蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

揺れすぎる、まなざし

2016-09-26 | ファッション
今、じつは、人には決して言えないのだが、、、
「つけまつげ」に、はまっている。
瞬きすると、バッサバッサの、ばちばちのやつ。

マツコ・デラックスみたいなかんじ。
彼は、あの体格、あの顔の大きさで、あのつけまつげは、バランスが取れていると思う。

さて、わたしは、、、?
おそらく、感想は、皆さん口にしないだろう。

ある日、帰りのバスで、ばったり偶然、娘がわたしの席の後ろに、座っていた。
ふと、横を向いた、わたし。

「お、か、あ、さ、、、ん、、、っっ!!」

二人の間の、あの微妙な沈黙。
いやはや、いやはや、、、

人として親は子供の見本にならなければいけない時期は終了した、、、ということで、、、
どうせマイブームは瞬時に過ぎ去る(予定)なので、、、
笑って許して、
見て見ぬふりをお願いします、と言いたいところだが、言えないだろうなあ。

曼珠沙華の咲く頃

2016-09-23 | 老い
さて。
秋分の日が過ぎた。
お彼岸。
彼岸花、曼珠沙華を道端で目にして、幼い頃を思い出す。
懐かしむ、ではなく、思い浮かべる。
この違いは?
べつに、ノスタルジックにはなっていないから。
昔は、よかった、昭和はよかった、と今を懐疑する気持ちには、別にならない。
どの時代も、わたしは好きである。

と、長い長い前置き。
これは、電車を待つ、ホームに突っ立って入力している。
昭和を懐かしむ状況ではない、明らかに。

で。
昨日は、お墓参り兼、お墓掃除。
兼、お寺のお坊さんが、夫の実家にお参り。
姑の出すお茶と違い、既製品のペットボトル茶からお茶を注いで出す。
不味い〜、と、坊さんは思っていることだろう。
おばあさんのお茶は、美味しかったのになあ、と。
「この嫁は、こころがこもっていない」と、内心、感じているだろう。
坊さんは、3回にも4回にも分けて、不味いお茶を飲んだ。

墓の入り口手前にお地蔵さんと、魂を抜いた用済み墓石の山が積まれ、祀ってある。
そこで、手を合わせろ、と夫が促す。
宗教の強要は、離婚原因になるこを知っているのか、この人。

墓石を拭け、と言う。
わたしは、無言で墓石を拭き、草引きをし、墓掃除をした。
うちの墓の向こうのほうには、夫と同業のご夫婦が、草いっぱいの、広い墓地と格闘していた。
墓地は、小さいほうがいい、いっそ小さな墓のUR団地がいい、と思った。
もっと小さい、名前だけワンプレートのスペースだけでいい、とも。
草が生えないようように、墓地全体にアスファルトでも敷いたら、姑やら親戚やら皆さんは、腰を抜かすだろうなあ、とにやにや想像しながら、せっせと草むしりに精を出した。

活かせない「知識」はあるよりは、ないほうがマシだ。
実践できない「思い」や「意見」は、あるより、ないほうがマシだ。
しかし「知恵」は、あるほうが、ないより良い。
なので、わたしは、さほど落ち込みもせず、ブルーにもならず、黙々と作業を続ける。
作業なのだから。
終わればご飯が待っている。(その時点では何を食べるか決めていなかったが)

そして。
姑と対面。
ああ、この人は、、、
やはり自分の親ではない、とヒシヒシと感じる。
当たり前。
彼女は、わたしの親ではないのだから。

実母は、強欲、ワガママ、直情的な、子供みたいな性格で、幼い頃から今までは大キライで距離を取っていたが、最近は、欲が抜けて、まるくて素直、ストレートな面が表に出てきて、いわゆる、かわいいおばあちゃんになっている。

