蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

哀れなるものたち

2024-01-31 | 映画
R18(18歳未満お断り)の映画を1人で観に行った。
ハードコアポルノみたいなかんじで、男性ばかりだったらどうしよう?
まして、わたしは前期高齢者。
変な女性と思われないかとドキドキしながら上映室に入った。
すると、、、次から次へと女性のお一人様のお客さんが入り、場内を見渡すと、女性が多かった。
お一人様女性や、女性同士などの姿が目に付き、男性は少なかったように思う。
ほっとした。

なんでだろう?
それは、映画のテーマが「女性の解放、平等」という女性向きだったことと、ヒロインのセリフに頷き納得し笑ったりするからだ。
女性にエール。
女性目線の男性に対する評価も、男性は身も蓋もなくオトコをコケにしている、と男性が怒るかも知れない。
が、見る目が変わるとそんなものだ。
「男性から見られる性、望まれる性」であった女性が、男性本位からの性から解放されると、違ってくる。
男性の一方的な思い込みには、コメディ的要素がたっぷりあり、笑える。
男性は必死なのに。

1月26日、先週金曜日に上映開始されたばかりの映画なので、ネタバレしてはいけない。
主演女優エマ・ストーンの他の作品「ラ・ラ・ランド」も「女王陛下のお気に入り」も上映当時に観た。
ゴールデングローブ賞に6部門7ノミネートされたには、それだけの意味がある。
美術、衣装はなかなか楽しませてもらえる。
室内装飾にはルートヴィヒ2世が建てた、シンデレラ城の見本になったと言われるノイシュヴァンシュタイン城を(個人的に勝手にイメージとして)彷彿させるものがあり、とても魅了された。
ぱっと見は似たような同じ範疇だが、19世紀に17世紀のお城を模倣して建てられていたり、建築された時代には様式にズレがある。
そういう絶妙さ。
パリの街で見た建造物、ぬあっと曲がったアール・ヌーヴォー・テイストも感じた。
室内装飾のやわらかい優しいライン。
と言っても、映画に出てくるものは、明らかな想像の創造物だとわかるようにデフォルメされている。
誰が見ても、現実ではない造りものの世界であることが意図して主張されている。
ヨルゴス・ランティモス監督が懲りに凝ったのだろうけれど。
好きな部分もあるが、やり過ぎの部分もある。
わたしの「好き」と「不快」が、混ぜ混ぜに出てくる。

性の部分を誇張しすぎだと思うが、「女性」を掘り下げ訴えたい芯の部分には外せない要素だったのだろう。
ただし官能ゼロ。乾きの代わりに、笑いはあり。
女性客が多いのは納得できる。
アベック客の男性は気まずいかも。
お一人様男性観客も、力強い女性に押されて肩身が狭いかも。

ヨーロッパの各有名都市、建物、食事、ファッション、ダンス、、、真正面からではなく、かなり変わった味付け、演出にはなるが。
ありきたりの正攻法では、飽き足らない、グルメを追求し食べ飽きた、映画飽食の人には刺激的かも知れない。
ちなみに、わたしは、アニメであろうが実写であろうが、あり得ない空想のファンタジーよりも、現実描写のほうが好き。
想像による創造はそれはそれで良いが、空飛ぶ魚のような妖怪的なイマジネーションよりも、現実的にあり得る想像のほうが好きだ。


順調に物忘れ

2024-01-30 | 老い
どんどん浮世離れして行く、わたし。
自分の世界。
これがまた気持ちいい。 
時折、はっとして現実に引き戻される。
(スマホに没頭して、電車で、降りる駅を通過してしまうのは、日常茶飯事)

最近、自分の行動が信じられない。
悪い意味で。
◯◯し忘れる。
これが多い。
1番頻繁なのは、電源の切り忘れ。
地球温暖化スローダウンをこころの底から叫び、いつも、エアコンの省エネには細心の注意を払っているのに、、、もかかわらず、、、外出時に床暖房のスイッチを切り忘れ、木枯らしの中、帰ってきたら、室内は、ほんわか春。
ぎゃ。

