蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

幻の「いいね!」をありがとう

2019-10-31 | ブログ
goo新アプリ。嫌いだ。
でも仕方ない。
旧アプリは、すごくよかった。
なんの不満もない。絶賛。
不満があるとすると、なんで新アプリに移行するのか?!だ。
しかも、11月?日までしか旧アプリは、使えない。
移行するまでの間に、新アプリを使いこなしていなければならない。
今は旧アプリは時々、確認のため使うが、ほとんどは新アプリをモタモタ使う。
が、なかなかマスター出来ない。(わたしだけか)

小学校に入学するまでに、文字を覚えておかなければならないように。
昔は、小学校に入ると文字を教えてくれたが、今は、入学時には、すでに読み書きできるものとして、授業が進められる。
だから、保育所でもそこそこ教えてくれているのではないだろうか。
(ネイティブスピーカーによる、英会話のレッスンもあるようだ)

と、話は相変わらず転覆、脱線。

新アプリでミスって一度記事を消滅させてしまうと、それがトラウマになっている。
いくら頑張って書いても、保存されずに全部消えるのではないだろうか、と。
一生懸命入力しても、一瞬で消えるのでは、と。
(スマホ入力のため、どうしても一生懸命入力になってしまう。
パソコンならスイスイ、ピアノを弾くかのごとく、なんだけど、パソコンは、やめてしまったし。
戻ろうにも、マウスが壊れている、たぶん)

一昨日、書いてアップして、すぐ消滅した記事。
似たような記事をこれまでも延々と書いている。
事例は違っても、展開、結論は同じ。ワンパターン。
まとまった時間が手に入ったため、ちょっと気合いを入れて書いたのが、逆効果となっていたかも知れない。
自分だけが面白がって喜んでいる図。
自分の話が面白くて自分で笑いながら話す人、みたいなものか。
聞いている人は、全然面白くもなんともない。

しかし、特筆すべきは、はじめて、いいね!が付いたこと。
アップ出来ていた時間は僅かだったにもかかわらず。
じつは、それに続く次の残念日記にも、同じ方に、いいね!を付けていただいた。
どんなブロガーさんなのか、興味津々である、、、が、まだわたしは、その人のもとに訪れることが出来ていない。
ひょっとしてブログはあっても、記事が一つもない人かも知れないし、そうでない人かも知れない。
新アプリのため(わたしの操作がちゃんと行えず)、その人のところに飛んでいけない。

どんな人であっても、訪問いただき、いいね!を、ありがとうございます。
この場を借りまして、お礼申し上げます。

いじけても、可愛くない

2019-10-30 | ブログ
身を削る思いで書いたブログが消え、消えた気力をどう回復させるか。
マイナスをプラスに捉える。
あんな記事、読まされたほうは、疲れるだけ。
いつもと同じようなことを自分だけが面白がって書いている。
消えてしまったほうが、陽の当たらない作品は、陽が当たるより、意外と良いかも知れない。
蟻が数ミクロン、後ろに下がっただけ。
世の中の何ゴトにも、全く関係ない。0.0001ミクロンも動かない。
変化なし。
常に安泰を望むわたしには、それでいいんじゃないか?

失恋には、新しい恋人の出現で癒される。
消えた記事には、新しい記事で復活する。
どうせ、0.0000001ミクロンの動きだから。(どんどん減っている)

gooの質問コーナーに、
「バージョンアップしたからといって記事が消えることはありません」
と、まるでわたしへの当てつけのごとく、いえ、ご親切な捕捉説明が、載せられていた。
しゅ〜ん、しょんぼり。
誰がどう見ても考えても、わたしのミス。
どうせ、0.000000∞だから、、、いいけれど、、、

ブログで、いじけても全く可愛げがないお年頃である。

しつこく失意のどん底

2019-10-29 | ブログ
新しいgooアプリ。
白髪が1000本増える勢いで、ストレス。
今、電車、100キロ復路。
行きの、消えた大傑作(いつの間にか、一人歩き)を惜しんで、気力がゲッソリ削げおちた。
奇跡的に、いいね!まで、いただいたというのに。
自分の新しいアプリを使いこなせない逆境に、スマホ新バージョンをインストールしたことを逆恨みしている。
恨みの先が、憐れ、哀しすぎる。

