蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

テレビと遊ぶ、、、

2020-03-31 | 日々のこと
ドイツブログ。
朝から泣かせていただきました。

わたしにも清らかな涙があるのかも知れない、、、と思わせてくれるような、、、そんな気になった。
過去の記事も併せて読み、また、涙はらはら。
わたしの涙腺は、明らかに弱っている。

さて。
昨日、 NHKテレビ番組を見た。
わたしが好きな番組がたくさんある。
受信料を払う値打ちがある。
だが、民放のバラエティレベルのつまらないものもあり、そういう時は消す。
※ちなみに、民放にも素晴らしい番組がある。
テレビ朝日開局60周年記念の「氷と雪に閉ざされた秘境の地  天空のヒマラヤ部族  決死の密着取材150日間」(2020年3月8日 20:53〜23:26放映)は、感動した。

テレビを消すのは、、、
テレビを常に垂れ流している某、あの方(わたしの一番身近にいる人物)の弊害、テレビ公害、2次被害を常に受け続けているので。
身体中に嫌いなテレビ番組の毒を常時、浴びさせられている。

わたしはわたしで、好きな番組があり、あんなに某氏のように、次々行ったり来たりザッピングして番組を変えない。
いよいよ見るものがないからと、テレビショッピング番組までつけている某氏。
テレビショッピングに個人的怨みはないが、買う気もないのにテレビショッピング番組にまで至る行為をわたしはテレビ中毒認定している。
その、テレビ好きを通り越して中毒の人と、ひとつの部屋でテレビライフをシェアするとなると、、、
しかも一生、、、
Les Misérables.

日本の狭い住宅事情では悲惨な例があり、部屋を別に出来ないケースもある。
幸い、少ないながら、わたしには選択肢はあるので、どうにかこうにか生き長らえている。

じっと興味深く見ているテレビ番組をささっと自分の好きなチャンネルに変えられると、怒り以上のものが湧き上がる。
チャンネル権は、もはや生存権に近い。
そして、チャンネルを変える権利もさることながら、テレビを消す権利もあるはずだ。
なので、わたしは見たい番組がない時はテレビを消す。
すると、嗜好や感情の波は、すっとなだらかに上下の差は縮められ平坦になる。
無理やり脳に刺激を求めない。
波動が静かになると、こころ穏やかにニュートラルになる。
たかがテレビ、されどテレビ。

まあなんと長々とした前置き、助走、序章。
で、昨日の面白かった番組。
しかし、ここまで書いて、息絶え絶え、、、。

深く突っ込む気力がなくなった。
とりあえず、さらっと。


偏差値最低学生が東大合格するまでの逆転人生。
可愛い男の子だった。
今、問題にされている、詰め込み式の教育から、考える力をつける教育にシフトする必要性。
教育に一石を投じているが、実践は一足飛びには難しく、更に結果を見るのはまだまだ先のこと。
東大あたりは、とうの昔からやっているのだろうけれど。
わたしは東大の受験過去問題集など全く縁がないから、何とも言えないが。

何故?
これが大事。
丸暗記ではなく、何故なのか?
丸暗記やデータ読み込みは、AIにやらせ、人間はどう料理するか、指示を出す。
しかし、どう料理するかは、基本を知らないですっ飛ばしている無知な頭からは、方向違いの発想が生まれるかも知れない。
それはそれで固定概念にとらわれない斬新なものがあるだろう。
基本を知れば知るほど、新しいアイデアは生まれないかも知れないが、そこを頑張る。考える力。
だが、あまりにも基本を知らなさすぎる場合、話にならないことがある。
素材をいかに活かすか、なんだろう。
一方からだけでなく、いろんな方向性からの取り組み、チャレンジ。

教育のオーソリティがコメンテーターとして出演していたが、理想を実践しようとしている、その東大生に大いに拍手を送って喜んでいたものの、コメンテーター氏自身は実際には頭がカチンコチンで面白かった。
わたしも、気持ちは賛同して舞い上がっても、あんな風か、いや、もっと瞬発力がない。
脳のシナプスがあちこちぶちぶち断絶され、お地蔵様みたいに、微動だにビクとも動かないだろう。
でも柔和な顔をしたお地蔵様だと思う。
雪の日には誰かが傘を被せてくれるかも。

で、次。
その番組に引き続き放映されていた。
若い詩人。最果タヒ。
難解にもかかわらず、よく読まれているそうだ。
さわりだけ紹介されていて、ちょっとだけわかったような気になったが、ちんぷんかんぷん。
日頃、わたしが思っていることとあまり変わらないようにも思うが、言葉の使い方が難解。
人に分かりにくい言葉を自分の感覚に沿った言葉として使っているのだろうけれど、外に発する場合、もっと分かりやすい言葉を使って欲しい。
なので、理解しようという気にならず放置。(じつのところは、理解できずに放置、というのが正解)
深く突っ込まず、ちょっとだけ口に入れてあとは食べずに捨てるかんじ。
作者と読者の隙間、ちょっとした距離、余白があり、親切丁寧にいちいち細かく説明せず、その余白を読者がそれぞれの目線で自分流に解釈するんだそうだ。
わたしは、余白にも入れず。入り口で、Uターン。
高速道路で言えば、ECカードを組み入れていないで現金を支払おうとしても係の人が居ないで、遮断機が開かない状態?