電気敷毛布も、主がいないのに(寝てないのに)、一日中ぬくぬく、ほかほか。
ある日は、あまりにも暑くて寝苦しく、異常気象かと思いきや、電気敷毛布の設定温度が最強のダニ殺しモードになっていた。
ダニとともに、わたしも丸焼けになるではないか。

火事に至らなければいいと言っても、そういう問題ではない。
自己嫌悪。
今後、益々この傾向は強まるのではないかと戦々恐々。
少しぐらい家人の、トイレの電灯切り忘れは許す傾向にある。
自分に甘く人にも甘く。
2人で各々の失態を許し合うが、こころが広くなって良かったね、では済まされない。
防犯などの保安もさることながら、家の安全上、危険だ。

最近の田中角栄さん御殿を始め、ろうそくの灯りで家屋を全焼した話はゴロゴロしている。
信心のろうそく、家や家族を守りたいためのろうそくが、家を焼き尽くすという皮肉な結果をもたらす。
「神頼み」よりも、「自分頼り」という、神様仏様からの直々メッセージか。
神様仏様は、自分で目一杯、力の限り努力した上で、更なるダメ押し、安心の上の安心のためにお頼みするもののようだ。
が、ろうそくに関しては???
神様仏様にお聞きしたい。

ちなみに、わたしの中の自分教・神様仏様は、無心すぎて、無邪気に無意識に、物忘れする。
ある意味、天国に一歩一歩、階段を登っているのか。
階段を踏みしめる時に踏み外さないよう、よく注意することが、自分教の教えである。
とかなんとか、何度も電気毛布や電気マットのスイッチがオフになっているか、確認している。
神様、今日は電源、これで大丈夫ですかねー。
それに気を取られ(かどうかは知らないが)玄関の鍵をかけ忘れていたりする。


リタイア後のプラン

2024-01-28 | 人々の風景
他のブログを拝読して、、、ふーっと、ため息。
人はよほど変わった人でもない限り、日常の普通の出来事に対して同じような心情になるもの。
なので、書かれていることに対して納得、同意する。
ただ、、、「それがどうした?」
オチが欲しい。
いちいちわざわざ、ご丁寧にご親切に書かなくても、オチは読んだ人がそれぞれに感じるものかも知れない。
断ち目を縢(かが)らず切りっぱなしの生地のように。
(断ち目が、ほつれない「フェルト」は、ラク)
と、関係ない話に脱線。
読後感は、人それぞれ。

読み手と書き手は、全く違う。
映画やTV、小説、アニメなど、作り手と鑑賞側では全く違う。
当たり前のこと。
料理もそう。
作り手が好きな味が、食べる側が好きとは限らないが、食べ物は生きることに密着していて、娯楽ではないので色合いが違う。

ファッションなどは、好きなテイストがあっても、自分が似合うかどうか、微妙。
好きで着続けていたらそのうち馴染んで雰囲気が醸成され、しっくり来る???
そういう場合もある。
が、大抵は無難な路線??
全く興味ない人もいる。
清潔にしていればそれで良し、と最低必要ライン。
人間関係も、挨拶が出来る人であれば、クリア???

