蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ハイになってます

2020-09-29 | 日々のこと
めちゃめちゃハイです。
ちょっと、アルコールが入ってます。
お酒は気分を盛り上げてくれる。
いつも常時、飲んでいる人は効き目が薄いだろうけれど。
麻薬でなくても、合法のお酒で十分。
手軽なビールですから。

ちなみに、わたしは鬱にはならない。
多分、DNA。
他人を思いやるより先にまず、自分。
自分が満たされてこそ、他人に目が行く。
自己チューと言われようが、自分を幸せにするのが第一。
自分を潰してはいけない。
自分が確立して、それから、他に色々オプション。

いきなりですが、、、
幸せになろう!
皆さんも!
不幸な人は、どうすればいい?
うーん、、、

自分を喜ばせることをしよう。
評価は二の次。
しかし優等生気質の人は辛いだろうなあ、、、

とりあえず、ハッピーな今の瞬間を大切にしたい。
プラスのエネルギーをプール、チャージしておこう。

ハイはいいけれど、またまたつまらないブログをアップするわたし。
酔いに任せてます、、、

スマホ体操

2020-09-28 | ブログ
さて、今日も真っ白い原稿用紙、あるいはカンバスに、書きます、描きます。

モノクロかも?カラーかも?
線画かも?油絵?水彩画?
平面でなければ立体もあり。

その点、原稿用紙は、パターンが極端に少ない。
文字オンリー。
でも、誰にでも出来るし、用具も要らないし、手軽で便利。

ただ、問題は、読んでくれる人はいない。
にもかかわらず、ブログにアップすると、ある程度の閲覧数が確認できる。
だが、畏れ多くも「読者」などという表現は、わたしの性格上、使えない。
とは言うものの、お付き合いいただき、ありがとうございます。
きっとこれが、わたしを支える源なんだろうなあ、、、と。
どなたか存じませんが、たとえ指が滑って間違ってクリックしてわたしのところを開いてしまったとしても、数字は数字。
嬉しく思っています。

最近は、あまりにも内容のない独り言はアップしなくなっている。
こだわりとでもいうのか。
たんなる気分屋ではあるが。

さらさらくるくると指がするする動くと勢いがあり気持ちいい。
一筆書きのようなもの。
逆に一文一文、止まると、流れが悪い。

何を書くのかが肝心ではあるが、それ以前に文体は玄関口、入り口である。
好きな文体と嫌いな文体がある。
そして、書き手の性格に対しても好き嫌いがある。
中でも一番肝心なのは、読みたくなるか、読みたくないか、その内容。
ホラーが好きな人や、コメディ、純文学、教養博識・政治経済系、倫理宗教系、実務系、だらだら系、色々好みはある。
なにしろ、ブログは素人の日記なので、そのメリットもデメリットもある。

以上は、昨日の電車内、行き帰りの移動時間に指のスマホ体操をしたもの。
超つまらないものになった。
自分で、つまらない日記はアップしないと書いたばかりなのに。
舌の根の乾かぬうちに、、、

〆に困っている。
どう軟着陸すればよいのか。
とりあえず、〆ずに終了です。

こんな日もある。





日常

2020-09-26 | わたし
自分軸で自分のしたいことをすると、人からは善く思われない。
人の立場に立って頑張ると、評価が高い。
あるいは、人から非難されないよう頑張るのも、悪い評価ではない。
人のために生きることが好きな人は、当然ながら、高く評価される。

慈善活動が生き甲斐の人は、立派で素晴らしい。

問題は自分はそうでないこと。
電車で席を譲るのも、こころの底からやっている場合と、周りの目を意識してやる場合があるように。

わたしは、人の気持ちを思い遣ることが不得意だ。
なので、カンニングペーパーを用いるかの如く、こういう場合はこうする、ああいう場合はああする、と、フォーマットのような事例集を参考にすると、大きなポカは避けられると考える。
一種の発達障○かも知れない。

