蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

しがない三味線弾き

2017-05-23 | 
ブログジャム セッション。
こちらは、三味線。
音色とか、リズム、合いますかね〜?
ん〜〜。

「おかあさん」と呼ばれる。
誰のこと?
すごい違和感。
最近、おかあさん業から遠ざかっている。
子供から呼ばれる、お母さん。
夫から呼ばれる、お母さん。
第一、わたし、夫の母親だった?
あんな年上の息子、産んだ覚えがない。

「ばーちん」
これには、即、対応。自然に笑顔。
しかし、時には、「このガキんこたち!!!ええ加減にしなさい!」と、目を三角にした、文字通りのオニババ。


夫に、ある仏事の采配と実践を頼まれた。
姑からの要請によるものだが、調べてみると同じ行事を三年前に既にやっていた。
「一度やっているから重複するので、やめたら?」とカットを提案した。
はじめは「全面的に任せた」と言っていた夫は、「(提案は認めませんので、こちらの言う通りに)してください」と、絶対命令に変更。
全面お任せ依頼だったはずが、全面押し付け、絶対服従となった。

いつものごとく、話し合いの余地は全く無い。


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発達障害系?

2017-05-20 | ブログ
ブログ村、かなりしつっこく、わたしは続けている。
カテゴリーは、エッセイ。
お若い人も多いかと思うが(そうでもないかも?)、お気に入りブログ以外は、ほとんど滅多に他のブログを読まない。
わたしのような、自己完結、自己発散、独り言ブログ、読んでいただくのも、恐縮しているところに、褒められることに馴れてないので、ただただハニカムのみ。
照れ恥ずかしい、、、かんじ。


もうそんなに年月が経ったんですね。
驚きです。
と、「です、ます」体。

時は流れ、変わらないものは、変わらない。
大人の発達障害傾向にあるかも知れないわたしだが、どうにか元気でやってます。
と、いったい誰に挨拶しているのやら。

ちなみに、
信念があるようで、全くない、わたし。
信念がないのが、信念。
自称、くらげ人間。
これからも、ますます発達障害系色を強めつつ、平凡で地味な生活を送りたいと思う。


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怨念との闘い

2017-05-19 | わたし
わたしは、ワラ人形が大好きである。
いくつも、いくつも持っている。
ワラ人形に打つ五寸釘も。
呪いのワラ人形。
納得いかない想いは、はけ口を塞がれ、歪んで怨みに変わる。
いわゆる、怨念というもの。

人は誰でも思い通りにいかないことは、あるはず。
ひとつもない、と胸を張って言っている人がいるとしたら、超人ウルトラ人間で、普通の暮らしはしていないだろう。
超人としての地位を確立しているか、あるいは、とてつもなく嫌われているかのどちらかだ。

一般的な普通の人は、達成できない充たされない想いを抱えていると思う。
「執念」という形に変わったり、頑張り克服するとか、自分とのやりとりで、調整するのだろうけれど、少し、さじ加減を間違えると、事件沙汰になったりする。

私は、事件にはならない。
消化も昇華もできないまま、悶々とワラ人形を打ち続ける。
そして反逆のチャンスを狙う。
その時が来るのをじっと待つ。

そうこうしているうちに、別件が発生したりして、ワラ人形を右手に持ちながら左手には大黒様(七福神でもいいけど)を抱えたり、幸せ色と混ざったりして、ワラ人形案件を処理していないまま、船は進む。

新しい大黒様と、パサパサになったワラ人形、そのうち、ワラ人形は乾燥して、解けて、ばらばらになってくる。
大黒様も、大小あったり、ズッシリ重かったり、ひとつだけではなく、リスクヘッジも効く。

ワラ人形の結論を突き詰めないまま、日々、進行していくと、いつしかワラ人形が消えている。
しかし、パラパラと解けたワラが一本、二本と重なり集まると、新しいワラ人形になる。
一台一台、車が合体してパーツになって出来る巨大なロボ、トランスフォーマーのように。
日頃はバラバラなのだが、ある日、なにかのキッカケで、集結して怪物になる。