姑は、賢い理知的な良妻賢母として、尊敬していた。
感謝もいっぱい。
が、今は、キライ。
自分のことが、ちゃんとデキナイくせに、デキナイことを決して認めず、自分でしようとし、主導権を握ろうとする。
わたしに知られたくないことがあるようだが、お目通し。丸わかり。
反応にもろに現れ、顔に描いてあるんだもの。
全然かわいくない、おばあちゃんである。
いずれ、かわいくなるのだろうか。

そうとう、息子(夫)がフォローしているのに、感謝よりも、不満が見える。

まだまだ老いゆくプロセス。
これからも、ますます深まっていく。
人間は、生きることにしがみつくんだなあ、と感じる。
当たり前。生きているのだから。








嫁と姑

2016-09-15 | 無題

コピペ記事、書いてくれてありがとうございました。
私信です、これ。

さて、今日の独り言。

今日は、姑のところに行くべきか、行かないでいいか。
悩むところだ。
姑は、姑の親戚がやっている高齢者施設に先月、入ったばかり。

一週間と少し前、娘一家全員を含む、一家フルメンバーで面会に行った。

姑の娘(わたしの小姑、夫の姉)は、今週は旅行中で、姑のところに行けないそうだ。
いつもは、おそらく毎週、行っているはず。
夫は、毎日、通っている。
愛するママだもの。行かないはずがない。
長年、姑の手足となって動いてくれる、ビジネス・イエスマンである私設ヘルパーさんは、施設の目と鼻の先に住んでいる。
では、わたしは別に緊急に、ぜひとも行かなければいけないことはないはず。
どうしても行ってほしいとき(医療機関受診や、家の行事)は、夫や本人から要請がある。
連絡がないのは、来なくても大丈夫ということだ。

行きたければ、行けばいい。
行きたくなければ、行かなければいい。
自主性まかせ。

行かないと、あちらのご近所や親戚の目がうるさいだろうということは、安易に想像できる。
行ったら行ったで、良い嫁ぶりっこして、と、点数稼いでいると思われるかも知れない。

転入して、最初、何もない時にいろいろ用意したのは、夫とわたし。
その後、義姉や、私費ヘルパーさんが、あれこれ姑の要望を満たしてくれているようだ。
行くと、いろんなモノが増えている。
モノや日常が充実し始めると、最初にわたしが、とりあえず持って行ったモノが、不必要になる。
「これ、要らんから持ってかえって」と、言われる。
最初のころ、わたしが用意したセロハンテープが自分で切れず、困っていたため、姑ご愛用の大きな重いセロハンテープ・カッターを持って行った、それだ。
が、部屋には、小さなカッター付ミニ・セロハンテープが4個も5個も、ごろごろある。
そりゃあ、そんなにあれば、もう要らないだろう。
しかし、何個いるのだ? セロハンテープ。
だれかに頼んで調達したのだろう。
室内ミニ洗濯物干しなども、「こんなもの、要らない」と突き返された。
人によって、要るモノと要らないモノは違うから、まあしかたない。

手鏡がほしいと言うので、手鏡を持って行った。
すると、大小、いろんな形の手鏡が何個も調達されていた。
3人に頼んだのだろう。
そのうちの一人、私費ヘルパーさんは、何度も買い直していた。
「これは、小さすぎる」「それは、不便」「あれは、重い」・・・買ってきても買ってきても、姑のニーズや好みと微妙にずれるモノなのだろう。
当然ながら購入済みなので返品されずに、部屋にたまる。

そういうものが、鏡だけではなく、いろんな生活用品に及んでいる。
洋服も(わたしが買ってきた)ハンガーに、ずらりと掛けられて、並んでいた。
そういった単純明快な生活品だけではなく、わたしに見られたくないだろうと思われるモノも発見したりする。
あれ? これは・・・?