直接、自分が関わる人などは数が知れている。
まして、リタイアした身では、心身が衰えていくと先細りする一方。
リタイアしても元気なうちは、活動先での関わりがある。

いままでやってきた仕事とは全く違う分野と関わり、行動するのがオススメという説がある。
別の発見、刺激があるそうだ。

知り合いに、第二の就職をしているシニアがいる。
リタイアしたばかりの時は、なんだかんだと夢中になれることにチャレンジしておられたが、持ち時間と持ち金の折り合いをつけるため、また働き始めた。
年齢が高いため、職種はあまり選り好みは出来ない。
が、キャリアも別に求められておらず、報酬も悪くない。
就業時間もフルタイム制ではない。
時間と、健康と、お金のバランスが、その行動(高齢就労)に進ませた。
お金が仮に、十分あったとしたら???
必要に迫られて働かなくて良いはずだが、その人は年金暮らしの経済事情。
ではあるものの、暇を持て余し、かえって疲れるようだった。
人には色々、それぞれ特徴がある。
身体が健康で動くうちは、年齢が高くても働くのが良いという人もいれば、働きたくても身体の衰えから働けない人もいるし、もう働きたくないという人もいる。
日本人は働き過ぎだという指摘もある。

そこでキーは、必要に迫られているかどうか。
選択肢があるのは、幸せなように思えるが、案外、選択肢がないほうが幸せを感じる、という、学者が集計したデータがある。
だがしかし、状況に応じ、選択肢にも絶妙なバランスがある。

さて。
自由な身、自由な時間が余りあると、かえって時間がなかなか進まない。退屈。時間を持て余す。
やるべきことがあるほうが、持ち時間が減り、自由な時間が圧縮され、濃くなる。
(たとえ嫌々渋々であろうが)義務を果たす時に、その過程や試行錯誤、行き帰りで偶然見つけたものが、大発見の宝物だったりする。
近道のつもりが実は遠回りで、寄り道が近道だったりする。

いくら頭で考えてプランを練りに練っても、予定通り事は運ばないことがある。
予期できないハプニングがある。
計画を立てている時が1番楽しいのかも知れない。








幼稚園児のわたし

2024-01-27 | 思い出
たんに自分が楽しいから、書く。

60数年前、幼稚園の時、運動会など、母親が行事に参加しない園児は、わたしとY君の2人だけだった。
Y君のお母さんはワーキング・シングルマザー。
わたしの母は、ワーキング・マザー。
母親がペア相手になる軽運動では、いつも、Y君とわたしの相手は、それぞれが幼稚園の先生だった。
わたしは、寂しい思いをしたかというと、それが全く何とも思わなかった。
事実を受け止めるのみで、感想はなかった。
いつも母親が顔を出さないのは、Y君とわたしだなあと、思うだけだった。
とは言え、ごく稀にY君のお母さんの顔を幼稚園(または小学校)の行事で見ることがあり、(それ以来一度も見ていないにもかかわらず)今でも彼女の顔は覚えている。
それだけ印象に残っているのだろう。
(Y君とは中学卒業まで同じ学校だった)

当時の幼稚園には給食はなく、お弁当持参だった。
別の子、H君のお母さんはプロの料理の先生で、お弁当の時間にはいつも彼の周りに先生たちが見学に来ていた。
素晴らしいプロのお弁当に、先生たちは感嘆の声をあげていた。

さて、わたし。
お弁当を持たせてもらえるのは遠足の時だけ。
サンドイッチだったりすると、とてもとても嬉しかった。
あとの普通の日は、幼稚園に向かう途中の店で自分でフルーツ牛乳と菓子パンを買っていた。
わたしは、このフルーツ牛乳が好きで好きでたまらなかった。
(今でもオレンジベージュ色の飲みものを見るとワクワクする)
いつも、このフルーツ牛乳と菓子パンを満喫していた。

そして、お弁当を入れるボックス。
皆んなは天然素材(籐)の、小さい持ち手が付いた、蓋付きバスケットだった。
たぶん、全員それ。
色はベージュが主流。ライトブルーなんていうのもあったかも。
その中で、わたしのお弁当入れボックスだけ、赤い、シリコン?のような(素材不明)、細かい格子になって中が隙間から少し見える、異質のものだった。
それが自慢、なんてことは全くなく、醜いアヒルの子、という意識もなく、悪目立ちして肩身が狭い惨めという感覚もなく、好きも嫌いもなく、自分のだけ皆んなと違うんだなー、とただ事実だけを受け止めていた。