プラスとマイナス、幸せと不幸。
ちょっとした加減で、形が大きく変わる。
コントロールできない魔物になって、一人歩きする。

その分、幸せの大黒様は、いくつあっても、コントロールできない魔物にはならない。
せいぜい、幸せすぎて退屈、みたいな贅沢な虚無感が生まれるぐらいか。


わが母。
幸せで、順調に年を重ね、アタマの中身も真っ白け。
(自立して生活できるレベルには)なにも(重要なことは)覚えてなく、考えられなく、あるのは今、この瞬間だけ。耐久持続時間は五分。
でもその瞬間が、幸せなら、いいか。
過去の頑張ったことや、私たち子供を泣かせたことなど、ミジンも覚えていない。
「おかあちゃんは、あんたらに、そんなにひどいこと、したんか」
と、ニコニコして言う。
全く覚えてないから、気楽である。
良いことも、悪いことも覚えていない。
今、覚えているのは、母が幼かった頃のこと。
きょうだいや、両親、祖父母に囲まれた平穏な日々。
戦争もあっただろうに、全く記憶に残っていないようす。
(その割りには、母のノートに、この度のフランス大統領選の立候補者の名前や経緯、結果、ニュースソースが書かれていて、びっくり)

姑は、それに比べると、苦しかったことや、悲しかったこと、悔しかったことばかりが強調される。


姑は、おそらく、我慢してきたのだろう。
母は、我慢してこなかったのだろう。

周りから良い人と思われ慕われる姑。
周りに困惑され、好きなようにしてきた母。
人生の最後に、評価は高いが不満ばかりが残るのと、好かれはしないが幸せな気持ちと、どちらがよいか。

これは両極端な例である。
ほどほどのミックス調整型が、良いと、わたしは思うのだが、、、
DNA的には母の血を色濃く受け継いでいる、悪い予感。
「人からの評価は低いが、自分は楽しい」が妥協案としては、まあいいと感じるが、細いワラだけになった元ワラ人形をいくつも持っているわたしは、直情型の母みたいにはなれないと予想する。
かといって、姑のように賢夫人ではないので、我慢している割りに我慢が活かされていない。
どうせ活かされていないのなら、評価されないのなら、母のように我慢せず、当たり散らしているほうが精神衛生上、良いのだろうが、わたしには何の役にも立たない理性がある。
役に立たない理性など、いっそ無いほうがスッキリする。
中途半端な人間である。

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忘れた頃に、、、

2017-05-17 | 無題
ある遠縁の男性。
家庭の経済事情から、超難関大学の入試の時に白紙でテスト用紙を出した、と言われていた。
言ったのは、おそらく、本人か、あるいは、その人の親きょうだい、家族だろう。

わたしは、不信感ありありで、その話を伝え聞いていた。
もし、家庭の事情が、イケイケどんどん(※無意識に使ってしまう死語)で、家族一族全員が彼に期待し、鉛筆を握らせ、勉強以外のことは全て大目に見て、頑張らせたとしたら、、、。
そのほうが、ハードだ。
「もし、◯◯だったら、◯◯できたのに」
と嘆くことは多いが、「◯◯で全員協力し、全パワーを出したがダメだった」は?

しかし、ある意味、きっぱり潔く諦められてよいかも知れない。
敗北宣言のあと、空っぽのエネルギータンクに、少しずつ、またエネルギーをチャージして再出発か、あるいは、その道は諦めて、方向転換する。

前述の男性、リベンジとは言わないが、孫が、T大出身。
本人があの世に行く直前に、お孫さんはT大に受かったと記憶しているが、おじいちゃんは自分の無念を晴らしたことだろう。
わたしは、白紙疑惑を抱いていたが、やはり、賢い血筋だったのか、と、妙に納得した。
人物を知る場合、ある程度のDNAは、基本データの一つになると感じた次第だ。

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たとえ遠縁と言えど、この話、自慢話と受け取る人もいることだろう。
自慢と感じる人には、それなりの理由が存在する。
自慢と感じない人には、それなりの理由が存在する。

しかし、、、アタマでっかちは良くない

2017-05-16 | ブログ
文字は、自分の思いや考えを表す、伝える。

手段として、一番、手っ取り早い。
書き手も読み手も、共通の言語を読み書き話していると、相互理解しやすい。

これはあくまでも手段であって、なにを伝えるかが要である。

最近、わたしは、自然界の映像などを見ると、深いものを感じる。
ナレーションや解説など一言もない。

つい最近、行ったポルトガル。
ここに関して、前以て全く勉強、下調べしなかった。
知っているのは、学生時代に学校で、ざっくり習ったことだけ。
あとは、知人の「何もないとこやで。そんなとこ行って何を見るの?」の一言。

