蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

貴重な時間を無駄に浪費する

2024-04-27 | 健康
ゴージャスな暮らしの空想例としてたまたま読んだことの一つに、
「自家用ジェットで、海外旅行」というのがあった。
そんなの、、、行きたくない。
(自家用ジェット、持ってないけど)
車よりはるかに点検が重要そう。
ケネディ・ジュニアや、ワグネルの長のような結末は、必ずしも着いてこないとは限らない。
(何重否定?ややこしい、、、)

わたしは、自家用ジェットなどとは縁もゆかりもない、まるっきりの庶民ではあるが、さすがに、自家用ジェットは欲しくない。
もしプライベート・ジェット、空の旅にご招待されても、丁重にお断りする。
いくらお金を積まれても。(取らぬ狸の皮算用の、わかりやすい例)
乗らないと家族の将来はないゾ、と脅されたら、もし、その脅しが本当のものなら、乗るかも?
(て、その仮定話そのものが、あり得ない)

親友がトムクルーズだったとしても、彼が気楽に誘ってくれたとしても、乗らない。

(と、このあたりまで来ると、アタマのおかしな蝶話、誰も読んでいる人はいない、と想像する)

という、長々とした無意味な比喩文章。
それぐらい、わたしは、自家用ジェットには拒絶反応を示す。
飛行機は苦手。
バイクやスクーターではなく、電動自転車が1台、あってもいいかなあ、とは思うが。
もう子育ても終了しているので、自転車にはバッテリーが付いていなくてもよい。
ピザ配達のような屋根のついた、かわいいミニミニカーがイイな、と思うが、今は、健康のためには歩くのが良い、と考える。

自宅から徒歩30分ぐらいのところにある映画館に、往復歩いて行くのが健康的だとシュミレートしたり。
梅雨や暑い時期はダメそうだが。
それなら今、行っている都会の映画館のほうが良いかも。

健康維持が、今やわたしの最大課題の一つになっているとは、ちょっと悲しい。
健康オタク一歩手前か。

今日、延々とLINEをしていた相手と、あと5年しか黄金時間は残っていないという話をした。
LINEにかけた時間を考えると、どう見ても、貴重な黄金時間の浪費、無駄遣いである。
ま、人生は、パラドックス。
矛盾で出来ている。



目指すは「無」

2024-04-26 | 老い
自分の蝶ブログは、ガラクタ入れになったり、玉手箱になったり。
なんでも突っ込んでいる、オモチャ箱である。
整理整頓しないで量を増やすのみ、は、わたしの日常とピタリ重なる。
質を追求し、厳選し、良いものだけを残せばよいのに。
まさに、断捨離も終活も手付かずの、自分の家と同じ。
脳があの世に行ったら、ブログ終いは、誰かに頼んでおこう。
メンドクサがられて、延々とブログ使用料が引き落とされるかも。
gooさんには長年お世話になったので、(微々たる)投げ銭代わりにお納めください。
というか、gooが存続しているか、心配ではあるが。

蝶ブログを紙媒体や、ダイジェスト版に納めようかと一時、考えて調べたことはあるが、今はこのままでよいと考える。
これ以上、わたしの私物のモノを増やすのは憚(はばか)られる。
電子データなら月々、わずかな利用料で預かってくれるし、第一、嵩張らない。
これからのわたしの目標は、モノを増やさないこと。
その後、徐々に減らして行くのが理想的展開。
だが、現実的には、わたし自身の消滅と共に、モノは全て廃棄。デフォルト。
コンピュータのように、ゼロか、1か。
選択肢は2つのうちの、1つ。
しかし、自分が消滅したら、モノを廃棄できない。
あとは全て任せた!と、負の遺産を押し付けることになる。
せめて、負の遺産だけはリセットしておかねば。
ゴミなら廃棄すれば済むが、処分するのに手間暇、労力とお金がかかるものは、後の人が迷惑だ。
ということは、ゴミも大量にあると廃棄にお金がかかる。
遺品整理屋さんは、ゴミの中に、ピカリと光る金目のモノがあると想像するが。
あるとも限らない。