高校生になった頃、わたしは皆んなが持っていたベージュの籐の蓋付きバスケットを買った。
一度、これを持ってみたかったのだ。
小さく可愛いそれを(アイビー・ルック の時)お出かけバッグがわりにして愛用していた。
(今は、孫に目をつけられ、隠している)
皆んなが持っていたその籐ランチボックスに興味があったのだろう。
ずいぶん、年月が経ってからの行動になる。
この時間差実践は、わたしの特徴のようだ。

今、思えば、ソフトな化学素材のランチボックス、かなりキュートでオシャレで可愛い。
存在感のある、昭和テイストのグッズだ。(今ではレトロ)


ちなみに。
姉は目指す職業があったが、幼稚園児の時からわたしは専業主婦希望だった。
姉が頭脳明晰で行動実践力があるのに対して、わたしは、暖簾に腕押し、2階から目薬、昼行灯、昔の蛍光灯タイプだったので、自分で自分がよくわかっていたのだろう。
(ピピッと俊敏に即座に反応しない。
1を言えば100を理解するのではなく、100を言えば1ぐらいは理解する、、、が、後に長い時間を経て、あ、あれはこういうことだったのか、と理解する。遅い)
ぐにゃあ、と、していたのだろう。
どうも自分は世の中に通用するバリバリの頭脳の世界では勝負できないことがわかっていたのだろう。
三つ子の魂、百まで。
幼児のわたしは、自分を見誤ったわけではない。
正反対の姉がいたからこそ、より特徴が明確になり際立った。
面白いものだ。

なんの役にも立たないが、バリバリ出来る人々の中で緩和材になっているようなかんじか?
が、そう思っているのは自分だけで、あまりにもトロイと疎まれる。
気をつけなくっちゃ、とその場になると自分を叱咤激励する。
で、よけいにモタつく。



ある日の宗教記事

2024-01-26 | 
ちょっと元気がない。
涙がぽろぽろ出る。

食べたいものを食べ、欲しいものを手に入れ、行きたいところに行き、やりたいことは、もう、やった。
だが、前人未到の超絶秘境地に行きたいわけでも、わざわざ飛行機に乗って食べたい店に行きたいわけでもない。
話題の美男美女に会いたいわけでも、教祖様に会いたいわけでも、推しのアイドルや俳優に会いたいわけでも、トップ政治家や有名人に会いたいわけでもない。
この世にいない人に会いたいわけでもない。

べつに、何がしたいわけでもない。
何も、新しいことはしたくない。
今のままで、十分満足。十分楽しい。
鬱なわけではない。
なぜなら、気分はいつも良く、明るい。
しょげかえってなど、いない。
だから、鬱ではない。
やる気がないわけではない。
今の状態を維持するために、多少は努力している。
こういうのは、あまり向上心がないと言われるのだろう。
いいの。
無理はしない。
自分が良ければよい。

だが、他人から手は差し伸べられても、他人にエネルギーを分けてあげるほどの元気はない。
自分を楽しく保つことで精一杯。
他人に尽くすタイプではない。

自分と向き合う。
競争相手は他の人ではなく自分。
自分に打ち勝つとか言うけれど、勝たなくてもよいではないか。
なぜ、勝たなければならないのか。
しかも相手は、他ならぬ自分。
自分に負けて、何が悲しい?
自分に勝って、何が嬉しい?

では、
自分に負けて、嬉しい? 
自分に勝って、悲しい?
別に嬉しくも、悲しくもない。
自分同士の闘いなんて、観客もいないし、必死になっても仕方ない。
第一、ジャッジも観客も自分だし。
何を今更、闘う???

