蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

慌てて、人生の結論を出す

2019-09-29 | 無題
妬みって、ある。
生きている限り。
自分より少し上の人に。
うんと上の場合は、憧れだったり、尊敬だったり。
妬みは、自分と同レベル、少し下かも知れないのに、少し上にいる。
悔しい、、、
いずれ追い越してみせる、、、
これはライバル出現で目標、モチベーションにつながる。

が、良くないのは、ワラ人形タイプ。
どう自分が頑張っても無理な場合、相手に天賦の恵みがある場合、運・不運がある場合。
努力では補えないものは、妬みから怨みに繋がる。
鬱憤が溜まる。

そんな鬱憤を晴らさせるような標的になってはつまらない。
だが、有名税はつきもの。
わたしはその点、鳴かず飛ばずだから大丈夫。
鳴いたり飛んだりしても、目立たないようにする。
出る杭は打たれるから、出なければよい。

目立ちたくてウズウズ、認めて欲しい人は大変だ。
向上心のある人は、承認欲求とセットだろう。
認められたいから頑張る。

わたしは、エネルギー不足なのか、認められなくてもいいから、頑張らない。
こういうのを覇気が無いと言うのだろう。
別にいいやん、認められなくても。
もう、勝負ステージから下りている。
見守りステージ。
見守りながら楽しむ。
いや、むしろ、見守っているほうが楽しい。
頑張るのは楽しくない。
色で言えば、無色や白ではなく、透明。

毎日が忙しくて、生活に追われ、生きる意味を考えるヒマがなくて、今日までそのままにしている、と、とあるブロガーさん。
きっと最期までアタフタ忙しくて、生きる意味なんか考える時間もなく、いってしまうだろう、と。
これは、最高の答えだと思う。
生きる意味なんて考える人は、暇人か、悪妻に悩まされるソクラテスぐらい。
ご飯の用意する時間になると、考えは分断され、また一から。
ちっとも答えは煮詰らず、煮詰めようものなら、お鍋の中のオカズが煮詰る。
焦げる前に結論を出さないといけないが、焦げるほうが早い。
結論は先送りとなり、生きるための生活が優先となる。
それで、いいんじゃなかろうか。

生きる意味など見つけても、思い通りにならなけれれば無意味。無念なだけ。
だから、なんでも程々、道、途中が良い。
(電車、下車時間になり、無理やり〆る)
なんだって、こんなもん。
追求したところで、なんの意味もない。
減ったお腹に、何か詰め込むほうがずっと手ごたえがある。

もの想う秋

2019-09-28 | 無題
故人を偲んで、偲ぶ会が催されるとする。
わたしは、自分が偲ばれる側になるとすると、家族、血縁者だけでいい。
血縁者が一人もいない人もいるし、血縁者も偲びたくない場合だってあるから、贅沢な望みかも知れない。
しかも、わたしは長生きしそうなので、親きょうだい、配偶者は、お先にあの世へ。
とすると、子供、孫しかいない。

偲ぶ会の頃のわたしは、偲ぶには値しないと想像する。
孫は成人しているし、偲ぶ会直前のわたしは、偲びたくない状態だろうし、孫が幼い頃の、まだ元気な、ばあちゃんなど覚えてないだろう。
こんな自分をぜひ、覚えていて欲しい、と望んでも、こんな自分はたまたまであり本来の自分ではない!というシーンばかりを思い出されるかも知れない。
別に良い記憶を擦り込みたいわけではないが。

何十年も先の自分を想像すると、なんだか涙が出てくる。
可哀そう、というのでもなく、侘しい、というわけでもなく、懐かしい郷愁を逆行させたような、不思議な感覚。
無条件に愛する者を持つと、涙が出る。
愛さない方が、からりとして良い。
愛する者たちとの別れが悲しいわけではない。
なんだろう、、、なにしろ、愛おしい、愛の一種である。

夫や親きょうだいには、さして何も感じない。
わたしの生と同時進行している。どっちが早いか、似たり寄ったり。
(親にはわたしの未来の顚末、終末先取り感)

子や孫は、時間差がある。
子や孫は成長し、わたしは衰える。


保育園の秋行事に参加した。
今年の真ん中孫は、2年前の上孫と同じ。
お神輿わっしょいと、ダンス!
二人とも、リーダーに任命されようだが、真ん中孫のリーダー任命には親も祖母(わたし)も、首を傾げる。
なんであの子がリーダー?
ちゃんと出来るんかいな?