一瞬の出来事

2019-10-29 | ブログ
100キロ往路、電車内に一心不乱に書いた、(自分で思うのには)力作が、一瞬で消えた。
残ったのは、タイトルだけ。
こんなことが、あっていい?
10歳、歳を取った気分。
もういや。

様々な芸術論

2019-10-27 | 無題
電車内。もうじき乗り換え駅。
あまり自分にとって、ヘビーなことは書けない。
今まで何度も乗り過ごし、失敗。
熱中禁止。

で、とりあえず、乗り換え成功。
さてあと数分。

ちなみに、近頃、国や地方がやんややんやと物議を醸した、東海エリアでの某展覧会。
開催についてどう思うか?と、街角インタビューに、一市民の人が答えていた。

「気持ち悪くなったり悲しくなるような、そんな嫌な感情を引き起こすものは、芸術ではないと思います。」

これは、あの人の一意見。
わたしは結構、驚いた。
あの意見をチョイスして流すテレビ側の思惑は?

戦争反対を訴えるピカソの絵は?
あの方には、どう見える?
「火垂るの墓」は?  とんでもない?
人それぞれだから、どれも正解である、という典型的見本のような意見に、いつもわたしが言っていることながら、かえってわたしは、衝撃と、今更ながらの斬新さを感じた。


ところで、今回の記事。
降りる駅より、随分前に終了して、やれやれ。
今を生きる俗物です、わたし。



独りよがり

2019-10-26 | ブログ
ブログ村、エッセイ部門をうろうろした。
人様の書いたものを少し読んだ。
素晴らしい内容のものもあるが、どうも興味を示せない。
なぜか?
自分とは無関係な人が書いている、自分とは無関係な人のことだったりする。
無関係なことや人に共鳴するには、テーマや、扱い方に大いに関係がある。
無関係で無関心なことでも、自分のことのように捉えられるのは、書き手の眼力と筆力。
感性は二の次かなあと思う。
(ただし、テイストの好き嫌いはある)
なぜなら、感性はその人が感じることであり、普遍性や説得力はない。
本人の思い込みは、他人には理解出来ない。
それでいいんだ、それがどうした?
他人に理解してもらおうとすると、迎合、擦り寄り、妥協がアタマをかすめる。
理解なんぞされなくてもいい、自分がよけりゃ、と強く出るとする。
この図は、社交ダンスと似ている。
見かけはどうでもいい、自分が気持ち良く踊れたら。
技量やルールなんかどうでもいい、自分が楽しく踊れたら。
はじめは、わたしもそう感じていた。
だが、経験を積むに従って、見栄えや評価も大事だと思うようになった。
独りよがりは、カッコ悪い。
人目につかないところで、ひっそりやる分にはよいけれど。
その点、ブログは、独りよがりである。

モヤモヤを抱えて一生暮らす

2019-10-25 | 暮らし
めちゃめちゃ毒を吐きたくなった。 突然襲ってきた、過去の嫌な出来事から発生し、その後、一人歩きしている、ドロドロヘドロ。 
やはり、その場その場で対処しないと、どんどん変化して、増殖し、肥大化し、手がつけられない化け物となる。 

と、ここまで書いて、半分ぐらい気が収まった。 
もう少し書くと、もっと収まるだろう。 
少なくとも、増殖した、バブリーな恨みヘドロは、嵩が減り、元のサイズに近づいている。 

いつも恨みがドカーンと押し寄せてくる時、一方でプラスのこともアタマをよぎる。 
例えば、あ、こんなこと、してくれたな、とか感謝系。 
マイナスばかりを突き詰め、煮詰めると同時に、プラス側も、声を上げる。 
これ、わたしの精神安定、自然バランスシステムのようだ。 
悪いばかりではない。良いこととセット。 
でなければ、とっくに壊れ破綻している。 と、長い前置き。 