説明は要らない。
見たもの、感じたものが全て。
だが、観光立国にありがちな、見せる美しさであることを忘れてはならない。
美しい観光地は整備され、立ち寄るトイレ休憩の店は、最新の設備が整っている。
しかし、表に現れることがない、人々のナマの暮らしや喜怒哀楽などには触れることはない。
それがわかっていても、美しいものを修復し、維持し、整える継続力は素晴らしい。

それはそれとして、(至れり尽くせりの旅行が楽しいのは当たり前のことで、行ける人はいいよね、と、いろんな人々、角度がある)

「知識は不要だ」みたいな新書を本屋で見た。
2000円もする、西洋人らしき著者の本で、ざっと立ち読み。
全くの無知は論外だが、知識に頼る、絶対的自信を持つことを諌めた内容で、全て同感。
知ったかぶりすることなかれ、知らないことは素晴らしい、未来に発展して延びる因子だそうだ。
知識は毎日毎秒、更新されなければならないので、自分の知識にあぐらをかくな、というかんじの内容。(咀嚼、わたし風解釈)

知識だけでなく、感性も変化するはず。
文字だけに頼らない伝達、伝授、
浅知恵だったり無知だったりする、そこから深いもの、真理を読み取ることがある。

伝達能力のないものから、なにかを読み取るのは、受け手側の洞察力や感性に他ならないと思う。

なので、文字ばかりに頼らない、自由な時空、発想、感受性も大事だなあと思う今日この頃だ。

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内気は、楽しい

2017-05-16 | ブログ
わたしのブログ。
まさに、自分との対話。
他者は介入しない。
登場人物としては、他者も出てくるが。

完璧な引きこもり系。プラス、ものぐさ。
だから、旅の前はブルーになる。
完璧な、内気、内向き、非社交家。

自分にしか興味がない。
「他人」は、自分を確認するための材料。
自分の考えや感情を引き起す、引き出すための、誘発剤。
だからかなあ、最近、映画が好きになっている。
第三者からの閲覧。
だが、全く自分とは関わりがなくても、現実的には無関係でも、感情移入してしまう。
強く共感、共鳴することもある。

引きこもり系のせいか、過去の出来事を強烈、鮮明に覚えている。
どうでもよいことも覚えていて、時々思い出し、蘇り、フラッシュバックして、脂汗をかいたりする。
映画や文章で、ちょっとした誘発部分があると、関連した「こころ」のスポットに引っかかり、自分のことを思い出し涙する。
変な、一人芝居の、引きこもり人間である。

もし、今、自分が学生なら、絶対にやっていけない。
もうリタイア年齢でよかった、と、こころから思う。

ブログは、わたしのお友達。いないと困る、大切な双子の姉妹。
ただし、明と暗。表と裏。真逆のベクトルに位置している。
時には同じ方向のこともある。
この、文字のかたちをした双子の姉妹は、わたしに、安らぎと力を与えてくれる。

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命、預かってます

2017-05-15 | 日々のこと
さて、夫。

食事調達係はわたしなので、口から食べるもののほとんどを受け持っているということは、命も預かっていることになる。

食べることに関して、彼は何も考えず気を使わず、まあそれはそれで、いいのだが。
とは言いつつ、押し付けの食事は嫌な時もあるようで、自分で好きなものを買ってきて食べる。
食品をストックすることもあるし、買ったまま忘れて、賞味期限切れになることもある。

彼が好きなものは、やたら味の濃い、カロリーの高いもの。
しかし自分ではヘルシー志向のつもりで、サラダを買ってきては、たっぷりドレッシングをかける。
ドレッシングは、すぐになくなる。
当然のことながら、ドレッシングは高カロリーで、塩分も多い。
あれは、はたしてヘルシー派なのか?
ドレッシング食べたさに、野菜をダシにしているのでは?

チョコも大好き。
アーモンドやピーナッツなどのナッツ系も大好き。

白米は太るから食べないんだそうだ。
(食後のチョコやナッツは食べるが)

こういう食生活でスマートな人をわたしは知らない。

薄味のものは食べない。
もし、食べるとすると、どばどばっと醤油やマヨネーズをかける。
そしてビールをはじめ、無類のお酒好き。
最近では、炭酸水を大量に買い、焼酎の炭酸水割りに凝っている。

明るい陽気な、好人物である。

彼に輪をかけたような、好きなものを好きなだけ食べる後輩が、数年前、亡くなった。
我が事のように感じるかと思いきや、食生活など、以前と同じく全然、気にしていないようす。