この作者、たんに自分の世界のワケのわからない感覚的なことを発しているだけなら、わたしは寄り添う気はないと思っていた。
しかし、この作者、インテリだった。
わたしは、水戸黄門さまの葵の御紋の印籠のように、インテリの証、日本で有数の天才が自由に学ぶ大学イメージの、権威ある「○○大学」在学中から活動、、、には理屈抜きで弱い。
ミーハーの極め。
東の東大に対して、自由な学究イメージを持つ。
なので、作者プロフィールに強烈な先入観が後から上塗りされると、ワケわからん詩は、賢い人の頭脳、発想にはわたしは着いていけない、理解できない、という感想に変わる。
ワケわからんのは、わたしがアホだからなんかなあ、、、と。
いや、そこまでは卑屈にはならないにしても、脳の種類が違うんだと感じるに至る。
良い悪いではなく、上と下、比較するのではなく、種類が違うため、同じ枠内、土俵では闘えない。
だから、降りる。
結局、降りることには変わりないのだが。

この作家の詩が好きな人は、今、現代社会で真摯に生きることに向かい合っている人が多いのかと想像した。
何故?と問いかけながら、自問自答、試行錯誤を繰り返し、一生懸命生きているような人々。

この作者は、人にわかるように説明するのではなく、自分の言葉で自分の感覚や脳内を表現しているのだけど、ひょっとすると、たんなるわたしの好き嫌いだけかも知れない。
昔、吉本ばななを読んだ時に、まるで無理解、無感動だった。
そんなかんじかな?と。
作家名は、好きだけど。

わたしは、きっと理解する側には居ないで、勝手に一人で遊んだり静かに騒いだりする派なんだろう。
人の書いたもの、特に感覚的なものは理解しようとしない、撥ね付けてしまう傾向があるようだ。

が、取材ドキュメントものは好き。
ドキュメントにも作り手側の意向や意図があるので、そのまま丸々受け取ると、作り手側に踊らされる可能性がある。
そこで、考える力が必要になる。
事実をどのように見せようとしているか、見せる側の目も同時に持ちながら、何を訴えようとしているか探る。
訴えられたからといって、賛同するとは限らないが、感動することはあり得る。
敵の手に惚れる、みたいな。

と、長々、着地点が見つからない。
軟着陸、さて、どこにしたらいい?

ちなみに、最果タヒというペンネームは、すごくいい。
けど、孫に命名にはやめておこう。
暗いから。



そこらへんのオンナと違う

2020-03-30 | 日々のこと
孫たちの保育所や小学校に提出する雑巾を縫った。
一か月ほど前に、ウチにあるありったけの雑巾予備軍のフェイスタオルを雑巾に縫ったばかりなのだが、追加要請が来た。
雑巾予備軍ではない、現役タオルを雑巾にするのは、わたしのポリシーに反する。
脳の一部では、かなり嫌がり、抵抗したが、仕方なく、ちょっとだけ点状の色染みが付いた、全然雑巾向けではないタオルをハサミでバッサリ2枚に断ち、雑巾に縫った。
とか言いながら、〇〇町人権啓蒙スローガンが染め上げられた、ちょっと恥ずかしいタオル。
孫たちに、肩身が狭い思いをさせている?
いや、素晴らしい立派なスローガンだ。
あれを脳に刻み込んで、日々、生活していただきたい。笑。ごめんねー。

その雑巾を縫いながら、ラジオを聴いている。
流れてきた平井堅が誰かと歌っているポップな曲。
歌詞の「あたしは、そこらのオンナと違う」という一部分に、脳が反応した。

「キミはそこらのオンナと違う」なら、わからないでもない。
平井堅は男性だが、女性の立場で女性の歌詞を歌っていた。
まあ、どっちでもいいのだが。

「キミはそこらのオンナとちがう」→目の前の、付き合っている女性に夢中になっているため、他の女性が目に入らない状態。
よくあることだ。
だが、これが「あたしは、そこらのオンナと違う」になると、、、
よく言ったもんだと感心する。
勘違い以外のなにものでもない。
「そこらへんのオンナ」の定義は?
自分以外の女性、ということだろう。
自分だけは、特別だという、強い肯定感、僭越感、優越感、、、
参りました。
女王さま。

わたしは、言ってはナンだが、生まれて一度もそんな気持ちになったことはない。
生まれて一度も嘘をついたことがない、というぐらい、嘘くさい告白だと感じる人もいるだろう。
嘘は何百万回もついたが、悪意はない。
悪意がなければ許されるかというのはまた別次元だが。