自分はどうしたいのか?
自分が楽しいようにしたいだけ。
そんな大それたことは、したくない。
毎日、小さな喜びを見つけて、小さく暮らす。
それではダメなのか?
出来るうちに、どんどん何でもすべきだと思っていたが、べつにしたくなければ、出来てもしなくてもいい。
したければ、すればいい。
世の中の本やSNSの、声の大きい立派な意見やライフスタイルばかりを取り入れなくてもよい。
あくまでも参考意見の一つとして見聞きする。
小さな声もあるし、声をあげていないこともある。

毎日、薄い水の中で静かに暮らしているのが、今のわたしの幸せ。
また変わるかも知れないが。
欲求がどんどん薄く軽くなってきている。
ひょっとして、もうすぐ、、、魂がなくなるのかなあ???
それはそれで、負の感情や考えもなくなる。
プラスとマイナスの振れ幅が小さくなる。
不純物がなくなり浄化されるということか。
いや、不純物こそ生きるには欠かせない要素だ。
美しく清められなくてもよい。
菌に強くなければ生きていけない。
雑菌はそこらじゅうにウヨウヨ。
純正栽培は生命力が弱い。

ちみに。
どなたかが、昔の蝶ブログ記事を引っ張り出して読んでおられる。
その中で、「宗教①」というものがあり、興味深く読んだ。
(自分が書いているのに内容を忘れている、、、)
信心していないのにお経を読めと姑に言われ、思いっきり減らず口をきき、反抗した話。
「家の宗教を内容もわからず頭から信じるのはおかしい。
わかっているなら、内容について詳しく正しく説明してください」と、姑Aに食ってかかるわたしに、Aは、
「先代の姑たちは、立派だった。
こんな未熟な何も知らないわたし(Aのこと)に、怒りもせず優しく包み込んでくれた」と答えた。
当時の若いわたしは、当時のAとオーバーラップするのだろう。 
皆んな来た道、歩む道。
だがしかし、明らかにわたしの質問に答えず話しをはぐらかして、話の内容を変えている。
わたしは、「説明してください」と言っているのに、説明せずに、わたしを未熟だと非難して従わせようとしている。
一時的には人情的にうまく丸め込まれたような気になったが、話の論点は明らかにズレている。
ごまかされている。
そうやって、ごまかし、ごまかし、疑問はクリアに解明されず、今日までどうにか引き継ぎ持っているのだろう。(Aは故人だが)
お坊さんのように何時間も正しく説明されたら、かえってわたしが困ってしまうところだった。
面白くなくて居眠りしてしまうだろう。

人を自分の思い通りに動かそうとするのは難しい。
駆け引きや策略が必要だ。
信じていない宗教のお経を読むことに関しては、自分が能動的に読むのではなく、その道のプロ(お坊さんや神主さん)が読むのを聞く、受け身なら抵抗はないと感じる。
日本には地鎮祭やお葬式、七五三など、強い信者ではなくてもお経や祝詞を聞いている。
初詣やお寺詣りも、抵抗ないイベントとなっている。
あまり深く考えていない、慣わしのようなものか。
へんに抵抗して流れを止めて摩擦を生じさせ、前に進む邪魔をしないようにしたほうが、よいのか。
信心というよりは、おみくじやジンクスみたいなものか。
そのあたりを姑Aは、わたしが納得できるように説明してほしかった。
教義が大事なのではなく、誰もわかってないけれど手を合わせているんですよ、と認めてくれたら、また違った展開になっていたかも知れない。

わたしは、わからないこと、理解できないことに対して、無条件に、何でもいいからツベコベ言わずに頭を下げるんだ、と強制されても不満しかなかった。
自分なりの解釈、納得が必要だった。
古今東西、宗教はとてもデリケートな問題だ。



ボクの言うことをきけ

2024-01-24 | 日々のこと
小5男児(1番目孫)Yと、小3男児(2番目孫)K。
意見の不一致→要望のぶつかり→ケンカ→話し合い→和解?決裂?