立つ鳥跡を濁さず。
立つことを視野に入れて生きていくことになる。
いつも枕元には明日着る服のみを置いて寝る。全ての持ち物はそれだけ。
あと、スマホと充電器。
スカッとカッコイイが、災害備品、備蓄品など買い揃え、食品は買い替えたり、何も無しでは不安だ。

頭の中はどんどん記憶が衰えていくのがわかる。
それと共に気力が減少する。特に好奇心の、がた減り。
人生の節目、季節の移り変わりを実感する。
これから本格的に老人になっていく。
入り口でウロウロではなく、既にゲートを突破している。
無になる準備、無に向かう道のり、元気に意気揚々と、楽しく鼻歌まじりに、、、とは、まだそうは行かない。
老いの季節にどっぷり浸かると、また具合よくギアチェンジした走行になるのだろう、、、けれど。
季節の変わり目はやはり調子が良くない。

現実と本質

2024-04-25 | ブログ
最近、やりとりしている趣味関係のリアル人に、「ブログを17年やっている」と打ち明けると、「ぜひ、そのブログを教えてほしい」と頼まれた。
が、絶対に教えない。
先方も無理にとは言わない。
なので、そのままにしている。

わたしのブログなど、つまらない、退屈しすぎて、例え牢獄の中に収監されていたとしても読む気がしないと想像する。
なので、何がなんでも知られたくない。
ここまで強く思うには理由がある。
かつて、リアル人にブログを教えて欲しいと言われて知らせたところ、いったい何人の人が蝶ブログにヘキヘキして脱落したことだろう。
数えてみよう、、、。
1人、2人、3人、4人、5人、6人、、、。
わたしが中学生頃や、若い独身の頃から直接関わりがある身近な人々や、身内。
そのうちの2人は、ほんの最初の記事数本、サワリのあたりで脱落。
ティストが嫌いなのだろう。
実際に知っているわたしとは違うんだそうだ。
更に2人は、数ヶ月でドロップアウト。
長文すぎて、読むのがメンドクサイのだろう。
あとの2人(身内)は、偵察隊のように、わたしの日常を知ろうと、まともに読んでくれていたが(読まれたくなかったが)、そのうち飽きてきたよう。
というよりは、自分のことが忙しくなり、人のことに首を突っ込む余裕がなくなったと想像する。
というわけで、お互いをよく知るリアル人が読む可能性のある蝶ブログであるが、いまや誰も読んでいないのが現実である。

そういう経緯から、蝶ブログをお知らせしても、やがて見捨てられるのは時間の問題になるのは目に見えている。
火を見るより明らか。
それはそれで、肩の荷が降りるものの、期待を裏切る自分のブログに対して、ブログがちょっと可哀想になる。
いくら暇つぶしの、憂さ晴らしとは言え、長くわたしが慈しみ育んでいるものの一つとなっている。
具体的な誰かに向けたものではないにしても、自分の生活やこころを切り取った断片を散りばめている。
とは言え、書き散らしているだけだが。
本来、ゴミ箱に入れるべきものを捨てられず大事にお取り置きしていると、なんだか愛着が湧いてくる。
ガラクタ、コレクターか。
自分からの愛情を自分に向けている。
延々とそれが続くと、読む側は、そりゃあイヤになるのはよくわかる。
なので、マイナスの先が見えているため、誰にも蝶ブログは教えない。

リアル人にブログを知らせるのとは逆に、WEBから知り合うケースもある。
こころの叫びが先なので、実際のリアル実態は少しイメージが違うことがあるが、だいたいは想像の延長上にある。