まあそれはそれとして。
自分は唯一無二で宇宙中に誰一人として自分と同一人間は存在しないと、わたしは思っている。
クローンがいたとしても、DNAは違うはず。
ちなみに、隣の駅をはじめ、あちこちで、わたしを見たという人から報告を受けることがあるが、わたしではない。
外見がわたしに似た人は、いっぱいいる。

というわけで、DNA的には唯一無二だか、「そこらへんの」人とは違うのよ、という思いはない。
「そこらへんの」を使う人の意識を徹底的に書きたいが、思いが強すぎて、書くのが面倒になっている。

まあそれはそれとして。
わざと人から反感を買う歌詞を使うなんて、ズルい。
正攻法で攻めてほしい。
が、わたしのように、過剰反応してしまうリスナーがいると、作り手側の思いのツボである。

雑巾を縫いながら、ラジオ。
不思議なことに、電波事情がメチャメチャ悪かったのだが、今日はクリア。
天気のせい?
このラジオ、物置から引っ張り出してきた新古品なのだが、じつに気分屋である。
使う人の気質が伝染した?
とりあえず、電波事情の気分はいつまで続くのかはわからないが、電波が良いうちにFM放送を楽しもう。
(て、電波、自分で選べないの?)

ちなみに、歌詞は「あたしはそこらへんのオンナとは違うわけを教えて」だったかも知れない。
なんだっていいのだ。
が、それはそれで、そんなことを聞いてくる女性は、まためんどくさい。

と、今日のブログ、ここで終わっていたが、また平井堅の上記の曲がかかった。
あなた(男性?)に恋する女性の切ない思いを歌っているようだ。
曲のはじめには、早口で「わたしをそこらへんのオンナのように扱ってよ」とも聞こえる。
だとすると、女王さまとは真逆か?
TOEICヒヤリング テストのようだ。
いや、深読みすると、逆に、庶民になりたい女王さまの願いか?
そうなら、ヒヤリング テストではなく、読解力テストか?
うーーん、、、






頭脳優秀な人は、意外に単純

2020-03-29 | 無題
男性のアタマの中は、いたって単純である。
とても優秀で、人々の役に立つ、よく働く男性に限って、シンプルマインドで、あまり深くものごとを考えない。
(大勢を引っ張るリーダー的な人は違うのだろうけれど)

直球、ストレート、力任せに投げる豪速球。
結構なことだ。

しかし、視野は非常に狭い。
例えば食卓。
目の前に、醤油を出していても、いつもの場所から数センチずれるだけで、目に入らない。
「醤油がない。醤油は?」と。
辛子を出していても然り。
視野は右目と左目の両目の間だけ。
首を動かさければいけないものは、見えない。
無いと見なされる。
目の機能に限らず、一種の脳の病気かとも思えなくもないが、老化のせいもあるのだろうか。
と言ってもまだ現役で働いていて、60代。

わたしは小さい時からアタマが相当悪いと自覚している。
ただし、周りの頭脳レベルは一般的ではなかったようだ。
それを差し引いても、あまり賢いほうではない。
だが、頭がカチカチの、優秀な頭脳の人を身近で見ていると心配になる。
認知症は、IQや仕事内容とはまた別のところの問題で発症するのかも知れないと感じる。

ある現役サラリーマン。
すごい単純な頭の持ち主。
ホワイトカラーで仕事はよくでき、経済的に一家を支えているのだろうが、あんなに、一本調子でよくやって来れたなと感心する。
興味の幅が、ニッチ。狭すぎ。
社会問題にさえ、まるで興味を示さない。
もはや驚きである。
そういう人でも現役でちゃんとした企業に勤めている。
企業は、一度雇うと、クビにはできないから、いろんな人がいるのだろうか。

あるいは、、、
仕事面では常識を踏まえて、ちゃんとしているが、わたしに接する時は、地金、地そのものを出しているのか。
まあ、それはそれで、安心しているのだろう。
わたしは悪人ではないので、人を傷つけたり攻撃したりはしない。
そういうことは趣味ではない。

気を許したら、わたしにならどんな面を見せても怒らない、許されると思う人が少なくない。
まあ出る出る、、、これでもか、と、本性が。
総合すると、皆さん、単純である。
(たまたま)悪い人はいない。
優秀な人ほど、プライドが高く、承認欲求が高い。
これは当たり前のこと。

あれこれ、色々ごちゃごちゃ考えるわたしが、一番、腹黒なように思える。
何しろわたしは、後出しジャンケンだから。
ズルイのだ。

夜道をとぼとぼ

2020-03-28 | 日々のこと
時事ネタは、いつもさらりと書くことがあるが、今回の時事ネタには触れたくない。
直接的な関わりがありすぎて、心身にかなり甚大な影響を及ぼしている。
世界中の皆んなが同じように影響を受けているだろう。
と言っても、わたしは政府高官でも、会社の経営者でもない。
が、一人一人が人ごとではない。