それらを発見すると、嫌な気になるので、見て見ぬふりをして、わたしは調達係から降りる。
姑だって、プライバシーがある。見られたくないだろう。
で、義姉や、私費ヘルパーさんに、おまかせすることにした。

姑は、お金も、計算できなくなってきているが、夫は別にいいといってお金を持たせる。
私費ヘルパーさんに、お金のことで探りを入れてみたら無視されたので、追求せずに、これまた降りることにした。
嫁というものは、お金でなんでも言うことを聞いてくれるビジネス・イエスマンとは違い、けっこう、うっとうしいものだったりするだろうと推測する。

とかなんとか、もうすぐ、行くとしたら、出かける時間が迫る。
また悩む。
行こうか、行くまいか。


実母のところには毎週、行っている。
「来て、来て」としょっちゅう電話がかかってくるせいでもあるが。
だからといって、無理して嫌々行っているわけではない。
行ったことを忘れられても、べつにそれでもいい。
自分が行きたいから、行っているのだ。
実母はわたしの顔を見ると、とても喜んでくれる。
わたしも実母の元気な顔を見ると、うれしい。
ただ、それだけのことだ。

が、実母が最も顔を出してほしいと願う兄は、最初、入ったときに一度、行ったきり。
わたしの夫は、一度たりとも行っていない。(実母は、来てほしいとも言わないし)
わたしの家族は誰一人として、実母のところに行ったことがない。
だからといって、強制的に、あるいは義理立てて行く必要もないし、行ってほしいとも思わない。

なので、いいのかなあ・・・と。
血縁であろうがなかろうが、行きたい人が行けばいいのかと。

薄情な嫁と思われているだろう。
絶対に、評判は悪いと思われる。
自分の胸のなか、自分のこころの声を聞く時間。
今日もまた、制限時間が迫ってきている。

 

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トカゲのしっぽ、切っても切っても不滅

2016-09-08 | ブログ

こういうのって、蝶ブログには関係ないところでネタにされる。
なんだか閲覧数がいきなりアップしていて、おかしいとは思ったけれど。

気色悪いね、なんて言われて、かわいそう、蝶さん。
ほんと、気持ち悪い。
おそらく、営利目的が絡むのだろう。
前にもこういう事例があり、同じ被害にあったブロガーさんが熱く立ち向かって格闘しておられたが、
勝手に利用されるほうは、不快この上ない。
「被害ブログの会」でも立ち上げる?
そんなめんどくさいことは、わたしの省エネ人生の辞書にはないけれど。

当ブログの©コピーライトは、スローにありますので、よろしくお願いします。
(なんて、書くだけ無駄だけど)
また部分的に破片的に、コピペされてネタにされて、あ~あ、の世界。
インターネット、お遊びの場合は、ちょいちょいっと、つまみ食い的に、自分に有効な使い方をするのが良さそうです。


ついでに、たまたまコピペされた記事の中の「卵かけごはん専門店、上から目線」論、
どこぞのどなた様、解説、ありがとうございました。
なぜ上から目線なのか、考え方を分析していただいたようだ。
わたしは、飲食店を開こうと思っていないし、食や客のマーケテイングに詳しいわけでもない。
卵かけごはんの根強いマニアックなファンがいるかも知れないし、それで採算が取れるとオーナーは試算したのであれば、べつにそれでよい。
わたしの興味レーダー、センサーが作動しなかっただけのこと。
「知りもしないで、けなした」と捉えられても、その通りで、その時、思いついた感想を、母娘二人だけの閉ざされた密室会話で、一言、漏らしただけ。
政治家や公人が、公の席や講演会、HPやブログで、立場を考えずつぶやいた、などのような、影響はない。

「よく知りもしないで、けなす」ことこそが、上から目線のベースなのかも知れない。
では、これからは、よく知ったうえで、けなせばよいということか。

デキないで、けなすのは、イソップ物語の「酸っぱい葡萄」。
負けず嫌いで、でもデキなくて、でも負けを認めたくなくて、悔しい想い、マイナス感情の持って行き先に困って、もやもやしている人が、「デキない事柄」をけなしたり、否定したりして、自分のマイナス感情を消去する。

では、デキて、けなすのは?

