても。
邪魔しないで、なおかつ、そこそこの喜びや楽しみをシェアする。
踏み込み過ぎずに、でもこころの中では手と手を取り合っている。
そういうのが、わたしの理想だ。

ゲーム依存性の家族の方は、お気の毒なような気がする。
ギャンブル依存性でもない、かわいらしい額の課金だからまだ深刻ではないが、顔は目の前にあっても常にゲームでは、「わたしたち、家族なの? 一緒にいるだけならそれでいいの?」と思ってしまいそうだ。
出かけなくても家庭内でも出来るゲーム依存性は、意外に、思ったより深刻かも知れない。

しかしあまりにも自分の要望を押し付け過ぎるのも重い。
必ず家に帰ってきて、家で食事をして、生活費も入れてくれる。
それでいいのでは?
ゲーム好きのATMではだめなのか?

と思っていたのは、ひと昔前。
今は女性も経済的に自立している人は、そんな我慢はしないと思う。
(パートぐらいの、お小遣い程度の収入の人は、経済的に自立しているかというと、微妙だが)
しかし、経済力があるからといって、お金で縛るのもどうかと。
一人一人微妙なバランスで、家族と関わっているのではないだろうか。

理想は理想、現実は現実。
あまり理想をふりかざすと、そのギャップに苦しみ、自分の首を絞める。
「わたしはこんなに頑張っているのに、あなたはどうして協力してくれないの?」
なんて言われたら、けっこう、うんざりすると思う。
でも全く要望を示さないと、相手はわからない。
さじ加減は難しいが、それぞれの各自の方法やタイミングで、やっていけばよいのでは。

相手が自分の思うようにならないからと絶望するのは、早い。
人など、元々、思うようにはならないものなのだ。
それを思うようにしたい、などとは、思い上がっている。
なら、先に理想に向かって自分がやり始め、やり続けて自分が変わらないと、相手は変わらない。
自分が変わっているのに相手は変わらなければ、その時にまた考えたらよい。
捨てるなり、切るなりすればよい。
頑張り続けて変わった分、十分、強くなっているだろうから。
捨てる勇気も育っていることだろう。

捨てる勇気を育てるまでは、かなり自分は努力しなければならない。
わたしは、多分できない、無理だろう。
でもやってみて、少しでも動いてみる、行動することは大事だと思う。
相手を変えるのではなく、自分を改造することからスタートしたほうがいい。
許せなかったことも許せるようになっているかも知れない。

子供のまま

2018-11-11 | わたし
わたしが、わたしが、、、と子供のように自分のことを書いてみたくなった。

「ねえ、聞いて聞いて、あのさー、あのさー」と保育所に通う孫はアピールする。
そうでもしないと大勢いる子供から一斉に話しかけられる先生の注意を引けない。
家でもその癖が抜けないようだ。

さて、わたし。
ねえ、聞いて聞いて、ではないのだが、自分で面白がるために。
他人が聞いてもなんも面白くない。
見て見て、と自分の孫の写真を見せられる他人のように。
美醜的に可愛くても可愛くなくても、とりあえず褒めておく。

と、相変わらずもったいをつけた前置き。
じつは、もったいぶっているのではなく、何を書こうか考えている。
助走、ウォーミングアップにお付き合いいただき申し訳ありません。

で、わたし。
なんどもここで書いている、わたしの子供時代。
乳幼児の頃、お花畑にちょこんと座らせていたら大人しく機嫌が悪くなかったそうだ。
母がそう言っていた。

ずーっと一日中?
ずーっとそのまま?
保護者の保護責任放棄、ネグレクトの一種か?
本人は精神的ダメージも受けていないので、そのような事実は確認できず、問題はなさそうだ。

小学校1年の担任の先生の、通知表に書かれているわたし評。
「大人しいが、芯はしっかりしている」
このコメントは気に入っている。
今の原型は、そのまま維持。
全く変わっていないことに、むしろ面白くなさを感じるほどだ。

学年が上がると、協調性の項目には△が付き始める。
まあ、これも原型そのもの。

つまり、1人でほっておいても、お気に入りの空間なら静かで大人しい、ということだろう。
ただし、「さあ引き上げよう、帰ろう、みんな帰ってるよ」と促されても、一向に重い腰を上げない可能性がある。
あるいは、「こうしましょう」と決まったことにでも、従わない可能性がある。
具体的にはよくわからないが、ちょっとマイワールド重視なんだろう。