え?これ前置きだったの? 前置きだけで、もうコト足りてると思われる。 
が、やはり、そんなわけない。 

 長女が産まれた時の、夫の行動を、突然思い出し、怒りが湧いてきた。 とっくに時効のはずであるが、わたしには時効はない。 
女は怖い。 
その時、処理しないから、36年経っても、昨日のことのように、鮮やかに、鮮烈に強烈に、怒りが込み上げてくる。 
その恨みがカタチを変えて、夫の箸の上げ下ろし一つ一つに不快感を感じることになる。 
そもそも時代は移り変わり、隔世の感がある。 
今のイクメンと比べるのは、かわいそうだ。 
あまりにも時代背景を読んでいない。 
のではあるが、核となるものは、今も変わらず、今後も変わらないと思うと、絶望的な気持ちになる。 
子供も巣立ち、今は孫の成長を楽しみに後方支援しているが、、、 わたしの気は収まらず、常に懐に小刀を入れ、カバンに手りゅう弾。 
使うことは、一生なくても、一生、肌身離さず、持ち続けることになる。 
 しかし、ある意味、夫は気の毒。 何にこんなに妻が怒っているのか、全く理解できないまま、なにかわからないけど怒っているようなので、謝っておこう、と、こころなどまるで込めず、カタチだけ譲歩した格好になる。 

が、夫。 最近は、老化現象と思われるが、自分のことを注意されたり、意見されると、怒鳴る。 
ああ悪かった、そうだね、気づかなかった、の逆。 
一種の精神的暴力で、無理やりわたしを黙らせる。 
こういうことは、歳がいくと現れてくるらしいが、歳のせいなのか、性格がますます顕著になったのか。
 怒鳴られると、やるせない気持ちよりも、諦めが先に来る。
 ああ、、、こんな人と残りの人生を一緒に、、、
ああ、ああ、ああ、、、 
やだやだやだ。 


その一方で、70歳を超えた男性が再婚して、ただいま新婚、という人がインターネットで紹介されていた。 男性も女性も子供が複数いるが自立。 
男性は、前の奥さんと死別し、生活にハリを失い、家事などしてもらいたいことを含め新しい女性が欲しかったと。 
で、ナンパしたという。
 女性は、35年前に離婚し、女手一人で3人の子供を育て上げたらしい。 60代後半。 

わたしは、明るく前向きなシニアの再婚ということで、悪くないと思って読んだが、家事のところで、こんなのイヤだ、と思った。 家政婦を雇えば? 
そんなお金もないから、奥さんに? やだやだやだ。 せっかく自由を謳歌している黄金の老後をなんでまた、お世話しに? 
男性の活動的なところが気に入ったと女性は言っている。 
交際が進むにつれ、一泊旅行を誘われ断った女性は、真面目にお付き合いするには、世間に後ろめたくないように、結婚したい、と。 

そんなに結婚したければ籍だけ入れたら? 
一緒に住んで家事させられてまで、なにがメリット? 
籍だけ入れて同居しないと、世間体が悪いのか? 
結婚もしてないのに、付き合っている、と思われる? 
いえ、結婚してます。はい!これ見て! 市役所に届けた婚姻届、受理されてるでしょ? 

一人より、二人がいい。 
じゃあ、家事も二人でしょ! 
一人で家事するのが疲れて負担になってきたから二人で家事シェアしたいなら、わからないでもない。 が、家事のやり方って、千差万別。 快適と思う空間って、千差万別。
 若い二人で、片時も離れたくないならわかるが、よくまあ、一緒に暮らしたいと思うようになったなあ、と。 
 人には人の感性があるようだ。 で、わたしなら、ありえない。 
36年前の恨みが晴らせないどころか、日々ますます、石頭になってきている夫。 
恨みの内容を具体的に微に入り細に入り、つらつら書いても気は収まらない。 
かといって、書きたいことを書くのは、わたしの倫理観が許さない。 じゃあどうする? 中途半端にお茶を濁して、暇つぶしして、それで終わり。 
あー、スッキリした!の正反対。
 わたしは、自己規制、自己コントロールする、平凡な社会人であるために、スッキリしなくてもいいのだ。

「真実」って?