しかしながら、今更、専門医に指導を仰ぐのも、いかがなるものか。
自分のことは自分が一番よく知っているし、理解している。
他人に理解してもらわなくてもよい。
さらに深く専門医に理解してもらう必要を感じない。
お互い、時間の無駄。

人に迷惑をかけず、ひっそり暮らすからよい。
用事があれば、たまに出て行く。
それでよい。
用事は最小限が望ましい。
もはや省エネの域を超え、冬眠のクマである。

冬眠したまま置き物になりたい。
蝶になりたい、ではなく、オブジェになりたい。

だが、アタマの中では、私設ミュージアム準備室が出来たばかり。
クマさんにも色々あり、クマのプーさんは可愛いし、ハチミツべちゃべちゃだけど、北海道の人里に降りて人を襲うクマは恐ろしい。

なんでもかんでも想像数珠つなぎは自分を楽しませてくれる。

日常には戻りつつあるが、何かが違う。

ホンネ

2020-09-25 | 日々のこと
ホンネ。
夫には当然、言えない。
結婚以来、言えない。
身内には言えない。
姉にも言えない。
娘たちにも言えない。
誰にも言えない。

なら、言わなければいい。
胸の中で思うだけ。

なんで、皆さんは言うんだろう?
良い喜ばしいホンネならともかく、悪魔のハラワタを吐き出しても、醜いだけ。

いいえ、わたしは清廉潔白、濁りゼロです。
そう自分でハッキリ明言する人がいるとすると、人格者ではない。
安倍さん、然り。
国民の前でよくまあ堂々と、、、。


モヤモヤしながら、もう寝ることにする。
今朝は4時20分、起き。
睡眠不足。

社会人として、社会で生きるのは疲れます。

涙が溢れる

2020-09-24 | 人生
敬愛する人が交通事故死した。
姑の亡くなった翌日に。
まだまだ若い、子供さんはまだ2人とも大学生。
誰もが悪い冗談だと思った。
今の今まで元気でいた人が急に居なくなる、、、
こんな残酷なことはない。

本人は即死で苦しんでいないとは思うが、一瞬は恐怖だっただろう。
妻子のことが頭をよぎっただろう。
まだお若いご両親のことまでは、気にかける余裕はなかったと思う。
あっという間に此の世を去る、、、遺された人はどうする?
罪作りだ。

当人は事故被害者であり、本人のせいではないにしても。

話は変わるが、、、
父の臨終の時、残された我々家族が一斉に父の顔を覗き込んだ。
それぞれ各人が、父を呼んだ。
あの時、わたしは父に呼びかけなかった。
気が回らなかったことと、一瞬、自分が横たわる父の体に成り代わって仰向けの状態で自分を覗き込む皆んなの顔を見ているような錯覚に陥った。
2箇所から2つのアングルで同時撮影するようなイメージ。
スマホカメラでは一瞬の作業になる。
カメラの被写体対象が自撮りに逆転して、自分が去っていく人、逝く人になったような気がした。
不思議と呼びかけられる側となってしまったわたしは、そのシーンを俯瞰から見ているような、またまた複雑な、映画監督の立場になっていた。

「はい!
ここで呼びかけて!」

「はい!
ここで瞼を閉じて」

監督の声。

亡くなるってどういうことなんだろう。


父の時は、父の死を受け入れられなかった。
悲しくて、、、ではなく、もう高齢だったし(今、思えば少しだけ平均寿命より若かったが)、遠くに離れて住んでいたので、ただたんにピンと来なかった。
ではあるが、今回の事故死の人に対しては、死が現実離れして全く信じられない悲しさを通り越した思い。
その人を想うと涙が溢れ出る。

肉親には流さない涙を、血が繋がっていない人には、泣ける、、、どういうことだ?
わたしは父が嫌いではなかったし、尊敬していた。
父が健在で健康な時、父をふと思い出したりして元気をもらっていた。