予想通りの、なんであの子がリーダー?みたいな進行状態だった。
練習通りの位置にいなかったようで、園長先生に名前を何度も連呼されていた。
父親(娘婿)は、「当日、大きくミスらない、可もなく不可もない子供が選ばれたんでしょう」と言っていたが、予想は少しハズレた。
まあ、ご愛嬌、かわいいものである。

真ん中孫の勇姿を見ながら、3年後には同じお神輿を担ぐ末孫の姿を想像した。
上2人とはちょっと違う、気の強い、意志のはっきりした子なので、頑張りそうな予感がする。
と、たんに、期待を下へ下へと順送りにしているだけか?
健康であれば、それでいい。

日本の人口は減少する一方、地球環境問題だとか、これからの子供たちは課題満載。
大変だけど、頑張ってほしい。
わたしの命の泉、愛おしい涙のモトになっている。

眠いって、便利

2019-09-26 | 無題
わたしの言葉はキツイ。
当たり前のことを言っているのだが、優しさがない。
例えば、、、
人は生まれ、やがて死ぬ。
当たり前。
だが、そう言っちゃあおしまい。
いかに生きるか、なんだけど。
ついつい、それがどうしたの?と、クールになってしまう。

だから、人と話す時も、アタマに思い浮かぶ言葉を、必死で引っ込める。
検閲機能はまだどうにか働いているようだ。
が、次々けしらかんことがアタマに浮かび、これもダメ、あれもダメ、と、口に出す言葉がなくなる。
そういう時は、たいして思ってもみない、無難なことを言う。
自分は、こころとは裏腹な発言に、しら〜っとなっているが、仕方ない。
ホンネばかり口にして、なんという人間だと、距離を置かれても困る。
そういう検閲をしていたら、お酒を飲んでいても楽しくない。
お酒は検閲を緩めるためにある。
が、近頃は緩まらない。
お酒の効きがよくないのか、保身に回っているのか。

自分をさらけ出すと不愉快な気分になる。
なぜなら、自分は、冷たい人間だから。
ほとんど全てのことを「生きるためにやっていること」と見なしてしまう。
本能を見抜いて、かえって傷つく。
なぜなら、その本能が一番強く、本能に正直なのは自分だから。
自分の毒に自分がやられる。
自分を隠さなければ、見え過ぎる目に目隠しをし、聴こえすぎる耳に耳栓をし、喋りすぎる口に、猿ぐつわをしなければならない。

と、自己評価、高すぎた。
実は目は曇って見えず、耳もろくに聞こえず、口は間違いだらけ。
だから、よけいに何も話さないほうがいい。
間違いだらけの、困ったひと。
まあ、仕方ない。
しかし、中間はないのか?

別SNSで、「(人には人の内情があるのだから)人の外側ばかり見ないで、自分磨きに励んだら?」とキツイ直球を投げられた。
あれは効いた。
例え一言発しただけでも、本質を突いていると人を不快にさせるようだ。
人の本質には触れないに限る。

と、またまた眠くなってきた。
我が脳みそに愛想を尽かされたようだ。
眠い時に眠るのは、最大級に気持ち良い。
ややこしい面々、人々が時間差でやって来るまでの貴重な時間、しばし、お昼寝します。

小競り合いエブリデイ

2019-09-26 | 暮らし
ここのところ、つまらないブログ記事が続く。
ただただ、自分の思いをツラツラ書いているだけ。
読まされる側を被害者にさせているような罪悪感に似た感情を抱く。
時間を奪ってすみません。
最初の一行と、最後の一行だけ読んでいただいたらよろしいかと思う。
というか、わたしのブログなど、、、
と、今日はなぜか自虐的な気分である。