やはり、「けなす」という行為そのものがよくないようだ。
では、けなさず、なんでもかんでも肯定、賛同する?
そういう、無条件にすべて賛同してくれる人に賛同されると、はたして認められた気になるかどうか?

「けなす」は、ケチをつけること。
「否定」が根底にあるのだろう。

上から目線とは、「ケチをつける」根性ということか。
だとすると、わたしは、無意識も、自覚ありも、こころの中で「ケチをつける」ことは、とても多い。
ということは、「よく知った上で、否定するのはよい」という結論でもよいのか?
それは、上から目線ではなく、横から目線???

あれこれ考えていたら、なんだか、また眠くなってきた。。。
結論は、持ち越しにしよう。
よくわからん、ってことだ。

 

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近くて遠い他人

2016-09-07 | 暮らし

どうやら、わたしのブログは、「嫌われる系」の内容を書くと、閲覧数が上がるようだ。
複雑な心境。
あ、それと、引きこもり系。

わたしのキャラは、「嫌われる引きこもり」ということか。
まあ、よろしい。
なんだっていいのだ。

比較的、引きこもるのは快適であるのだが、
時間がどんどん経過し、午後になり、やがてあたりが暗くなってくると、
あれ、なんにもしてないのに、もう、こんな時間・・・と、なって、
やがて、夜のテレビニュースの時間になると、なんだか完全に一日が終わったようになる。

引き込もらない日は、朝と夜を有効に使える。
最近は、特に朝。
決して有効ではないが、パソコン離れをしたせいで、やたら(退屈に近い)静寂な朝を過ごしている。
今日は、久しぶりにパソコン投稿である。
早朝から、してもしなくてもいいような、どうでもいいことをごそごそし、出かけるまでにまだ時間があった。

しかし、ごそごそしながら、主婦の仕事って、ごそごそするのが好きな人と、嫌いな人とでは、満足感がまったく違ってくるだろう 、と思った。
ちなみに、わたしは、ごそごそ派ではないが、時に、ごそごそしてみると、なんだか気分転換になる。
ほとんど自己満足であり、決して建設的でない時間を、自分のためだけに使う。
家事を、「家族のため」とか、そういう大義名分をつけて、頑張る場合もあるだろう。
わたしは、「○○のため」という発想が嫌いだ。
自分のため。
自分がキレイな空間が好きだから、すっきり片付いた、衛生的、文化的空間が好きだから、だから、家事に精を出す、それでいいような気がする。
が、せっかく頑張っても、家族に、ぐちゃちゃにされると、自分のキレイ好き神経に障る。
省エネ人生モードのわたしは、さほど徹底したキレイ好きではない。
キレイな空間は気持ちよく快適で大好きだが、自分からせっせと、気も狂わんばかりに完璧に整えないから、神経にも障らない。
小さい子供がいる家庭は、大変だ。

ちなみに、お隣さん。
風の具合か、お互い、窓を開けると、ひょんなことで、話声が聞こえる。
お隣さんのキッチンの流し台が、うちのダイニング・テーブルの斜め前あたりの延長上にあると思われ、
洗い物をしながら、家族と話している、会話の内容がわかる。
それって、話している本人は、隣家に聞こえていることを知ったほうがいいと思うのだが、気にしないようにしている。
が、わたしは耳が正常にまだ機能するため、聞こえるものは聞こえるので、聞いてしまう。
彼女らは延々と話しているわけではないが、そこまで聞こえるにもかかわらず、
わたしは、隣の家庭の事情というものが、あまりわかっていない。