で、ここで待ち人、来たる、の直前。改札口前。
続きはいつになるのか、誰もわからない。



自己評価が低すぎる弊害に直面した

2018-11-10 | 趣味
ここのところ、こちら蝶ブログで書いていない。
一昨日、夜中に布団の中で入力してアップしたつもりが、朝になって見てみると、なんの足跡もなかった。
寝ぼけ操作は、あきません。
子守唄代わりに、ブログ投稿は、イマイチである。
睡眠導入剤になっている。
仰向けになって入力していると、時々、突然、顔面にスマホがガツンと降ってくる。
痛っ!という瞬間。
目にでも当たったら大変だ。笑うに笑えない。

で、電車の中で書く。
行きに書くと元気がよい。
帰りに見ると、行きの時の気持ちはもはや萎み、トーンダウンしている。
勢いでアップするほうが良さげだ。

で、消えた記事。
実はよく覚えている。
今週半ばから、わたしを悩ませていること。
自分の今後のスタンスについて。
というと深刻風だが、実は趣味のこと。
しかし趣味は今後の人生に重なる部分が大きい。

今、習っている人に強く熱くアドバイスされた。
残された時間は限られている。
自分の能力に挑戦できるのは今しかない、と。
わたしは過小評価気味の性格。
消極的で頑張らない。
自分の能力を信じていないので、出会った相手に左右される。
自分での評価は事実とかけ離れている場合があるため、人からの評価を参考にする。
主観ではなく、客観性に頼る。
出会った縁のある人は、自信家かそうでないか、という、マインド系はさておき、実力派かそうでないか、そこが要である。
口先だけの人は、ノーサンキュー。
熱く理想を語るが、現実はイマイチ、なんてのは、わたしだけで充分、結構。

大したこともないのに自信と気合だけで持っている人とペアを組んでも、今が、まだ挑戦できる時期だとすれば、もったいない。
挑戦せずに埋れるのは、いかにも惜しい、と。
わたしの実力に合った人は、どうやら、もっと上のランクらしい。

なんだか、学生時代を思い出した。
受ける学校、直前になると、どんどんレベルを落としていった。
どんだけ自信がないんや。
滑り止めの、またまた滑り止め。
当然、全部、合格するのだが。

しかし、今のペア相手に何と言えばよいか?
「あなたの実力では、わたしの力が発揮出来ないから、わたしの力に見合った人と組みますね〜」
そんなこと言えない。
今の相手もかなり努力して見つけたのに。
しかもまだ次の相手も見つかっていないのに。

相手を探しながら今の人と組むにも、今の相手と活動する場のレベルが低いため、わたしには、レベルが高い人と接する機会がない。
今の相手と組みながら、次の人を探すことは、同時進行は出来ない状況である。
(気持ちは、片足、浮いていても、二股は掛けられない)

どんどん時間だけが過ぎていく。
今の相手Aさんは、今が最高状態なので、次第にトーンダウンしていくと思われる。
「残された時間を気にしながら今を思いっきり楽しむ派」のAさんと、「残された時間に挑戦して頑張る方向へとシフトしたい」わたしとの方針バイオリズムが合わない。
10年後なら、楽しむ派だが、まだこの10年、せめて5年は自分のポテンシャル、可能性に挑戦したい。

だんだん、亀裂が生じるのも時間の問題か。
あるいは、融合パターン、折衷案が生み出されるか。
とりあえずは、わたしの舵は少し切られた。
が、安易な方に流れる私の性格は、直らない。
理想は高いが、現実は怠惰。
実行実践できないならカッコイイことを言うべきではない。
厳しい人にお尻を叩かれ、やる気に燃える。が、また萎む。
行ったり来たり。
結局、優柔不断。決める前に事態が動く。
自然に任せると言えば聞こえはいいが。
決められないでグズグズしていたら、時間切れになって、どうにかなる、という流れ。
どんな風に行動していても、行動しなくても、それなりにどうにかなる。

皆さん、結果をお楽しみに。
頑張っても頑張らなくても、大して変わらないから。