2019-10-24 | 映画
カトリーヌドヌーブの映画を観た。
「真実」。
「万引き家族」の是枝裕和監督作。
家族を掘り下げるのがお得意らしい。

映画館の中での小さな室内。
フランス映画は、なかなか日本の興行に乗らないのか、日本人が手がけた、今回の作品のように、滅多に観られない。
ずっと前に、マイナーな映画館で見た、フランスの静かな映画「夏時間の庭 」がオーバーラップした。
あれは、有名な画家の家族が、愛着ある家や家具を手放すまでの、家族の思い出が詰まった家の終焉に向かうストーリー。
映画の中では、美術館に寄贈する展開だった。
わたしは、過去に、ルーブル美術館の次にオルセー美術館に行った。
その展示されている、アールヌーボーの家具を見て、あの映画「夏時間の庭」が重なった。

映画「真実」が終わり、場内が明るくなると、隣に座っていた女性客がお連れさんに、一言、
「女優って大変よね」
とため息まじりに、もらしていた。
しかし、大変なのは、女優だけではないと思った。
その少し前に、NHKテレビの夜番組「プロフェッショナル」で、女性料理人を観たばかりだった。
彼女が、仕事柄、子育てに全力で取り組めなかったことを話す時、流れた一筋の涙が、言葉よりずっと多弁に語っていた。
子育てしながら職を持つ母親は、女優が一番、顔が外側に出て、わかりやすいのだろうけれど。
子育てに全力で向かえないジレンマ、もどかしさ、自責、自省の念がある。

しかし、なんで女性だけ?
今は時代が変わりつつある。
ちゃんと子育ても仕事も全力でやってない人までが、「わたしは大変なの。なんで、わたしばかり?」なんて、ついでに声をあげるケースもある。
全力でやってから、言ってほしい。
全力でやり過ぎて、でも周囲の理解を得られず、精神のバランスを崩す人もいるのだろうけれど。

子供は、母親に愛や温もりを求め、認めてほしいと切に願うようだ。
わたしの場合は、全然。母に求めない。
またまた自分の変人ぶりを再認識するだけだろう。
母親には、ハナから期待していない。
結婚して家を離れた時に何が一番うれしかったか?!
家を出られたこと、しかも、家出とかではなく。自分も周りも喜んで。
こころから清々した。
自分の生まれ育った環境の恩恵を最も受けているのは自分であるが、最も嫌いで、頭痛のタネだった。
なにごとも表裏一体を学習するには、よい教材である。

自分があるのは、親たちのおかげなのに、それ自体が嫌い。
肯定と同時に否定。常に同時進行。

努力と成果、みたいなものか?
努力は苦しくて大嫌いなのに、さぼっていてはいけない、精進しなければ。
それを積み重ねると、良い結果が生まれ、成果を享受する。
ランナーズハイなんてのもあるようだし。
仕事と報酬、評価みたいなものか?
「仕事が趣味だ」みたいな人がいるが、趣味が無いだけなのでは?
だが、趣味ばかりやって、遊びほうけていると、生活が破綻する。
しかし、リタイア後は?

年金などの範囲内で、つつがなく暮らしていけば、それでよし。
リタイア後は、仕事から解放されると喜びに満ち溢れるのはよいが、実際のところ、それからが実に長いのである。

自分を生み育ててくれた親の今の姿を見れば、愛情不足を訴える余裕などない。
是枝監督はまだお若いから、自分の親の弱り方が身に染みていないと感じる。
「万引き家族」においては、樹木希林演じる老女は、すっと眠るように息を引き取ったし。
あれ、完全に映画の中の世界だ。
実際に、そうやって亡くなった親御さんもおられるが。
大概、ほとんどの人は、あんなのではない。
「万引き家族」も、家族の愛を追求する映画であったが、「老い」はテーマには入ってなかった。
あれもこれも、てんこ盛り、ひと昔のデパートの最上階大食堂じゃないんだから、そんなことをすると、絞り込めない。

で、、、話は行ったり来たり、、、
カトリーヌドヌーブは、現在76歳。
この年齢をどう捉えるか。
女優という美を職業にしている特殊な人と、その他の職業の人では全く違う。
すごい貫禄。美しい。
(笑顔はないが、笑顔になると、ちょっと美の点数が下がるかんじ)
そんじょそこらの76歳とは雲泥の差。当たり前か。

その他大勢の、一般ピープルでも、社交ダンス愛好家は、いつも会場で顔を合わせる91歳の女性の先生をはじめ、80代はゴロゴロ。
わたしのライバル女性は、83歳のAさんと74歳のBさん。
お裁縫や、習字ではなく、ハイヒールを履いて踊るライバルだから、すごい。
しかし、すってんころりんと転倒すると、アウト。
ダンスライフ・ピリオドの危機といつも背中合わせである。