もう中学生になる息子(孫)がいるようだが、小学生の時から知っている娘さんは、ひょっとして離婚しているのかも知れない。
自治会で役員をしたことのある、十年ぐらい前に、遠く離れた自治会員さんから聞いた。
娘さんももう一人いて、ちょいちょい訪れているかも知れない。
車がよく止まっているが、誰の車なのだろう。
大きなガレージには、別に2台入っている。
たまたま、お隣さんが新車を購入した時に、納車のタイミングにわたしは居合わせた。
立派な外車だった。
しかし、外を走っているのを一度か二度ぐらいしか見たことがない。
その車は、エンジンが大きいから?かなんだか知らないが、ある程度、遠くまで行くと、低い響くような音がする。
娘さんの高校も、配達時に隣家が不在かなにかで、入学時にあつらえた制服をうちで預かったため、知った。
(といっても、まったくどこの高校なのか、その時も今も、ぜんぜん知らない。
制服の学校名を見もしなかった。見るのが悪いような気がして。
どこかの、制服を配達する高校であることは確かだ)

高校を卒業してからのある日、お母さんがなにか、一言おっしゃってた。
娘さんの能力を卑下するような、でも、負けん気を感じる、そんな内容だった。
わたしは、なんの感想も持っていないのに、不思議だった。
その内容はその瞬間で、おしまい。

英語を話す外人さんが、わいわい来ている、ステイしているような、そんな時期もあった。
ソプラノ的な美声の歌声が聞こえる頃もあった。
ホーム コンサート??
まったく知らない。聞きもしない。
今は、時折、お坊さんの読経。

時代は30年近く流れている。

こんなに近くに住んでいるのに、知らないって、ある意味、すごい。
不干渉のスタンスを貫いている。
喧嘩はしないが、仲良くはない。
道で会えば、にこっと挨拶をする。

よくよく考えると、こうなるまでに、ちょっとしたいきさつは、あったようだ。
ほんの小さなやり取りがあり、少しだけ積み重なり、そして、不干渉といえば聞こえはよいが、あえてお付き合いしない関係になったような気がする。
わたしの社交下手からだろうけれど、
結果的にお付き合いはしていないが、喧嘩もしていない、今の状態は気に入っている。
ま隣とお付き合いなんぞしていたら、息が詰まっていたことだろう。

というわけで、一切、家族の情報は伝わってこない。
でも、お互い、子供が遊んでいたり、孫が遊んでいると、それなりにわかる。
最近は、わりと自然な気持ちでお隣さんと接することができるようになった。
べつに今もかつても、喧嘩もしていないけれど。

しかしながら・・・ふと思う。
わたしは、何事に関しても、そうとう消極的であるようだ。

 

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嫌われる人

2016-09-05 | わたし
どうやらわたしは、上から目線らしい。

自分でも自覚しているが、人に指摘されると、ますますキリリと自認の意識が深くなる。

上から目線コメントは、口に出すのは常識上、また、人格を疑われてもナンなんで、発声して会話として表現しないが、
心の中でベースとして、不動の「上から目線」が、がんと設定されているようだ。

しかし、え?こんなのが上から目線なの?
というような内容がある。
昨日、次女に指摘された、わたしの発言。

「おかあさんが、上から目線の失礼な感想を言っていたお店」
というのが、「卵かけごはん専門店」。

「卵かけなんか、家でも食べれるやん。
なんで、わざわざ遠いところまで出向かにゃならん?」

と、そう言えば、卵かけごはん専門店に対して、先日、さらっと、口から出た感想。

それが、上から目線なら、わたしの発想は1000%上から目線、発言も500%上から目線である。

今後、発言には一つ一つ、言葉に出す前に、アタマの中で精査し、口に出してよいものか、よくないものか、吟味しなければならない。

おそらく、声を失ったカラス(「カナリヤ」と書きかけて、さすがに却下した)になるだろう。
しかし、わたしは、あと20年生きようと思っているので、できれば、嫌われない程度の高齢者になりたい。
が、この、「嫌われない高齢者」というのは、そうとうハードルが高い。