・・・
昨夜、こんな書き出しから始めようとしたら、次が続かなくなった。
飲み会の帰りの電車内だった。
おそらく、もう飲み会はケッコーと、自分なりのサインなのだろう。
お酒を一定量以上しばらく飲んでいないので、がんがん飲む状況、それによる自分の体調変化に自信が持てないのだろう。
気持ち良くなるより、不安のほうが大きい。
電車のホームからは転落しないとは思うが、帰宅後、食事の用意が待っているかと思うと、体力を使い果たせない。
昔は平気だったのに。若かったんだろう。
帰りの電車内、身体のどこか血流が悪くなっているのか、肩や首などが凝ったり、お尻が痛くなるなんて情けないことしきり。
思いっきり酔っ払って、ぐだぐだになっているほうが、まだ潔い。


ちなみに、夫、なんと、夜と朝の中間、少し朝寄りの時間に、おひとり様ウォーキングをしていた。
たまたまわたしがトイレに行くと、ちょうど出て行く時だった。
ウォーキングに行くだけだから玄関に鍵をかけるな、と言うが、そんな暗い時間に施錠せず待つなんてこと、できるわけがない。
最初は言いつけ通り施錠しなかったが、不安で寝ていられない。
最近起こった凶悪事件が頭をよぎり、寝室で少し横になってから、玄関近くの和室に移動し、鍵をかけた。
いつ帰ってきても解錠できるようにスタンバイ。
結果的には睡眠不足。

帰ってきて、玄関をノックする夫。
「鍵かけんといて、って言ったやろ」と夫は言うが、家に残されたわたしが、強盗や暴漢に殺されてもいいのか?
「鍵開いてたら、恐怖で、ノイローゼになりそうだから」と言い訳したら、それ以上は追求されなかった。
夫は、いつも家にわたしが居ると、鍵を掛けずに出る。
自分が帰ってきた時は中から鍵を掛ける。

家に誰も居ない時でも夫が居る時でも、わたしは、その度にバッグから鍵を取り出してガチャガチャ開ける。
誰も居ないなら、当然当たり前のこと。
なんの問題もない。
夫が中に居ても、夫が中から施錠していると、わたしは外から解錠する。
これも問題がない。
問題があるのは、夫が出掛ける時にはわたしが居ると鍵を掛けないくせに、自分が家に入った後には中から鍵を掛けること。
自分が中に居ると掛け、自分が中に居ないと掛けない。統一されていない。
自分だけ守ればよいのか、と、いつも至ってわたしは不愉快になっている。
毎日の積み重ね。
どんな暗闇早朝でも、熟睡していても、わたしが中に居ると絶対に鍵を掛けずに出て行く。

他にも言い出すとキリがない。
靴べらは使うと必ず放置。元の場所に戻さない。
ちょこまかと、靴べらを置く位置を変えてみたが、発見され、使った後、放置。
直近でわたしは靴べらをゴルフバッグに突っ込んでおいた。
これで、靴べらは発見されないだろうと。
放置服や放置カバンは、必ず夫の部屋に戻しておく。
夫の部屋は夫の寝室でもあるのだが、整理整頓など気にせず、どんどん御構い無しに、わたしは機械的に放り込んでいく。
以前は家のメンテナンス点検がある時など、整理整頓していたが、今は、放置。
自分のモノは自分で管理していただく。
部屋はすごい惨状になっていようが、いまいが、知らない。
(知っているが関与しない)

ついでに追加。
今週あたま、浴室の座る位置の棚に立てていた、開封したばかりのわたしのシャンプーが倒され、シャンプーは流れ出て、中身が3分の1に減っていた。
防衛策として、倒されないように高い場所に移動させた。それだけ。
だが、とてつもなくムカついた。
防衛するしかないのか、と。
まあ、仮に舅姑と同居していて、彼らの仕業だと想定すると、たいしたことはない。
孫の仕業だったりすると、また違う感情だろう。

小さな空間の蟻と蟻の小競り合いバトルは毎日続いている。
それも生きる上でのスパイスかも知れない。

エッセイの神様、うんざり放置

2019-09-24 | 日々のこと
昨日に引き続き、今日は実家の仏さん行事。
昨日、エッセイの神様に消されてしまったブログ後半の考察、、、続きを書く気力はなくなったが、それは昨日のこと。
あれから帰宅し、娘一家を交えた我が家での夕食のあと、真ん中孫のバースデーケーキを囲み、エネルギーチャージ。
だが、それはそれ。
かなりまだ頭のスミから真ん中寄りに、引っかかっている。