話は戻る。またまた行ったり来たり。
パリ17区で家を持ち暮らしているというカトリーヌドヌーブ。
今回の撮影は、自宅ではないにしてもパリだろう。
わたしは16区に少し滞在していたのだが、見たもの、聞いたもの、触れたもの、風の匂い、肌で感じたもの、記憶と重なる。
特に色。
映画は、秋、黄昏をイメージしているらしいが、私が訪れたのも秋。
庭や街路樹の枯葉が美しい。
人生の黄昏をそっと見守る色合い。
キラキラとか、輝いて、とかではなく、落ち着いた実りの秋、深い収穫。
やがて枯葉は、一枚残らず散っていく。
しかしながら、散り際が最大の難関である。

選択肢に振り回され時間切れ

2019-10-21 | 人生
アクセス数が増えると(自分比)、息苦しくなり、今までのように、好きなことが書けなくなってきた。
自意識過剰、過呼吸状態。
しかし、もともと大したことのないブログ、自分の息抜き、ストレス解消のために書いている。
ストレスになるなら、やめる。

というわけで、今日は(も)、ここまで。
学校で言えば、朝来て、朝礼、ホームルームが終わって、はい解散、帰宅、みたいなかんじである。

さて、皆さん、お帰りになったところで、好きなことを書く。
あとは、施錠して、セキュリティをセットして帰りますから、心配しないでください。(、、、まだ、言っている)

と、しつこく書くと、かえって気まずい風を感じる。
・・・

わたし、わたし、わたし。
わたしが書くことは、わたしのことばかり。
わたし以外に関心がない。
たとえ、孫のことであっても、「わたし」の孫であり、「わたし」つながりである。

わたしは、なんども書いているが(もはや人生スタンスとなっている)省エネ主義である。
新たな道を切り開いたりしない。
すでに用意され、選択可能の中から選ぶ。
ゼロから作ったりしない。
既製品の中から、自分の予算に応じて買い求める。
分不相応なものは、買わない。
一応、売り場には見に行く。
わたしに関しては、「知ること」を大切に思っている。
知らないほうが幸せな場合もある。
が、それはそれ。

例えば人。
相手が自分を嫌っていない人の中から選ぶ。
あえて困難なイバラの道は選ばない。
人生の隅から隅まで、受動的姿勢。
選択肢がある中から、選ぶ。

ダンス相手もそう。
だったが、今回の相手は、ちょっと違うパターンだった。
なにかと気苦労が多い。
まあ、それはそれ。
所詮、お遊び。

わたしにとっては、お遊びが多い。
遊びではないのは?
仕事、家庭、社会人としての最低限の節度ある行動。以上。それだけである。
ブログも命かけた、お遊び。(言うだけ)
あ、映画も好き。お遊び。
家庭もお一人さまになったとしたら?
ひとりであろうが、なかろうが、生きることには、真剣。
気合いを入れないと、死んでしまう。
ガス漏れや、火事、交通事故、その他。
気合いを入れて細心の注意を払っても、不慮の事故はある。

話が逸れている、、、。
受け身、受動的選択肢について。
具体例を出すとすると、お見合い。
選ばれた中から選ぶのが楽。
選ばれてないのに、選ばれようとするのは、たいへん。
誰も選んでくれなくて、たった1人に選ばれた場合、それに飛びつくのは?
パスする選択肢もある。
いらん。
無いほうがマシ。
永遠に、選ばない、という選択肢もある。
最後あたり、疲れて理想レベルを落として選ぶ、ということもある。
疲れ過ぎて、思考能力が衰え、失敗することもある。

お見合いだけでなく、家具の買い替えだとか、今、あるものでいけるが、気に入ったものと替えたい、なんていう場合。
一生、あまり気に入らないままの家具で過ごすこともある。
別に生活には差し障りがない。
好みの問題だから。
質の追求になる。

これが、冷蔵庫や洗濯機、エアコンなど、電化必需品だとすると、優雅なことは言っていられない。
毎日の生活に影響する。
快適の種類、質が違う。
ソファの生地が破れてスプリングが飛び出しているとする。
ましてやベッドとしても兼用で使っているソファベッドとかなら、家具でも早急に買い替えなければならない。