やはり死を迎える旬というものがある。
旬ではない人に対しては、生木を裂かれるような(この表現が正しいのかどうかは別として)、別離の苦しみがある。
早すぎる別れには、心残りや無念さがある。

死と向かい合ったのが、血が繋がらない人が最初だったというのは、今まで不幸に見舞われなかったということだ。
というか、命の大切さをよく知らないで今日まで来たのだろう。
というより、祖父母や父、義祖母、舅、姑の死に面したが、涙が出たのはほんの一瞬だけ。
祖母や舅には涙すら流さなかった。
高齢という年齢と家族による看護や介護に長い時間を割いていたからだろう。

しかしながら、若い人が、ある日突然は、あまりにも衝撃的で周りを悲しみのどん底につき落とす。

災害などで親愛なる人を突然、失う人の気持ちはこういうものなのだろう。
身に迫る悲劇が、いまだに想像の世界であるわたしは、人の痛みを理解できなかった痛い人である。



さようなら!

2020-09-20 | 日々のこと
先週、姑が他界した。
人が亡くなるのは、本人もさることながら、家族は多大なるエネルギーを要する。
この世からあの世に送り出す儀式は、近年、簡素化、簡略化されたとは言え、まだまだ宗教色は根強く色濃く残る。
仏教では、わたしの知る限りでは、生まれる瞬間時には儀式はないのに、亡くなる時はなぜ、こんなにたいそうなのだろう。

死生観は、はずせない重要な概念であるが。
そこに地域色が加わる。

家族葬を行う遺族もどんどん増加の一途のように感じる中で、その真逆の葬送狂想曲は、いかがなるものか。
嫁という立場は、いったい何なんだろう?
深く考えさせられたが、と同時に、終わり良ければ全て良し。
結果が良ければそれでいい、と思っている。

姑に安らかに眠ってもらえたら、それで良い。
おばあちゃん、ご苦労様でした。
今までほんとにありがとう。



無駄口

2020-09-14 | 日々のこと
基本的にわたしは、人様は尊重するスタンス。
頭ごなしに否定はしない。
全然、嗜好や考え方が違うとしても、相手もそう感じているだろうし。
あまり近寄らなければよいだけ。
わざわざ不快になるために接近する人はいないと思う。

だが、一つ一つそうやって距離を取っていたら、最後に合う接点は一つか二つぐらいしか残らない。
それが大事かも。
一つか二つ、接点があれば十分。
さらに三つもあれば儲けもの。
加算法にすることにした。

だが、減点の瞬間は相手を全面否定してしまう。
自分はさておき、の感想。
代案を用意せずに、出してくれたアイデアをことごとく潰していくかのように。
立場上、上司と部下だったり、クライアントと受注側だったりすると、協調、調整はかなり困難だ。
熱意や向いている方向が同じ場合、稀に上手くいくこともあるが。

相手を全面否定する時の感想がひどい。
胸の中で思うだけで、もちろん口に出さないが。
で、、、モヤモヤする。
ブログにぶつける?吐き出す?
もう若くはないので、激情は自分でコントロールできるようになったと思われる。
老化するとコントロールできなくなる人もいるようだが。

相手に失礼な感想を抱くと同時に、よい面を探そうとする。
長所と短所を足したり引いたりして、最終的に一つでもプラスに働く接点があればよい。

○頭は悪くまるで馬鹿だけど、よく働く。
○ほんの少し出来が良い面がある自分のことを過剰評価するのは痛い。
○頭は悪いが、こころは良い。
○下手に出て、かわいがられようとする。
○謙虚のフリして、実はそれは手段。
○理屈をこねまわして、自分を正当化する。
○ズル賢い。
○たいしたことないのに必要以上に自己アピールする。

そういうのが見える瞬間がある。
仕事などにおいては特に。
何もしない人は天使のようだが、文字通り、何もしない。
役立たず。
使いものにならない。
(自分のこと)(まともな場では結構、深刻)

こんなことを書くと、絶対に友達は出来ない。
でも、人には誰も長所も短所もあり、両方含めてその人。
長所だけの人が仮にいたら、、、怖い。
自他共に気づかない短所があるはず。

知恵がないと馬鹿を見る。
誰も守ってくれない。
知恵だらけも可愛げがない。
どうしろと?