しかしながら、ん〜、引っかかっていることは引っかかっているのだが、引き出すのが大変。
最近、しぶとく、脳のどこやらに引っ付いたまんま、出てこない。
愛想を尽かしたいところだが、なにしろ自分と脳は一心同体なので、可愛がり慈しまないと。ぼろっちい脳みそでも。

と、関係ないことを書きながら、実は一方で記憶の糸を辿っている。
・・・あ、そうそう。

家は主人がいないと、ただの箱。
空き家。
魂がない家には幽霊も出てこない、と書いていたのだった。
リフォーム時も、リフォームした人の情熱、魂が入っている。
姑が孫たちのために別棟にリフォームした浴室と洗面所。
使ったのは、一度か二度。
自分が自宅で最後までいる予定で、その時の居室を新たに別棟に移動、整備し、孫たちが家族を連れて泊まりに来る、明るく楽しい未来図を描いて行った、リフォーム。
今では誰も使わないまんま、新古品となったリフォーム現場を見て、感慨にふける。

よくあることだが、親が子世帯と同居を望み、家を新築するものの、願い叶わず家だけ残る。
誰かのためではなく、自分のために建てたとしても、家を建てるという一大事は、隆盛ピーク時であることが多い。
自社ビルも然り。
知人の建設関係者が、懐かしい目をして言っていた。
邸宅やビルを建てた後は、坂を下るのみ。
それは、盛者必衰の理。
昔からそうなっている。
華々しいことは、続かない。
地味なことなら、負担がない場合、どうにか保つ。
時代の推移はあっても、変わらないものは変わらない。
先人の知恵や営みの上に我々がある。

先日、敬老の日に因み、行政の啓蒙目的ティッシュと共に、そういう倫理系冊子を街で手渡された。
書かれている内容に100%賛同したが、その団体は、学校も運営しているようで、引いた。
学校は、やり過ぎだと感じる。
倫理の時間や、朝礼や、行事のなにかにつけ、教えを復唱するのだろう。
わたしは、嫌。
各家庭でやればよい。
しかし、昨今では、核家族化し、家庭事情も様変わり。
痛ましい事件が後を絶たない。

かく言うわたしも、家庭で立派な教えを説き、実践しているか?
親の代はしていたが、自分の代では、全然逆のことをしている。
せっかく先代たちが築きあげたものを維持どころか、壊そうとしている。

孫を倫理学校に通わせるなら、間接的に実践で背中を見せるべき。
なぜ間接的かと言うと、孫とわたしの間に、娘世代が入るから。
娘世代が考えを取り入れなければ、孫まで浸透しない。
最低限のことだけ取り入れるとすると、スピリットかな、と。
有形ではなく無形。
無形を具現化した墓なんかは、どうなるのだろう。
墓というハードでなくてもよいのかも知れない。
選択は、次世代に任せるのか、一応、遺志は伝えるのか。
しかし、夫婦で遺志が違うので、次世代は困る。
纏めて統一するか、次世代が好きなようにするか。
あるいは、次世代に迷惑をかけないように、自分の分は完結させるか。

この世で考えの違う夫婦が、あの世で一緒になるとは思えない。
あの世に行く前に談合しておく?
なんのために?
行くあの世は、お互い別々だと思う。
(あの世でも体感温度やテレビの好みは違うだろうし)
そんなことを思いながら毎日、生活を共にするのは、けしからんのでは?
だが、多かれ少なかれ、そう思って生きている人はいると想像する。
口に出さないだけ。
口に出さないにしても、こんなけしからんことを考えるのは、自分を責める?
自分が悪い、、、原因、責任が自分にあるなんて思い悩むと、こころの病気になる。
そこまで考えさせた相手にも原因がある。
相手も同じように考えているとすると、五分五分、引き分け。
ただし、あの世については、現在すでにあるもののルールに則った形となるようだ。
彼岸。
ルールの維持。
わたしは、こころの中で抵抗する。

じゃあ、自分の実家は?
なかば、これも事情あってのことだが、今だけの暫定処置。
先は決まっていて、わたしは賛成している。
だから、そこらあたりが、同じ彼岸行事でも、夫の実家側彼岸と、わたしの実家側では、こころの中は違う。