今、NHK TVの夜ドラで、「VRおじさんの初恋」という番組を放映中である。
放映時刻が遅いため、見たり見なかったりしているのだが、ほぼほぼ見ている。
今日で終わり?まだ続く?
今調べてみると来週もまだ続くようだが、GWは見られなさそうなので、ストーリー展開の先が気がかりだ。
インターネット繋がりのバーチャルと現実を混在させたストーリーで、今時の人なら誰しも経験があるかも知れない。
だが、インターネットのない時代でも似たような心情はあった。
文通している、まだ見ぬ人と会う、、、ロマンチック。
ツールが違うだけで、共通の心境だろう。
ちなみに、今更ながらだが、VRとは、バーチャル リアリティ、仮想現実で、「表面的には現実ではないが、本質的には現実」とのこと。

わたしは、本質だけを表すと、どちらかというと、クールな人のよう。
WEBでやりとりしている趣味関係の人と実際にお目にかかると、「イメージは、もっと怖い感じかと思ったけれど、実際は優しそうな人」と言われた。
本質と現実では多少ギャップがある。
が、同じでもある。
誰の目も気にしない、忖度する必要がない蝶ブログはまさに、本質そのものだ。
ではあるものの、本人(現実)を知っている人でも、本質は知りたくないことがある。
触らぬ神に祟りなし。
予期せぬ毒にあたるのは避けたい。

誰しも嫌なことには目を背け、楽しいことを求めるのは当たり前だ。

※写真は、昨日、夕方、雨がぱらぱらする中、急いで撮った、近所の道端。





憂さ晴らし

2024-04-24 | わたし
「姉さん」に対応する言葉は「弟」になる。
弟って??想像もつかない。

わたしは、末っ子なので、だからといって「下に弟か妹を産んでほしい」と母に直訴しなかった。
自分が1番下なので、年下の人に対して、ニュアンスがよくわからない。
接点がある知人たちは、99%年上。
(娘婿たち世代は除く)

一人だけ、少し年下の頑張り屋女性が知人にいる。
もう30年近い、長いお付き合いなので、知人以上、友人未満か。いや、友人に昇格か。
彼女とは1年に1回、紙の年賀状のやり取りと、クリスマスなど歳時に、誰かが作った音楽付き動画をLINEで送ってきてくれるぐらい。
お互い、自宅には行き来している。(しかし、30年の間に双方2回ぐらい)
コンサートや行きたいお店などにも、ほんの数回行ったことがある。(これまた30年に2〜3回)
もはやこれは、エピソードである。
わたしは、このパターンが少なくない。
長い時間を経ているのに、実際に行動を共にするのはほんの少し。
だが、点と点はつながっていて、あの時、彼女のお腹にいた子が、次は2歳になっていて、さらに中学生になっていて、さらにもう社会人になっている。
わたしは、そんな様に長年ほとんど会わない彼女ではあるが、友人だと思っている。
わたしは変人なのだろうか。

どこに住んでいて、どんな家族で、どんな風に暮らしていて、、、それだけ(起点)がわかれば、あとは長い時間を乗せていく。
だから、ほんの、点と点の接点になっても、点と点は長い線になって繋がっていく。

普段は、わたしはいつも一人行動かというと、そうでもないのだが。
だが、スタンスははっきりしている。
女同士のどうでもいい話はしない。聞くだけ。
世間話は、世の中の、たまたま、わたしの近くにいた人々から聞く。
盗み聞きというと悪い言い方になるが、あっち(話す人)が、こっち(近くにいるみんな)に聞こえるような声で言っているからそうなる。
最近も、めちゃくちゃ興味深い話を、映画館の劇場内のわたしの隣の席で聞いた。
高齢二人連れの友人同士。
彼女の妹さんは、世間を全く気にしない人らしく、誰に何をどう思われても構わないとか。
人付き合いもしないから、誘ってあげないとのこと。
あらま、わたしみたいな妹さん。
そんな、世間体ばかり気になる姉さんに声をかけてもらわなくても結構、と、妹さんの心情になって、こころの中でわたしは呟いた。
映画なんか、誘ってもらわなくても観たければ一人で観る。
帰りにおしゃべりに花が咲くのだろうけれど。