昨夜も学童保育、小学校へお迎え、引き取りに行った。
両親共に仕事が忙しく、三月は年度末で特に。
小学一年の孫Aと、雨の中をとぼとぼ歩く。
色々話しかけるが、返事は無し。
行きは時間がなかったので、ショートカットの道をひとりで急いだ。
だが、近道は、人っこひとり通っていない、人影のない怖い道だった。
いくらわたしが若い女性ではないから関係ないとも思えず、帰りは住宅街のほうを通ったため、距離が長い。
やたら遠く感じた。

各家々、門灯や、エクステリアの照明が落ち着いた夜の雰囲気を深める。
豪邸もあるが、売り家が二軒もあった。
売り家としては、新物件だ。
ずっと前からその家の存在は知っている。
その他にも、30年以上前から知っている家が取り壊され更地になっている物件もチラホラ。
中には、本来は協定違反になるのだが、二分割や三分割されて売られているものもあり、若い世代が購入しやすいのでウエルカムだ。
住民の世代、新旧交代、、、とまでは残念ながらいかない。
若い世代は圧倒的に少ない。
去る方が多く、入る方が少ない。
高齢化だけでなく、人口は年々、確実に減少する一方。
寂しいなあ、、、

孫Aと、とことこ歩いていると、途中で雨もやんだ。
孫Aの家が見え、孫を無事送り届けた。
が、真っ暗な家に入り、室内の電灯をつけると、孫Aは、いつもになく珍しく、「パパや、〇〇たち(きょうだい)が帰ってくるまで、ばあちゃん、ウチにいて」と言う。
わたしが誘導質問したからか?
「ばあちゃん、帰るけど、いいかな?
それとも、パパたちが帰るまでいたほうが、いい?」
そこまで言われたら「ばあちゃん、帰っていいよ」とは言わないだろうけど。
30分ばかり、電車の本に載っている鉄道路線地図を見たり、パズルの説明をしてくれたりしていた。

彼は、今日は学童保育に勉強道具しか持っていかなかった。
コロナの影響で、子供同士は遊ぶものの貸し借りは避けているため、各自、家から持参することになっていた。
孫Aは持っていけなかったため、一日中、遊べなかった。
オヤツも持参してない子は無し。
孫Aが学童保育の場所に連れて行かれたのは、朝イチで、まだ誰も来ていなかったそうだ。
そして引き取りは、一番最後。
可愛そう。
一日、退屈だったことだろう。
いつまで?という読みができないので、困る。
いましばらくなのか、腹を据えて一年このままなのか、ずっと二、三年なのか。
世の中の皆さんと同じような曇った心配事、悩みをシェアしている。



コラ!ぼーっとしないで、しっかりしなさい!

2020-03-26 | 
昨日、とても嬉しいことがあった。
飛び上がらんばかりに喜んだが、別に声を上げるわけでもなし、頰を緩めるわけでもなし、だが、こころは天に向かって舞い上がっていた。

そもそも、わたしは、いつ頃だったか忘れるぐらい前に(日記を紐解いてみよう、、、)、あるモノを失くした。
それは数年前の寒くはない時期。
夫の実家からソレを持ち帰った。

夫の実家は、非常に防犯上、生ぬるい。
歳を取れば取るほど、ちゃんと戸締りをしたりするのが、だんだん面倒くさくなってくるのだろうか。
体力や知力に自信を失うと、逆に外敵が怖くなって、何度も何度も施錠を確認したりすると思うのだが。

まあなにしろ、セキュリティの甘い不用心な、そういう家に置いていた、自分の貴重品を持ち出して自宅で管理している。
無くなってからでは遅いので。
引き続き、誰も住まないその家から姑の貴重品も持ち帰り、わたしの管理下に置いた(つもり)。

その次の年、ふと、その貴重品をチェックしようと持ち帰った先であるわたしの自宅を探してみたが、見つからない。
一夏中、探した。
何度も同じ場所も繰り返し探した。
おかしい、、、明らかに、おかしい、、、。
なぜ、無い?
持ち帰って来た当日を思い起こし、バッグの中や、内ポケット、バッグ イン バッグの中も探した。
実家の部屋で立ち寄ったかも知れない、落としたかも知れない箇所も念入りに探した。
日を置いて、また、可能性のある場所を隈なく探した。
が、結局、見つからなかった。
神隠しに遭った?