好きにしたらよいと思う。
人のことを非難する人は、自分はどうなのか?
不公平を感じて非難する人もいる。
損だ、と。
まあ色々だ。

ちなみに、全然関係ないが、12日、夜に見た、ライブ歌番組。
櫻井翔が総合司会。生放送で8時間もすごい。
ジャニーズ軍団にうっとり。
しかし、嵐も年齢を感じる。
若い子がどんどん出てくるし、彼ら自体が昔の若かった頃と比べると、若さの点では容色は衰えていると感じる。
美しい人は特に。
当たり前のことを書いて、馬鹿じゃなかろか、わたし。
韓国は芸能ビジネスが、お国の大事な収入になっているせいか、レベルが高いと感じた。
容姿、歌、踊り、スキルが磨かれている。
日本への逆輸入ユニットが後を絶たないのも納得だ。

と、平和なことを書き連ねている。
どうでもいいことを書く、おしゃべりなわたし。
しかし、明日からしばらく書けないかも知れない。




恋には男も女も区別はない

2020-09-12 | 映画
先ずは、古い小説の話から。
わたしの生まれた年に文壇デビューした作家の作品、まだ10分の1ぐらいしか読んでいないだろうと感じたが、3分の1のところまで来ていた。
表現が難しいから、スイスイすらすら読めないからか。
とっかかり、引っかかり、英文読解のよう。

ストーリーの中で自信がなかった点を再読した。
実家を離れて送った市街地での高校生活は、祖母が着いてきて、一緒に暮らしていたようだ。
江戸時代末期生まれの教育熱心な祖母。
孫は明治後半に20歳で嫁に行っているから明治初期の生まれか。
わたしの祖母ぐらいの生まれ年?
小説ではあるが、なかなか当時としては、進んでいる家庭だ。
わたしの目は、ファミリーヒストリーのノリになっている。

まだその孫が子供を二人産んだところまでしか読み進めていない。
孫は女大学で、女の使命は子供を産むことと家(この場合はハウスキーピングではない)を維持すること、ということを学んだそうだ。
ハウスキーピングや子守は女中がする。
家の格がいかに大事か、が、全ての価値観になっていた当時、先見の明のある祖母が、孫娘を格はやや落ちるが、本人、大黒柱の能力を見込んで、少し格下の家に孫を嫁にやった。
一部、現在にも通じるものがあるが、あとは、ほとんどの現代人には無理解、無関心だろう。

せっかく、高等教育を身につけさせてもらっているのに、内容は女大学。
大変、落胆した。
女の道、以外は、文芸だの音楽だの、芸術教養部門。
専門的な外国語や政治経済など、全く習っていない、身につけていない。
それでも当時の女性では最高学府の最高の教養なのだろう。
天と地ほどの時代の隔たりを感じる。
が、ほんの30年前ぐらいまで、その名残はまだまだ残っていた。

男性が育児休暇なんて、当時としては青天の霹靂だろう。
ヒモ扱いか?
が、現在、自民党の壇上で演説しているお偉方には全く、全く、全く、そのカケラも体験もなく、理解もしていないことがありありとわかり、話を寒々しく聞いている。
腹立たしさを通り越して諦めを通り越して、無感動、無関心へとこころは傾く。
でも、ほかに良い党がなければ仕方ないかと、いたって消極的。
消去法、、、。
枝野さん、頑張ってください。

と、いかにも家事育児などしない人の女性支援策にマイナス1000度に冷える思いは、さて置いて。

物語は、明治生まれで生まれた瞬間、女児でがっかりされた登場人物がその後、大正、昭和とどう生きるか。
前に読んでいるから、薄々は知っているのだが、まあ、忘却すると、2度美味しい。
作家さんにも2倍の印税を払いたい心境だ。
払わないけど。