ばあちゃん家(わたし宅)での2人。
兄Yは、野球盤ゲームか、プラレール(電車と線路の玩具)で遊びたい、と弟Kに提案。
弟Kは、どっちも「嫌だ」と言う。
「なぜ嫌なのか」と問う兄Y。
「遊びたくないから」と弟K。

「なぜ遊びたくないのか?」と、つっこむ兄Y。
「なぜ、遊びたくないのに遊ばせようとするのか?理由は?」と弟K。
「遊びたいからだ、遊びたくない理由は何だ?」と引き下がらない兄Y。
「ボクが遊びたくないのに、なぜ遊ばないといけないのか?」と弟K。
「ボクが遊びたいからだ。なぜ、遊ばない?」と兄Y。
「遊びたくないからだと言っているやろ、何回、聞くの?」とヒステリックな声の弟K。
「ボクが遊びたいのに、なぜ遊びたくない?」と兄Y。
「ボクが嫌だと言っているのに、なぜ遊びたいの?」と弟K。

「1人では遊べないからだ」と兄Y。
お、雲行きが変わった。兄Y、不利。負けを認めた?
「だからって、なんで遊びたくないボクが遊ばないとあかんの」と弟Kは負けてない。

兄は弟を何かで釣るしかないか?
交換条件などを提示したり、とか。
が、兄Yは、黙ってしまった。

兄Yが認めて諦めたのかと思いきや、2人に同量ずつ、半分に分けて出していたオヤツ(バターサブレ)の弟の分をむんずと掴み、
「遊ばなかったら、Kのオヤツは無し。ボクが全部食べる」と強硬姿勢に出た。
「なんでボクの分を食べるん」と泣き声の弟K。
Yは、口まで持っていきパクリと口を開け、口の前でピタリと手を止めた。
食べる寸前、食べる真似をした。
Yは「KはTVを観たら絶対ダメやからな」と捨て台詞を残し、録画の観られる隣の部屋に移った。

野球盤もプラレールも、うち(おばあちゃんち)でしか出来ないから、兄Yはその遊びにこだわった。
だが、相手がいないと出来ないのは、明らかに不利だ。
弟Kに参加してもらえないと遊べない。
弟Kは、強みがある。
北風政策には乗らない。
2人のやり取りが面白かったので、後で母親(わたしの娘)に経緯を説明すると、
「兄Yはそんな(悪い)ことは、出来ない性格やわ」とのコメント。
なるほど。良い子なのね。

この2人。
社会の縮図のようで観察するのには中々興味深い。
なだめたり、すかしたり、おどしたり、、、
自分がしたいように進めるには、あの手この手が必要だ。
自己欲求、欲望の渦に溺れ、、、ることなく、、、
いまのところは、やりたいことは「オモチャ遊び」だから可愛い。


悪い夢で叫ぶ

2024-01-23 | 日々のこと
今朝、悪い夢を見て、悲鳴らしきものをあげた。
自分の叫び声で目が覚める、よくあるドラマの展開パターン。
昨夜のことが気になっていたからだろう。

娘たちだけでなく、他の人にも悩みを少しだけ打ち明けた。
アドバイスは、それぞれ、分かれる。
人の数だけ意見があるようだ。
どれが正解、というものはなさそう。

ああ、しかし、、、
今夜もまた悪夢にうなされるのだろうか、、、。

意見が真っ二つに分かれる

2024-01-21 | 日々のこと
バタバタバタバタ。
なんだか忙しい。
バタバタバタバタ。

さて。
憂鬱なことがある。
悩んでいる。
他人には相談出来ない。
娘たちには個々に相談した。
決めるのは自分。
決断は、英断とは限らない。
とりあえず、決定を持ち越す。先に引き延ばす。
期限が来る頃まで、真っ黒な気持ちで過ごす。

意見が分かれる時は、相手も自分も半分半分、要望を折半し、妥協した案を話し合いで探り合うのが理想。
なのに、相手はすぐ感情的になり、怒り出す。
キレる。

こちらが折れて相手の言い分を聞くと、激しくストレスが溜まる。
おそらくお互いにそうだと思う。
五分五分が1番ややこしい。

究極の解決法は、相手も自分も目の前から完全に消える時。
だが、どちらか一方が残った時、良いことも悪いことも、懐かしい気持ちになるだろう。

誤魔化しも薬のひとつ

2024-01-20 | 人生
自分では思い通りにならないから、他に依存すると気が楽になる。
抱えきれないもの、こころの別部屋に入りきれないものを扉を開けて放出する。
その方法は、人それぞれだろう。