自宅の寝室のライティングビューローの前で、その小さなモノをまじまじと見て、「極上とは言えないけど、まあまあそう悪くはないかなあ」と、にんまりした記憶はしっかりあるのだが、覚え違いだったのか?
あるいは、感想が、思い上がりに満ち溢れた感じ悪い上から目線だったので、神様か、はたまた購入者(舅・故人)の怒りに触れたのか。

なにしろ、失くしてしまっていた。
もし、将来、形見分けの時期でも来たら、義姉になんと言い訳しよう、、、
「気がついたら、いつの間にか無かった」と盗難路線を推し進めようか、、、はたまた、「そもそも、そんなものの存在は、有ったことなどハナから知らない」と、シラを切り通そうか、、、などなど。
まあ、誰も何も言わないと思うが。
義姉は何か思うだろうが、何もこちらから切り出さなくても、言われたら何かしら返答すれば良いと考えていた。
見つかった今でも、言っても言わなくても良いと思っている。
姑のモノは、わたしのモノ。
家のモノはわたしのモノ。
そう姑がわたしに言っていた。
良きにせよ悪きにしろ、管理者に全責任がある。
相手の出方を待ってから対応するのが、わたし流。
後出しジャンケン。ずっこい(「ズルイ」の方言)

それはそうと、
そう必死でしがみつくようなシロモノでもないのだが、(精神的には意味があるものなので)ずいぶん気にかかっていた。
一生、出てこないだろうと覚悟を決めていた。
喉に骨がささったまま、お蔵入り、迷宮入り未解決案件とともに生き続け、次第には忘れ去ることだろうと思っていた。
別に、有っても無くても、(僅かばかりの換金性はあるだろうが)実質的にはなんの役にも立たないモノである。
(そんなこと書くと、せっかく姿を表したソレが、また雲隠れしてしまいそうだが)

いずれにしても、すっかり諦め切っていたモノが見つかり、有頂天になっている。
昨日、見つかったその日が、関係者の命日とか、記念日か、何かの関わりがある日だったのか、調べてみた。が、まるで関係なし。
この喜びと、失くした残念感、喪失感と、どちらが大きいか。
失くしたのはわたしの全責任で、見つかった、出てきたのは、関係者一同(故人数名含む)の目に見えない力、協力、チーム総合力だったように、勝手に感じている。
嫁として、炭酸水の気が完全に抜けた、もはや置物の如く動かない手抜きサボりのわたしを、ヒヤリとさせ一喝した?
無事出て来て、まだまだ頑張れ!と応援した?
出て来たのが、わたしがあの世に行く直前ではなく、老人ホームに入る前日でもなく、今の時期であることに、(故人数名を含む)皆んなが、わたしに伝えたい意図があるように感じた。

たんに、老化の入り口の出来ごと。
地獄の入り口?
よくある物忘れなんだけど。
脳と心臓に良くない。
今後、益々、深刻ぶりを増して行きそう。



他人のブログ

2020-03-25 | ブログ
ブログ。
書体、リズム、書き方、内容。
好き嫌いがある。
わたしは、どうでもよいものは読まない。

淡々と事実だけを主観を入れずに書く手法もある。
読み手に勝手に解釈、感じさせる。
邪魔にならない、ミネラルウォーターみたいなものか。
邪魔にもならないけれど、毒にもクスリにもならない。

誰かが絶賛する文章(ブログ)を読む。
なあんだ、たいしたことないやん、どこが良いの?
と思う。
たんなる好みである。
人に勧めても、人は人。

だが、勧められた、わたしにとっては全く何も感じないブログが、思いのほか人気があったりすると、自分の感性がマイノリティーであることを知り、ちょっとショックだったりする。

わたしが憧れ尊敬して止まないブログは、いつも、う〜〜んと唸る。
ナイーブなこころのヒダを丁寧に絶妙に表現されている部分に接すると、上手いなあ〜、これはプロなんじゃないかと感じる。
そもそもプロって?

読み手の好みが大きい。
表現方法もさることながら、書き手の視点、切り口が味の決め手となる。
考え方、感じ方。
料理と同じ。
材料、鮮度、調理方法、レシピ、組み合わせ方、食感、温度、見せ方、食器、部屋の雰囲気(内装、カラー、照明、室温、湿度、匂い、音楽、給仕タイミング、、、などなど)
統一感、斬新さ、発見、刺激、、、なども。
おぉっとぉ、一番大切なことを忘れていた、、、
誰と食べるか、、、、

料理は、材料と味付け。
では、文章は?
わたしは、やはり演出や方法より中身だと感じる。
原稿用紙を何百枚も使って、、、結局、何が言いたい?はやく言ってよ、、、となる。
結局、言いたいことは、「時間は無限ではない」だったりして。
くだらない文章をダラダラ読ませた罪を償いもせず、確信犯的手法である。
いつもすみません。
皆さんの貴重なお時間をくだらない蝶ブログに割いていただき、、、
各人、自己責任とは言え、ゴメンなさいの気持ちです。

蝶ブログは、発するばかりのブログなので、読んだ方がどう感じるかは二の次。
役に立った、良い気分になった、元気が出た、、、などプラスの効力、効果を得たい方は、たくさん世の中に出回っているメジャーなブログを推奨いたします。

ボツ記事、出直します

2020-03-25 | 読む人々には興味ない話
今日は書く気、満々だ。
スマホのバッテリー不足に備えて、バッグの中には携帯バッテリーまで持ち込んでいる。
なぜ、そんなに気力がみなぎっているのか。