わたしも、姉と用事で行動を共にした後は、ベラベラベラベラ長話をする。
喫茶店に入ろうとしても、混んでいて席が近い場所しか空いてないと(両隣は、一人で読書やノートパソコン作業していたりすると)、おばちゃんのペチャクチャは、絶対にうるさがられる、疎まれる、ウザがられること間違いなし。
なので、もっと余裕空間のある、空いたカフェを探す。
が、なかなか見つからないと、カフェ難民になる。
実家で喋るのが1番良い。
誰の耳もない。
コーヒー、お菓子付きだし。
ではあるが、そんな機会は滅多にない。
女性のおしゃべりは、じつに、はた迷惑。
よくよくわかっている。
実際に直接、車内に居合わせた高齢のご婦人に注意されたこともある。

と、おしゃべりする相手は、姉とだけ。
他人さんには、姉もわたしも話せないような実家事情がたくさんあるから、他人さんには知られたくないし、自己防御策である。

お喋りしなくても、わたしはブログで発散する。
ブログにしか書けないようなことを書いて鬱憤を晴らす。
そんな鬱陶しい話など、人に聞いてもらったら、それこそ気の毒だ。
読んでいただいている方々に対して、わたしはいったい何を思っているのだろう。

蝶ブログ、スルーか、あるいは興味あるワードだけ拾って、あとはザザザーっとスクロールしてください。






時空を越える繋がり

2024-04-23 | 読む人々には興味ない話
仏蘭西に、血のつながらない、戸籍の上では無関係の、乳母とかも全く別の(乳きょうだいではない)、弟が住んでいる。
正しく言うと、「弟のような人」。
日常も、まるで別の生活をし、同窓だとか、同僚とか、仕事がらみだとか、まるっきり関わりがない。
強いて言えば、趣味が同じ。
ほんの少し、弟(のような人)のほうが後輩。
最近、シニアワールドから歓迎のキツイ、プレゼントを受けたそうだ。
ようこそ。
お待ちしていました、と。
わたしは、シニアワールドの先輩でもある。

それはそうと。
ハワイに、血のつながらない親戚が住んでいる。
面識も、お付き合いも、名前も知らないが、親戚であることは事実だ。
いきなりハワイに行って、空港で「ハロー」と迎えに来てください、と絶対に言えない。
でも、一応、本当に親戚。
まだ親戚歴は2年10ヶ月。
いたって短い。
一生、逢うことはないだろう。
ケンカしているわけでも、絶縁しているわけでもない。
直接、接点がないだけだ。

人の繋がりは面白い。
親子や、きょうだい、血の繋がりもあるし、姻戚関係の繋がりもある。
姻戚関係は、離婚したらキレイにぷつんと切れる。
死別の場合は、ケース・バイ・ケースだろう。

ちなみに。
わたしは、自分のルーツより、夫側のルーツに興味がある。
自分のルーツは、あまり多くを語り継がれていないため、ネタが少ない。
それに比べると、夫側は資料があって、研究材料には持ってこい。
物証も、語り継ぎも、言い伝えも、伝承も、いろんな角度から検証出来る。
おそらく、中継ぎのピッチャーみたいな人の活躍までを、バトンを渡したり、受けたりする際に、詳細に正確に伝えたのだろう。
とは言え、そんなに多くはない物証から、わたしが物証と物証を繋ぎ合わせ、想像していくのだが。
電車の時刻表だけを見て、国内旅行をしているようなものだ。
マニアにはそれも楽しい。
想像して組み立て、立体化していく。