と、延々、電車移動中に書いてみた。
エッセイの神様は、長くて興味なくて途中で、投げたと思われる。
今日は、消えてないようだ。

その後が肝心だったのに、神様に消された

2019-09-23 | 日々のこと
残りゼロで残念すぎる、おひとり様時間。
早朝から電車に乗り、夫の実家のお彼岸対応。
お坊さんが、お経を読みに来る。
なんか、不思議な図。

電車は乗り換え3回。
3回目でウロウロしていると、駅員さんに観光客と思われたのか(はたまた熟年迷子か?)ホームの乗車位置を教えてくれた。
ここで待っててもあかんで〜という内容。
「ありがとうございます」とお礼を言う。

うーん、よく知った場所なんだけどなー。
でも、直近も乗り間違えそうになったし、ありがたいことだ。
しかし、車で行かないと時間が2倍はかかる。
ホームでの待ち時間は、暑かったり寒かったり、風がきつかったり。
四季折々の気候を楽しむのではなく、自然の神様が設定した気温に耐える。
夫ではなく、自然の神様だから、まあ耐えられる。耐えねば。
人間は勝手なものだ。
電車内の猛烈な強い冷房には、身体中が冷える。
車内冷蔵庫。
駅に停車してドアが開いている間は、外から、気持ち良い温い外気が流れ込むと、ほっとするが、束の間。

わたし、微妙な温度の暑さ寒さに弱いようだ。
若い頃は、そんなことはなかったのだが。
あと、関係ないけど、柿はカッチカチの硬いのか好きだったが、最近は柔らかくても許せる。
しかも、ヨーグルトに熟柿を混ぜたりして食べるようになった。
まだ歯は機能しているのだが、カッチカチの草加煎餅をお茶にふやかして食べるようなもの?
好みが30年先取り。
なんでも、やたら先の先へ長い先取り。
と言いつつ、ほんの数年先にも、噛めなくなるかも知れない。
なら、噛める間に、カッチカチの食感を楽しめばよいものを、歯が欠けたら嫌だから、守りに回っている。
今しかない、と言いながら、今を少し惜しんで明日にお取り置きしている。

・・・
ただいま、お坊さんが来る時間待ち。
お坊さんを近隣、数軒手前で見かけたから、そろそろか、と言っても見かけた時から、まだ予定時間まで、一時間以上はある。
そうこうして、お坊さんは少し早めにやって来た。
で、実況中継は、ここで終わり。

・・・
とここから、延々と帰りの電車内で一時間近くかけて書いたのに、消えてしまった。
スマホの電池と、時間、指と眼の労力、わたしのエネルギーが、ぱー。
残念だが、致し方ない。
きっと面白くもなんともない内容だから、エッセイの神様が消したんだろう。
神様とわたしは、センスが合わない、、、。むかむか。

新たに書く気力が萎えたので、ふてくされて今日は終了です。

おひとり様も、終わりに近づくと残念だ

2019-09-22 | 日々のこと
おひとり様、昨日の楽しかったことったら。
まだまだ今日も続くが、今日でおしまい。
もう終わりかと思うと、アタマの隅に引っかかって、今日は存分に楽しめない。

昨夜は、夜更かしをして(といっても12時半過ぎ)、いよいよ寝る頃、防犯のため、もったいないが電灯を一箇所、つけっぱなしにした。
どの部屋のどの電灯が一番省エネか、迷ったが、台所の蛍光灯にした。
小さい豆球は、長時間つけると、すぐ消耗してしまう経験あり。
おひとり様・快適生活には、やむ無し。

夜中のトイレも、朝方のトイレも、わたしからお呼びがかからず、蛍光灯を切るチャンスを逃したものの、熟睡。
いつも頻繁に行っていたトイレは、ひょっとするとストレスだったかも知れない。
しかし、快眠のためか起きた時間がずれ込んだため、外出時間までの自由時間が減った。
黄金の自由時間を睡眠で潰されるのは、非常に残念である。