別段、特別な意味はない。
たんなるノリである。
わたしは、この、「たんなるノリ」に大きく振り回され、疲れや悩みの種になっている。
別名、気分屋。
出来、不出来や気分にムラがある。

自分では調整できないのが最大の弱点である。
努力したり、練習を繰り返したりして、いつも同じ質を保ち、精度を高めるのが、デキる大人らしい。
わたしは、落第である。

頑張っても頑張らなくても、結果はバラバラ。
法則性がない。
頑張ったからといって良い出来とは限らないし、頑張らなくてもスイスイほいほい出来る時がある。
おそらく、結果にタイムラグが生じているのだろう。
それぐらいにしか、原因が思い当たらない。

なら、頑張れば、頑張り貯金みたいなものでチャージされ、頑張れない時に、貯めておいた頑張りが復元されて現れたりしたらいいなあ、、、。
だが、そんなことは出来ないようだ。
商品券や貯めたポイントに使用期限があるように、頑張りチャージは長く貯められないシステム。
タイムラグも、ほんの小さい短いもので、その場限りにほぼ近い。

なので、ほぼチャージ出来ないようなので、頑張らないことにした。

だが、、、
わたしみたいな人ばかりでは、国力が衰える。(いきなり、個人から国へ、ジャンプ!?)
頑張った人にはご褒美がないと、タダ働きは、やってられないだろう。ただし、頑張る人と頑張らない人の格差が生まれる。
格差はあっても、頑張らない人にも救いの手は差し伸べられるのが、成熟した社会。

・・・

これは昨日、途中まで書いていたのだが、このあと、生半可なヌルい知識や考えがダラダラ、、、
専門知識がないので、ひたすらユルユルの締まりがない考察が続き、自分でも嫌気がさしていた。
一向に、結論、〆にたどり着かない。
書きかけたまま↓この文章で止まっている。

・・・
と、話が逸れて、眠い方向に進んでいる。
読んでいる人は、すっかり退屈だろう。
・・・

説得力も正当性も普遍性もなくても、自分さえ面白ければよいのが、わたしのブログ・スタンス。
自分を面白がらせない感心しない内容では、自分がつまらないので、やり直すことにする。
でも失敗作なのに、なぜかアップする。





洗脳

2020-03-22 | 人生
今回の記事は、公開しようか、非公開にしようか、迷った。
ちょっと自虐色と、事実とはやや異なるかも知れない演出めいた傾向が見られるからだ。
自分を喜ばせるために大げさに表現して、自分ばかりが悪ノリしているかんじでもある。
まあよろしい。 (て、誰に言ってる?)
話半分に、読んでくださいね。

なんて前書きみたいに書くなんて、わたしも歳を取ったものである。
しみじみ、、、

・・・・・

わたしの初恋については、おそらく、最低一度は、ここ、蝶ブログに書いたと思う。
たぶん、、、。
あまり、ステキな話ではなく、というよりは、記憶から消してしまいたいような感じ。
だが、しっかり覚えている。
相手は中学の先輩で中三、口も聞いたこともない、当時、中学一年のわたし。
苦い思い出。
だが、傷口に塩を塗って快感に浸っている趣味があるのかどうかは不明だが、銀行のインターネット取引の暗証番号やパスワードなどを忘れた時の本人確認のための秘密の質問に対する答えとして、初恋の人のニックネームを設定したりしている。
何が、したいんだか、わたし。

それよりも、男女交際に関しては、親の介入が半端なかった。
思春期のデリケートな娘に対する親の、無神経な、土足でズカズカ踏み込み、そして、ぐちゃぐちゃに潰してしまう、、、蛮行に近かった。
年頃になれば人を好きになったり、人として、自然の流れなのに。
そういう親に育てられ、年頃になっても親と同居し、監視され、行動を制約され、最悪最低の青春時代だった。
それだけは、恨んでも恨みきれない、、、とは言うものの、時代錯誤両親の邪魔立てによって、ことごとく恋愛は成就せず、不完全燃焼で、ノウハウも知らないままに、成長し、やがてお見合いで、見ず知らずの男性と結婚した。
(わたしが、モテなかっただけだという説も濃厚)
まるで戦前か、明治時代か、はたまた江戸時代か。
石器時代のギャートルズのほうが、もっともっと自然体だったのではなかろうか。
捻じ曲げられた盆栽のごとく、ガチガチに固められていた。

これは、親の策略だった。
政略結婚とは言わないが、一種の洗脳が、なされていた。
とは言うものの、姉はまともだったから、わたしの被害妄想かも知れない。
でも兄も結構、変だった。
(その割に、奥さんは才色兼備、超素晴らしい人だった)
やはり、教育が変なのか、家庭環境がおかしかったのか、はたまた呪われたDNAだったのか。
しかし、親戚一同、全員、お見合い結婚で、誰一人として離婚した人はいないし。
(あ、わたしより若い、いとこ、Aちゃんが、一人だけ、バツ1後、再婚した。彼女の母親は、ただ一人、恋愛結婚した人でもある)
全員、頭がカチカチの古い価値観にとらわれていた。