わたしは、食生活担当というものの、わたしの作ったものを食べない時点で、もう、独立コースを選択した。
お互いの好みや嗜好を尊重することにした。

人は人の人生。
子供なら親は責任あるが、もう大人。
自分で自覚して、自分の道を歩むのがよい。
食べたいものも食べずに辛抱して、やたら長生きしても、つまらない人もいる。
健康を害してからでは遅いと考えるのがスタンダードのようだとは思うもものの、人には人の道がある。
悔いのない人生を送るのがベストと考える。

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住まいは寝るためだけにあるのか

2017-05-14 | ご近所さん
自治会の会長、くじ引きで当たり、泣く泣く大役を引き受けている。
ちまちまと、面倒くさい野暮用に忙殺されるが、まさに、全て、住民の暮らしと直結している。

もともと自治会が存在しない地域もあるそうで、そこの住民に聞いてみると、なんの不自由も不便もない、とのこと。
わが自治会が属する(自治)連合が、さらに自治会の上にあるが、3分の2の自治会が、連合から、とうに抜けている。

個々の自治会自体、脱会する個人会員が増えている。
うちの班は、17世帯中、すでに8世帯が脱会し、それに加えて4世帯は、脱会しないものの義務放棄の宙ぶらりん幽霊会員。
(今後、幽霊会員は増えると予測する)
つまり実数としては、3分の1以下の会員数しかいない。


自治会のメリットとデメリット。
たいしたメリットは感じないにも拘らず、何年かに一度回ってくる班長だけでも重荷なのに、今回のウチのように、会長を引いてしまうなどの大リスクがある。

抜けたい気持ちはわかる、、、
が、皆んなそうすると、どうなる?
新しく転入してきた、若い世代には入会を勧め、大概の新住民世帯は、自治会に入ってくれる。
かたや、お年寄り世帯は、自治会を抜けていく一方。
しかし、新しく転入する数は知れている。
さらに、高齢により住み替え転出する世帯もこの1年で我が班だけで、2世帯もある。
やはり、少子高齢化の波を感じざるを得ない。

我が家も、この度の会長を最後のお役目として、抜けたい気持ちはいっぱいだが、あと10年は頑張ろうかと、今、新たに思ったりしている。
(しかしながら、他県にある夫の実家も、町内会の役が回ってくる。
住んでいないということで、免れたいところだが、そうもいかない様子)

一年一年の交代では、まるで何がなんだかわからない。
無理やり、ハンカチ落としのゲームのように、くじ引きで会長や役員を班長の中から決めるやり方。
自治会員だからといっても、非会員とあまり変わらず、さほどメリットも感じず、負担ばかり。
いずれは破綻するのではないだろうか。

しかしながら、自治会としてのメリットは実感しにくいかも知れないが、行政からは微に入り細に入り、目に見えない手厚い保護やサービスを受けている。
行政と世帯一件一件をつなぐ役割が自治会なのだろうけれど。
パイプ役を誰かれなくボランティアで押し付けられるわけだが、嫌がる、逃げるという人が続出しているのが現状だ。

自治会の班長や役員になりたくないのは、共有部分の掃除当番を嫌がるのと同じ。
共有部分は、市町村がやってくれるなら、自治会は脱会して、掃除当番は抜けよう、という考え。

メリットといえば、ただ一つ。
住民同士の絆、連帯感、親睦である。
これは、今の世の中、けっこう大切かも知れない。
わたしは田舎の、息苦しい、重苦しい、暑苦しい付き合いが嫌で、ニュータウンに来て清々しい気分になれた。
さっぱり、あっさりした、お付き合い。
「お付き合い」とも呼べないような、薄味のつながり。

この、サラッとした感覚が好きだった。
今もサラッとしているが、昨今は、脱会続きで、サラッとし過ぎて、超個人主義。
何十年も、ま近くに住んでいても、顔さえ知らない。

わたしが、通学先や勤務先、遊び先の都会志向から、リタイア年齢になり、ぼちぼち住まいのある地元志向になってきたのだろう。
地に足着けて、自宅で暮らす生活が、心地良くなってきている。
歳のせいだと分析している。
平凡な暮らし。それも、悪くない。


さて、わが夫。
会議の参加、司会、采配と司令塔を押し付けられたわけだが、
地元のことをあまりにも知らないことに驚かされる。
彼は、子供達が毎日通っていた幼稚園や小学校のある、近隣の丁(住所)と場所が一致しない。
わたしが、これまで自治会や子供会、PTAなどで歩んできた地域との30年の関わり、夫は何一つ知らない。関心、興味もなかった。
そのほうが、むしろ、わたしは驚愕した。
今回の会長、大当たりで、今までの無関与分を取り戻してもらう、いい機会になったと思っている。