ではあるものの、よく知らないことが多い。
過去に色々見聞きしたことがあるお年寄りの関係者の皆さんの記憶力がまだあるうちに、聞き取り調査をしたいものだ。

ところで。(話は長くなる)
わたしの末子が2歳の時、末子は肺炎、わたしは喘息で、共に入院した。
夫の実家近くの、地方の医大系病院の分院。
親子一緒の4人部屋、しかもそこは、老人病棟だった。
小児科と内科と老人科(こんな科はあるのかどうか知らないが、今、調べてみると「老年病科」というらしい)の合同混ぜこぜ病室。
さすが、いなか。地域密着型。
もう一人の高齢女性が同室に入院していた。
このおばあさんは、話を聞いてみると親戚だった。
夫の実家の3代前の明治初期の分家の子孫と結婚した人の母親。ややこしい。
(でも家は近く)
夫の父の父の父の弟の、、、、と説明を書いていたら、読む側は絶対に理解できないだろうと思い、削除した。
ではあるものの、しつこく、説明に再チャレンジ。
同病室のおばあさんは、昔の分家の娘さんの、お婿さんの、親。(=姑)
そのおばあさんが言うには、、、。
おばあさんが小さい頃?あるいは若い頃?に聞いたと思われるが、夫の家、今から4代前の嫁に関する人物評。
お客さんによって、七色の声を使い分ける、商売上手な女性だったそうだ。
この女性は、わたしの生まれた年からちょうど100年前に生まれている。
わたしより100歳、年上。
その人の話を、37年前に入院病室でしてくれたわけだが、、、
その時、一緒に入院していた、当時2歳の末子は、今、2歳の子供がいる。

話が古すぎる、、、
ぴたりと時が止まったような話を書きながら、わたしはいつの人間で、どの時代に生きているのだろうと思ってしまった。

というか、話を元に戻そう。
人の繋がりは面白い、という話だった。
時空を超えることもあるし、超えないこともある。
今だけ、ココだけ、一瞬、瞬間だけ。
そういうのもある。





人付き合いがヘタ

2024-04-22 | お付き合い
わたしは、人付き合いするにあたって、理想がある。
それは、わたしより知的な面が上で、経済感覚が同じであること。
年齢はいくら歳を取っていても可。
見た目は、全く問わない。
年齢不問、見た目不問、、、かなり範囲が広い。
であるものの、最初の2項目が結構、難関となり、一致しそうでしない。
変にこだわりがあるため、微妙な違いが気になる。
わたしは、人をおおらかに包み込めるほどの包容力がない。

最初は門戸が広く誰でもオッケーなのだが、徐々に、考え方や感性の違いが癇に障ってきたら、アウト。
修正のしようがない。
だが、その時は距離感を修正するとよい。
考え方や感性は、今まで生きてきたことの集大成なので、そう、ちょっとやそっとでは変わらない。
柔軟性を持つか、何も期待しないか、である。
拒絶せずに、双方には違いがあることを認めた上で、別々に進む。
あっさり、外側だけで接するとよい。
摩擦部分は、常識を働かせて冷静に対処して補う。
あまり深く突っ込まないことがお互い、一番、害がない。
うわべだけのお付き合いという、軽いものになってしまうが、致し方ない。
広く浅く、さらっと付き合うのが良い。

特にわたしのように、付き合い下手な、良好な人間関係を結ぶのが苦手な人間には、当たり障りがないほうが気楽。
得るものも少ないが、失うものも少ない。
ローリスク、ローリターン。
今更、この年齢になって、考え方を変えて、行動を変えるのは、かなりハードである。


その代わり、といってはなんだが、実社会でリアル友人はなかなか成立しないが、実際にちょっとだけ何度か会った人で、その後、インターネットやLINEで長くお付き合いするケースは少なくない。
わたしは、トップとボトムの差が激しいため、リアル生活での接点はなかなか見つけにくい。
トップに共通点があっても、他の面がまるで釣り合いが取れない。
ボトムに共通があっても、同じく他の面が違い過ぎて調整できない。
うまく、バランスを取るか、接点だけで繋がり、その他は目をつぶるか。

そういう実社会の、人とあまり接しない事情があるからか、ドキュメンタリー番組や、動物物語で、涙を流したり、映画のワンシーンで泣けてきたり。
あちこちで感動する。
とは言え、実社会でも人間関係が上手く行かず、涙がポロポロ溢れることも、いまだに何度もある。

自分を取り巻く世界は、所詮そんなもの。
架空であれ、実際の出来事であれ、琴線に触れることもしばしばある。
ブログ散歩では、皆さんの日々の様子を遠くから知ることが出来て楽しい。