これ、周りはみんな江戸時代、明らかにおかしい。
だが、不思議なことは続く。
息子が小学校の時、通っていた塾の同級生たちの、懇意にしていたお母さんたちは、全員、お見合い結婚だった。
類は友を呼ぶ。
たまたまだけど、たまたまではないようにも思う。
偶然ではなく、必然。
そういうことは、よくある。
次女の中高、同級生のお母さんたちも、そういう傾向にある。
なぜか。
わたしは、わかっているが、書かない。
読んでいる人にとっては、全くわからない謎だろうけれど、わかる人にはわかると思う。
解答の答え合わせをしなくても、たぶん、合っていると思う。

ちょっとだけ書くと、あまり周りにバランス的に合う異性がいなかった、ということと、恋愛感情よりバランスを重んじる結婚を選んだ人が多いということだ。

わたしは、婚活の最後あたりは、もう誰でもよかった。
日本語が通じて、お互いが言っていることがわかればそれでいいと思っていた。
パンダのお見合いみたいなものか。
誰でもいいといっても、絶滅種であるパンダを異国から飛行機に乗せて運んでこなければならないので、なかなかマッチングの可能性は低い。
ある程度の条件を満たしていれば(なかなかいないが)誰でもよかった。
自分の結婚には厳しく期限を自分で設けていた。
わたしみたいな文句たれは、どこのどんな素晴らしい男性が候補に上がっても、結婚したくないと思ってしまう。(自分を棚に上げて)
自分の考え方や傾向を自分でよくわかっていたから、こういうことでは結婚できない。
しかし、わたしは結婚願望があったので、あえて期限をつけた。
まあそうやって、目標年齢で無事結婚したのが、同じ母国語を話す、今の夫である。
お互い初婚同士、現在も婚姻関係にあり、おそらくお互い、一生バツ1にはならないだろう。

文句たれパンダの結婚は、檻に入れた親の期待通りに敢行され、今では孫も数人いる。
はっきり言って、幸せである。
話は逆転して申し訳ないが、親には感謝している。

ん、もぅ〜、どっちやねん!

姑物語

2020-03-21 | 
エッセイブログ、姑の詩を読んだ。
隔世の感。
ほんの数十年前のことなのに。
日本昔話のような気がした。

笑う、笑われる、とかいうような失礼な、不謹慎なことでは決してない。
今は姑になりたくてもなれないのだ。
なぜなら、子供が結婚しないから。
しかも、それが嘆きだった時代もとうに過ぎた。
非婚は珍しいことではなく、普通の当たり前のことになっている。
なので、姑の概念、家の概念、お家存続の概念自体が、ころっとオセロゲームのように激変していると、わたしは感じる。

特に、その、過去の時代にどっぷり身を置いていた者にとっては、石で作られた通貨を見るかのごとく。
石器時代のギャートルズ。

時代が変わっても変わらないものも絶対にある。
人の命の尊さや、尊厳、人権などなど。

女性は、家庭の中だけでなく、社会の一構成員としての役割を持ち自立した。
自立してない女性も、男性もいるが。それはそれとして。

避けて通れない、わたしの人生のほとんどを左右していた絶対的な存在だった姑。
わたしは、第二次大戦の前と後のように、ころっと価値観や意識が変わった。
姉の姑も、すごかったが(悪い意味で)、その姑に(偏った思想を植え付けられ)育てられた息子が夫、となると、嫁はその葛藤やいかに。
壮絶なバトルだった。
自分のバトルを書かないで姉のバトルを書くのは、いかがなるものかと思うが、そのほうが面白いから。
(ごめん、姉。ネタにして)

姉の姑がヒドイ分、その息子はすごく良く出来た人だったから、差し引きゼロ。
(ちょっとだけ自分のことを書くと、姑舅が素晴らしく良すぎてスポイル息子にしてしまったのが、わたしの夫)

それはそうと、姉の話に戻る。
上と下、落差が大きい。
姑がこの世からいなくなった時、あんなに喜ばれるなんて、それもまた一種の幸せをもたらす偉大なる黒い女神。
義姉の姑さんも然り。
どれだけ周り全部が喜んだか。
これは、生きていた価値があるとわたしは踏んでいる。

生きている時に尊敬され、感謝され、愛されなくても、亡くなって周りに喜びを与えるのも、ひとつの子孝行かと思う。
嫌われものは、スイカの塩、ぜんざいの塩昆布。
周りに幸せを引き立たせ、色濃く感じさせてくれる。
辛抱したあとに手に入れた幸せは、計り知れない。
悪役礼讃。