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透明人間

2017-05-11 | わたし
わたしは透明人間である。
人から、わたしが見えない。

例えば、「よろしく」と初対面で挨拶しても、後になって、そんな人、全く記憶にないと言われる。

あるいは、今まで何度も顔を合わせているAさんと、ある時、Aさんが主催する少ない参加人数のダンスパーティに、わたしは遠路遥々時間をかけて参加し、Aさんと踊っても、Aさんは、わたしを覚えていない。

わたしは、影が薄い。

これは、そうとう深刻なことではなかろうか。

以前、知人のお友達にお目にかかった時も、全く、興味を示すどころか、わたしの存在さえ認識していないようすだった。
全面無視。

わたしが、アピールしないからである。
人に期待するヒマがあれば、自分で宣伝、営業すべき。

待ちの構えで、気をかけてくれるだろう、気づいてくれるだろう、と、悠長に構えて順番待ちしていても、誰も気づいてくれるはずがない。
よほどの絶世の美女か、二目と見れない怪物でもない限り、自分から進んで自己アピールしないと、印象に残らない。

姿かたちが薄いのであれば、言動で印象付けなければ、なにも残らない。
ピリッとしたことを言うとか、琴線にふれる発言をして、深く切り込むとか。
大ボケで、コケるとか。

口から発するのは、くだらないことでも良い。
せめて、なにか言わないと、人は気づいてくれない。
そんなことは百も承知なのだが、わたしは、わたし自体に対して、人が強くインスピレーションを受けたり、覚えて欲しくないのだ。
だから、しゃべらない。
なら、会に加わらずに、一人でいたらいい。
でも成り行き上、透明人間ではあるが、関わりを持つ。
こんな自分で、果たしてよろしいのだろうか。

まるで、小学生の嘆きのようで、非常に面白い。

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旅に出て想うこと

2017-05-10 | 
旅に出ると、非日常感から、俯瞰的に自分を見るキッカケになる。
だが、スケジュール満杯、ぱんぱんに膨らんだ日程は、まるで、総理大臣の外遊のごとく。(例が、あきらかに間違っている)

わたしは、長旅の前の1カ月ぐらい前から、ブルーになり、1週間前には、死んだようになっている。
マリッジブルーの色合いか。
マリッジブルーになって、逃げ出す人もいる。結婚取りやめ。

旅は楽しいものであり、自分へのご褒美であるはずなのに、なぜか、わたしの温度は低い。
昨年のGWも旅行したが、ブログにはアップしていない。
細かい地名など、まるで覚えていない。

今回の旅行で、同じタイプの人がいた。
旅の前は憂鬱で、出発一週間前に行き先を知るという。
低い温度のまま、旅の最後に、その人は、一瞬、盛り上がりを見せた。
その話を知人にすると、旅が終わるから嬉しかったんじゃないか、とのコメントをいただいた。
なあるほど。わたしは、納得した。

わたしは、帰りの飛行機で三本立て続けに映画を見た。
一つは、ヨーロッパの王位継承者が吃音を克服する、実話に基づくストーリー。

次は、渡辺謙、出演の映画。
40代ぐらいのアメリカ人?が人生最後の場所に樹海を選び、彷徨い、そこで渡辺謙と出会い、人生を知る、暗い話。

最後は、「淵に立つ」。
モニターの調子が悪いのか、真っ黒に近い画面で、ほぼ、ヒヤリングのみに近い悲惨な状態だったが、浅野忠信の、猛烈なファンになってしまった。
あんなに真っ黒でなく、ちゃんと、もう一度ぜひ見たいが、DVDを待つしかなさそうだ。
真っ黒にもめげず、機内で2度目を繰り返し見たが、少ししたら、飛行機は関空に降りてしまった。


家に着いた途端に、わたしの幸せは家にある、と感じた。
わたしは、別に引きこもりではない。
家とは、家庭、家族のことである。
自分は家族を大切にして(あくまでも精神的に)、深く愛していると、ふと思った。

正面を向いて直視すると、逃げ出したいときも多々あるが(ブログで毒を吐きまくり)、ふいに予期せず斜めから入ると、意外な真実に気づくことがある。

今回の旅は、「淵に立つ」が、シンボリックな〆になった。

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