別の何かに熱中してその時間は忘れられても、根本治療にはなっていない。
また、じくじく痛み出す。
一人でどうにもならない時は、カウンセラーやセラピーや心療内科や、こころの専門家の助けを借りると、解決の糸口となる。

別のことに熱中して、その別のことにのめり込み、今度は依存症という新しい病理を生み出すこともある。
病は次から次へと形を変える。

病の根本を治して完全治癒が難しいなら、病と共に共存共栄して生きていく。
根絶は諦め、一病息災。
あまり無理をしないから、悪くはない。

こころの病は、根源を探り出す。
自分は何をどう感じているのか、なぜ自分はそう感じるのか、経緯を遡って、こころのねじれを紐解き自分に問う。
トラウマだったりコンプレックスだったり、色々ある。
克服するのはとても難しいと感じる。
涙と時間が必要だ。
自分らしさを認めるのは困難。
認めすぎて自分に高い評価をする人もいる。
やりすぎると嫌われる。

劣るダメな自分も、かわいいと思って愛でる。
あまり周りと比べるのは良くないが、自分の過去と比べたりすると、どうしようもない。
日本だって栄光は過去になりつつある。
アメリカだってそう。
ヨーロッパだってそう。
スペイン艦隊がイギリスに敗れた時(1588年)に歴史は動いている。
順番順番。
トランプゲームと似たようなもので、誰かが勝って、誰かが負ける。
勝ったり負けたり。
栄光と転落。
そうやって時を紡いでいる。

とかなんとか、話しがぐーんと広がり過ぎて、身近な悩みや疑問にフォーカス出来なくなってしまうのが、いつものわたしの流れ。
シミや汚れを揉み洗濯しているようなもの。
すっかり元のようにキレくはならないものの、滲むか馴染むかして、あまりわからなくなっている。
誤魔化しているとも捉えられる。
しかし、なんでもかんでも、追及すれば良いというものではない。
外科手術か、漢方薬か。
切除か、融和させるか。
緩和というものもある。
温存、誤魔化し。

最近はレーザーをピンポイントに当てたり、手術も進化しているようだが。
と、相変わらず、話が脱線。

まずは、直近の目の前のタスクを今、こなす。
午前中に、だったり、今日中に、だったり、今週中に、だったり、今月中に、今年中に、今世紀中に、、、

さ、用事を溜めずに腰を上げよう。
(自分に言ってます)


良くも悪くも過去は過去

2024-01-19 | わたし
今回は、まあ長い長い長い記事。
100歳の人が、「わたし、いつまでも死なないような気がするんです」と言っているような、いつまでも終わらない長い記事。
ここで、読み終えることをお勧めします。

・・・・・

わたし、わたし、わたし、と、調子付いているわたし。
小学生一年生の時の、初めてもらった通知表。
担任の先生(女性)からコメントが書かれている。

「おとなしいが、芯はしっかりしている」

わたしは、この先生からのコメントがとても気に入っていて、蝶ブログにも最低1回は書いている。
初めてのお勉強、小学校では、
国語では「さくらが、さいた」だった?
理科では、「菜の花」の色鮮やかな黄色が印象的だった。