ちなみに、わたしは、姑である。
娘婿に、「おかあさん」と呼ばれ、やたら丁寧すぎるほど丁寧に接していただいている。
丁重に扱っている=距離感の表れ。
ざっくばらんではない。
まあ、わたしみたいなタイプの姑では娘婿もやりにくいだろう。

うちで料理を作ってくれたりする時は、わたしは邪魔にならない程度に補助係。
彼は、ちゃっちゃと手早く、主婦歴37年の人(わたし)など3年で軽く追い抜かしていた。
昔の嫁がしていたことを丸々そのまま娘婿がしている。
単に女性が男性に入れ替わっただけなのだが、娘婿は専業主夫ではない。
ダブルインカム、複数kids。

この不思議な構図に、自分の、姑である立ち位置、収まり具合に、しっくりいかないものを感じるが、そんなものなのかと思うと、最近は慣れてきた。
そもそも自分は、自立していなかったので、そこらあたりも全く違う。
昔昔、大昔、マンモスや恐竜が闊歩していた頃ぐらい過去の世界観。
今も自立していないので、雪山に凍結されたマンモスのごとく。
ではあるが、令和の時代にそれとなくひっそり生きている。

マンモスは、ぱお〜んと、叫ぶのか?  ぱお〜んは、象なのか?
なんだか知らないが、マンモスの長い眠りのまま、今日にいるので、マンモス時代の話を見聞きすると、大変新鮮な気持ちになる。

時代は変わり、世の中も変わり、人の行動も価値観も変わる。
今も昔もそれは同じ。
変わって変わって、ずっと変わり続けてつながり、今がある。


普通の悪魔のハラワタ

2020-03-19 | わたし
自分の腹黒部分を不特定多数の人に知ってもらう必要があるか?
自分の欠点をわざわざ公表する必要があるか?
別に不特定多数の皆さんにも、社会の皆さんにも、迷惑はかけていない。

にもかかわらず、自分の黒いハラワタがゴニョゴニョ動き、指をスマホに滑らせようとしている。
ハラワタには、他の部位を、自力で自立して動かせる能力はない。
ということは、脳が指令しているということ。
しかし、司令官は複数いて、副司令官やら補佐やらもいて、司令官の暴走を阻止する。

いくらムカつくからって、自分のイメージを崩してまで、わざわざマイナス感情を吐露して、なんになる?
副司令官は、最近、穏やかで、世間の目を気にするようになった。
老化のせいで、まるくなったのだろう。

が、燻り続ける。
ぶすぶすぶす、、、、、
でも大したことではない。
今も、はてさて、燻っているものは、なんだっけ?と思い出そうとしている。
原因や状況は忘れ、感情だけが記憶に残るようだ。
やれやれ、、、認知症の第一歩。階段上る?

しかし、単なる老化や、世間体のためではない。
自分自身の規制、ルールに収まらない、枠外に出るようなことは、胸の中だけに留めておく。
文字にして形になって現れるのを避けたい。
言葉には言霊が宿るという説もあり、実現しては困るようなことは、口に出したり言葉にしないほうが無難だとされる。
うやむやにして、清廉潔白、涼しげな、雲ひとつないような晴れ晴れした顔をしておく。
なにも、腹の中をそのまま外に現す必要はない。
嘘は付いていない。出してないだけだ。
そんなのは、お腹がクシャクシャして気持ち悪い人は、全部出す、出し切る。
(わたしの母はそんな人だった)

かくして、わたしは、わざとではなく、演技するわけでもなく、ハラワタが外に出なくなった。
押し殺すわけでも、押し潰すわけでもなく、お腹の中で、ブルガリカス菌のごとく活発に動いている。
外に出さないだけだ。
棲み分け。
考えていることや、感じていることを必要に応じて表現するのは、社会で生きていくには当たり前。

必要もないのに表現するのは、何?
わたしのブログなど最たるものだ。

まあ何しろ、お腹の中は真っ黒オンリーではなく、美しい部分も当然ある。
お腹の中や外で、それらを調整して生きている。

真っ黒なハラワタ、いわゆる「ホンネ」という。
ホンネの扱い方はデリケートでナイーブ。
扱いを間違えると、口は禍のもとになる。
オフレコかどうか。それが、キー。

わたしは虫も殺さぬ顔で、上品で大人しそうに見えると言われることがある。
見かけは、中身と同じとは限らないという、最たる見本。
ゴキブリを見つけると臨戦態勢を取り、新聞紙を丸めて、バシッと叩く。
が、最近は根性が無くなり、殺虫剤を噴霧する。
意外とイチコロなので、かつてのあの勇気の総動員や、自分への叱咤激励、鼓舞は何だったのかと思う。
ということは、腹の中の黒いものも、意外に全然黒くないのかも知れない。

とか言いながら、やはり黒いことは自分でよく知っているので、あまり言及しないことにする。

自分に巣食うハラワタ菌は、あまり刺激せず、そっとしておく。
共栄はしたくないが、無理せず、せめて共存を目指す。