傾聴ボランティアにはなれない

2024-04-21 | お付き合い
テレビが大好きな人がいる。
テレビは、楽だから。
自分から積極的に暇つぶし先を探さなくてもよい。

インターネット、YouTubeやその他、配信されているものは自分で情報を掴みに行かなければならない。
チャンネル登録していると、自動的に見ることは出来るが、好みや内容が偏る。

同じテレビ好きでも、ニュースや特集が好きな場合はまた違う。
日々、内容が変わるからだ。
だとしても、受け身。受ける一方。
解説を聞いたとしても、自分で考える力が衰えるのではないかと危惧する。

年齢が上がると、深い友達は出来にくいと思う。
相手のことを理解しようという努力よりも、深く関わらない、という距離感を操作して、楽をする。
深く知っても、共鳴、共感する部分と同じぐらい、拒絶、嫌悪する部分が出てくる。
当たり前だ。
偶像を追い求めるファンクラブではないのだから。

わたしは、深く付き合い過ぎると失敗を何度も重ねている。
そのせいで、深く傷つく。
いったい、いつになったら学習するのだろう。
自分を理解してもらえないと、さささーっと後退する。
わたし自身は、相手を理解しようと努力しているのに、相手はわたしを理解しようと努力しようとしても理解キャパがない。
相手の能力オーバーになってしまうため、一方的にわたしばかりが理解する役になる。
自分は理解されないのに。
わたしは、マザーテレサではない。
傾聴ボランティアのようになってしまい、疲れるし、アホらしい。
相手は五分五分だと思っているからだ。
わたしが一方的に譲歩していることがわからない。

相手が何か言うと、「そうですか、よかったですね」と、肯定の相槌を打つ。
老人ホームの介護士さんのようになっている。
かと言って、わたしと同じような人は、非常にやりにくい。
「自分」が有りすぎる。
なので、まだ自分がボランティアになるほうが、少しだけマシである。

ではあるものの、同じことを何度も言うので、その度に、「よかったですね」と相槌を打つのは度重なると、ほとほと嫌になる。
本当に同じ(自慢)話を何度もされると、アタマ、大丈夫?と思う。
友達、いないのではないかと思えてくる。
まともに相手しているのは、わたしぐらいなのではないかと。
なんで、そこまでわたしが引き受けなければならない?
姑や母が老化して脳が上手く機能しなくなった時は、それはそれで脳の状態がわかったが。

しかし、身内ではない他人である相手はわたしのことを理解していない。
理解してもらおうとすると、自慢ったらしくなるので、しない。
すると、聴く一方になる。

やはり、高齢の人と話すのは、お天気のことぐらいが良さげ。
だが、ごく稀に、面白い話に発展することもあるため、短気を起こさない。
共通のところだけを共にシェアするのが良い。
深く理解し合おうというのは、望まないほうが良い。

五分五分にならないのは、わたしが受け身一方だからだ。
自分から発したことが受け入れられない時は、さっと引く。
粘り強く強調しない。
後退して、元の場所に戻る。
で、また相手のペースになる。
それを繰り返しているうちに、すっかり嫌になる。
わたしのリアクションがマズイからだ。
自分よりキャパシティが大きい人に包み込まれると楽だが、今度はそのキャパが大きい方の人が疲れて嫌になってくる。
シーソーのように、お互い行ったり来たりでないと、一方だけが負担があるのは上手く行かない。

すると、相手を許容し深く関わるのは、親子や、きょうだい、家族ぐらいになってしまう。
それでいいとは思うが。
家族がいない一人の人は、それはそれで長い間に、人との距離の取り方をマスターし、自分と向き合って納得できる方法を身につけておられることだろう。
信頼できる友人たちとの関係性を上手に維持しておられると想像する。