幼稚園から小学校にほとんどの園児は持ち上がる。(校外に転校する子もいるが)
2年の時、1クラス増えて2クラスになった。
1クラス分は新しい外から入ってきた生徒だった。
わたしは、幼稚園からそのまま持ち上がったため、クラスメイトは半数は知った顔。
(幼児クラスから保育所が同じで、大半が同じ小学校に入学するようなかんじ)
さらに、中学では、受験で入った生徒でもう1クラス増え、学年は3クラスになった。
中学に進学する時、他の中学校に行く生徒もいる。
居残り組のわたしは、昔から知っている生徒が多い。
そして、高校は同じ中学から進学してきた生徒がたくさんいた。
いつも必ず同じ顔が多数いた。
幼稚園からずっと顔ぶれは一緒だが、大概は高校あたりで分かれて行く。
同時に新しい顔に出会うことになる。
わたしは、最初からずーーっと居続けている分、多くの同級生とはかなり長い間、同じ学舎で学んでいる
小学校の時は、姉の同級生たちと、わたしの同級生たちが、きょうだいというパターンもある。

それはそうと。
今、思えば、わたしは高校時代は、こころが荒んでいた。
目標高校に入れて、緊張の糸が切れていた。
仲良くなる子は、お行儀の良い子ではなかった。
勉強もあまりしない。成績も良くない。
おそらく、「井の中の蛙」現象、頑張って入ったのに、そこでは埋没。
周りは優秀な生徒ばかり(に見える)。
自分への評価が昔ほど良くない。
で、拗ねる。
そういう子が、つるんでいたように思う。
(ちなみに、わたしは、自分が成績が振るわないから拗ねていたわけではない)

その中の一人の不良(っぽい)女子AのボーイフレンドBと、高校の還暦大同窓会でチラと会ったが、激変していた。
あの可愛かったキュートなBは、いずこに?
この目の前にいる、ちびまるこちゃんのおじいちゃんのような元気のない人は誰?
確かに、顔をじーーっと見ると面影らしきものはある。
が、、、変われば変わるものだ。

高校3年の時にAとは同じクラスにもなり、よく一緒に遊んだのだが、直近の同窓会ではほとんど話さなかった。
他にも当時の不良(っぽい)仲間はいたが、その後、どうしているのか知らない。
わたしは、あの時期は、たんに拗ねていた時代なんだろう。
拗ね拗ね仲間と半世紀後に会っても、やあ、どう?と、会釈するだけで、お互い近寄らない雰囲気。
たぶん、、、すっかり水と油になってしまったのだろう。

思春期にはこころが安定しない。
家庭に居場所がなかったりすると、別の場所に居場所を求める。
ではあるが、ルールが緩くて楽なほうに一時的に流れても、出会う大人がキーパーソンになる。
それぞれの不良もどき※の生徒たちも、風貌は半世紀経つと変わったものの、わたしには遠い過去の、なかったことの出来事のように感じる。
(※そもそも、わたしの考える「不良の定義」が、暴力は振るわない、ケンカはしない、犯罪には一切関わらない、警察のお世話にならないもので、かわいらしすぎる)
そのうち、老化が進み、自分に都合のいい、理想的な過去をねつ造し始めるかも知れない。
気に入らない過去は消して、作り物の過去を自分のこころの中で、でっちあげることもできる。
(詐欺罪に問われたり、社会的信用を失わない程度に)

わたしは別にねつ造する気はない。
ただ、嫌なことは忘れる。
どうしても忘れられなければ、こころの別部屋に入れておく。
しょっちゅう、出てこられたら困る。
思い出と共に生きるのも良いけれど、現在も大事。
過去が良くても悪くても今が悲惨なら、宗教勧誘に引き込まれるかも知れない。
宗教が悪いとは思わないが、一歩間違えると社会問題や家族問題を引き起こす事例が多発している。
そんなこと、わざわざブログに書かなくても、誰でも知っていることだが。


日本はたくさんの神様が仲良く同居している。
山の神様も、火の神様も、台所の神様もいる。
だが、神様の扱いを間違えると悲惨な事態を引き起こすのは、過去の黒歴史を振り返るとわかる。
文字の神様も、おとなしくしていても、時としては、ペンが猛威を振るうこともある。

「自分の神様」は他人ではなく、「自分」ということにするとよいのでは。