それはそうと、昨日の映画。
「窮鼠はチーズの夢を見る」。
関ジャニ∞のドラマー大倉くんが主役。
ジャニーズって、見た目だけでなく、歌やダンスだけでなく、めちゃくちゃ才能あるなあと、しみじみ思った。
ジャニー喜多川さんが亡くなった後は、求心力はどうなるのだろう、、、と、それはさて置き。
目で演技する大倉くん、、、色気あるなあ、、、。
ちなみに、ビジネススーツに白いスニーカーは普通なの?と、時代に必死で付いていこうとするわたしの観察によるダサい納得。
カッコよかったけど。

感想を安易に書けない。
愛は男女間だけのものではないが、想っている側は辛い。
いつまでも想いばかりが空回りするなら、別離を選ぶんだろうなあ。
別れて初めて痛みがわかるって、よくある話。
埋め尽くせない空虚感は、新しい恋人との愛で埋めるしかないのか。

前の恋を引きずっている人は痛い。
女性は意外にドライだと、わたしの独断と偏見。
いつまでもメソメソしない。
はい、次、行こ!の精神である。
古傷が傷む人と、一緒に前に進めない。
進んでいるうちに、癒されるのかも知れないが。

恋愛はデリケートなことがら過ぎて、わたしの手に負えない。

純文学とR15映画

2020-09-11 | 日々のこと
今、とある小説にハマっている。
わたしの母親ぐらいの生まれ歳の作家の作品。
この作家は36年前に亡くなっているので、発表されたのも、随分昔。
文壇デビューは、わたしの生まれた年。

小説の題名、作家は伏せる。
一度、昔に読んだことがあるのだが、家のどこにあるのか本を探すのが面倒で5〜6年?前に再購入した、まさに、新古品。
書店の包装袋に丁寧に入れられ、息子の部屋の机の上に放置されたままの、真新しくて古い本。

一気に読まない。
朝の連ドラのごとく、チビチビ読む。
その割に、ストーリーの細かい部分を把握していない。
まだ3分の1ぐらいしか読み進めていない。

長女に、それまでのあらすじを説明したが、なにしろアタマの中の整理箱がぐちゃぐちゃ。
長女もわたしの行ったり来たり、時系列も横の関係も思い出した順番で、ひどいバラバラな説明に翻弄されながら、意外にも登場人物の名前を覚えていた。
わたしは、そのほうがビックリした。
さすが、若い人は違う。

自分なりに理解していたつもりだが、文字、漢字、語句、用語が難解で、純文学はわたしにはハードルが高い。
しかも作家自身に興味を持ち、背景や関係者を深く掘り下げて調べてみたりして、道草食いまくり。

例えば、この登場人物は遠方の高校に行ったが、実家からの通学ではなかったようだが、どんな住み方だったか?
だとか、細かいストーリーは、アタマからポロポロ流れ抜け落ちている。
また、ぼちぼち、ゆっくり読み返そう。

と、昔の名作に夢中になりつつ、今日、封切りの「窮鼠はチーズの夢を見る」を観た。
見る限りでは映画館内の観客は女性オンリー。
さすがのR15。
たっぷり、恥ずかしながら息をするのも忘れるぐらい、ガン見して観た。
15歳以下は観てはいけないとしても、60歳以上も観てはいけない、なんてことはないにしても、、、ちょっと自分の年齢にはミスマッチかも?
その割には感受性、豊かすぎるわたし。
感想、その他は、また気が向いたら、、、。

決して口に出してはいけない

2020-09-08 | 無題
わたしは時折、その人のプライドなり人間性なりを全面的に全否定してしまうような感想を抱くことがある。
決して口には出さない。
ひょいと口から不用意に出そうになったとしたら、必死で抑える。
竜巻の中で、何かにしがみついて吹き飛ばされないようにするかの如く。