嫌われる熟年から、一足飛びに、嫌われない高齢者にはなれない。
そこで、移行スライドするための緩和時期が必要となる。
「嫌われる」から、嫌われる要素を一つずつ削除。
嫌われる要素は、自分の表裏一体型、分身的要素である。
それを一つずつ削除したら、自分を一つずつ消していくことになる。
全て削除した後には、何も残らない。
嫌われないけれど、生きた屍の自分がそこにいる。
皆さんに不快感を与えない、嫌われない高齢者になるのは、一朝一夕では無理。
長らく時間と努力を重ねて、自分を抹殺した後に、ピュアな、嫌われないわたし、が誕生するのか〜。
しかし、それって、ピュアなんかではない。

とかなんとか、御託を並べ、文句タレの嫌われる高齢者になりそうな予感、大。




日曜日の朝の引きこもり

2016-09-04 | 暮らし
久しぶり、のような気がするブログのアップ。

今、息子の部屋。
彼は一年しかこの部屋を使わず、出て行った。

畳に足を投げ出して座り、背もたれはクロゼットの扉。
スマホタイム。
いつも、わたしは夏の寝室にしている。
窓の開口部が床まで開かれ、ベランダにつながっている。
窓際で畳に敷いた布団に横になると、直に風が入ってきて、気持いい。

部屋を見渡す。
次女の羽根布団と毛布。
押入れにぎゅーぎゅー入れるのが面倒なので夏の間だけ、隣接する息子の部屋に放置している。
この毛布、姑のお下がり。夫には、舅のお下がり。
それぞれの毛布に糸で、舅と姑の名前が縫いつけてある、ありがたい、化学繊維のペア毛布。
洗濯機でいつも洗っているが、多少はヘタるものの、ちっともくたばらないので、延々と使っている。
ロボコップのような、化繊毛布である。
こんなことをするから、いつまでも優雅な生活が送れないのだろう。

ちらと横を見る。
息子の勉強机。小学生の時から使っている。椅子も。
その机の上に、空のグラス。
どうやら、昨日、次女がアイスコーヒーを持ち込んで、なにやらこの机で作業したと見られる。
仕事か、書きものか?
隣接した自分の部屋があるのに、時々使っている様子。
彼女の部屋は余計なものは一切ない、広々すっきり空間。


息子の部屋は、天井がとても高く、大きな窓があるので
気分展開にはよい。
しかも、なぜか和室。これは息子の要望で和室になった。

積まれた布団を前に、一室にいると、優雅な刑務所のような気がしてきた。
一室で暮らすとこんなかんじか。
部屋にあるのは、布団、机と椅子、本棚、扇風機だけ。
下宿もこんな雰囲気?


次女は、いいなあ。
いろんな部屋を使えて。
我々両親とは、あまり家では顔を合わさないし。
ただし、ウィークデーや、繁忙期は仕事に忙殺されて、かわいそう。
(人として、仕事するのは当たり前。
自立するのに、かわいそうなんて言っていたらおかしいけれど)

布団を押入れにちゃんと入れたら、光景は変わってくる、、、、のだけど、まあいいか。
冬までの辛抱。

そうやって、一日一日、貴重な時間を使っている。
すり減っているわけではないが、存分に活かしきっているわけでもない。
まあまあの時間。


一昨日、母のところに行った。
母が言っていた。

「平均より、ほんのすこし下の、慎ましい生活をしなさい。
派手な生活はロクなことがない」

一昨日は、頭はしっかりしていた。
なぜか私が行くと、訓示テイストになったり、アドバイザーになったりする母。
時にはキラリと光る真理が話の中に埋まっているのを発見する。
人が生きて得たセオリー、磨かれた一言に出会うと、私は嬉しくなり、元気をもらう。
人は、(心肺停止して)死ぬまで、(精神は)死なないのだと思う瞬間である。


さて、
今日は、長女一家も含め、一家総出で、姑のところにご機嫌うかがいに参じる。
この人は、まだまだ、ややこしい。

生きる速度は、皆んなそれぞれの個性差がある。