昨夜か今朝、夢を見た。
結婚候補男性と、結婚するかどうかジャッジする段階の夢。
残念なことに、自分は母親役。
さすがに、結婚する、当の本人ではなかった。
相手も、ひょっとすると本人ではなく親だったかも。
親の背景やコンテンツやエピソードはたくさんあり、親の経歴や活躍、生き様はよくわかったが、結婚する当人は、その息子。
少し前にニュースで見た、中国のお見合い事情みたいだ。
親の婚活。

きっと、自分は結婚する気はないんだろう。
もし、子供が結婚するとしたら、どんな将来がいいかなあ、、、と、うすぼんやり、遠くを眺めて想像しているかの如く。
自分の人生は、もう幕を閉じているようなもの。
最後の、登場人物が全員、一斉に舞台に上がる、その幕を待っているだけ。
アンコールなんかもあるかも知れないが。

老人特有の、変化を望まない。望みは、変化がないこと。
保守派の極め付け。
終わっていると自覚するが、自分が楽しいこと、満足できること、快適なこと、したいことを十分知っている。
これ以上は、必要なし。
だが、楽しいことが減ることに不安を抱くのは、これまた老人病。
わたしは、25年早く、急いで歳を取っているとつくづく感じる。
昨日のご近所86歳の女性のほうが、ずっと心身ともに活動的だ。
いかに健康に死ぬか、それをテーマに一生懸命、前向きに毎日を生きておられる。
健康オタクが発展、進化したバージョンだ。
わたしは、いかに、ぐーたら楽しく何もしないで生きるか、が信条。
意外にストレスがないから、健康である。
ただしまだ自分の絶対年齢が健康年齢・範疇内である。
これが実は、一番、大きいと感じる。

年齢は、すべてを語る。

おひとり様は、最高に楽しい

2019-09-21 | 日々のこと
今日は最高に幸せだ。
何よりも、どこへ行くよりも、どんなすごいイベントよりも楽しい。
自宅で、おひとり様を満喫している。
ホテルの部屋に一人で泊まるような贅沢感。

たった一人の天涯孤独な生活ではない。
日頃は孫たちは頻繁に泊まるし、体感好みの全く違う夫との日常生活、、、結構、大変なのだが、今日は一人。
言いようのない解放感に、喜び酔いしれている。
一人って最高だ。
私は一人が好きだと、しみじみ思う。
と言っても、期間限定のおひとり様だからだろうと思うが。

帰宅時間も全く気にすることなく、のんびり、のびのび。
夕食も好きなものを食べ、それも、別に食べなくてもよく、テレビも好きなものを見て、面白くなければ消すことも出来る。
こんなに楽しいことはない。
自由!!!

帰りのバス停、おひとり様の気楽さから、自治会が同じ班の、ご近所の高齢女性に声をかけた。
「お久しぶり、お元気ですか?」

その後、バスが来るまでと、バス中、そしてバス停から降りて彼女の自宅まで、さらに自宅の前で長話が延々と続く。

しまった、、、と思ったが、遅かった。
あんなに彼女が話好きで、さらにまた、足が遅いとは想像できなかったが、そう言えば、わたしの実母も歩くのはあんなスピードだった。
お年を尋ねると、86歳。
母より5歳若い。姑より4歳若い。
まあ同年代だが、なんとしっかりしていることか。
話題は、健康、医療、薬、食事、運動、、、まあ博学で驚く。
「健康なら、ちゃんと楽に死ねます」と彼女は言う。
病気をすると、なかなか死ねなくて辛く苦しい最期になるらしい。
だから、健康に留意すると、楽に死ねるそうだ。
わたしをまじまじ見て、「あなたは、100歳まで生きて、スッと上手く死ねますよ」と言われた。
そんなに長生きはしたくないのだが、楽に死ねると言われて、少し嬉しかった。

わたしの大好きな上野千鶴子さんのことも、話題に上がった。
すごい! わたしの実母や姑なら、知りもしない上野氏。
この違いはなんだろう?
たったの5歳しか違わないのに、この知性、教養や、興味の幅の広さ。
やはり、受けた教育が違うのか?
でも5歳しか違わないのに、、、そんなに時代が違うとは思えない。
が、戦時中の5歳は大きいかも知れない。
終戦時、女学校を卒業する女性と、小学校を卒業する女性では、かなり違うのだろう。
女学校と小学校とでは、教育から受ける影響力は大きく異なるのだと想像する。
それだけでもないとは思うが、わたしの母や姑が、なんだか、閉ざされた地域から一歩も出ない田舎モンのように感じた。
見識や思考力に柔軟性がない、母も姑も石頭人間だ。
柔軟性があるからといって、最後までどうなるかはわからないが。