そうでない家具の場合。
生活を楽しむ、彩るものは、余裕がないと気にならない。
目の前のことに追われ、それどころではない。
もともと、そんな趣味のない人もいる。

食べ物もそう。
胃袋を満たすだけでは満足できなくなる。
味、見た目、鮮度、産地、バランス、栄養、ひいては、食卓の雰囲気、照明、音楽、会話、人々、、、
食べ物にかける費用も違ってくる。
求めだすと、キリがない。
何を第一に考えるか。
優先順位をつける。

全てを備えた万能の人なら?
どんな人間も皆、平等なのは時間。
時間をどう使うか。
だが、平等といいながら、平等ではない。
自分だけのために使える時間がない人もたくさんいる。
自分が使える、残った時間をいかに有効に使うか、ということになる。
しかし、時間はあっても、経済的制限、その他の制限がある。

選択肢のある中から選ぶ生き方は受動的といいながら、実のところは、能動的かも知れない。
あれもこれもは、無理。
もし、なんでもかんでも叶えられたとすると、楽しくなくなる。
人間は欲深い。

自分だけの目で見て選択していき、残った究極のものが、自分の求めていたものである。
が、アタマの中だけでは出来ないので、選択していくにも時間がかかる。
そうやって、持ち時間がどんどん減っていくが、それが無自覚であるものの、幸せなのかも知れない。
「夢中」は、至福な時間だ。


こんな人なら、いないほうがマシ、と思っても、ほんとうに決別するのは、よほどのこと。
後先考えずに勢いで、なんていうこともあるだろうけれど、そこそこなら、現状でいいんじゃなかろうか、と。
そう考えるのは、若くない、歳がいった証拠だと実感する。
だが、グラスに水が溢れる時、自然に、何かが動くことはある。
それは、意外に望んでいないことだったり、望んでいたことだったり、、、
胸の奥で知っているつもりが、想定外のどんでん返しかも?
神のみぞ、知る。

10歳の鍋底

2019-10-20 | 思い出
なぜ、10歳が、わたしの人生の最低飛行時期だったか。
しかし、最低より最低はないわけで、結果的には、悪くない。

教育現場での落ちこぼれは、まあよいとして、、、
わたしは精神が丈夫なようで、ピリピリメソメソしている人の気持ちが理解できないと思われる。
脳がまともに動いてないからである。
隅から隅まで24時間マックス稼働していたら、故障のモト。

まあそれはよいとして(なんども使うワンパターン句)、ノーテンキな脳のおかげで、結果的には、ずいぶん救われている。
(幾度となく「結果的には」と書いているが、ワザとです)

10歳の頃は、学校だけでなく、家庭でも最悪bottomだった。
これを真っ暗な家庭というのか、と、10歳のわたしは思った。
(ブログにも過去に書いている)
父親が深刻な病に冒された。
(後に生還したが)

10歳のわたしは、後に生還することなど知らず、ただただ毎日、父親がイライラする真っ暗な家庭にいた。
学校も落ちこぼれ。
(普通は10歳では落ちこぼれないのだけど、特殊事情のため致し方ない)

ちなみに、
揚げ物をする時、油が適温かどうかを見極めるのは、衣を一度底に落ちて再び浮上したら、オッケー。頃合いである。
その、一旦、底が10歳。
もう少し待てば、揚げ時がやってくる、、、のだが、10歳のわたしは、天ぷら博士でもなんでもなかったので、ひたすら鍋底で沈んでいた。

この鍋底理論は、どのピンチにも応用できる。
苦節何年、もうだめだ、と思ってしばらくすると浮上する。
皆さん、よく体験されていると思う。

わたしの人生、2度目の苦しい時期は、婚活時期だった。
あの時もなかなかうまく行かず、耐えて底から浮上したから結婚できたが、結婚したらしたで、何度でも苦境はやってくる。
そんなものだ。
しかし、これは苦境とは言い難い。
たんなる節目、起伏である。
嘘ではないが、しかしまあ、ネタは、そこかしこ、どこにでも落ちているなあ、、、と感じる。
街でコンビニを探すかのごとく。

と、今日もそれなりに普通に生きている。

※補足
だけど、今日のブログは、つまらない。
オチ部分を書いている時に、待ち合わせ、待ち人来たるで詰められなかった。

※補足の補足
しかしながら、言い訳を補足するあたりが、じつに器が小さく、潔くない。
たんなる能力の限界を、時間制約のせいにしている。
ある意味、善良で嘘がない?
というか、相変わらず、大げさだ〜。