母と、わたし

2024-04-20 | 老い
母がわたしの年齢の時、母はどんな風だったか。
父が他界した頃だ。 
未亡人になってもなんのその、前と変わらぬパワフルさでガンガン生きていた。
やはり、母とわたしでは、生まれつきのパワーが違うのか。
とりあえず10年はそれまでと変わらず。
だが、10年を過ぎると徐々に老化の波が見えるようになった。
今、小学6年のわたしの初孫(母のひ孫)がハイハイする頃、田舎の実家を訪れた。
孫の年齢から逆算してみると、10年ちょっと前になる。
あの頃から、今思えば、少し認知症の予兆はあった。
ああ、わたしも後10年か、、、。
しんみり、、、。
この時間、大切にしなければ、、、。

今から母に逢いに行く。
まだまだ母は元気なのだ。


①わたしの年齢(70代手前〜。バリバリ元気な今後10年)
→②次の10年(80代〜。少しずつ老化、要支援にスライド)
→③更に次の10年(90代〜。要介護)
→④また更に100歳〜(天寿を全うするまで、要介護)

父も、舅も、姉の舅も80歳になる前に他界した。
この世とのキレイなお別れだ。
男性に比べて女性は長生きする。

母は、元気ではあるが、一人では生きていけない。
ベッドからの移動は、ブランコみたいなマシーン。
更に、今度、お相手してくれるロボットが導入されるとか。
大学と実業界と福祉分野(介護)のコラボで共同開発されるらしい。
今はその実験段階だとかで、利用者としての協力、承認が必要。
借りられるものなら何でも、「人の手」以外も借りる。
人手不足である介護は、特に。

それにしても、母は幸せな人生だったと思う。
まだ元気に生きているのに、「だった」と過去形にしているが。


※写真は、先一昨日の、大規模な公園の藤





元々苦手な人

2024-04-19 | 老い
ご近所にお住まいのBさん。
蝶ブログにも何度もご登場いただいた。
(ご本人の許可は得ず。得る必要も義務もないが)
43年前から関わりがある。
初めてお会いした頃は、わたしは独身。
Bさんは、お店を長く一人で経営され、当時はご主人も存命。
華やかな方であるが、わたしは超苦手。
ご近所なので、嫌でも顔を合わせる。

「単なる苦手」が「超苦手」になり、その状態が長く続いたが、お歳を重ねてちょっと弱気になられ、最近は「普通」になったと思いきや、またまた「苦手」に返り咲いた。

今週のバス停。
いつものように、誉め殺し。
他の人の耳があるので、わたしは声を小さくしていた。
褒め殺しの内容が、聞き捨てならない、過ぎ去りし時代の過去の価値観であったため、わたしは、小さい声ながら、一気にベラベラと異論を唱えた。
すると彼女の顔色が変わった。

「上品なお声で仰るから、聞こえないわ。
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と、仰る。
顔色の変わり方が、かつての姑とソックリ。
自分には理解できない、わけのわからないことを一気にまくし立てられる拒絶感、不快感が襲ってくるのだろう。
認知症初期の症状で、他人から自分に対する行動から受ける印象に、そういう感覚があるそうだ。
Bさんも、片足入っているようだ。
早かれ遅かれ、皆んなそうだけど。

顔色を変えた後、遅れてバス停にやって来たご近所Cさんの顔を見るなり、
「奥さん!お元気?
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と話しかけていた。
わたしは、明らかに、聴き役から外された。

一方的に(怖い顔で)まくしたてるのは、NGであると、再認識した。
聴こえないのではなく、わからないことや聴きたくないことは、脳がシャットアウトする。
初期症状である。
高齢の人には、大きな声で、耳元近くで、ゆっくり、はっきり、短い単語で話さなければならない。
介護職や医療関係の人たちは、皆さんそういうアプローチをされている。
わたしは、家庭外であり、家の外なものだから、つい、普通の人に接するようにしていて、特別な話し方をすることを心がけていなかった。
が、複雑な話やプライベートな話なんかは、皆さんがいるバス停ではとても出来ず、相手の言うことを笑顔で聴いて頷くしかない。
わたしは、ボランティアさんでも専属ヘルパーさんでもなく、ましてや「苦手な人」歴が長い人には、そうすぐに優しく親切にできない。
これからは、高齢であることを念頭において、対応すると良い。
が、元々苦手な人にそこまで頑張るかどうかは定かではない。