まあ、おしゃべりは、45分ぐらい続いたわけだが、母や姑の話より、ずっとずっと面白く興味深かった。

そういうわけで、自由な時間、楽しくてウキウキしていたが、いつもなかなかやる気にならない、滞りがちな日記帳(紙で製本されたもの)を書いて、おしまい。
あっけなく終了と相成った。
後は、蝶ブログを書くのみ。て、もう終盤である。
楽しい夜は、タイムオーバー。

なぜこんなに楽しいかと言うと、実は明日もおひとり様。
めちゃめちゃ嬉しい。
しかし、それ以降はあれこれ用事が詰まっている。
今だけ限定の楽しさ。
何でこんなに楽しいのか、自分でもよくわからないが、なにしろ楽しいのだ。

自慢タレはムカつく

2019-09-18 | 趣味
書きたいことがムクムク。

自慢タレについて。
自覚していない、天然の自慢タレがいる。
(この際、ややこしいので、自分のことは話から外す)

そういう自慢タレは、自分では自慢だと思っていないため、なんの悪意も躊躇いもなく、ペラペラ話す。
が、受け取る側にとっては明らかに自慢と取れてしまう。
昔、昔、姉が、若い頃、そういう失敗をやらかしたらしい。
社宅なんかの場合は、絶対にプライベートなことは言わないに限る。

また、事実、現実とギャップのある自虐ネタもやめたほうがいい。
かえって、臭う。

扱いにくいのは、本人は良い人で、ひけらかす気持ちは無いんだけど、気負わず話す内容が、周りからすると明らかに自慢。
しかも、ぽろっと一回、口から滑ったぐらいならよいが、何回も何回も強調されると、徐々に聞く側は不快モードに入っていく。
そりゃあよかったね!と、なる。
今と違う過去の話ならまあオッケー。
昔の美酒に酔う、気の毒な人、、、それはまあよい。
だが、現在、どう見てもexcellentな、客観的に天性の素晴らしいコンテンツを備えている人が、さらりと何度もその事実から派生した具象を語られると、うんざり、離れたくなる。

上記、わざと堅苦しく書いた。
実例に移る。

ある、スタイルが良く若い美人。
皆んなも認める美を持ち、ダンスも周知の上級者。
その人物が、最初の頃は、上級競技ペア相手のことを愚痴ってばかりで、感じ悪かったが、セパレートして、明るくなった。
まあそれはよい。
○人に、ペアになろうと誘われた、とか、○○さんに口説かれたとか、
スタイルいい、と言われた、とか、どういった美人かと具体的に説明したり、、、とか、、、
そういうことをすれっと嫌味なく言う。
○人に誘われた話は複数回、発信。
何度も言うが、嫌味なく言うわけなのだが、わたしは段々、この美人がキライになってきた。
事実を話して何が悪い?なのだろうが、周りの受け取り方も色々あるってことは、全く考えないようだ。
良くも悪くも、自分から発信して目立つことは、避けたほうが賢明だと思う。

良い人で、いくつもの天賦のものや、才能を持つの確かであり、羨ましい限り。
しかし、周りの女性たち、一同、異口同音に、彼女を褒めたたえる。
女子会のノリ?
わたしは、あほらしくて、直接、彼女に全く角度の違う質問をした。

女子会って、本音トークが炸裂するんじゃなかった?
本音が、あの絶賛なのか?
ほんとに、ほんとに、ホンネ?
彼女に負けないぐらいの気持ちを持っている女性がいたら?
(わたしは、彼女に負けないなんて、微塵も思っていない。ただ、自分から、自分のプラス事実をベラベラ言うのはどうかと)
自分とは比べものにならない、同じ土俵に立ってないから、どうってことないにしても。
女優がインタビューに答えて、面白そうなセンセーショナルな部分だけを切りとられて記事やニュースにされるならわかるが。