それを言ってはオシマイ、という言葉は全力で飲み込む。
人が人を否定する権利はないと思っている。
全ての人の、こころの尊厳は是が非でも守らなければならない。
それをいつも強く自分に言い聞かせている。

が、かなわんなあ、この人、みたいな行動を目にすると、むくむくと辛辣な言葉が胸から湧き上がり、猛スピードで直進するが、ぐっと出口近くで止める。

デリケートな事柄は、人から言われると、最大の侮辱になる。
自分で気付くものである。
だが、最愛やら親愛やら家族やら、そういう人の中には憎まれ役を買って出ることもあるようだ。
こころを鬼にして。

自分では気付かない、自分の能力の無さというものがある。
「キミ、自分で思っているほど能力ないよ、大したことないよ」なんて、人から言われないだろうし、面と向かって言う人もないだろう。

だが、次から仕事が来ない
とか、徐々にオファーが減るとか、何らかのかたちでわかる。
仕事だけでもない。
人付き合いにおいても、だんだん疎遠になっていくとか、声がかからなくなっていくとか、変化が現れる。
そうやって、目に見えるかたちで反応を見ると、原因を考えたりする。

そんな機会のない人もいる。
機会があっても永遠に気付かない人もいる。
いわゆる痛い人なのだが、別にお友達でもないから、見て見ぬフリをする人が多いだろう。
関わらないという選択。

趣味の世界にもそういう話はゴロゴロしている。
みなさん、なんであんなに自信過剰?
そう思わなければ、趣味なんか楽しめないのだろう。
一人でひっそりと、チマチマ手芸でもする分には良いか。
でも作品が徐々に増えてきたり、展覧会みたいなものに出展したり、仕事にしたり、向上心のある人は欲が出てくる。

たんなる暇つぶしなら、ボランティアがオススメ。
だが、ボランティアも結構、難しい。
純粋に人助けのつもりでやっている人は素晴らしいが、相手は喜んでいないケースもある。
マッチングは微妙でデリケートだ。

人助けも、上から目線だったり、恩着せがましかったりすると、暑苦しい。
爽やかなボランティアもあるが、人の役に立って頑張っているボランティアさん自身が、ボランティアする側である本人を救っているようにも思える。
爽やかな笑顔は、人の役に立った自分に対して。
それはそれで素晴らしい。

昨夜、ハンディキャップのある人を対象にするテレビ番組で、その具体的活動内容が紹介されていた。
ボランティアされる側の認知症の人と、ボランティアしている側の認知症サポーターの人の関係、取り組みを見て、ふと思った。
この活動の中で、認知症の人も喜んでいるとは思うが、活動効果を比較するなら、一番やり甲斐を感じて手応えを味わっているのは、認知症サポーター(家族ではない活動家)の人ではなかろうかと。

しかしながら、自分の思いや努力が昇華されるのは理想だ。


趣味にもいろんな分野があり、人に見てもらうことを喜び、生きがい、モチベーション、プライド維持にしている人がいる。
それはそれで、結構なことだ。
だが、そうではない人も同じ趣味だったりすると、話はややこしい。
まあ、人それぞれだから、全てが正解だろう。

ただ、人のプライドを根底から覆しかねないような事は、誰も言わない。
だが評価が欲しくて人に感想を迫る人もいる。
評価の基準は?
絶対的評価はあるのか?
あるとすると、アスリート系ならオリンピックとか、そういう類か。
アスリート系ではないなら?
○○大賞、受賞、とか?

賞が欲しくて頑張る場合もあるし、頑張ったら賞をもらった、という順序もある。
一生懸命するには、何か具体的な目標やご褒美があるほうが、熱意も上がることだろう。
だが、競争は時には醜いこともある。
何事も表裏一体。
全ての面にドンピシャリの答えはない。

一方が立てば、一方が立たない。
そんなものだ。
別の見方をすれば、黒も白になる。

人には人のデリケートなプライドがあるから、そっと触れないようにするのが、当たり障りなくて無難だ。