やはり、元気な頃にどういう態度で接していたか、好感度はどうだったか、という過去のやりとりは、現在、未来の行動に対して受ける気持ちに影響がある。
家族であろうが、友人であろうが他人であろうが、同じかも知れない。

わたしの場合、元気な頃に、好き勝手してあちこちに敵を作ってしまっていたら、、、それはそれで、元気な頃、自分は満足している。
まだ訪れていない(予兆はあるものの)健全ではない時のことまで心配して憂慮していたら、せっかくの黄金時代が褪せる。
かと言って、人のフリ見て、やはり他人に映る自分も多少意識したほうがいいと自覚した。
この年齢になって、ようやく気づくことがある。

老化による変化なら仕方ないが、それまでのお互いの関係性の積み重ねた時間は、事実として消せない不動のものであると感じる。
関わりが長ければ長いほど、状況も変化し、色んな側面を持つ。

※写真は、一昨日、広大な公園の一角で見た、竹とタケノコ。

墓の行方

2024-04-18 | 
ある人、Aさん。
かつてお墓を買ったそうだが、霊園墓地に墓石が建っていないのは10%だとか。
つまり90%は、墓石が建てられている。
墓地だけだが、管理費を年間いくらか(1万円以下)支払うという。
で、Aさんは少し焦っておられる。
購入時には(なぜか)加えて隣続きに2区画も墓地を買い、墓石も建てず、管理費を払い、そして、空き地墓は、肩身が狭い、と。
だが、誰も墓に入る人がいないのは、不幸がなく、幸いなのではなかろうか。
Aさん(70代)の親の墓は、Aさんのお兄さんである長男(たぶん70代後半?)が管理しているが、長男の長男(Aさんの甥=40〜50代?)は遠方地に(実質的には婿入り?)暮らすため、墓管理が困難らしい。
長男の長女(Aさんの姪=40代?)も遠方地暮らし。
今後、誰が親の墓を見て行くのか?と、Aさんは、お兄さんと思案顔。
Aさんは、まだ墓石を建てていない墓地に管理費を毎年払いながら、自分の親の墓の管理が心配のタネ。

そもそもAさんは、長男ではない。
長男であるお兄さんが親の墓を建てた。
親は長男ではなかったため、子供であるAさんの兄が墓を新しく建てた。
長男ではないAさんも自分たちの墓地を別に用意した。
親の墓の維持も不安定なのに、自分(たち)の墓、しかも、墓石も建っていない墓(しかも2区画も)は、子供たちは見てくれるのだろうか?と、もやもや。
「自分があの世に行ったら、この世の動向はわからないのだから、どう確認のしようもありませんよ。
とりあえず、子供たちに、どうして欲しいか、希望、意向を伝えておかれたらどうですか?
実行する、しないは、確認できないですが、仕方ないですね」
と、わたしはAさんに言った。

Aさん夫婦のどちらかが先に亡くなったら、墓は建てるだろうから、残りの一人になった時に墓を永代供養にするかも知れない、と想像した。
墓を買ったAさんのほうが奥さんより先に亡くなるとすると、ひょっとしたらその段階で、新古品となっている墓地を返上して、永代供養にされたとしても、Aさんは知る由もない。
とりあえず、墓地を少しでも使う可能性を強めるためには、Aさんは奥さんより先に亡くなるわけにはいかない。
Aさんも奥さんも、天寿を全うして亡くなる頃は、墓のことは子供任せだろう。
生きていて、意識がしっかりしているうちに、意思を伝えるにしても、あの世間近になると、意識も思考も弱ってくる。
認知症が進み、配偶者が亡くなったことも知らされない状況も皆無なわけではない。
最後は、もつれ込むにしても、墓の維持は、維持する側の子供の考えによる。
今はまだ誰も祀る人のいない、権利だけを確保した墓地の行方が気になるところだ。

※写真は昨日の野田藤(大阪市福島区)