わたしは、あの上記の美人さん、謙虚な時代もあったのに、一気に噴き出すものを感じた。
謙虚に見えたが、単に我慢してたようだ。
日頃の謙虚はポーズで、実のところ、うまい具合に何か事が起きて自慢タイミングがやってくると、どっと自慢する。
平常は静かだが、潜在的には自慢したくて自慢したくて、ウズウズしていたと感じる。
まあ、普通、人間はそんなものだと思う。
素晴らしく出来た人など、そうそういない。

わたしが、ヒネクレているんだろう。きっと。
しっかり彼女とは距離を置いている。
自分が不快になるようなことには近寄らない。

崖から落ちないけど、這い上がりもしない

2019-09-17 | わたし
小さい時からいつも一番!
だが、レベルの高い集団に移行すると、普通の人。
中学の時が人生のピーク。
わたしの遠縁の親戚で、そういう人がいる。
いつもいかにモテたか、その話をする時の顔は懐かしいというよりは現在進行形、自分そのもの、というかんじ。
今はピーク時代の学友を集めて同窓会を忙しく盛り立てているようだ。
羨ましい限り。

わたしは、まさにその逆。
本来なら最終的に属することを目標とすべきレベルの高い集団に、一番最初になぜか迷い込んで入ってしまった。
(親と、わたしの持っている運のせい)
ゼロ歳で産まれたその瞬間が、天寿を全うして高齢で死ぬ時、みたいな。
なんの個性も才能も発揮も触発もされていない、純粋無垢な状態の時に、高度レベル集団に放り込まれていた。

自分は劣等生だと感じていた。
先生のスパルタ教育は、少数精鋭の進学塾のようだった。
崖から転落する同級生もいて、わたしは同じ崖の草を必死で掴みながら、横で見ていた。
なぜか、落ちまいと、、、わたしは絶壁に食らいついていた。
頂上になど登れるわけもなく、一生崖っ淵。
今だに、就寝中、深夜に、はっと崖から落ちそうな内容の夢を見る。

後に、大人になって、崖から落ちていった同級生と同じレベルの人が、じつに爽やかで、産まれた時からなんの劣等感も抱いていないことに衝撃を受けた。
わたしの基準は、おかしかったのか、、、。
ちょっと、おかしかったんだろう。

大したことでもないことに、わーわー泣いたり、パニックになる同級生がいて、わたしは理解できなかった。
どちらが普通に近いのか、よくわからないが。
(あの子は、家庭に原因があるように思う)

大したこともないのに自慢したりしている人に接すると、「大したことがないことに気づかないのは幸せだ」と、羨ましく思う。
と同時に、とてつもなく恥ずかしい。
自慢するより、さらに恥ずかしいのは、大したことがないくせに、ドングリの背比べ、目くそ鼻くそを笑うこと。
さらにさらに恥ずかしいのは、明らかに下の人を蔑むこと。
自慢のほうが、ずっと可愛らしい。

よくよく考えると、わたしの過小自己評価性質は、小学生時代の教育から受けた影響が大きいようだ。
小さい頃は感受性が強いから、その後も尾を引き、パーソナリティの芯を形成する。

大人になる成長過程や、大人になってから、色々な経験をして、価値観を修正していく。
乗り越えられなかった劣等感も、次第に乗り越えていくようになっている。
が、乗り越えられない人もいて、そのまま止まっている場合もある。

とてつもなく変人などは、社会性が欠如している。
自分のパーソナリティや思考が、社会枠を超えている。
わたしの場合、社会人としての枠がベースにないと、自分自身が崩壊する。
アウトローや、非社会人の生活、生き方は出来ない。快適ではない。
普通の一般小市民である。
何かやりたかったら、合法で。
が、そんなエネルギーも根性も熱意もなく、何もしない。

人は支え合って生きているのだから、そのあたりを理解しなければいけない。
病院に入院しているお年寄り達を見ると、いろんな思いが湧いてくる。
最後はそれ。

なんか、今朝は元気がなくなってきた。
肩凝りと頭痛は無事、クリアしたものの。
さ、タイムオーバー。
早く本日の次の準備にかかろう。